これで終わる。
最初に想像していたよりもずっと惨めな結末だけど、この推理漫画の中で誰かに殺される恐怖を味わうよりもずっとましだと思おう。
さあお別れもそこそこに飲み込むぞというタイミングでいきなり首元を乱暴に引っ張られて一瞬心臓が止まった。
「ヒッなななななに!!?怖い怖い怖い怖い怖い!!!!!!!!!!!」
全く予想だにしてなかった衝撃に、秘境の森の湖のように緩やかだった心が上下左右に荒れ狂う。
訳も分からず腹這いになって逃げようとするも勢いよく首を引っ張られて反転、顎を掴んで強制的に目を合わせられる。
白黒に明滅する視界に飛び込んだのは鮮やかなターコイズブルーの瞳。ああ、なんて青色。
「無事か!!?」
「――――、」
絶体絶命の状況の中だというのに、この瞬間だけ時が止まってしまったかのような錯覚。
なんで、どうしてここにこの人がいるんだろう。いてくれるのだろう。どうして。
映画の大事なワンシーンのようにゆったりと流れる時間感覚を、熱い液体が頬に弾けて意識を取り戻す。
反射的に指で触れたそれは温かくてぬるぬるしていて、そして赤い。そうだ、今さっきこの美しい頬を伝い流れてきた―――血だ。
こんな状況下だというのに奇跡的に私はどこも怪我をしていない。ということはつまり、
「あむろ、とおる・・・・どうして、」
私の胸倉を掴んで顔を寄せた人物は安室透だった。
いつもは冷静さと熱情がバランス良く同居している青い瞳の中には、激情の嵐が荒れ狂っている。
ぽかんと口を開ける私をよそに包み込むようにこちらの頭をくまなく撫で、手首にその長い指を押し当て、次いで親指の先を撫でてほっと溜息をつく。
「呼吸と脈拍は正常。脳圧も高くない・・・頭も打っていないようだな。」
「わ、私は無事だけどそっちの方が・・・・」
私の手を握る安室透の美しい金糸の間からは血が流れ、整った顔にもいくつか擦り傷と、そして全身の服の汚れからもう満身創痍であることは確実だった。
一体何が起こってこの世界においてトップクラスの戦闘力と運動神経を持つ彼にここまでの手傷を負わせたのか―――もしかしてここに来たせいで?
彼の肌色では分かりにくいけれど、じっと見れば分かる赤い火傷にそっと触れる。命の温もりと表現するには生ぬるい、命の炎。
「この、馬鹿!こんなところで倒れてるから俺は―――、」
美しい唇が息を詰め、そして海溝よりも深い息を吐いた。あれ、これもしかして、結構心配されたのでは?
我ながら不謹慎と分かりつつ、そしてそんな状況ではないことはお分かりながらも一瞬踊らせた胸倉を、再度強く掴まれて扉に押し付けられる。
確かに私への扱いの雑さに定評のある男だが、雑さを通り越してまるで犯人に対するような乱雑な扱いにうめき声が漏れた。エッこれ助ける側の態度じゃなくない!?
「何が、大丈夫だ!!この馬鹿!!!!」
「ばっ馬鹿って・・だ、大丈夫っていったい何の話!!?」
「君が歩美ちゃんに言ったんだろう!?」
「・・・・・・・・・あ、」
確かに言った。言ったけれどまさかこんなに早く本人に伝わって、しかも即座に返答されることを想定した言葉ではない。
アレは安室透への別れの言葉、もっと率直に言えば遺言のつもりだったのだから。
遺言を生きてる間に相手に聞かれてしかもすぐさま反応を返されるのってかなり恥ずかしい。いや死なないに越したことはないんですけども!
