がり、と爪の間を肉が食んでいく感触に背筋がぞわりと粟立つ。
振り切った私の手の近くにある端正な顔にはっきりと引かれる朱線。青い瞳には傷付けられた本人よりも怯えた顔をした私が映っていた。


「あ、」


反射的に謝ろうとした自分に嫌気が差した。相手は私を閉じ込めている監禁犯だというのに。
今のだって、バーボンが手錠を掛けようとしたから抵抗した正当な反撃だ。何を後ろめたく思う必要がある。
なのになんだかそうと割り切れない罪悪感があって、軟禁されて数日経つというのに自分の弱さに腹が立った。闘争心が足りないという彼の言葉が頭を過ぎる。


「・・・・・・・・・・その、」

「――――、」


謝らないと、いや謝りたくない、でも。その葛藤の僅かな隙をついてがちゃりと再び手錠を嵌められてしまう。
抗議しようとした口は、相手が髪を耳に掛けた動作でより一層露わになった傷で塞がれてしまった。
美しい顔に走る痛々しい傷に目を奪われていると、安室透は柔らかい微笑みを浮かべた。

硬直する私の手をとり、白手袋に包まれた手が指先を何度か往復し包むように優しく爪先に触れる。
何も怖いことなどされていないのに、これから来るであろう報復が恐ろしくて背中に汗が伝った。
殴られるだろうか、指を折られるだろうか、もしかしたら爪を剥がれるだろうか。恐ろしい想像ばかりが頭の中で育っていく。


「爪が伸びているようなので、短くしましょうか。」

「あ、あの・・・、」


それはどういう意味なのか、とがたがた震える私の頭を安心するように大きな手がそっと往復する。
子供をあやすような優しい動作だがちっとも安心できそうにない。自然と指が祈りの形に組まれぎゅっと握り締めた。
すっかり怯えた様子の私を気に掛ける様子もなく、今座っている皮張りのソファーの横のサイドテーブルの中から細い鈍色の棒を取り出した。


「・・・・爪やすり?」

「ええ。爪切りで整えている時に暴れられると危ないですからね。さ、お手をどうぞ。」

「そ、そんな状況で暴れないし、自分でやるから貸して。」


爪やすりの方へ手を伸ばすとそっと恭しく手をとられる。
予想外の接触に身を引こうとするが、掴んだ時は優しかったくせに離れようとするとぐっと抵抗が強くなる。まるで食虫花のよう。


「僕が整えてあげますからじっとしてて下さい。縛られたままではやりにくいでしょう?」

「じゃ、じゃあこれ解いてくれれば解決だね。さ、鍵渡して。」

「解かない代わりに僕にやらせて下さい。さあ、じっとして。」


そう言ってまるでネイルサロンの店員のように丁寧に爪やすりをかけていく。
見目麗しい男が自分の従僕のように振る舞うのは、いけないと思いつつも正直言って優越感がくすぐられた。気分がいい。
でもそんな時は自分の腕に嵌る手錠の冷たい輝きを見て己を戒める。あくまでも、自分は理不尽を強いられていることを忘れてはいけない。


「・・・・・・」

「そんなに怯えなくても、爪を剥ぐような真似はしませんよ。ここにいてもらう以上、あなたの不利益になるようなことは決してしませんので。」

「もうすでに手錠されて監禁されてるのが不利益、ってこのやり取りも何度目だろうね。」


何度やっても答えが変わらない面倒で不毛な応酬だが、でも繰り返す意味はある。
だってこう主張し続けていないと、きっと私はこの状況を受け入れたことになってしまう。私はそれが怖い。
視線の所在を彷徨わせていると再び安室透の顔の傷が目に入る。血が垂れてはいないが、薄らと滲むそれを彼自身は気にする様子もない。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ごめん、その、傷。」


