(やっぱりこんなとこ来なきゃよかった。)


こっちの世界に長く居たせいで油断、というよりも感覚が麻痺していたんだと思う。
普通に考えればあの江戸川コナン君御一行と豪華客船に乗ろうなんて、ここに来て間もなかった頃の私だったら岩に噛り付いてでも拒否をしただろう。
それがいつの間にか危険に慣れてしまって、安室透の指示にも唯々諾々と従う自分はさながら一昔前の従順なヒロインのように『登場人物めいている』。

いや、慣れているというよりも緩やかな自殺願望なのだ。
いつまで経っても元の世界に帰れる気配はないし、安室透にとって都合の良い人間でいるのは疲れるし、そして元々社交的な性格ではないから大した交友関係も作れず愛着もない。
後半二つは完全に自分の人間性の低さなのだが―――ともかく一言でいうなら疲れたに限る。


(ああでも、あの安室透の顔はちょっと面白かったな。)


自分から今回の件を依頼しておきながら二つ返事で引き受けた私に、あの綺麗な顔に戸惑った表情を浮かべたのが奇妙だった。
従順で都合の良い人間でよかったと安堵の笑みを浮かべてもいいくらいなのに、どうしてそんな顔をしたのだろう。


(その答えを聞きたかったけれど、今回ばかりは本当に無理かもしれない。)


過去の回想という現実逃避から強制帰還させる程の熱風が頬を撫で、緊張と恐怖の汗が頬を伝う。
うろ覚えの知識で姿勢を低くして奇跡的に持っていたハンカチで口を覆いながら小さな手を引いて懸命に歩く。

周囲は熱がこもって暑い上に薄くなっていく酸素で眩暈がしそうだ。できることならもうこの場で蹲って救助を待ちたいけれど、でもそうすれば分かりやすい死が待っている。

火災現場。
例に漏れず予定調和の如くやってきた今回の事件はなんとテロリストによるシージャック(飛行機はハイジャックだが船はシージャックというらしい。いらん知識が増えた)が勃発。
運悪いことに人質に選ばれた私と歩美ちゃんは犯人に連行されて地下の小部屋に軟禁されてしばらく経ったころ、何が起こったんだか分からないが御覧の通りあちこちが炎上している。
船が揺れたことで転がってきた刃物で何とか拘束を解いて部屋から飛び出て、今に至るという訳だ。


(今までに何度かピンチはあったけど間違いなくTVスペシャル、いや映画級のピンチだ・・・)


あちこちで緊急時の防火シャッターが下りているおかげで火の手がそこまで広がってない、けれどそのおかげで脱出路が狭まってさっきから途方に暮れている。

こういったトラブルに場慣れしているとはいえ小学生の歩美ちゃんとこういったトラブルに離れしていない一般人の私がいてどうなるというのか。
頼りになる安室透もコナン君もこの場にいないんだぞ。二人の閃きと推理を信じて本当は助けを待ちたかったけれど、あのまま大人しく待っていたら焼け死んでただろう。

焼け死ぬ。
さっきは自分の膿んだ心情を緩やかな自殺願望と銘打っておいてなんだけど、そんな苦しそうな死に方は御免被りたい。
なんかこう、せめてサクッと、できれば痛くない方向で―――なんて何考えてるんだろう。死ぬのが苦しいのは当然だろうに。


(まぁ普通なら絶体絶命だけど、歩美ちゃんがいるなら助かるはず・・・・)


なんせ歩美ちゃんは私と違って漫画のヒロインの一角なのでこんなところでむざむざ死んだりはしないだろう。
その強固な生存フラグに私もぴったりとくっついていれば自然とおこぼれで助かるという寸法だ。よし。


「お姉さん、歩美疲れちゃった・・・」

「だ、大丈夫だよ。ほら、手を繋いで。きっとコナン君達が助けてくれるよ。」

「う、うん、そうだよね。安室さんもいるもんね!」

「・・・・・そうだね。」


安室透、安室透はどうだろう。確かに彼も生きる生存フラグではあるのだが、私を助けに来てくれるかというと少し疑問があって、それを考える時いつも胸の裏側がヒリヒリする。
コナン君の助けを純粋に信じられる歩美ちゃんみたいに、私も安室透を信じることができたのならよかったのに。
元々部外者である私はこの関係に納得していると言ったけれど、でもそれは真に迫った危機の中では簡単に剥がれる薄皮の関係だった。


