夜もすっかり更けて猫の爪のように細い月が昇る中、白い息を微かに吐きながら手袋に包まれた手で鍵を探り当てる。
敢えて音を殺すことなくがちゃりとドアノブを捻ると、外とあまり変わらない冷たい空気が頬を撫でた。
部屋の中は暗くしんと静まり返っている。こんな時間なのだから当然だが、少し息を吐いて玄関の鍵とチェーンを掛けた。


「・・・・・・、」


ただいま、と言う相手もいないのについ習慣で口にしそうになって息を詰める。
身に付けていた白手袋を外しハサミで細かく切り刻んでから台所のゴミ箱に捨て、石鹸で念入りに時間をかけて手を洗った。
そして丁寧に両手をタオルで拭いて洗濯機に投げ込んでから、やっと小さく息を吐く―――今日も帰って来られた。


(最近はジンの監視の目がきつくて面倒だ。まぁ、ノックの疑惑を晴らしてからまだ間もないから当然だが。)


目頭を揉みながら少し考えてから自分の部屋の隣―――彼女の部屋の前に立った。
耳を澄ませるも物音一つしない様子から察するに、きっともう彼女は就寝しているのだろう。
音を立てないようにゆっくりとドアノブを捻り、猫のように密やかに部屋の中へ侵入する。


(当然、寝てるか。)


自分の侵入など気付いた様子はなく、ベッドの上で寝息を立てる彼女の寝顔はお世辞にも可愛いと言えない。
気配を殺して近寄り、懐から銃を抜いて照準をその無防備な額に合わせる。やはり閉じられた瞼はピクリともしない。

数秒。引き金を引くには十分な時間が経ってから銃を懐に仕舞い、ベッドに向かい合うようにして傍らに座る。今日も彼女は無害だった。ただそれを確認するだけの儀式。
視線の先でうっすらと涎を垂らしながら眠りこける女の寝顔を見ていると、自分が馬鹿な事をしているとつくづく感じる。
夢の中にいるであろう彼女は自分の命がこうして何度も危機に晒されていたことなど考えもよらないのだろう。
いい加減に彼女は平和な日常に生きる普通の人間だと分かってはいるが、それでもこれからも同じことをするだろう。自分の疑い深さには苦笑するしかない。


(相変わらずの部屋だ。)


ぐるりと視線を一周させてみても、以前の侵入と変わらず家具も物も少ない部屋だった。
一般に女性は荷物が多くなるものだが、僅かな衣服と前に買い与えたこのベッド以外の必要最低限の物しかなく、以前の彼女の言葉が脳裏を過ぎる。


『ここは寒い部屋だね。』


僕の部屋を見て開口一番に言った台詞。
いつここを出て行ってもいいようにと物が少なく、生活感に乏しい降谷零の部屋を指して彼女はそう言った。
あれから男一人で暮らすには必要のなかったソファー、画面の大きいテレビ、冷蔵庫のホワイトボードと少しずつ物は増えたが本質は変わらない。


「・・・きみの部屋も大概だな。」


生活費はほとんど自分が出しているが、だからと言ってバイト代を何かに使っている様子もない。もちろんその使い道を制限したこともない。
ソーシャルゲームに傾倒しているが課金をしている様子もなく、以前に聞いてみたが「世の中何があるか分からないので」とそれだけだった。

初めは急なポアロのバイトの交代も引き受け、何かを要求する素振りもなく、家主に配慮して物も持たず、誰かと深い交流も持たない。
自分のような特殊な事情がある人間にとっては、従順で謙虚で都合の良い同居人だと思っていた―――が、違った。
降谷零はいつ周囲を切り離すことになっても構わないと考えている。が、彼女はそれ以上にいつ世界を切り離しても構わないと感じているようだった。


(改めて考えると彼女は何者なんだろう。)


方々に手を尽くし調べても過去の経歴は一切が不明だが、その不審さに反し工作員にしては愚かで、鈍い。あまりにも裏の世界に向いていない。
それならば普通の人間なのではと思い直そうにも、まるで水と油のように周囲に混ざることを全力で拒絶し馴染むことを拒否している様子が似合わない。

日常を観察をしていても、毛利探偵社や少年探偵団―――あの梓さんさえ彼女は友人として接していないのだろう。
職場の人間を相手にするように不審に思われない程度に当たり障りなく接し、だがそれ以上踏み込むことは決して許さない。証拠に休日はいつも家に一人だ。
その偏執的ともいえる用心深さは自分にも発揮され、彼女が自分の家に転がり込んできてしばらく経つが未だにキスも求められたことがない。