結局は居心地が悪くて謝罪してしてしまった。純粋な罪悪感と、自分が悪者になりたくないというちっぽけな道徳心から。
私の自己保身的な謝罪を見透かしてか、バーボンはくつくつと喉の奥で笑った。
―――本当に勝手な想像だが、もしかしたらその傷は敢えて付けさせたのではないか。だって、もう現に私は反抗する意欲をすっかり削がれている。
彼の顔の傷が完全に癒えるまで口では何とか反抗できても、さっきのような攻撃行動はずっと萎縮したままだろう。
最小の犠牲で抵抗する気力をすっかり奪われてしまったのではないか―――そんなまさかと思いつつも、頭の良い男に対する恐れが拭えない。気分が悪くなる。


「さっきは堪えたくせに結局は謝るんですね。監禁犯なのに。」

「別に。私が傷付けて終わりにしたくないだけ。」

「でしょうね。僕はあなたのそういう小心者なところも気に入ってますので。」

「まるで褒められてる気がしない。」


さりさり、とやすりが甲斐甲斐しく爪を往復する音だけが流れる静かな時間が続く。
痛みはないどころか心地が良いのが気持ち悪くて、ただでさえ短い牙を丁寧に?がれているような感覚に不安になる。


「・・・・爪やすりで自分の爪を削るなんて、初めてかも。」


自分を監禁している相手と会話したくない、と思う程度の反骨心はあれど他に相手もいない。
そんな口寂しさから必要最低限でもなく嫌味でもない日常会話を投げてしまう。ああ、本当に弱い。


「爪きりで切ると細かいヒビが入って、そこから脆くなるので本当はやすりで削るのがいいんですよ。」

「詳しいし、慣れてるね。他の女の人にもやってるんでしょう。」

「いいえ。だって一人の女性と爪が伸びるほど長く時間を過ごしたことはありませんので。」


私の指と彼の長い指を時折絡めながら、さらりと投下された発言に背筋がぞわりと甘く粟立つ。自分は特別なのだと優越心が煽られる。
その特別扱いが世間一般では法に反するものでも私が望んだ形でもないと浮足立つ心に警鐘を鳴らす。


「・・・・・・どうせ嘘でしょ。」

「本当です。―――ああ、足の爪も伸びてますね。そのままじっとしていて下さい。」


向かい合わせて座っていた状態からソファーの下へ移動し、床に跪いて今度は足首を丁寧に持ち上げて再びやすりをかけ始める。
自分の両手を掲げるときっちりと左右均等に丁寧に整えられた爪があった。指先で擦っても違和感がなく、僅かに残った爪の粉にふうと息を吹いて飛ばす。
視線を下ろせば色素の薄い髪とそのつむじが見える。長身の彼をこちらが見下ろす珍しい状況に、しかし既視感があった。
そう、あれは、まだ彼が安室透だった頃に。まだ私がこんな目に遭う前の。


(あの時の靴はどこに行ったんだろう。)


ここに監禁されてからすぐに家探しをした時に、家具も服も何もかもが一新されていて私の私物などどこにもない事は分かった。
元々物は持たないようにしていたのでさしたる問題はなかったけれど、でも消えた物の中にはあの青い靴もあった。そう、かつて安室透が私に贈ったあの靴。
気になって探しても玄関には男物の靴しかなく、私の靴なんて一足もなかった。まるでもう必要がないとでも言うように。


「ついでだからこれも塗りますか。似合うと思って買って来たんです。」


白のサイドテーブルから高級ブランドの小さな紙袋を取り出し、白手袋が小さな箱を取り出す。
箱から出てきたのは光沢のある綺麗なミッドブルーの色が入ったマニキュアの小瓶だった。
美しい色に一瞬目が奪われたのを慌てて仏頂面で隠すが、鋭いこの男はその僅かな隙を見逃したりはしなかっただろう。悔しい。


「塗っても見せる相手が安室透しかいないんだから、無意味だよ。」

「安室透じゃなくてバーボン、というやり取りも何度目ですかね。罰金制度でも設けますか?」

「・・・・、もう罰金するお金がないのに?」


私物と同様に私が所持していた僅かなお金もどこかに消えてしまっている。
普通なら盗まれたと考えるべきかもしれないが、この場合は取り上げられたという方が正しいだろう。彼にあんなはした金を奪う理由がない。
ついでに言えばかつてのルールである、名前を呼び間違えた時に使っていた古風な豚の貯金箱も見当たらなくなっていた。靴と同様不要だと言いたいのだろう。