(もしもこのままこの世界から帰れなかったら―――、)


考える。
この事件から生還したら、安室透と関わる事をやめて自分の生活を歩みたいと、彼に申し出てみようか。
違法工作もお手の物の公安警察様なら私の身分偽造でも、その後の生活が安定するまでの保障くらいできるだろう。それくらいは貢献してると思いたい。
私達は成り行きで組んでるだけで、私の代わりになりたい女なんていくらでもいるしもっと有能な人間だってたくさんいる。うん、それがいい。


「あ、あそこ!階段がある!!」


物思いに耽った私を希望の声が揺すり起こす。階段の表示の前には防火用のシャッターが下りているが間違いない、近くに案内表示もあるしここさえ開けば出口に通じているだろう。
赤いボタンを押すと埃と煙を巻き上げながらゆっくりとシャッターが動き出した。よし、これなら何とかなる。さすが歩美ちゃんだ。私なんかよりもよほど信頼できる。


「よかった、これ動くみたい、」


早く一緒に通り抜けよう、と言いかけたところで一瞬手を離した瞬間にシャッターが閉まってしまった。え、何で?
もう一度押し直すとゆっくりとシャッターが動き始め、嫌な予感にもう一度手を離すと瞬く間に下りてしまう。もしかして壊れてる?


(押してる間しか開かない、つまりどっちかが残って押さなきゃダメってこと・・・?)


名探偵でなくても分かる結論にさっと血の気が引いた。何かつっかえられるようなものを探したけどこんな重そうなシャッターを支えられるものなんて見当たらない。
歩美ちゃんに何か声を掛けられた気がしたが答えられない。今考えるべきは、どっちが残るべきかで―――私は今悪いことを考えている。


(歩美ちゃんは、きっと助かる。だってヒロインだし、重要なキャラクターだから、守られている。絶対に死なない。じゃあ私は?)


ぽっと湧いた私は何も保障されていない。私が死んでも誰も困らないし物語の進行に問題はない。けれど、歩美ちゃんは保障されている。
だからもしこの場で歩美ちゃんが残って私が逃げ出してもきっとコナン君や誰かが助けてくれるに違いない―――いや、でも流石に子供を置いて私が逃げるのは、


「よい、しょっと、」


近くで聞こえた声にびくりと大仰に背が跳ねる。歩美ちゃんがどこからか鉄パイプの簡易椅子を引き摺ってきてその上に登り、私の目をじっと見ている。
大きな瞳が何回か瞬いてから、小さな手が私の手を安心させるようにきゅっと優しく包み込んだ。


「歩美がここに残るから、お姉さんはコナン君達を呼んできて。」

「は・・・・?」


何を、言ってるんだこの子は。私よりもずっと若くて小さな女の子が、こんな絶体絶命の状況でなお微笑む。
恐怖に強張った表情を隠すように、私にとって理想的な提案を口にする。
どう考えても残った側は死ぬというのに、どうしてそんな事が言えるのか。もしかしてこの状況が分かってないのか?


「歩美は大丈夫だよ。歩美の方がお姉さんより小さいからきっと抜け道とか見つかるし、それにコナン君が助けてくれるし、だから、」


違う。
いくら歩美ちゃんが小学校低学年の女の子でも、自分の提案が何を意味するのかくらい分かっている。
私を安心させるために握ってくれる手が小さく震えていることに気付いた。気付いてしまった。

この子は自分が死ぬかもしれないということを承知で私に逃げろと言っているのだ。ああ、なんて、眩しい。
歩美ちゃんは漫画で決められたからではなく、この状況下でこんなことを言えるからヒロインなのだ。だから、


「―――待って、歩美ちゃん、今コナン君の声が聞こえた気がする。この向こうにいるのかも。見てきてくれる?」

「ほんとう!?これで二人とも助かるね!」


ボタンを押してできたシャッターと地面の隙間に小さな体をねじ込み、完全に向こうに行ったのを確認してから―――呼吸を一つ吐いて、ボタンから手を離す。
壊れたシャッターは大きな音と共に落ちて予想通り私達を分断した。歩美ちゃんの悲鳴が分厚い鉄のカーテン越しに響く。

やってしまった。
これじゃ緩やかどころか明確な自殺行為だ。
途端に後悔がどっと押し寄せてきて、ボタンをもう一度押して「やっぱりなし!」と言えたらどんなにいいだろう。