(学生じゃあるまいし、年頃の男女が同居すればそういう展開もあると想定はしていたが、まさか何一つ求めないとは。)


自分で言うのもなんだが、降谷零は顔が整っていて職業柄鍛えられているし頭も良い。分かりやすい長所で女性には簡単に好意を持たれることができる。
だからどうせ一緒に暮らしていれば彼女もそんな普通の女性が抱くような感情と願望を自分に向けるだろうと思っていたが、まるでない。
向こうがそういう気を持たないのであればこちらが求める理由もない。だからこの不健全で健全な同居生活は続いている。多分これからも何もないだろう。


(そして、死にたくないと言いながら僕に助けられることを諦めている。)


自分が言ったのだから当然の事柄なのだが、それにしても潔過ぎると思う。一般人が持っていい覚悟ではない。
何か他に伝手があるのかと思えばそういう訳でもなく、一般人相応の生き汚さもなく、たまに見せる茫洋とした目はどこか終わりを望んでいるようにもとれた。


(何度も見てきた自殺願望者とは違う。彼女はどうしてこうなんだろう。)


数々の事件を解決してきた自分でも、きっとあの小さな名探偵でも彼女の霧のようにぼやけたその実体を掴めずにいる。
不審人物としての監視も兼ねた同居生活を送る中で、いつしかその分厚い膜に覆われた内心を知ってみたくなった。


「・・・・はぁ」


あまり彼女に入れ込んでしまうのもよくない。
失う痛みを必要最低限に押さえる為に何もかもを切り捨ててきたのに、いつの間にか彼女は無味無臭の毒となって密やかに降谷零に浸透しつつある。
その証拠としてもう自分の手から離れてもいいと思っているが、だが疑いを捨てきれないという建前でまだ手放せないでいる。

そんな自分の葛藤など知る由もない女はもぐもぐと枕元のタオルを食みはじめ、その間抜けな姿に気が抜けてそっと口から離してやる。
あの少年探偵団の食いしん坊を彷彿としたと言えば彼女はきっと怒るだろう。


「・・・・・ん、」


自分のせいではないはずだが、もぞもぞと覚醒の気配がする。今まで起きることはなかったのに、まさか気付かれたのだろうか。
何事もなかったかのように退室することが間に合うか考え、すぐに間に合わないと判断しベッドに凭れて自分の腕を枕にして目を閉じる。
疲れて眠ったふりをしておきながら、いつでも使えるようにと銃をそっとベッドの下に仕舞い込んだ。


















(うーーーーーーーん、目が覚めてしまった。)


そこはかとないトイレの気配に緩やかに意識が目覚めていく。眠る前に飲み物を飲み過ぎてしまったと反省し、往生際悪く布団を被り直す。
外の世界は確実に寒いし、もうひと眠りして何とか忘れたいが、一度何かを考えてしまうとどうにもすぐに眠れなくて仕方なく目を開けた。


「いっっっっ!!?」


渋々と瞼を開けた先には毛の塊があった。突然のホラー展開に跳ね起きるが、冷静に観察すれば毛の塊は頭であり、ちゃんとその下には胴体が続いていると分かる。
携帯電話の光を頼りにそっと正体を伺うと、案の定というか同居人の安室透だった。というかそうじゃなかったら死んでた。
すっかり寝入っているのか、薄い明かりに照らされても彼の長い睫毛はぴくりとも動かず無防備に美しい寝顔を晒している。


「な、なんで透さんがここに・・・・、」


お互いに相手の自室には入らないというルールがあるのに、まさか連日の激務に疲れ果てて部屋を間違えたのか。
そもそも夜中に男が女の部屋に入ってきたというのはなかなかよくない事だとは思うが、しかし元を辿ればこの部屋も安室透のものなので仕方ない気がする。
とりあえず起こそうか、と肩に手を置きかけてやめる。ポアロのバイトをしているだけの自分と違ってトリプルワークの激務の彼の睡眠を妨げるのは気が引けた。


(しっかし美しい顔してらっしゃるなこいつ・・何でこの顔で俳優とか目指さなかったんだろう。)


