「ふぅ・・・」


疲れたな、と肩に手を当ててまわすとゴキゴキという疲労の音が返ってくる。
窓越しに行き交う人々は疲れた顔の社会人が増え、私も少し前まではあの回遊魚の群れに混じっていたのだと不思議な気持ちになる。

視線を戻した閉店間際の喫茶店ポアロはやっと昼間の繁盛のなりを潜め、最後から二番目のお客様が立ち上がりレジに向かうのを見て小さく安堵の息を吐いた。
安室透と一緒のシフトだといつもこうだ。彼目当ての女性客が増えるから露骨に忙しくなるので正直一緒に出たくない、まして二人きりならなおさら。こればかりはシフトだから仕方ないけど。


(ああ、またやってる。)


綺麗な顔立ちの女性客がレジを打つ安室透からお釣りを受け取る際に、わざと手を引いてお金が落ちる。
チャリンチャリンと地面をくるくると踊るように硬貨が転がって、一緒に拾った大きな手に白い小さな紙を握らせるのを見た。
手を変え品を変えながらも何度も見てきた連絡先を渡すやり取り。そしてそれを当たり障りのない言葉で卒なく相手の指に握り返してお断りするのも幾度となく見てきた。

なお私は客に連絡先を渡されたことなんて一度もない。驚異の顔面格差社会っぷりに涙が出るわね、今更だけど。


(当然の話だけど引くほどモテるんだよね、安室透・・・・)


人気キャラクターである安室透はもちろん設定通りに凄まじくおモテになられる。
色素の薄いサラサラの髪に湖沼の瞳、甘い鼻梁と美しいラインを描いた輪郭は雑誌のモデル顔負けの美しさなので気持ちは分かる。私も好きだし。

そんな誰もが羨みその関心を引きたいを渇望する美男の恋人役を、何の取柄もない自分がやっているというのは凄まじく優越感がある。
自分の力は一切関係なく、全部演技で互いの利害関係を計算した結果こうなっているだけだというのに、それに甘んじて虚構に胸躍らせる己はなんと愚かなことか。
馬鹿らしくて下らないと自分の感情を律しても不定期にその暗い感情は蓋から溢れ出る。


(我ながらみみっちい自覚はあるけれど、でも少しくらい浮かれてみたい。今までもそしてどうせこれからもぱっとしない人生なんだから。)


浮かれついでにもう一つ自惚れとして、ひょっとして安室透は私のことが結構好きなのではないか、なんて最近たまに思うことがある。
風見さんの意味深な発言もそうだけれどあの安室透流血帰宅事件より以来、なんだか私に少し優しくなった気がするのだ。
ソファーで寝落ちしててもたまに怒られなくなったし、家に帰ってくる頻度も連絡をくれる回数も増えたし、不在の時は食事の作り置きもしてもらえるようになった。


(いや最後のは小学生じゃないんだから素直に受け入れて喜ぶのはどうかと我ながら思ってるんだけど・・・まあともかく。)


思い起こす今までのあれやこれやそれらの行動も、もし好意によるものだったのならまた違う意味になる。
今までは皆を騙すための演技だと言い聞かせてきたが、でも周囲の目がない時にも見せたあの行動は?言葉は?ただの芝居の延長線?


(わ、わかんない・・・完璧主義者の演技なのか本物なのかさっぱり分からない・・私で遊んでる説もあるけど・・)


これが普通の男ならまだしも、自惚れるには安室透は怖い男だ。
百戦錬磨の完璧トリプルフェイス様と私では恋愛経験に雲泥の差があり、私には本物と嘘の見分けがとてもつかない。
いや、ここまで考えながらも小心者なのでやっぱり後者だとは思ってるしそう思っておく方がずっとダメージは少ないのだけれど。


「ちょっと、さっきの見た?いいの?恋人にあんなのされて黙ってても。」

「え?ああ、いつものことなので・・」


カウンター席から身を乗り出して園子ちゃんが私に小声で囁く。
紅茶色の前髪をヘアバンドでさっぱりと上げた彼女は本日のポアロ最後のお客様だ。蘭ちゃんに宿題で相談があるらしく、長引いている部活の帰りを待っている。