私の攻撃に少しだけ目を細め、了承もしていないのに勝手にペディキュアを塗り始める。
よくも悪くもそれっきり彼からの反応は何もない。知らず詰めていた息を小さく吐く。


(いっそ、何かしてくれれば恨めるのに。)


いずれ自分の首を絞めるだろうと思いつつもこの攻撃的な口調と彼を試すような言葉を止められない。
この男が私の言葉に怒って、私に何かしてきた時こそ彼を遠慮なく恨めるのに。一向に何もないから不安になる。

薄桃色の爪が深海のように深い青に塗り潰されているのを眺めながら、静かに問う。


「ねえ、前にもらったあの青い靴、ずっと探してるのに見当たらないんだけど、どこにやったの?」

「―――ああ。あれはもう、必要がないので。」

「必要がないなんて決めないで。それにあの青い靴、私は好きだったの。」


バーボンは答えない。黙々と私の足の爪に色を塗るのを、その顔を蹴り上げてやろうかと思ったがやめておいた。意味がない。
でも言葉にできない感情が込み上げて、コップの淵から静かに溢れる。零れた想いは恨み言になって滴り落ちる。


「あの靴を履いて透さんと水族館に行きたかった。」


足の爪を塗り終わったバーボンがやっと顔を上げて、青い瞳と私の視線がやっと合う。思い込みかもしれないが、微かに彼の息が詰まった気がした。
でもそれだけ。それ以上の反応はなく、徒労感に疲労の大きな溜息が出た。だめだ、長年潜入捜査している男とは精神の強さが違う。

そのまま手の爪も深い青に染められていく間、私達は何の会話もしなかった。














後日、柔らかいベッドで目を覚ますといつも通り隣にバーボンの姿はどこにもなかった。
監禁され一緒に眠るようになっても相変わらずセックスはしていない。だが彼は何故か寝る時に自分の手首と私の手首を手錠で繋ぐ。
そして恋人のように寄り添って寝るのを好んだ―――というのは単に私の都合の良い解釈で逃げ出さないように見張っているだけかもしれない。
でもそれなら単にベッドの柵にでも縛っておけばいい気もする。ううむ、分からないけどそっちの方がより困る気がするから黙っておこう。


(手を出してほしいとかは全く思わないけど、それはそれで、どうなんだか。)


あの男は一体いつ眠っているのやら、多忙な彼は短い時間しかこの部屋には滞在しない。
僅かに体温が残っていた隣のスペースを無意味に一発殴ってから、次に視線を手と足の先へと移す。
深く光沢のあるミッドナイトブルーが暖色の間接照明の光を受け静かに輝くのを憂鬱に眺め、ベッドから降りてぺたぺたと素足で床を歩きドアを開けた。
予想通り誰もいない見慣れた部屋だと思ったが、視線の先に露骨な違和感があった。


「・・・・・・なにこれ。」


一体いつの間に置いたのか、新しく増えたアンティークテーブルの上には水槽が設置されていた。
近付いて覗き込めば色とりどりの美しい熱帯魚が狭い空間を悠々と泳いでいる。
最初は意味が分からずじっと魚の群れを眺めていたが、やっと理解して心の底から脱力した。


「・・・・・・そういうことじゃねえよ。」


盛大な溜息と共に苦い声を吐き出し、頭を伏せて少し泣いたが―――その嘆きは水泡に紛れ、誰の耳にも届かなかった。







































----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
あとがき。
温かい話が続いたので凍える話を書きました。
監禁状態は、いずれ安室透とは心を剥き出して互いにメンタルの殴り合いをする予定があり、それで和解に失敗したルートだと思ってください。
和解に成功すると「降谷零との恋人関係」に繋がる、予定、ですがたんぽぽの綿毛よりもふわふわした時系列なのでやっぱり深く気にしなくて大丈夫です。


2019年1月6日執筆 八坂潤
inserted by FC2 system