自然に目を覚ますと、今ではすっかり見慣れてしまった味気ない天井が視界に入る。
ごそごそと枕元のスマホを確認。アラームを設定していない休日だというのに随分と健康的な時間だ。以前では考えられない。
しばし布団の中でごろごろと転がっていたが、観念して起床する。同居人の今日の予定は何だったか。

リビングに出ても人の気配がない。冷蔵庫のホワイトボードを見ると、いつも通り代わり映えしない嘘の予定でびっしりの安室透の欄と嘘偽りなく予定がスカスカの私の予定の欄に違和感があった。
電車のマスコットキャラクターのペンギンの磁石が逆さまになってこちらを見ている。
いつもは正しい向きの磁石を私達以外の誰かが弄るはずもない。となると私ではなく同居人が意図を持って動かしたのだ。


(しばらく帰らないの合図だ)


了解、と磁石を右端のいつもの場所に戻す。二人で考えた私達だけの暗号といえば聞こえはいいが実態はただの業務連絡だ。
帰らない理由は聞かないし考えない。どっちの顔だとしても関わりたくないし、あの安室透なら大丈夫だろう。だってメンタルフィジカル共にゴリ、屈強な男だ。
映画レベルの大事件なら我らが主人公コナンくんが何とかしてくれるはず。モブ以下は余計なことは考えず大人しく舞台の外側にいればいいのだ。


(そうだ、心配する必要なんてない。どうせ無事に帰ってくるに決まっている。いつものことだ。)


ポアロに電話して安室透はしばらく出られないのでその分のシフトを代わる旨を伝える。
いつものことなので元々あまり怪しまれないが、その時の嘘があまりにもスムーズに口から出てきたものだから少し複雑な気持ちになった。


(こっちに来てから随分と嘘が上手くなっちゃったな。いいことなんだか悪いことなんだか・・)


電話を切り溜息を一つ。言い訳に使った理由をすぐさまホワイトボードに追記して理由を共有する。
シフトが代わるとなると、今日は途端に出勤になるので顔を洗い簡単に化粧をした。
急な予定変更があっても問題がない我が身を嘆きつつ服を着替え、昨日の残り物を温めて朝食にする。


(今日の夕飯はどうしようかな)


基本的には安室透が料理を作ってそれを私が美味しく頂き、それ以外の家事はこちらが請け負うのが同居のルールの一つだ。
一応はエグいくらいに忙しいトリプルフェイス様ばかりに作らせるのは申し訳ないという気持ちはあったが、こっちに来てから多少料理スキルが上がった程度の私と公式設定料理神レベル男とでは格が違う。
確認のために冷蔵庫を覗けば、少しスーパーで買い出しをするだけで簡単な料理くらいはできそうだ。


(前はこういう時は適当に食べて帰るか買って帰るかだったのに)


自然と頭の中で献立を組んでしまった自分になんだかもやもやして少し乱暴に冷蔵庫の扉を閉めた。
たまにはファーストフードを食べるのもいいだろう。





















それから数日経った。
わいわいと騒がしいファーストフードの店内で安っぽい作りの椅子に座り、期間限定のハンバーガーを齧りながらスマホを眺める。
いつものように安室透からの連絡は一切なかったし、ホワイトボードのペンギンは定位置のままだから、私のバイト中に帰ってきている様子もなさそうだ。


(それにしても参ったな・・あんまりおいしくない。)


セットで頼んだポテトと飲み物を機械的に胃の中に流しながら自分の舌の変化にびっくりしていた。
以前は何を食べてもよっぽどのものでない限りウマいと思える安い味覚だったのに、今食べているファーストフードに特に何の感情も浮かばない。
まずいわけではないけれど、ここ数日美味しいと思う回数は圧倒的に減っているのは確かだ。

理由は簡単。
安室透の絶品手料理によって舌がすっかり肥え太らされてしまっているからだ。


(あかん、すっかり胃袋を掴まれてるってやつだ・・勘弁してくれいつまでも食べられるものじゃないんだからあれは・・・・)


