銀行強盗の事件から数日、珍しく休日である安室透の誘いで車に乗って移動していた。
前と違って今回は目的地ははっきりとしている。
家具屋で買い物をするから付き合ってほしい、そう言われて断る理由もなくついてきた。

流れていく景色をぼんやりと眺める振りをして横目で運転席の男の顔を伺う。
法定速度をきっちり守った安全運転で、長い指でハンドルを巧みに操る端正で甘い顔はただそれだけで映画のワンシーンのように映えていた。
ただ、隣に座っているのが謎の美女ではなく残念な面構えの私なので台無しだけどね。


『君がもし、これから先に組織に捕まって拷問されても僕は君を助けない。むしろ僕はそうされる位なら君の口を封じる必要もあるだろう。』


ふとした時に残酷な彼の言葉が頭の中で何度も反芻する。
どうして人並みに醜く生に執着を持つ自分が聖者のようにそれを受け入れたのか。

それはつまるところ自分のこの現状に現実味を感じていないからだろう。五感は正しく働いている。
視覚はアニメ塗りや白黒の世界ではなく鮮やかで、聴覚は場面の転換に応じたBGMを捉えることもなく、
温かい食事の匂いを感じる嗅覚と触覚、そのおいしさを味わう味覚もある。

しかしそれでもなかなか凝り固まった私の認識は解かされそうになかった。
いや、解けなくていいのか―――ここを現実と受け入れた時私はどうなるのだろう。この生活がずっと続くのか。


(やめやめ、将来の事とか考えると不安になってきた。これはいずれ覚める夢、うん。オッケー。)


いくら相手が誰もが羨むスーパーイケメン超人とはいえ、そうでも思わないと恋人でもないこの不毛な関係を続けられない。
だからと言って現状この繋がりがなくなったら私は路頭に迷う羽目になる。
将来の不安よりも目先の安寧だ。不思議の国の少女のように真新しい世界と冒険に胸を躍らせる年齢でもない。

そこで思考を打ち切ると丁度良く車が駐車場で停止するところだった。
狭い空間ながらも全く危うさのない完璧な駐車をして、長い指はシートベルトを外す。


「着いたぞ。で、さっきから人の顔を見て何をぼーっと考えてたんだ?」

「いや、そういえば家具屋で何を買うのかなと思って。」

「ベッドだよ。いい加減に買おうと思ってね。」

「ふーん、いいんじゃない?考えてみれば人間なんて一生の三分の一くらいは寝てるんだから、良いのを買った方がいいよ。」


この人の場合はまともな睡眠時間をほとんどとれていないからなおさらそう思う。
体力勝負な仕事なんだし短時間でもしっかり休めるような良いものを買った方が良い。
公安としての本業、黒の組織への潜入、それに加えて副業未満のポアロでは私以上に働いているんだから体力おばけもいいとこだ。

彼に続いて車を降りると手を差し伸べられた。意味が分からず顔をあげると、朝の湖沼のように冴えた碧眼が私を見て首を傾げる。綺麗な目。


「恋人同士なんだから手くらい繋いだ方がいいだろう。少し離れた店を選んだとはいえ、誰が見てるか分からないんだから。」

「ええーーーー?い、いや、でも・・・」

「まさか嫌なのか?」

「嫌じゃないけどさぁ・・・・」


こんな光り輝く美貌の男と、演技とはいえ私如きが手を繋ぐなんて恐れが多すぎる。
だが嫌かと正面から問われれば断り辛く、観念して差し出された手に自分の手を重ねた。
当然だが自分よりも大きな手から伝わる体温に自然と胸が高鳴ってしまう。ええい静まれいこれは演技ぞ、静まれい。

内心で己に必死に言い聞かす私なんて何のその、安室透は当然のように手を引いて店へ歩き出す。
歩幅も合わせてくれている気遣いが更に内心を舞い上がらせて今は辛い。

が、そんな甘い雰囲気も店に入れば霧散した。み、見られている。主に女性陣から、嫉妬の目線で。怖い。


(やめてくれーー私はこいつの恋人じゃないんだ、そんな目で私を見ないでくれーーー!!)