「ってことは歩美ちゃんは助かったんだ・・・・・・よかったなぁ。」
素直にぽろっと漏れた言葉に反し、安室透の秀麗な眉が跳ね苦々しく歪んだ表情にひゅっと身が竦む。
助けに来てもらっている身でありながら助けられている気が全くしないのはどうしてでしょうか。命の危機よりも目の前のイケメンの方が怖い。
「あ、いや、だって・・あの状況で歩美ちゃんを助けないわけにはいかないじゃん・・・コナン君達や歩美ちゃんのご両親だって、悲しむし、」
「なら僕はいいのか?」
「へっ?」
間抜けな声ごと頭を胸元に強く抱き寄せられる。
強制的に押し付けられた耳は早鐘のように鳴る心臓の鼓動を伝え、頭に添えられた微かに震える手は雄弁に彼の感情を伝えてくる。
(こんなに感情を剥き出しにする安室透は、初めてだ。)
自分の命の危機にだって余裕綽々で切り抜けてきた男が、私の命の危機で揺らいでいた。
助けに来てくれた嬉しさと同量の後ろめたい優越感、それらが通り過ぎると胸がざわざわする。
嫌われてはいないと思っていたけれど、でも自分がここまで感情を向けられているとは思わなくて、そして私はそれを無意識に踏み躙ろうとした。
そんなのは、相手が何であろうと誰であろうと許されることではないのに。少し考えれば分かることなのに。
「・・・・よくは、ない。ごめん・・・うぐ、」
私の言葉を受けてますます抱きしめる手に力が込められて呻く。
あのイケメンである安室透とこんなに密着しているのに、後ろめたい気持ちばかりでちっとも嬉しいとは思わなかった。
むしろ早く離してほしいのに口にできず、かと言って素直に甘える気にもなれず、ただされるがまま八つ当たりのように抱きしめられる。苦しい。
(でも・・・ともかくあの安室透も来てくれたし、これで私も助かるんだ。)
そこでやっと違和感。そしてある事実に気付いてさっと血の気が引く。
結局運命は変わらなかったというべきなのか、いやここは純粋にもう全方位に土下座しても足りないくらいに私が馬鹿だった。
「えっとですね、来てくれて嬉しい、んだけど、無駄足だったかも・・・・」
「は?」
「あの毒薬、飲んじゃった。」
さっきまで口の中にあったはずのあの毒薬の感触がいつの間にかない。
多分このゴタゴタの中でうっかり飲み込んでしまったんだろう。うっかり?いやうっかりって、こんな死に方ある?
これにはさすがの安室透も驚いたようで半身を勢いよく剥がして私の爪先から天辺をゆっくりと眺める。わぁこんなに焦った表情初めて見た。
形の良い唇が震え、言葉しならない息を吐き、そしてまた震え、それをしっかり三回繰り返して私の肩を掴んで悲鳴のように叫ぶ。
「な、何で飲んでるんだ馬鹿か君は!?」
「だって助けなんて来ないと思ったし焼け死ぬのって苦しいって言うじゃん!?だから、・・・・・、」
ぐらりと身体の芯からぐにゃりと折れ曲がるような感覚に、床に倒れそうになるのを両手をついて堪える、つもりが倒れそうになる、のを支えられる。
え、なんだこれ、指先が上手く動かないし力が入らないってこれ、痺れてる?何で?
続けてどっと冷や汗が全身から溢れてきて、視界が歪んで出来の悪いモザイク処理がかかって、戻って・・・・あ、やばい、これ、多分やばいやつ、これが、毒?
「やっ・・ぱり、だめ、かも、・・ごめ・・・せっかく、きた、のに、」
「ッ・・・アレを飲んだのか、どうして僕の助けを待たなかった・・・!」
そんなもの、言うまでもなく誰かの―――安室透の助けなど期待していなかった以上の回答があるだろうか?
私よりもずっと頭の良い安室透もそれには気付いて、そして苦渋に顔を歪めた。なんだそれは、先に見捨てるって明言したのはそっちだろう。
ああでも最期にあの美しいすまし顔にそんな表情を浮かべさせたのは、ほんの少しだけ気分がいい。
「いや、でも、前に話したでしょ、私は夢みたいなもんなんだって、だから、だいじょうぶ・・・」
呼吸した先から生命力が空気に溶け出していくような感覚。ああ、これで本当に死ぬんだ。
支えられている部分を起点に糸の切れた人形にのように力が抜けていくのを、大きな手が素早く支えて自分の膝の上に私の頭を預けさせた。膝枕だ。
(あれ・・・何だろうこの感じ・・・なんだか前にも感じたような・・・・・)
毒で頭がおかしくなっているのか分からないけれど、ふわふわとした夢心地だ。
前にもこの死にそうな感じは味わったことがある気が────あれは、そう、こっちの世界に来る直前に、感じた、ような、
(ん?もしかしたら帰れるのかな?)