食べ終わったハンバーガーの包み紙をくしゃくしゃに丸めてポテトの空き箱に詰め、残り少ない飲み物を流し込む。持ち帰ったポアロの賄いサンドイッチは明日の朝ごはんにでもしようか。
自分の舌の将来に憂いながらも、帰ろうと立ち上がったところにタイミングよくスマホの通知が鳴って小さなが画面に食いつく。
こっちの世界では私の連絡先を知ってる人間は圧倒的に少ない。送り主は期待通りの人間ではなかったが、予想通りの人間だった。







夕方と夜の境目の時間帯の公園は、「じゃあね」「またね」という声が行き交い子供達がまた一人と家に帰っていく日常の光景で溢れていた。
当たり前にある穏やかな光景をぼんやりと眺める。こんな特筆しようのない普通を守るためにあの人は今もどこかで戦っているんだろうか。
同じように、元の世界で当たり前に生きている裏でも誰かが私達のために血を流していたのだろうか。そんなこと、今まで考えたこともなかった。


(なーんて、何をヒロインぶってるんだか。やめよう、ガラじゃないし)


目を閉じて思考を振り払う。けれど、元の世界ではともかくこっちの世界ではそれは確実に起きていることだ。
今日もどこかでコナンくんが殺人事件を解決し、安室透は何らかの仕事で帰ってこない。二人とそして誰かのおかげで今日も表向きは平和だ。
砂場から子供達の姿が消えたころ、指定された時間に藤棚近くのベンチに座るとすぐに声が掛かった。


「すみません、待ちましたか?」

「いいえ、どうせ暇人なので問題ないですよ。そちらこそお疲れ様です。」


私の前に立っているのは安室透、ではなくその部下の風見裕也さんだ。どうぞと促して隣に座ってもらう。
特徴的な眉の間には薄っすらと気苦労を伺わせる皺が残り、理知的な黒縁の眼鏡の奥は少し目つきが悪いが彼は降谷零の腹心の部下、つまり公安警察官である。
連日の仕事疲れだろうか、前に会った時よりも心身ともにくたびれている様子に心の中で手を合わせた。ご愁傷様です。


「これ、頼まれていた着替えです。あの人によろしくお願いします。」


たまにこういうことはある。予め用意されている安室透の着替えが入った紙袋を風見さんに渡し、代わりに洗濯物になった服が入った紙袋を受け取った。
中身が本当に純粋に着替えだけなのか分からない。確認したい好奇心がないわけではないが、それで中身を覗いてバレた時が怖いので関心を持たないことにしている。
まあでもあの用心深さの見本みたいな男が私ごときに重要物を任せるとはとても思えないけどね。

もう一つ着替えとは別に持っていた小さな紙袋を差し出すと眼鏡の奥の黒目がぱちぱちと瞬いた。


「こっちは個人的な差し入れです。ポアロの賄いのサンドイッチなので安心ですよ。迷惑でなければどうぞ。」

「ああ、これはすみません。せっかくなのでここで頂いて帰ります。好きな飲み物はありますか?」

「えーと、紅茶・・・」


分かりました、とベンチを立って近くの自販機へ歩いていく背中をを見送りながら、参ったなと内心で毒づく。
てっきり持ち帰って食べるだろうと思ったのに、変に引き留める結果になってしまった。余計な気をまわしてしまったか、いやでも市民の安全のために働いている人を労う気持ちは素直にあったんだが。
相手が嫌いとはではなく、あまり安室透の恋人役としてのボロを出したくないので一緒にいる時間は極力減らしていきたい。けど、ここで固辞しても逆に怪しまれるかもしれない。
そうこう悩んでる内に風見さんが戻ってきてさっきとは逆に私に飲み物を差し出す。


「はい、どうぞ。」

「ありがとうございます、逆に気を遣わせてしまったようですみません。」

「いいえ。私のほうこそお気遣いありがとうございます。」


やばい。ここで下手なことをしたら安室透にたぶん殺される。気合を入れろ、私。
作り笑顔をするべきか、いやこの人超エリート集団の公安様だぞ下手な芝居なんて見破られるに決まっている。うっ悪いことしてないのに何で私がこんなに焦らなきゃならないんだ。

なるべく平常心を保ちつつペットボトルの蓋を捻って中の液体を口の中に流し込む。き、緊張で味がしない。
そんな私をどう思ってるんだか分からないが風見さんはサンドイッチを頬張り、順調に一つ目を平らげてからおもむろに口を開いた。