どう好意的に見ても「どうしてあんなのがこんな超イケメンの恋人なのだろう」という好奇の目線を一身に受けて身を縮こまらせる。これは新手の拷問か?
今すぐ大声で釈明したいがそんな頭の悪い事はできない。ええい、これも現実ではないと割り切るしかない。

それでもむかついたので代わりに安室透の手にきつく力を込めてやるがびくともしなかった。
それどころか表情も平然としていて何の反応もない。くそう私如きの力では敵わないという事か。


「はぁーー特に何の努力もせず今すぐ美人になりたい・・・。」

「何を突然ワガママ言ってるんだ。」

「いやさぁ、それは冗談としても美人に変装とかできたらいいなぁって思ったの。怪盗キッドとか、ルパン三世みたいに。」


自分で言ってみて思い出したが、そういえばこの世界には怪盗キッドもルパン三世も実在するんだよな・・・改めて凄い世界だ。
できるのなら一度はお目にかかりたい。
後者は可能性がすごく低そうだけど、前者ならコナン君達と行動していればワンチャンあるかもしれない。
隣の人物が正に警察関係者であるだけに表立ってはキャーキャー騒げないけど、いずれどうにか帰る前にせめて一目でも。


「へひゃ!?にゃ、にゃに!?」


不意に横から伸びてきた手に頬っぺたを掴まれて肩が跳ねる。
安室透が間抜けな顔の私をまじまじと見つめてから納得したように指を離した。彼の謎の行動に首を傾げ、気付く。
ああ、もしかして変装かどうか確かめられたのか。痛くはなかったが掴まれた方の頬を撫でながら抗議する。


「変装してるかどうか確かめるな!変装するんならもっと美人になるっての!」

「いや、もしも変装なんてできたら困るなと思って。」

「え?意外。できる方が何かと役に立つんじゃないの?」


今みたいに降谷零の仕事にも何も貢献できないよりも、そっちの方が歓迎されるかと思ったのに。技術はあれど実際に動く度胸と成否は別として。
私の不思議そうな目線を受けて安室透の美しい唇は溜息を吐いた。青眼がすっと細められ少し表情の雰囲気がきつくなる。


「もしもキミがそんな芸当ができるのなら僕は君にも警戒しなければならない。君が何もできないからこそ僕は安心できる。」


何もできないから。警戒する価値もない。何も、できないから。
自覚はしているけれど、そして事実ではあるけれど、改めて面と向かって口にされると腹の立つ言葉だ。
特に何がむかつくって、それを言われて私が大人しくそれを受け入れるとでも思っているところが。


「そんなに何もできない女が好きならリカちゃん人形とでも結婚しろよ。」

じわりと滲んだ黒い感情を吐き出してから後悔する。言ってしまった。
私とこの人は恋人どころか対等でもない、面倒を見てもらっている以上私の方が立場がずっと下なのに。
それなのに子供みたいに素直な感情のまま歯向かってしまい反省する。

この間わずか数秒、何と謝るべきか考えていると隣から小さな笑い声がした。
恐る恐る見上げると形の良い口許に手を当てて、堪えきれないと言った様子で安室透が笑っている。何で?


「ふっ、くく・・・」

「えっ?今の笑うところ?なに、忙しすぎてついに頭がバグったの?」


怒らせるか不快そうにされるか、そんな予想とは違い過ぎる反応に驚く。むしろ理由が分からな過ぎて慄く。
ついでに無礼に無礼を重ねた事にも気付いたが、安室透は全く気にすることなく普通の青年のように笑った。


「いや、全くその通りだなと思って。すまない、失礼な事を言った。」

「え、あ、いや、私の方こそ、その・・ごめん。生意気言って。」


とりあえず本当に怒ってはいないらしい様子に内心で安堵する。この人と気まずくなるのはできれば避けたい。
男は口の端に笑みを浮かべたまま私の手を引いて歩く。目当ての寝具は五階だったが、エレベーターではなくわざわざエスカレーターで移動するつもりらしい。


「君との会話は、利益もないし打算もないし、仕事も絡まず腹の探り合いもない。だから変な気持ちになる。」

「変な気持ち?・・・・・つまり楽しいってこと?」

「・・・そうかもしれない。」


頭が良すぎる人間というのは、それはそれで特有の苦労があるらしい。私は頭が悪いので考えたこともない。
こんな気取った台詞を普通の人間が言ったら遅れてきた中二病かよと言ってやりたいが彼は妄想でもなく本当に心を削って生きている。
会話すらも武器である安室透にとっては私との無害な会話は却って新鮮という事なのだろうか。
今までにないタイプの人間との会話にどう返せばいいのか、はいそうですかと流すべきなのか、少し迷って口を開く。


