がちゃり、と手を動かす度に鳴る不愉快な金属質の音。
見慣れた自分の手首には見慣れない鈍色の手錠が鈍く光っている。
重量感のあるそれは偽物ではなく本物であると彼は私に告げた。一体私が何の罪を犯したのかという問いには男は答えてくれなかった。


(ここ、どこなんだろう。前まで暮らしてたとことは違うのは確かだなぁ。)


真新しくて広いベッドの上から眺める窓はすっかり暗く、ビルの明かりが星のように瞬いている。
でも厳重に玄関と窓には外鍵が掛けられ、何をやっても壊れない硝子越しに眺める光景は惑星の距離の様に遠く感じた。
数日前までは私もあの明かりの一部だったというのに、どうしてこんな事になってしまったんだろう。


「・・・くそ、外れないなコレ。」


今まで何度も漫画やテレビで見てきた主人公達のように、見様見真似で針金を鍵穴に挿して適当にがちゃがちゃと動かしてみる。
が、もちろん特殊技術のない素人に解ける訳もなく、延々と無駄な時間が流れているだけだった。
やがて腕に乳酸の溜まりを感じて手にしていた針金を放り投げると、緩やかな放物線を描いてシーツの海に沈んだ。


「おかしい・・・みんなあっさり解錠できるのに・・・・・」

「素人が本物の手錠のピッキングなんてできる訳がないでしょう。」

「じゃあこれ外してよ。」

「それはダメです。」


手錠の短い鎖の先には別の男の手が繋がっている。私の利き手とは逆に手錠を嵌めているのは彼なりのささやかな配慮なのだろうか。ささやか過ぎる。
白くて清潔なシーツに寝そべる私の側に座る男はその端正な顔に薄い笑みを浮かべて無駄な足掻きを見守っている。
今まで見せたことになかった種類の笑みに少し背筋が寒くなって、でもそれを悟らせたくなくて相手をふてぶてしく睨んだ。
でもこんな精一杯の虚勢なんてきっと彼にはお見通しなのだろう。悔しい。


「ねえ、安室透。」

「バーボンです。何度も言いましたが、安室透はあなたを不当に軟禁したりしませんので。」


私の視線を涼やかに受け流し、白手袋に包まれた指を伸ばして私の前髪をそっと分ける。
人よりも黒い肌に獅子の鬣のような金髪、甘い顔に象嵌された青い瞳は深海に近い暗い色を帯びていた。
冷静になって考えても、何でこんなに綺麗な人が私如きを軟禁しているのかさっぱり分からない。
視線をずらして鏡を見ても、冴えない地味な女が不機嫌そうな表情でこちらを見返すだけだった。
芸能人みたいに可愛いのならまだしも(いやそれでも犯罪だが)こんな女をわざわざ囲っておく理由が海の底を攫っても見当たらない。少なくとも私なら絶対にしない。


「その物言いだとまるで多重人格者みたい。実際もしかして本当にそうなの?」


多重人格者なんて創作でしか見たことがないけれど、安室透は漫画のキャラクターだからそんなこともあり得るかもしれない。
トリプルフェイスとは演じ分けのことではなく、彼の心の在り方だったのか?それなら救われるしこの状況にも説明がつく。
私の縋るような視線に彼は呆れたような笑みを見せた。


「まさか。僕はそんなものじゃありませんよ。漫画やテレビの見過ぎでは?」

「・・・・・・」


丁寧な口調ながらも鼻で笑うような言い草にむかついて、でも仕返す方法が浮かばなくて、代わりに手錠の鎖に歯を立てた。
当然ながら人間が歯を立ててどうにかなるような造りにはなっていない。がちがちとその頑丈さを文字通り噛みしめる。
口の中に広がる金属の味に顔を顰めていると、自然と鼻先に近くなる彼のしなやかな手首からは知らない匂いがした。安室透とは違う匂い。


「部屋中の刃物をボロボロにした次は自分の歯をボロボロにする気ですか?」

「うるひゃい」


無視して犬のようにがじがじと歯を立てていると突然手首を引かれてがちんと前歯がぶつかって音を立てた。
バーボンが無表情で私を見下ろし、私の渾身の両手の力で引くも意に介さず片手で難なく無防備に吊り上げる。
内心で怯えながらも相手の顔を見つめたままが威嚇するように歯を鳴らす私に溜息を一つ吐いて、おもむろに私の口にもう片方の指を突っ込んだ。
突然のことに頭を引くも顎ごとシーツに押し付けられて逃げ場がない。突っ込んだ方の指が口の中をなぞる感覚に気持ち悪さで鳥肌が立つ。おえっ。