いい機会なので普段はあまり長く観察できない安室透の顔を間近でまじまじと見つめる。
さらりと流れる柔らかい金髪に女優並みに長い睫毛、整った鼻梁に甘い曲線を描く顎。年不相応の若さに見えるが、間違いなく綺麗な人。
思わず両手を合わせて拝みながらしばらく堪能し、満足したところではてどうしようかと考える。


(寒い時期だし、このままベッドに凭れて寝てると間違いなく風邪を引いちゃうよね・・・やっぱり起こすか。)


ガラスケース越しに飾ってある芸術作品に生で触れてしまうような心情に一度躊躇って手を引き、けれどそっと肩に触れて揺らす。


「透さん、もしもーし、ここ私の部屋ですよー透さーん、終電ですよー。」


なるべく優しく何度か揺さぶって声を掛けてみるが瞼はピクリとも動かない。本気で疲れ果てているようだ。
起こすことは諦め、さてどうしようかともう一度考える。恋仲ではない年頃の男女がこのまま一緒の部屋で眠るというのも私の倫理観には合わない。
たっぷり数分悩んでから静かに立ち上がり、クローゼットに仕舞い込んでいた例のせんべい布団を引っ張り出して床に敷く。
それだけでは寒そうなので自分の布団に掛けていた温い毛布を惜しみながら重ねて、そして安室透の肩に手を掛けた。


「おっも!なんだこれおっもい!!」


流石現役公安警察様とでも言うべきか、想定していたよりもずっと鍛えられて重い体重に顔が引き攣る。
けれど何とかゆっくりと持ち上げて苦労しながら布団の上に横たえて足元から布団を掛けてやる。
もしかしたら途中で目が覚めてくれるのではと期待もしたが、意外にもその間ずっと安室透は眠り続けたままだった。
戦闘民族というイメージが強かったので途中で気配を察して起きると思ったのに。ああいうのはやっぱ無理か。


(本当は私よりもずっと疲れてるこの人がベッドを使った方が良いと思うけど、透さんの部屋まで運ぶのも持ち上げるのも無理そうだし・・)


仰向けに横たわる安室透の首元が青い石に黒い紐の例のコードタイだと気付いてはっとする。
もしかしたらこの深夜の帰宅と異常なまでの疲労と格好からして、彼はバーボンとしての仕事をしてきたのかもしれない。
黒の組織のバーボンとしての仕事内容は私には分からないし知ろうともしたくない、が、その内容は愉快なものではないだろう。


「―――お疲れ様です、透さん。」


降谷零がそうやって心身を削ってまで人知れず頑張ってくれてるから救われてる命もある。
所詮は漫画の世界だろという冷めた考えも頭の隅には確かにあるのだが、今は素直にそのことに感謝しようと思った。

バーボンの服装だと気付いてしまうとなんだかそのタイが首を絞めているように窮屈に見えて、せっかくだから外してやるかとそっと手を伸ばす。
やましい気持ちとかではなく純粋に苦しそうだなという優しさのつもりだった。が、触れる寸前で強く手を掴まれ身体が跳ねた。


「ヒッ!!な、なに!!!?」

「・・・・・・・・」


直前まで眠っていたはずの安室透の腕が私の手を掴み、青い瞳が獲物を狙う黒豹のように油断なく私を睨みつけている。
寝起きの動作とは思えない俊敏さに心臓が止まりそうだった。少し気まずい沈黙が続いて、やっと口が動く。


「・・・・お、おはよう、えっと、その、」


悪いことをしたわけではないのになんとなく教師に悪戯を見つかった子供のように居心地の悪さを感じる。
ま、まさか私が安室透の寝込みを襲おうとかそんな大それた事を企んでいたと、思われてしまったかもしれない。誤解です!!


「ち、違くですね、えっと透さん、寝ぼけて私の部屋に来ちゃったみたいで、起こそうと思ったんだけど起きなくて。
 起きないほどお疲れならしょうがないと布団敷いて私はソファーで寝ようかなと思ったんですけど。
 でもってなんとなく透さんのタイがきつそうだなと思って外そうとしただけで、決してやましい事を企んだ訳ではなくてですね、」

「・・・そうか、なるほど。すまない、迷惑を掛けたな。」

「い、いや、とんでもない。よっぽど疲れてたんでしょ?今日もお疲れ様です。それと、おかえりなさい。」

「ああ―――ただいま。」


そこでやっと安室透はぱっと手を離し、痺れさえ感じる腕を擦った。善意での行動が完全に裏目に出てしまって少し落ち込む。
しかしこれでようやくこれで安室透起きない問題が解決すると思って安堵の息を吐くがそのまま動く気配がない。
私としてはさっさと出て行って自分の部屋で寝直してもらいたいものだが、動くのが面倒になったのだろうか。気持ちは分かるけどそれじゃ困る。


「あのー、透さん?」

「・・・疲れたな。動きたくない。」

「えっ!!?どうした安室透!!!!?」


ぐでーと、まるで子供のような我儘を言いながらそのまま枕に再度頭を預ける。
いや部屋を間違えるくらいなんだからよっぽどお疲れなんでしょうけど、でも、それはないだろう!