「もー駄目じゃないそんな弱気じゃ!そんなんじゃいつかとられちゃうかもしれないのに!!」

「と、とられるって・・・・」


とられるも何も最初から私の男じゃないんですけども、とは言えずにもごもごと口を動かす。
でも確かにこれほどの男がこのまま一生独身で終わるっていうのは大層もったいない話だ。いずれ誰か良い人は現れるだろう。
その時には流石に自分も元の世界に戻れていると思いたい―――もしそうならなかったとしても安室透の三重生活にも貢献したのだから急に放り出されることはないだろう。


(安室透が誰かと結婚する・・・それはそれでほっとするのかな。)


無駄にこうやって胸を躍らせたり言葉の裏を探ったりしなくて済むようになるっていうのなら、それも悪くないのかもしれない。
つまるところ私は安室透と恋人関係になりたいというよりも、この状況の答えを知ってスッキリしたいだけなのだろう。
それがもしも万が一いや百億に一に本物だったのなら、私は―――、

私の煮え切らない態度に唇を尖らせた園子ちゃんはストローでアイスティーを飲み干すとビシッと効果音を付けて私の胸に指を突き付けた。わあ名探偵に犯人指名された気分。


「なーんか、怪しいのよね安室さん達って。」

「へ?なにが?」


先程の客を丁重に店外に見送った安室透がこちらに近付いてきて何事かと首を傾げる。


「ズバリ、2人って本当に恋人なの?」

「ちょっと園子さん何を仰られていらっしゃいます!!?」

「いいじゃんいいじゃん。どうせ店には私達しかいないんだしさぁ。」


そう言われてみればそうなのだが、逆に言えば彼女の親友兼ストッパーである毛利蘭ちゃんもいないことが問題なのだ。
漫画なんだし都合よくこの場にこのタイミングで現れてほしいものだが全く気配はない。チッ相変わらず私には優しくない世界だ。


「ほら、盗聴器とか仕掛けられてるかも・・・」

「逆に何でこんな普通の喫茶店に盗聴器が仕掛けられてるかもとかいう発想が出てくるのよ。あ、探偵見習いの恋人だから?」

「ま、まぁ、そんな感じです。」


そりゃ身近に仕掛ける候補が二人もいるからなんですけどね。何も知らないって幸せだと思う。
私なんか未だにプライベート握られてる覚悟で生きてるっていうのに・・・それで身の潔白になるのなら致し方なしと諦めているけれど。
その候補の片割れである隣の恋人(仮)はまるで心当たりがありませんとでもいうように青い瞳を瞬かせた。心臓に剛毛が生えてますねこれは。


「安室さん目当てのJKに目を付けられたくないかって言ってるけど、今も全然そんな素振り見せないし。」

「いやそもそも仕事中にそういうのは・・・」

「といってももうお店には私しかいないじゃん。うーん、やっぱり怪しい。」


仕事中ですという免罪符を掲げ大人な対応を見せてもしつこく食い下がってくる女子高生の勘は無駄に鋭い。
そして一度火が付いた若い好奇心は、この場を誤魔化してもまた場を変え時間を変えて追ってくるだろう。であれば今この人がいないタイミングで解決したいけれど。


(バレるのは・・やっぱダメか。色々説明しなきゃいけなくなるし・・画面越しに見る園子ちゃんって友達思いの良い子なんだけどこういうところは本当に困るなぁ)


この場を切り抜けるにはどうしたものだろう、とカウンター越しに見えない手で調味料のラベルを弄りながら視線を泳がせる。
若い好奇心への対応に苦慮する私に、園子ちゃんはその大きな瞳を輝かせて無邪気に容疑者を追い詰める。


「ほんとならさ、ちゅーの一つでもここでしてみてよ。」

「・・・・・・・・・・・・。」


最悪。
きっと私の顔は人前にも関わらず苦虫を噛み潰したような顔をしているだろう。接客スマイルなんて知ったことか。
もう私が何を言っても墓穴になるだろうと口を噤んで隣の安室透に視線で助けを求める。

確かにこんなイケメンと私を並べて恋人同士ですっていうのはピンと来ないほうが普通だろう。恋人関係を疑われるそこに抗議の気持ちはない。思うところはあるけど。
目線で再度「なんとかしろ」と訴えると、少しだけ目を伏せていた安室透が顔を上げてこちらに微笑む。おっいい名案が浮かんだのか?