「聞かないんですね、あの人のことを。」

「へ?あ、ああ・・・」


それは確かに。私は安室透みたいな重要かつ主要登場人物がポンと死ぬとは思っていないから心配してないけど、愛する人の身なら案じるはずだ。
仕事の内容は漏らされないと分かった上でも物分かり悪くなお心配する言葉が出るくらいが普通だろう。危険任務に就く恋人の気持ちって難しいね。
いや考えろ安室透の恋人になりきれ、こういう時こそ今まで見てきた危険な仕事に就いているヒロインの言動を思い出すんだ。


「・・・聞いたところで教えてくれないでしょう、そういう仕事ですし。情けないですけど私には・・その、あの人の無事を祈ることしかできないので。」


よっしゃ言えた。好きなあの人の無事を健気に祈るヒロインっぽいしおらしい言葉がヌルッと出てきた。これはなかなか審査員の評価点数もお高いのでは?
私の自己採点に反し、しばしの沈黙が舞い降りる。先ほどの言葉がまるっきり嘘だなんて言わないけれど、わざとらしかっただろうか。


「あの人は、少し最近変わったと思います。」

「変わった・・・?ですか、そうですかね。私にはあまり感じられないですけど・・」


変わるのか?あの精神がダイヤモンドで出来てるような男が?そこそこ近い距離で見ているはずなのにぴんと来ない。
訝しむ私の目とは反対に風見さんの目は穏やかで少し戸惑う。そんな私に構う様子もなく彼は二つ目のサンドイッチを胃袋に収めた。


「はい。少なくとも残業の時間は減りましたし、家に帰られる回数は増えました。」

「あ、ああ・・・なるほど。」


それはね、風見さん。私を見張ってるからだと思うんですよね。私が変なことをしていないか、信用に値するとまではいかなくても無害な人間であるか。


(いや、違う、それだけじゃない。そんなことはわかっているんだ)


内心では反射的に毒づいてしまうが、それだけじゃないことくらいいい加減私も分かっている。
必要最低限だった会話の回数は増え、内容も事務的なものからとりとめのない日常、上澄み部分だけど自分たちのことを少し語るようになった。
一緒に食卓を囲む回数も増えたし、もののついでに料理を教えてくれることもある。ついには最近私の料理を食べた。あの用心深い男が。評価は辛口だったけど。


(それが嬉しいけれど、同じくらい嫌なんだ。)


自分がもしも最初からこちら側の人間で、偶然だか幸運だかでこの立場を掴んだ人間だったら素直に喜べる。でも違う。これはそういうものじゃない。
適切に保たれていた絶対的な距離がいつの間にか縮んできているような気がする。いつ、突然に、お互いがいなくなってもダメージを追わなかった程度の親密度が。
どちらから始めた領土侵犯かは分からない。お互いにかもしれない。いずれにしても好ましい事態ではない。


「言葉にするのが難しいのですが、人間らしくなったというか、雰囲気が柔らかくなった気がするんです。」

「あはは・・・確かにターミネーターみたいですよねあの人。前にそれ言ったら笑ってましたけど。」

「分かります・・ってそれ言ったんですか?流石ですね・・・・」


なんだそれ、なんだそれ。胸がざわざわする。乙女的な意味ではなく、嫌な意味で。
今までに幾度となく目にしてきた漫画じみたフラグに頭痛がしてきた。いや、一読者として安室透にそんな心を許せる異性が出来たのなら良いことだと喜べる。
けどこの場合の問題点は、その原因が部外者だということだ。まるで私があの鉄の男に変革をもたらしたかのような、いや、まさか自惚れだ。


「それを私は良いことだと思います。」

「・・・だと、嬉しいです、私も。」


歯切れの悪い言葉と引き攣った笑みを返してしまい、ペットボトルの中身を一気に煽って空気を誤魔化す。
それは風見さんの目には恋人の変化にはにかむ姿に見えたらしく、差し入れを完食した彼は挨拶もそこそこに去っていった。

私は同時に、ダイヤモンドは傷付きにくいが砕けやすいのだとテレビ番組でやっていたことを思い出していた。




























暗闇の中、スマホの明かりで時間を確認する午前二時。
画面には当然のように何の通知もなく、あるはずはないと思いながらもどこかで期待していた気持ちが少し沈む。
家のベッドの布団をかぶり直し、目を閉じるが再び小さな画面を見つめてしまう。やっぱり何もない。

