風呂上りに肌触りの良い寝間着に着替えてから、ドアの外で待ち構えていたバーボンの姿を見てとっさに身構える。
甘い顔と夜空に浮かぶ月色の髪に水族館の水槽越しに見るような青い瞳はいつも通りで、ここに閉じ込められてから常に着ている黒い服は今の自分はバーボンだと言外に主張している。
いつも通り(こちらが負けになるのが確定している)手錠の攻防戦が始まるかと思えば、彼は肩を竦めてこう言った。


「明日から長期の任務でここには暫く戻ってこれなくなりますので手錠は外しておきます。さすがに不便でしょう?」

「・・そう、なんだ。いやそもそも普段から不便だからしないでほしいんだけど。」

「それは自分の過去に聞いてみてください。」


そう言われるとぐうの音も出ない。ドライヤーのある鏡台の前まで移動すると、お姫様の付き人のようにバーボンもついてくる。
私の手が自由でも髪を乾かすのはいつも通りやるつもりらしく、鏡の中の冴えない成人女が理解不能とジト目で睨むも気にした様子は全くない。
子供相手じゃあるまいし私の世話をここまで焼いて何が楽しいのだろうと、いやそもそもこんなにコスト掛けて閉じ込めておくメリットは―――いや頭が痛くなる。もしかして暇なのか?いや暇ではない。


「なのでこれを渡しておきます。」

「これ、何の鍵?」


長い指が摘まんで渡したのはキーホルダーも付いていない素っ気ない鈍色の鍵だった。
いつも見る手錠の小さな鍵とは違う、どこかの扉の鍵のようにも見えるがここの部屋のものだろうか。
そうなるとますます意味が分からない、私には鍵を閉めてどこかへお出掛けするような場所も会いに行く相手もいない。
それとも近くの交番に駆け込もうか?―――いや、住民票も戸籍もない私が警察の保護を受けたところで後の言い訳が苦しくなるだけだ。


「ここの屋上の鍵です。開けるだけならピッキングで簡単に済む話なのですが、入手となると意外と苦労しました。」

「しれっと犯罪を匂わすのやめてほしい。」


これ持っているだけの私も罪に問われたりしないだろうな、と胡乱な目で男を見る。
そんな視線を気にした様子もなく、バーボンはいつも通り甘い香りのするヘアオイルを手に取って長い指で髪に絡ませていく。
非常に癪だけど、いや少しだけ癪だけどこの時間は嫌いじゃない。監禁相手に何言ってるんだと思われるだろうが、こうしている時の彼は優しくて何だか泣きたくなるのだ。


「もし僕が戻らなかった場合はそれを使ってここの屋上から飛び降りていいですよ。」

「――――それって、」


油断していた背に氷塊をそっと滑り込まされたような心地になった。
青い目が視線を合わせることなく丁寧に櫛を通し、それ以上の会話を拒否するようにドライヤーの熱風をかけられる。

しばらく無言の時間が続いて、やっと態勢を立て直した私が駄目元で質問する。


「私が帰りを待たずにすぐに使うとは考えないの?」


安室透は誤解しているが何も私だって本気の自殺志願じゃなくて元の世界に戻りたいだけだ。
それをどう説明すればいいのか分からないし、確証がない行為に身を投じるのは自殺行為と変わらないと言われれば全くその通りだなのだが。

いやそもそも結局この世界から消えるのなら、死して消えることと彼にとって何が違うのだろうか。


(安室透が私を愛しているとか、そういうのではないと思う。赤井さんを頼って消えようとしたのがまずかったわけで・・)


軽く考えて起こした行動ではない。赤井さんを敵視する彼にとっては十分に裏切り行為として認定されてもおかしくはないと分かっていた。
でも私がいなくなることに問題はないと思っていたし、むしろそっちの方が余計な負担が減って結果的には安室透の為にもなるだろうと思ったのだ。

だからこの状況は予想外で、何をどうしてベタな創作みたいな監禁事件に繋がってしまったのだろう。
なるべくならば手の中に宝石のように大切に握りしめているその正体はただの泥団子だと早く気付いてほしい。


「はい。『僕が戻らなかったら』です。こう言えば条件は守ってくれるでしょう?」

「そんなの分からないよ、軟禁犯の言う事なんて大人しく聞くと思う?」

「でもあなたは守ってくれます。そういう人ですから。」


手のひらにのせられた鍵と安室透との顔を見比べる。薄氷の上の攻防戦は男に軍配が上がった。
まるで信頼してますとでも言うようにあっけらかんと言われてしまえば、なんとなくそれに逆らう気になれない。
元の世界に戻りたいという気持ちは本当なのに、でも大きなこの手に後ろ髪を引かれて屋上から吊り下げられている気持ちだ。全く中途半端で嫌になる。


(もし、戻らなかったら。)


ここまでするのだ、もしかしなくても安室透は危険な仕事に行くのだろう。これが最後の会話になるのかもしれない、けれど言葉が出てこない。
感情は静かに湧いていて、喉元までせりあがっては再び胃の底へと沈んでいく。それでも残った僅かな残滓は鍵を握りしめた。

ああもう、こんな苦しい思いをしたくないから私はこの男から逃げたかったのに。


(別に、ここから飛ばなくても当初の予定通り赤井さん達に助けを求める手もある。)


むしろそうすべきだっていうのに、この期に及んで鏡に映る安室透の顔を伺ってしまう。
ここで私が再び赤井さんを頼って逃げ出せば彼はどう思うのだろうか―――どれくらい傷付くのだろうか。
傷付いてしまえばいい、漫画のキャラクターに現実の人間が何を遠慮する必要がある、むしろこの完璧な男が自分のせいでみっともなく傷付くところを見てやりたい。


(ちがう、この人がこれ以上傷付く必要なんてない。傷付かないでほしい。)


献身と傲慢の相反する感情を制したのは自分の小心さと、最初に失敗した時の安室透の声だ。
抱きしめられていて表情は見えなかったけど、でも声色は雄弁に『行かないでくれ』と縋ったあの声が、この人を傷付けてしまったのだと罪悪感になってのしかかる。


(私も安室透も中途半端だ。)


私を本気で監禁しようとしない彼も、情を捨てて本気で逃げ出そうとしない私も。どちらも中途半端だからこそこの柔らかい軟禁は続いている。
じっとしていればいつか安室透もこの状況に嫌気がさす―――だからそれまでいるだけだ。子供が玩具に飽きて忘れるのを待つように、それまで付き合ってやるだけ。
せめてそれくらいは正義漢の彼にここまでさせてしまった責任として、そうするべきだ。自分が悪役になるのを回避しているだけだろうと、冷静な心は告げるけれど聞こえないふりをする。


「・・・・重いよ、安室透。」

「バーボンです。あと真鍮は一般的な鍵の材質ですよ。」


それから一緒に食事をして並んでテレビを眺めてベッドで眠るまでついぞいってらっしゃいという言葉は喉に詰まったままで、目が覚めたら安室透は消えていた。
無駄に寝心地の良いベッドと肌触りの良いシーツに包まって、握りしめたまま眠っていたらしい鍵を眺める。


「・・・・・・・。」


一呼吸おいてから手の平の鍵をあの小さな水槽の中に沈めて、鈍色が静かに砂地に刺さるのをぼんやりと眺めていた。
再び玄関のドアが外から開くことを望んでいるのか望んでいないのか、自分でも分かりはしなかった。










































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あとがき。
同キャラで同一テーマでもそれぞれの関係性や背景によって全く別物になるのが書けたら面白いなぁと思って書いてみました。


2019年 11月17日執筆 八坂潤
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