「透さん、」

「黙って。」


すっと私の唇に大きな手が寄せられて、予想していない接触にびくっと身を引くがやんわりと手は追い縋ってきて離れない。
自分の唇には少し乾いた皮膚の感触がして、たったそれだけなのにドキドキしてしまう。なんだろう余計なことをしゃべるなってことか。
行動の意図が分からず借りて来られた猫のようにじっと身を竦ませる凡人の視線と稀代の色男との視線がかちりと合う。その瞬間、彼は何を思ったのだろう。


「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


そして硬直したままの私にキスをした―――手のひら越しに。

安室透の大きな手の下の私の口は大きく開いているのに、声はおろか呼吸まで止まってしまっていた。
きっと大きく見開かれているであろう私と目線を合わせた春の湖面の瞳は少しだけ悪戯っぽく細められ、そのぞっとするような色香に小さく声が引き攣った。
最後、春風のように柔らかい金糸が少しだけ私の額を撫でていって、永遠のような数秒後にやっと離れた。手だけはそのままに。


「はい、子供料金はここまでです。さあ待ち合わせの途中で申し訳ありませんが閉店の時間ですよ。」

「・・・・・・は、はい。」


これは園子ちゃんが求める答えの半分にも満たないだろう。が、誰もそんなことを突っ込む気力や空気なんてここにはなかった。
たった一指しで場を制した男の手がやっと離れて呼吸ができるが未だ声は戻らない、否それどころか立っていられなくて背中を冷蔵庫に預けて崩れそうな体を支える。

そんな私をよそに安室透は園子ちゃんの会計を済ませて店の外に送り出し、閉店の札に切り替えてすぐに戻ってくる。
未だ動けずにいる私なんてまるで存在しないかのように淡々と作業を進める背中にやっとふつふつと感情が沸いてきた。
とりあえず衝動のままに近くにあったボールペンをぶん投げると事も無げに受け止めて何事もなかったかのように机に置く。
やっと私を認識したその表情はいつも通りで、その分厚い顔の皮膚の下にある感情は全く読めやしない。


「お、ま!!おまえ!!!!!今、今何をし、何をした!!!!?」

「安心しろ、盗聴器の類はこの店に仕掛けられていない。確認済みだ。」

「そうじゃなくない!?そっちじゃなくない!!?もっと大事なことがあったんだよ!!!!!」


二人きりになって口調が戻った安室透は本当にまるで何事もなかったかのようにてきぱきとレジの締め作業を始めた。いや待て待て待て待てちょっと待ってくれ。
顔が熱くて心臓が痛い。顔の良すぎる男と疑似キスをしただけっていうのに、恋愛経験乏しい芸人の私には物理的な痛みが伴っている、気がする。
長い指が五千円札をピンと跳ねてから私のほうへ向き直り、改めて自分がキス(仮)をした男の顔の良さを再認識してしまう。う、うわぁ。


「そんなに嫌だったのか?僕としては最大限に配慮したつもりだったんだが。」

「は、配慮って・・・い、いやそうなんだけどさぁ・・・・」


慌てふためく私とは正反対に冷静な安室透の姿を見ているとこちらの頭も強制的に冷やされてくる。
そうだ、このトリプルフェイス様にとってはたかがキスくらいで(しかも未遂)という気持ちなんだろう。私とは価値観が違うのだ。
あんまり考えたくないけどハニートラップとかもやってそうだし正直似合うし、私もこんなイケメンに迫られたらころっと機密情報喋ってしまうと思う。