あの公園でのやり取りから更に数日経っていた。
風見さんからの指令もなければ安室透からの連絡もなにもない。いつまでこの状況が続くのか、胸にずっともやもやが降り積もっている。
いやもやもやなんて曖昧な言い方はよそう。不安なのだ。ちゃんとあの人が無事に家に帰ってきてくれるのか、このまま帰ってこないなんて事にならないのか。


(こんなことになるならもっと意味のあることを話しておけばよかった。いや、死んだと決まったわけじゃないけど・・・)


いなくなる前の会話を思い出す。確かあれはなんとなく追っていたサスペンスドラマを流していた時だ。
TVオリジナルのストーリーでかつ前後の話など見ていないはずなのに、あの人はその回だけの少ない情報で物語の真相を推理してみせた。
後日答え合わせをしようなんて言っていたのに、帰ってこなかったせいでそれもできなかった。まあ嫌味なまでにぴたりと当たっていたと今日判明したわけだが。


(うまく眠れない。バイトで疲れてるはずなのに、全然だめだ。)


原因は分かってる、風見さんのあの言葉だ。
これが現実世界で生きている人間に言われたら、これが私が読んでいる漫画で幸あれと推しているキャラが言われていたら、どんなに嬉しかっただろう。
その両方でもない現況ではただただ負担に感じるだけだ。もしも本当の安室透の恋人だったら嬉しかっただろうに。そんな立場にはどう頑張っても望んでもなれないばかりに。


(というか冷静に考えれば死亡フラグじゃんあれ・・余計に不安になってきた。)


冷静な思考ではあの安室透が死ぬはずがないと計算結果を伝えてくる。でもそんなこと誰が保証してくれる?と感情が問い返す。
言ってみれば私みたいな異分子がいる時点で充分に影響を及ぼしてる可能性もあるじゃないか。
私が考える安室透の強さの理由の一つに、ゴリラ染みた体力と戦闘力ももちろんだけどあの強靭な精神性にあると思っていた。でもそれが私のせいで変質していたら?


(認めたくはないけれど・・やっぱり心配だ。)


今まではこんなことはなかった。いや、考えるようになってしまったのだ。自ら望んでという訳ではないが、この世界に長く身を置きすぎてしまった。
無力な私が気を揉んだところでどうにもならないというのに。そしてどうにかしようだなんて微塵も考えていないのに。

無理矢理に思考を中止し再度目を閉じても胸に広がる不安で全然眠れる気配がしない。
渋々ベッドから這い出て呼吸を1つ。ああそういえば、安眠には昆布茶が効くといつだったか安室透が言ってた気がする。


(確か戸棚の隅っこにあったはず)


ぺたぺたと素足でリビングを歩き明かりをつけてお湯を沸かし椅子に座って頬杖をつく。
スマホを眺めながらぼんやりとお湯が沸くのを待っている―――と、玄関の扉が開く音が聞こえた。

まさか、と沈んでいた意識が跳ね起きて、忠犬のように玄関に駆け寄ると数日ぶりに見る安室透の姿があった。
薄闇の中でも美しいと分かる顔は明らかに疲労していて仕事の大変さを伺わせるが、でも帰ってきてくれた。それだけでさっきまでの鬱屈とした気持ちは一掃されて言葉にできない温かいものが胸に溢れる。
色素の薄い髪の下の青い瞳が私の姿を見とめると驚いたように見開かれ(きっと私も同じ顔をしていただろう)しばしの沈黙が流れてからやがて男の唇が動いた。


「・・・・ただいま。」

「お、おかえり。」


信じられない。まるで図ったかのようなタイミングだ。念のためこっそり確認するが長い足はちゃんと生えているので幽霊ではない。
幻覚を疑って自分の手を抓るが痛い。痛いということは現実だ。再び馬鹿みたいに口を開けて安室透の顔を眺めてしまう。
私の一連の奇行をこの男はどう思ったのか。意外にもからかうわけでもなく呆れるわけでもなく、何も言わなかった。少し穏やかな顔だ。