「重い、安室透。」


敢えて遠慮なく切り捨てるともう一度彼は小さく笑った。私の答えは合格だったらしい。なんだ、遠慮せずにこういう事を言ってもいいのか。
いつも彼と会話をする度に緊張していた肩の力が少しだけ抜ける。
―――しかし参った、安室透というキャラクターに人間味が増してしまったように感じた。


「さっきは何もないと言ったけれど、僕は君の小心者なところは評価している。」

「え?それ褒めてるつもりなの?」


恐らく今まで多数の凶悪事件に携わり、解決のため行動し、そして現在も危険な組織に身を置いている。
そんな命懸けの任務をしている彼にそう言われてもちっとも褒められた気にならない。

むしろ逆に世間一般では勇気がある英雄こそ評価され、愛される。私はどう考えてもそれを遠くから褒め称えるモブ観衆の一人だ。


「君は事件が起こっても首を突っ込まず十分に離れたところからせいぜい通報する位だろう。
 それでいい。そっちの方が長生きできる。物語じゃないんだ―――勇気なんて持たない方がいい。」


それはそれは、未だこの世界を物語と認識している私には滑稽な言葉で、そして胸に強く刺さる言葉だった。
胸に刺さる痛みはついでに安室透に関する記憶も引き摺りだす。ああ、そういえばこの人は友人達を亡くしているのだった。
亡くした友人達はみんな勇気のある優しい人達で、だからこそ悪を許せず立ち向かって―――死んだのだ。


「・・・やっぱり重い、安室透。」

「ああ、そうだな。」

「でも、そのまま言葉を返してもいいのなら、透さんも勇気を持ち過ぎないで、気を付けて。長生きして。」

「胸には留めておく。」


安室透は漫画の主要登場人物の一人だからそう簡単には死なないだろうという冷静な打算はあったが、それでも素直な言葉が口をつく。
まだ握ったままの手から感じる彼の体温がそうさせたのだろう、到底自分も人の事を言えないくらい滑稽だなと思った。
なんとなく気まずい沈黙が舞い降りて、そして「あっ」と声を出して思い出す。


「そういえば忘れかけてたけど、私に何か仕掛けてない?」

「さすがにバレたか。でももう外すさ、止めるタイミングを逃していただけだから。」


全く悪びれる様子もなく肯定する安室透にさすがに口の端が引き攣る。
画面越しでこいつがこういう事をするやつだと知ってはいたが、自分がされて愉快なものではない。事情は汲むけれど。


「一体どこまで、いつから、聞いてたの・・・ああいや言わなくていい。恥ずかしくなるから。」

「別に常時聞いていた訳じゃない。そこまで僕も君に時間を割けないからな。」

「じゃあとっとと外せばよかったじゃん!!」


あんまりな言葉に地団駄を踏んで抗議するが手はしっかり繋がれているので外れずぶんぶんと揺れる。
傍から見ればまるでスーパーでお菓子を買ってほしいと駄々を込める子供と眺める母親の図だ。恥ずかしくなってすぐにやめた。くそう。

露骨にむくれた様子の私に安室透は苦笑し、そして自分でも不思議といった表情で言葉を続けた。


「君が一人だと油断し切った時に聞こえる鼻歌やハミングが、何というか、懐かしい?気持ちになったのかもしれない。」

「うわーーーー!!何で疑問形!!?いっそ殺して今すぐ!もしくは頭打って記憶を失くして!!」

「うん、別に歌手でもないから上手くはなかったが、何故か好きだったみたいだ。」

「やめて冷静に私の歌唱力を分析しないで!あとそんなのカラオケ屋に行けば堂々と聞けるわ!!バカ!!!」


真剣にこの男から記憶を一部だけ切除できないか考えたが、止めた。
もしもそんな方法が実現すれば真っ先に使われるのは秘密を知り過ぎている私だ。
いっそそうした方がラクなのでは、という冷静な考えは頭を振って捨てておく。