「むがっ!!?む、むー!!!」

「躾が足りないのなら手錠だけでなく轡も必要ですか?」

「むっが!!?」


こ、こいつ、不当に軟禁している相手の口に無防備に指を突っ込むとか何を考えているんだ?私にとって絶好の攻撃のチャンスじゃないか!
突然の行動からのショックから解放されてすぐに怒りを込めて渾身の力で相手の指に噛み付く。
さっきとは違い人間の肉に私の歯はいとも簡単に食い込んでいく。布に私の唾液が染み込んで、歯は食い込み過ぎて、次第に不安になる。


(危ない仕事をしているこの人が指を失ったら、どうなるんだろう)


監禁犯の安否なんて知ったこっちゃない、と言ってやりたいがそれで死なれるのは目覚めが悪い自分の弱さがほとほと嫌になる。
ここに来てから掛けた迷惑と恩義が脳裏を過ぎり、殺意の天秤の皿を徐々に揺らしていく。馬鹿か、何を迷ってるんだこれはチャンスなのに。
渾身の力で指を噛む私に対し、バーボンは秀麗な眉根一つ動かさずに静かに見守るだけだった。痛がる素振りもない。まだ血の味はしない。
青い瞳と私の目線とがしばらく交錯し、やがて自分の弱さに屈して口を離す。私の唾液が染み込んだ手袋はてらてらと艶めかしく光っていた。
ことここに至っても相手を決定的に相手を害せなかった自分が情けなくて腹立たしくなった。本気で落ち込む私の頭をバーボンが撫でる。犬の躾みたい。


「食い千切られるかと思いましたが。」

「けほっ、気持ち悪っ・・・早く手を洗ってきたら?」

「そうします。ついでにあなたは食事の時間だ。」


先程までの攻防などまるでなかったかのように涼やかな表情で、報復の可能性に怯える私の手をそっと恭しく持ち上げる。
そして私が先程諦めて放っていた針金をガチャガチャと動かし、あっという間に自分の方の手錠を外してしまった。
あまりの早業に目を瞬かせる私の無防備なもう片方の手にしっかりと手錠を嵌め、立ち上がる。


「あなたも食事の前に手を洗ってきてください。」

「・・・ずっと外に出てないのに必要?」

「ああ、今日は大人しく食べて下さいね。せっかく作った料理をまた目の前で捨てるのはさすがの僕も胸が痛みますので。」

「ぜったい食べない。」


軟禁されてから恐らく数日、最初は嫌悪感で空腹感など感じていなかったのに、おいしそうな手料理を何度も目の前でゴミ箱に捨てられては精神がすり減る。
先日、空腹に耐えかねてバーボンが不在の時にゴミ箱の残飯を少し漁ってしまったのには我ながら情けなさに涙が出た。
彼も私の行動には気付いているだろう、でも何も言わない。堪え性のない胃袋といい、意思の弱さといい、ひどく惨めな気分だ。私は気高いプリンセス様にはなれそうにない。


(料理は何度も食べてきた安室透の味と同じなのに、ここに安室透はいない)


それでもこの嫌悪感はいずれ空腹に負け、非日常に流されて普通に食事を摂る日も近いだろう。
分かってはいるけれど、じゃあ今すぐに負けても同じだよねとは今はならない。プライドというにはあまりにもささやかな感情。


「ねえ、いつまでこんなこと続けるの?私みたいな成人女性がいつまでも大人しく閉じ込められてると思う?」

「僕はあなたが大人しく閉じ込められると確信してますよ。」

「今の手錠を外そうとするやり取り見てた?頭がおかしくなったの?」


私の露骨な敵意にも男は動じない。私如きの敵意なんて、幾度となく修羅場を潜り抜けた彼にとってはそよ風に等しいのだろう。
でも何かを感じてほしかったなんて、それこそ期待し過ぎの傲慢だった。彼は私にそんなに正しい感情を傾けてはいないという事だった。


「ですが本気で逃げたいのなら僕に毒を盛るか、自分の腕を切り落とすか、あなたはするべきだった。」

「なっ、」


想像だにしていなかった選択肢を並べられて呼吸が止まる。でも、言われてみれば確かに最後のはともかくそれくらいはしてもよかったのだ。
毒なんて持っていないけれど、洗剤だとか世の中には普通に使う分には無害だが誤れば有害なものなんてたくさんある。
刃物だって手錠を壊すためにボロボロにしてしまったけれど、それでも人を傷付ける武器にはなったのだ。彼に敵うかはともかく、戦う意思位はあってもよかった。