「中断させてすまないがやっぱりタイを外してくれないか、もう指一本動かない。」

「いやさっきめちゃくちゃ素早く腕を動かしてたでしょ!?」

「そのさっきので疲れた。」

「はーーーー急に我儘言いやがって・・29歳のくせに。」


でも考えてみればこんな駄々っ子みたいに甘えた姿の安室透を見るのは初めてかもしれない。いや、むしろ人類で私が初なのでは?
きっとそんなはずはないのに、なんだか自分だけが気を許されているようで心がくすぐったい。


「・・・・・・・・しょうがないな、今回だけですよ。」


青い瞳をうっすらと開けながら、どこか蠱惑的な表情で私の手をとって自分の首元へ導く。おい動かない云々はどうした。
その誘う仕草に馬鹿みたいにごくりと唾をのんで、糸に操られるように青い石のコードタイをそっと解く。襟に手を伸ばし掛けて―――駄目だ、落ち着け。
そわそわする内心を殴りながら適当にコード部分を丸めているとしばし深い海のような目と合い、やがて静かに瞼を閉じた。


(もしもこれが漫画の世界だって認識がなければすごく喜ぶシチュエーションだったんだろうな。)


こんな高スペックイケメンと夜二人っきりで同じ部屋にいるなんて、私も普通の女なのでそういう事を期待しないわけでもない。
けれど漫画の登場人物ということが心にストッパーを掛けて、緩やかに心と頭を冷やしていく。女から同居人に戻っていく。
ただの夢と割り切れればもっと楽しく過ごせたのかもしれないが、どうにも夢の世界でも私は小心者だった。


「透さんでも疲れることがあるんですね。」

「きみは僕をサイボーグだとでも思っているのか?」

「ターミネーターみたいに?」

「アーノルド・シュワルツェネッガーみたいに?」


少しくすくすと笑い合って、どうやら本当に動く気がない安室透に少し微笑ましさを感じながら布団を胸元まで優しく掛けてやる。
されるがままの無防備な姿に更に人間っぽさが増したようで、ああ、困るなと思ってしまった。貴方は完全無欠の漫画キャラクターであってほしいのに。
穏やかな沈黙がしばし場を包み、やがて安室透の美しい唇が緩やかに動いた。


「以前ノックと疑われたから向こうで手柄を立てなければならない。」

「――――うん。」

「しかしあっちで手柄を立てるのは、」


辛いとも疲れるとも言葉は続かずにただそこで区切った。でもそれだけで十分だった。
私は急に目の前の『安室透』が人間になったような気がして―――そう、正直に言って愛おしいと思った。
しかしそれはよくないとすぐに頭に冷水をぶっかける。この感情の上下も何度目だろう。

でもこの人に本当に恋をしてしまうのは、まさしく不毛だからだ。


(早く家に帰りたいな。)


これ以上思い上がってしまう前に、自惚れてしまう前に、勘違いする前に、帰りたい。まだ冷静さをコントロールできてる内に自分の感情から逃げ出したい。
やっぱりこの部屋を出たいと思ったがなんとなく今の安室透を一人にしておくのは憚られて、背を向けて布団を被り直す。
とんでもなく目が冴えていたが一刻も早く眠りに落ちて、可能なら全て忘れてしまいたいとさえ思った。


「――――君の部屋は寒いな。」


背中越しに聞こえた言葉に静かに息を詰める。それは、私がかつて安室透に言った言葉だ。


「そうですね、そっちの布団は薄いですから。」


その言葉の意味するところは分かっていたが、伝わらなかったふりをした。







































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あとがき。
さもこの後一緒の部屋で寝たようなムーブですが、この後安室透は一睡もしないで布団畳んで出勤します


2019年1月14日執筆 八坂潤
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