けれど漫画だとか打算だとかそういうの以前に、大人である自分を差し置いてこんな優しい子供が死ぬのは間違っている。
自分が決して清く正しい人間ではないと思うけれど、でもそれ位の最低限の尊厳は守られなければならない。例えこれも大きな流れの一つだとしても。


「あ、どうして!?」

「どうしてって・・えっと、こうするべきだと思って・・あ、コナン君の声がしたっていうのも嘘で・・・・ごめんね。歩美ちゃんはそこから逃げて。」

「逃げてって・・・お姉さんはどうするの!!?」

「私はこのシャッターをどうにかするか、もしくは別の出口を探してみるから、大丈夫だよ。」


自分で言っておきながら何が大丈夫なのか全く分からない。それが駄目だったからここまで逃げてきて、それでやっと出口を見つけたというのに。
やっぱりこのシャッターをもう一度開いて助けてほしいとみっともなく縋りたい。けれどできない、私は人間だからだ。
歩美ちゃんがもし死んだら物語がどうなるのかじゃなくて、こういう状況で純粋に誰かを思いやることができるからこの子は助かるのだ。

一瞬でも邪悪な計算をしてしまった私とは違って。


「そんな、お姉さんにもしものことがあったら安室さんが悲しむよ!!?」

「透さんは・・・・」


私の偽彼氏はきっと事件解決のために駆け回っているだろう。黒の組織絡みだと聞いたから自由には動けないのかもしれない。

その前提の上で考える。
安室透にとって私がいなくなって困るかなんて考えるまでもなく困らない。だって私は元々この物語にいない人物なのだ、誤植が治る程度の誤差だろう。
悲しむか、と言われると流石に少しは悲しんでほしいとは思うけれど―――でも大丈夫だろう。だって安室透は強い人間だから、大丈夫。


「・・・・たぶん、大丈夫だよ。むしろここで歩美ちゃんが助からなかったら、私が怒られちゃう。だから行って。」

「お姉さん!!いやだよ歩美、ここから動かないから!」

「・・・・・透さんには、その・・『応援してる』って言っておいてね。じゃあ、また後で。」


本当は元気でね、って伝えたかったけれど別れの挨拶を告げれば歩美ちゃんがこの場を本当に動かなくなってしまいそうで、自分でも信じていない再会を匂わせる言葉で締めくくる。
大丈夫、この人達にとっては元通りになるだけだ。私がいなくても問題ない・・うーん、自分で言っておきながら少し泣きそう。そんなのずっと分かっていたことなのに。

ぱらぱらと天井から埃が降ってきたのに背筋がぞっとしてその場を転がるように離れると天井の一部が崩落して落ちてきた。
どっどっどっと暴れる心臓とぶわっと溢れる冷や汗に少しだけ可笑しくなった。これから死ぬかもしれない選択をしたのは自分だというのに、死にたいと自覚したのに、死ななくてよかったと安堵したのだ。


(一応は、本当につっかえるものを見つければ何とかなるかもしれないと思っていたんだけど、もうこの道はダメになっちゃったな)


いよいよもって本当に駄目かもしれない。大きな音は向こう側にも聞こえただろう。
それで歩美ちゃんが私を諦めて早くこの場を脱出してくれたらいいと思う―――もし残ったとしても歩美ちゃんはきっと運命から守られるだろう。

なら私の犠牲は無駄じゃないかとやっぱり少しだけこの選択を後悔して、でももうどうしようもないとふらふらと歩きだす。


(それに、苦しまないというのなら最終手段はある)


隠し持っていたそれをそっと手の平に転がして、なくすことがないように強く握りしめる。

普通に生きていても自分がどんな風に死ぬのかと考えたことがない人間なんていないだろう。
でもこれは、最もその想定から遠く外れたものだった。



























生き足掻いてしばらくさまよったものの、結局はどうしようもなく―――私は女子トイレの中でぐったりと座り込んでいた。
もうどうせ誰も見ていないし助からないと思うといよいよあらゆるものがどうでもよくなって、すっかり力が抜けてトイレの床に倒れこんだ。汚い。どうでもいい。
頬に当たる細かいタイルがまだ少しだけひんやりとしていて、肉に柔く食い込んで跡になっていうくの感じたけれど今更それを厭う気力もない。