「あの、お客様?何かお探しですか?」

女性店員が恐る恐ると言った様子で話し掛けてくる。主に安室透に熱っぽい視線を向けて。
気付いたら目的のベッド売り場へ到着していたらしい、気恥ずかしさから逃れようと手をそろりと外しかけたが逆にしっかり掴み直される。
きっと睨みつけるがそよ風のように受け流し、トリプルフェイス様は人当たりの良い笑顔を浮かべて会話を続ける。


「ああ、すみません。ベッドを探しているんです。」

「お二人で寝るのなら大きめのサイズなど如何ですか?」

「えっっっっっっあああ、いや、あの、その、」


恋人同士を装いながら寝具を探していればそういう質問も当然飛んでくる。
口にしておきながら半信半疑と言った様子で視線を往復する女性店員の気持ちはよく分かる。

反射的に否定しようとした言葉はぐいと肩を寄せられて厚い胸板で封じられた。まるで素直になれない相手を気遣う恋人同士みたいに。


「すみません、僕の寝相が悪くていつも迷惑を掛けているので、お詫びに彼女に一人用のものを探しているんです。」


こ、こ、こいつ、息をするように嘘を吐きやがって。しかもなんつー嘘を。
言うまでもなく私は安室透の寝相云々についての真偽は知らない。
私達の部屋は互いに不可侵というルールがあるから。あ、でもこの人忍者みたいに気配を察知して起きる事とかできそう。


「かしこまりました。では、こちらのベッドなど如何でしょうか?」


気を取り直した店員に促されるが安室透は動かない。ああそうか、私用という前提だからか。
仕方なく展示されているベッドの一つに横になると身体が心地良く沈み込む感覚。うわーこれ気持ちがいい。
デザインもお洒落だしこんなベッドで生活してみたい。
横目で価格を確認すると、なんと実家のベッド三倍くらいの値段が表示されていて慌てて起きた。そりゃ確かに寝心地も断然良いに決まってる。


(新しいベッドを買うのなら、今安室透が使っている古いベッドを私に流してくれないかな。)


移動してまた別のベッドに寝転がる、を数回繰り返しながら考える。
今のせんべい布団は正直言ってあまり寝心地が良くない。
けれど元々買う必要のなかったものを、私の為に購入させておきながら文句をつけるほど人間性は終わっていない。

そう、私が居なければ、不要だったもの。


「どれが一番良かった?」

「そりゃ一番最初に寝たやつが一番寝心地が良かったですけど、でも一番値段が高かったんですよね。」

「じゃあそれにしよう。」

「即決かよ。」


値段と利便性の釣り合いを迷う様子もなくさっさとレジへ向かい、ベッドの購入と配送手続きを済ませるようだ。
あんな高いものをすっと躊躇いなく買えるなんて、私が転がり込んだ時に日用品を揃えてもらった時も思ったけれど安室透はお金持ちなのかもしれない。

更に考えればせっかくの休日も遊びに出掛ける姿を見ないし、お金のかかる趣味を持っている様子もない。
初めは私に遠慮しているのかもしれないと思ったがしばらく経ってもそんな素振りがないのだ。まるで何にもないみたいに。

少し考えて、戻って来た安室透にお願いをしてみる。


「あ、あのー、そのー、相談なんですけど、今使ってる透さんのベッド余りますよね?
 あれもしよければ使いたいんですけど・・えっと、変な下心とかはなくてですね、」

「何を言ってるんだ、君のは今日買っただろう。」

「へ????」


安室透は童顔に嵌る大きな目をぱちくりと瞬かせ、そして私はそれ以上に目を瞬かせた。
え?なに?私用?一拍遅れて理解し驚いて鞄を落とす、が地面に着く前に難なくキャッチして私の手に戻した。


「ずっとあの客用の薄い布団だと疲れがとれないだろう。だから買いに来たのに。」

「い、いやいやいやいやいやいや恐れ多いですよそんな、だって、だって私、」


いつまでもここにいると決まったわけではないのに、という言葉を寸前で飲み込む。
本当はあの布団だって買ってもらわなくてもよかった、だっていずれ消える予定のくせにお金を使ってもらうのは申し訳がなかったから。
それなのに重ねて無駄にお金を消費させてしまった事に我ながら罪悪感で消えたくなる。
相手を思いやると優しい気持ちというよりも、自分が浪費させた悪者になりたくないという思いで。