「帰ってきてくれて、よかった。」


何の連絡もないから心配したの、なんて言葉はぐっと飲み込む。本心だけど、本物の恋人ではないのだから物分かりの良い人間でいたい。
安室透はそういうめんどくさくないところを評価し求めているはずなのだ、だからそれに答えるべきだ。大きく息を吐いて心と呼吸を整える。


(やっぱり、私が心配するまでもなく生きて帰ってきた。うん、そうだよね、あの安室透だもんね。)


端正な顔の頬と額に治療用のテープが貼られているが、それくらいの怪我なら仕事内容を考えれば範囲内だろう。
無事でよかった、と開こうとした口が肩に掛けていた背広がずれて露になった腕の三角巾に硬直する。


「・・・・それ、ケガ、したの?」

「ああ、これは犯人とやりあった時に、少し。」


さほど重要でもないように何でもないようにさらっと返ってくる言葉に目眩がする。それを見て青くなる私に反し平然とした彼との価値観の違いにも。
そりゃそうだ、彼がやってる仕事には危険が伴ってるなんて私は散々画面越しに見てきたじゃないか。こうして生きて帰ってきただけでも御の字なんだから。
黙り込んでしまった私にあのトリプルフェイスと評される男にしては珍しく躊躇った様子を見せた。


「大したことじゃない、それよりも僕の不在中に何か、」

「大したことじゃない?そんなことない、痛いんだから大したことだよ!感覚麻痺ってんじゃないの馬鹿!!」

「―――、」


長い睫毛に縁取られた瞳が見開くのに負けないくらい私だって自分の強い反発の言葉と大きな声に驚いていた。
ついでに袖口が赤く染まっていて、安室透が血を流すような怪我をしたのだと気付いた途端に立っていられなくなって、壁に手を突いて俯く。見なきゃよかった。
お互いに戸惑うような沈黙が続く。早く心を立て直さなければと、何か言わなければと口を開いては呼気に変わる。薄皮を先に破ったのは安室透だった。


「・・・・意外だな、キミがそういう反応をするとは思わなかった。」

「そりゃ、心配くらいは、しますよ。人間なんだから。」


安室透も人間だから怪我はするしともすれば死ぬ。そんな当たり前のことに気付きたくなかった。いつまでも妖精を信じる子供のように、貴方の無事を無邪気に確信できる読者でいたかった。
でももうそんな立場に甘んじることはできない。目を逸らし蓋をしていた感情が箱から溢れてしまう。生を実感してしまう。生を意識すれば死の恐ろしさもやってくる。


(お前がそんなに血の通った人間だなんて気付きたくなかった)


緩やかに破滅の足音がする。こんなことが何度も続けば私の精神ごときは耐えられない。
危険な仕事に就いている人間の無事を365日真摯に祈り、いなくなる度に不安を飲み込み、無事に帰ってくる度に涙を流し安堵し続けるには弱い心が持たない。
そしてそんな私を彼もまた傍に置かないだろう。それは困る。ここを追い出されるとどうしようもない。散らばった平常心をなんとかかき集めて言葉にする。


「ごめんなさい、踏み込み過ぎました。でも、無事でよかったと思うのは本当です。・・お大事にして、おやすみなさい。」


相手の顔も見られず自分の顔も見せられず、一方的にまくし立ててから頭を下げて自分の部屋に逃げ込む。幸いエリアチェンジしてまでの追撃はないようだ。
そういえばお湯を沸かしっぱなしだったことに気付いたが安室透が止めておいてくれるだろう。もう昆布茶は必要ないのだから。


(早く家帰りたい)


こんな、ただ生きていることに一喜一憂させられる男の近くになんていたくない。心が疲れる。平穏に暮らしたい。読者に戻りたい。
安室透も今回のことで私が不安になって苦しんだことを察しただろう。でも例え私が本物の恋人だったとしても危険な仕事を辞めるはずがない。
私は、観客は、彼のそういうところに心底惚れ込んでいるのだから。

これからもまたこんなことが起きると思うと不安で気が重くなる。
けれどその日は久しぶりに泥のようによく眠れた。










































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あとがき。
性癖に走った話になってしまいました。
安室透の出番が少ないうえに絡みも薄くて・・これ、夢・・・小説・・・・?
ダイヤモンドは砕けないって激アツワードですよね。その後のスパイスガール発現時も相まってとてもいい。


2019年 9月21日執筆 八坂潤
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