(あー、やっと終わるんだ。)


無機質なトイレの天井を横目で眺めながらまもなく自分が迎える終わりについて考える。
自分が死んだらどうなるのだろうという疑問は大人になるまでに一度は考えだことがあると思う。

最もこの場合は自分が『この世界』で死んだらどうなるのだろう、という新しい疑問なのだが。

名探偵でもない頭を絞った結果、確たる答えは得られなかったものの、でもなんとなく元の世界に戻るのではという希望的観測が無根拠に頭に下りていた。
自殺願望を体よく帰還願望に置き換えて誤魔化しているだけだという冷静な指摘が頭の隅で警告を発しているものの、でもそう一度考えてしまえばあまりにもすとんと胸に落ちるものがあって。
もう出口を求めてさまよう必要性を感じずに、なんとなく安全地帯というイメージがあるトイレで息果てようとしていた。


(せっかく漫画の世界なのに、自分の最期が綺麗な花畑でもなくトイレでひっそり死ぬなんて、あまりにもモブにはお似合いの結末過ぎて泣けてくるわね)


まあでも一介のモブにしては主要ヒロインを助けて犠牲になって死ぬ最期は―――うん、活躍した方だろう。
そんな綺麗な結末を迎えるよりも些末な殺人事件に巻き込まれて殺される確率の方がずっと高かったはずなのだ。この世界はなんせ推理漫画なのでモブに厳しい。
ひょっとしたら自分はこうやって歩美ちゃんを助けるためにわざわざ配置されていたのではなんて納得感すらある。


(でも結局、それ以外は何も成し遂げなかったな・・現実と同じく。)


自分のことは自分が一番よく知っているはずなのに、改めて考えてみても特に長所もなく――そして一般程度の善良さに収まる私にはマイナスはあれど大したプラスもない。
それが過分にも安室透の(嘘)恋人役という世の女性に羨ましがられるを通り越して刺されそうな大役を授かったのだ。もうここから先良いことはないかもしれないと思うとちょっと怖い。


(やっとそれも終わる。)


そっと隠し持っていたそれを手のひらの上に転がす―――最終手段として私が頼りにしていたそれは、毒薬だった。

安室透に拾われたばかりの頃、自分の面倒を見てもらう代わりに提示された条件の一つだった。
今でのあの時の表情と、そして約束の言葉は一字一句違えずに覚えている。

『もしも秘密を守れない場面になったらその薬を飲んで死んでくれ。』

毒を飲んで死んでくれ、なんて要求は一般人にはハード過ぎて現実世界だったら間違いなく断っていた。
実際、それを言った相手も断ることを前提としていたと思うけれど、私は素直にそれを受け取ったのだ―――そうだ、アレがきっかけだった。

私はあの時、こいつにとって徹底的に都合が良い味方になってやろうと自分の命を割り切ったのだ。


(受け取った時も冷徹でいてくれたのなら少しは恨めたのに、少し戸惑った顔をしたものだから。)


そういえばあの時の表情と、今回の安室透のあの表情は似ていることに気付いた。だからどうしたっていう話だが。

いいのだ、良心なんか痛まなくても。
私がいる間だけなら好きなように生かして、使って、こうして死ぬことになっても。
少しだけその綺麗な顔を悲しそうにしてくれればそれでいい。


(使い道は予定とは違うけれど、まぁ怒ったりはしないでしょ。死んだら怒れないしね。)


トイレの床をしっかり頬で受け止めていた体勢からごろりと仰向けに転がって改めて指先でつまんだ薬を眺める。
赤と白の二色に色分けされたカプセルはいっそジョークアイテム染みていて、けれどあの安室透が渡したということは本物なのだろう。
唇の上に乗せて、それから舌の上で転がして、目を閉じる。これで最期だと思うと流石に恐ろしい。


(じゃあね、安室透。せいぜい頑張って天寿を全うしろよ、)








































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あとがき。
「安室透に渡された毒薬が例の薬で、安室透の秘密を守るために服毒した夢主が小さくなって、それを赤井秀一に保護されて、
薬の秘密を守るために本当は生きて目の前にいますって言えず傷心の安室透と交流する話どう思う?」
と以前、友達(私に付き合ってくれて映画知識のみ)に聞いてみたところ「うわ・・・」って言われました。


2020年 2月16日執筆 八坂潤
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