「ほら、想像もしてなかったでしょう。そして指摘されながらも実行しようという気持ちにはならない。あなたは何というか―――そうですね、生きるための闘争心が足りない。」

「・・・闘争、心。」


普通に生きる上では必要がないもの、もし元の世界でそこそこ不幸で、それでいて安穏と暮らしていたんのなら必要がなかったもの。
それを今、この違う世界の非日常で問われている。自分の怠惰と無力さを責められている。


「でもさ、言わせてもらうけど、その、成人した女を手錠掛けて閉じ込めておいて何もしないってそんな事ある?」

「してもいいんですか?」


自らの不備を糊塗するよう私の言葉に、ぞっとするような笑みを浮かべてバーボンの指が私の頬を撫でる。
まるで撫でた先から石化してしまったかのように固まった。しまった、墓石を掘った。
今まではずっと一緒に暮らしていながらも感じなかった明確な貞操の危機に怯える。同時に今までは守られていたことも自覚した。背筋を冷たいものが滑り落ちる。


「ご安心を、しませんから。そんなことをすればあなたは自分への敵対行為だと見なして絶対に許さないでしょう?」

「・・・既に拘束されてる時点で十分に敵対行為でしょ?私かなり怒ってるんだけど。」

「いいや、あなたはその程度なら許容します。決定的に我が身を害されていなくて、そして逃げ場がないから。」

「―――――、」


逃げ場がないという言葉が耳に痛い。こっちの世界には私を心配してくれる家族や友人はいない。
ポアロでよく話す梓さんとさえ私は個人的にに親密な関係になるのを避けた、いずれ覚める夢ならば必要がないと切り捨てた。
心配してくれる可能性がある安室透は目の前で私を拘束し、気付く可能性がある小さな名探偵は連絡先も知らない。助けを呼ぶ相手もいない。


(私が突然いなくなっても、誰も困らない。いなくなってもこの人ならどうとでも言い包められる。)


自分の愚かさを悔いる私とは正反対にバーボンは微笑んでいる。不愉快だ。いっそ馬鹿な女だと笑えばいいのに。


「現にこうして大人しく閉じ込められているでしょう。もし強姦や暴力を振るえばあなたは絶対に逃げる。けれどそんな気配がないからあなたは逃げあぐねている。」


そんな酷い事はそもそもあなたに望んでませんけど、と付け加える言葉にどうやら嘘はないらしい。
じゃあ何のために私を閉じ込めているのか、定番で言うなら「きみのことが好き過ぎて閉じ込めたい」というあたりだが、そんなはずはない。答えを聞くのが怖い。


「実際、ここは居心地がいい檻の中だと思いませんか?欲しい物は何でも買い与えられ、嫌いな労働もせず、煩わしい人間関係もない。」


否定はしない。実際、ここは手錠を掛けられている以外何の不満もない。今は拒否しているとはいえ食事を与えられ、好きなだけ漫画もゲームもしていい。
思う存分ゲームに課金もしていいと言われて腹いせにお金を突っ込んだが、結局は通帳の金額止まりなのが己のチキンぶりをよく表している。
でも、言わば夢にまで見た合法ニートに等しいのに、どうしてこんなにも心がざわつくのだろう。
手錠をされて自由を奪われているから、というのは当然だがそれだけが理由ではない気がした。分からない。


「それでも、檻に捕まっていたい人間なんていないよ。」


私の弱々しい反発にバーボンは温度の低い笑みを返す。聞き分けのない子供を宥めるには優しさが欠けた微笑み。


「でも、できるならあなたには自分の意思でここにいてほしいので何か脱出のルールは考えておきます。」

「そんなの教えられたらすぐに脱出してやる。」

「そんな事はありませんよ。」


白手袋に包まれた手がサイドテーブルに伸びて、置かれていた硝子のコップをひっくり返す。
中身は空だったが、僅かに底に残っていた水滴が音もなく床に落ち、血痕の様に散った。


「あなたは水のように流されやすい人間ですから。」


皮肉を残し、今度こそ本当に部屋を出ていく。
その背中を目線で追いながら、覆水盆に返らずという言葉を思い出していた。







































----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
あとがき。
案の定サンズが推しになったので全部テキスト拾いたいんですがGルートやるの精神的にしんどくないですか。


2018年12月9日執筆 八坂潤
inserted by FC2 system