「そ、そっちにとっちゃ挨拶程度だろうけどこっちは不慣れっていうか初心者いや若葉マークっていうか、」

「ああ、恋人いないもんな君。」

「死ね!・・・・・・ああいや、死ななくていいなんか足の小指になんかぶつけて。」


日常会話のつもりでこの男に死ねって言っても職業柄割と冗談にならない。この間それを実感したばかりだ。
ふつふつと腹の底では複雑な感情が唸っているが過ぎてしまったものはどうようもない。
それに腹立つことに他にあの場を切り抜けられるもっと上手い方法なんて浮かびやしない。
大きく溜め息をついてから、私も閉店作業を始めて気持ちを強制的に切り替える。


(いや待てよ、ここで私に口のキスするのは安室透にとって簡単だっただろうに、それをしなかったのはやはり私は恋愛対象にないってことだろうか。)


彼を横目で観察してもいつも通り作業をしているだけだ。喜怒哀楽やそれに準ずる感情も一切が感じられない。
つまり彼にとってはあの場を穏便に切り抜ける為だけに弾き出した解答の一つでしかないのだ。


(そうか、安室透って私のこと別に好きじゃないんだ。)


結構、私を勘違いさせるような言動が本当にたまにチラッとあったけど、ああ、でも、そうか。
そう思うとがっかりする気持ちは少し、でも圧倒的に胸の奥から清涼感がぶわっと溢れて指先まで溢れて胸が軽くなる。
自分でも無意識下で漫画の登場人物とどうにかなってしまったらどうしようという悩みは意外に大きかったらしい。ただの勘違いで本当によかった。


(いやーーーよかった。・・・・もしもいやほんともしもだけど、そうなった否そうならせて頂いたとしても、苦しいし。)


そもそも安室透は聞き分けが良くてお行儀の良い私しか知らない(見せていない)のだから、今のこのキャラをずっと維持するのも無理がある。
本当の私はもっとわがままだし、だらしないし、命の危険がある仕事をしている人を恋人に持つ勇気がない。
何より目の前で生きている安室透含むこの世界を漫画として扱い外野席から眺めているような不誠実な部分もある。

あと元の世界に帰る時に変に引き摺らせてしまったら申し訳ないし。


(いやこれは嘘。ほんの少しでいいから引き摺ってくれたら本当は嬉しい。)


目の前の血が通った人間を漫画のキャラクターだと否定しておきながら、現実の恋人に求めるような醜い感情に内心でえづいた。気持ち悪い。
自分の鬱々とした感情に内心で引きながら、お客様に渡す用のアルコール消毒のナプキンを安室透に差し出す。


「はい、手を吹く用。じゃあ私は掃除道具とってくるのでこっちはお願いしますね。」


自分で渡しておきながら、流石に自分の唇に触っていた部分を目の前で消毒されると少し傷付く。
その場面を見ることがないように足早にバックヤードに行って少し時間を掛けて掃除道具を連れて店内に戻る。

もう拭き終わった後だろうか、安室透は長い指でボールペンをくるくると回しながら引き継ぎのメモを書いていた。


「今日の賄いは透さんですよね?何作ってくれるんですか?」

「今日も、の間違いだろ。僕のいない間コンビニと外食に頼り過ぎだ。」

「いいじゃないですかそっちが作る方がすっと美味しいんですから。あ、私は肉が食べたいです。」

「リクエストするならもっと具体的で文明的な内容にしてくれ。」


そう言いつつ背を丸めて冷蔵庫の中身を確認してメニューを考え始める姿になんだか嬉しくなる。
恋人には到底なれないが、この孤独な男の友人にでもなれたのならそれだけでも私は誇らしいことだと思う。


久々の安室透の賄い料理に浮かれた私は、あのアルコール消毒のナプキンが袋も破られずにゴミ箱に捨てられていたことに気付かなかった。








































----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
あとがき。
口同士のキスのほうが説得力があって手軽なのにそうしなかったのはそういうことって話です(伝わりにくい
無料のアルコール消毒ナプキンの質がいいと興奮しますよね、私はします(ノベルティ大好き


2019年 10月19日執筆 八坂潤
inserted by FC2 system