「お、お金がもったいないし、別にあの布団のままでも、」

「金なら余ってるから気にしなくていい。」

「・・・そんな台詞言う人石油王くらいかと思ってましたよ。」


彼にとっては意外にも、どちらかというと喜びよりも困惑に寄った感情を見せる私に安室透の秀麗な眉が少し顰められた。
私だって嬉しくない訳じゃないけれど、でもやっぱり金額と自分の立場的にどうしても気が引ける。


「僕は三つ仕事を掛け持ちしているからその分収入は人よりも多い―――ま、その一つのお金には手を付けたことがないけどね。汚い金だから。」


その一つ、汚い金というのはバーボンとしての仕事だろうか。
当たり前の話と言えばそうなのだが労働している以上黒の組織でもちゃんとお給料とか出てるんだな、なんてずれた感想が頭を過ぎった。


「で、でもやっぱり、もったいない。せめて今からでも安いのに買い直して、」

「もう購入したのに往生際が悪い。それにこの間の迷惑料とでも思ってとっておいてくれ。」

「この間の・・・・?」


この間、といえば例の銀行強盗の事件の事だろう。
不可抗力だったとはいえ、彼なりに私を見捨てた事は気にしていたらしい。


「・・・そんなの、気にしなくていいのに。」


普段ならそれで済むか!と言ってやりたいとこだが自分が去った時のことを考えるとどうにも萎縮してしまう。
私が消えた時に残る荷物なんて最小限でいい、そう思ってなるべくこの世界で自分の買い物はしていない。
なのに露骨に形が残るものが増えてしまった。

それでも「いつまでもここにいる訳じゃないから気にしなくていいよ」の一言が出ないのは、自分の保身なのか相手への気遣いなのか。


「元々金を使うような趣味はないし、休日は今までは溜まった家事をやってたんだが・・今は君がやってくれてるしな。」

「それ位はやりますよさすがに・・・それにせっかく車もあるんだからどこか出掛けてもいいんじゃ、」

「出掛けるにはこの顔は目立つし、それに」


まるで図ったかのようなタイミングで安室透の携帯が震え、取り出して確認する。
私からは画面は見えないが一瞬だけ雰囲気が硬質化したのを感じた。ああ、もしかして。


「それにいつ仕事が入るかわからない。」

「・・・入ったの?」

「ああ、すまない。一人で帰れるか?」

「子供じゃないんだし帰れるよ。」


安室透が立ち上がり、立ち去ろうとするのを―――やめておけばいいのになんとなく袖を引いて引き留めてしまった。
怪訝そうな顔をする彼に気の利いたセリフが浮かばない、そもそも何を言おうとしたんだっけ。考えろ。攣れる舌を何とか動かす。


「あ、あのさ、じゃあ今度水族館でも行こうよ、ほら、水族館なら暗くて顔が見えないし、私ならいつ途中で帰られても気にならないっていうか、」


自分でも何を言ってるんだろう、まるで恋人が相手をデートに誘う時みたいな台詞で。
安室透にしたって、好きでもない相手とせっかくの休日を過ごすなんてごめんだろう。
でもこのまま終わるにはあんまりにも寂しいと感じてしまったから。


「―――ありがとう。じゃあ次の休みに行こう。」


優しい海の瞳で端正な顔に微笑みを浮かべて、意外にも彼は私の誘いを肯定した。


「うん、だから―――気を付けて。今日はベッドを買ってくれて、ありがとう。大事に使うね。」

未練がましく袖を引いていた手を放すと彼の手が離れ、そして去っていく。
きっと彼はこれから望まない方の仕事へ向かうのだろう。

何も持たない私は、何もできない私は、小さくなるその背中をただ目で追う事しかできなかった。






どうやら速達で手配していたらしいベッドはその日の夜には届いた。それから数時間経ってすっかり夜が更けても安室透は帰らなかった。
実家の三倍高いベッドに寝転べば、私の罪悪感などよそに普段の三倍早く眠りについてしまった。







































おしまい
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あとがき。
寝具にはこだわりたいと思い、人生初ボーナスはエアウィー●に捧げましたが、あんまり効果を実感できなかったという・・


2018年 11月11日執筆 八坂潤
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