かの救国の聖女に下りてきた天啓のようにピンと突然頭に閃いたものがあった。
そんなまさか、いやそもそも漫画の世界に来る方法が普通な訳なかったんだから帰る方法も普通じゃないのか?
道理で元の世界に戻る方法が見つからない訳だ────まさかその方法が死ぬことだなんて!こんな状況でもなければ試そうとも思わないよ!
(よ、よかった〜〜〜〜〜〜!!!!色々あったし今結構な苦しみを受けているけどこれで解決、怪我の功名だ・・・!!!!)
そうと決まれば今度こそ安室透に遺言を遺さなければならない。あ、展開的にもしかしてその為に神が遣わしたのか?
気の利いたことを言わなければ、といい感じに痺れてきた脳みそをフル回転して舌を動かす。
「安室透、今までありがとう、私が消えても、天寿を全うできるように遠くで応援してるから、」
だから頑張ってね、と微かな声色で続く。よしこれでいいだろう。
視界がまたぼやけて安室透の顔は見えない。待てど暮らせど一切の反応はなく不安になる。うん??ミスったかな?????
文字通り今生の別れの言葉を相手に伝える機会なんてなかったからマナーが分からない。くそ、こういう時ヒロインならもっと気の利いたことが言えるのに!ええと、ええと、
「あの、心配しなくても、私はやっと家に帰るだけだから・・ほんと気にしないで・・・・ぎゃ!!!!????」
意識が朦朧としてるところを頭から文字通り水を被せられて覚醒する。は?何で??
勢いよく起き上がる、ことはできなかったが懸命に首を動かして安室透を見上げる。
人形のように無表情に整った顔に嵌る瞳は凍てついた炎のようで、それを直視してしまった哀れな羊は再度身を竦ませた。こわい。
「助かる方法はある。」
「は・・・・がぼ!!?」
近くに転がっていたバケツに大量の水を注いで、無理矢理私の口に当て飲ませる。
思わず身を引こうとするもがっちり後頭部を支えられて逃げられない。ちょっと待て私が良い話をしようとしてた横で拷問の準備してたの!?聞け!人の話を!!最後くらい!!!!
「僕が持っている毒を飲めば体内で毒が拮抗して死ぬ時間を遅らせる事ができる。死ぬほど苦しむが、死ぬよりはましだろう。」
「・・・・・・?・・・・!!!!」
理解するまでにしっかり数拍かかったが、理解してしまえばそれは拷問宣言と同様だった。
いや確かに安室透からしてみれば私が助かる際限の行動だけど、私からすれば苦しむ上に元の世界にも戻れない最悪の行動といってもいい。
うまく動かない身体を這わせて逃げようとする私の腕を掴んで床に押し付ける。まな板の上の鯉。
「な、なんで・・・・、いや、私助かりたくなんてないから、ほっておいて、」
死ぬほど苦しむという言葉よりも助かるという言葉に怯える。
待ってくれ、やっと帰る方法が分かってそれを実現できそうなのに、それを助けたりなんてしないでほしい。
確かに相手からしたらそれは堂々とした自殺宣言で、それを助けるのは当たり前の行動なのだ。加えて安室透は警察の人間だし。
でもこの場合は違う。
「ちがう、何もしなくていい・・放っておいても安室透は悪くないから、放っておいて・・放っておいてください、お願いします・・・」
必死の哀願に眉一つ動かさず、私の体を押さえつけるもう片方の手首の時計の文字盤に歯を立てて隠された毒のカプセルを舌先で器用に取り出す。まずい。
「か、考えてもみて?私がいなくても問題なくない?そもそも私の代わり、いやもっと良い人なんてたくさんいるよ、だから、」
「確かにいなくても問題はない。」
私の言葉に残酷な同意を返すくせに、唇にカプセルをぐっと押し当てられて咄嗟に引き結ぶ。飲み込めと言わんばかりにさらに強く押し付けられるが無言の抵抗。
確かに安室透からしたら救助を拒否する頭の狂った言動だと思われるだろう、でも私は切実なのだ!分かって!!分かれほんとに!!!!
「でも君がいた方が―――ずっと楽しい。」
「は――――、」
予想だにしなかった答えにぽかんと口が開いて、その隙を逃さず長い指が直接カプセルを口の中に突っ込む。
一拍遅れて首を反らして抵抗するも、チッという余裕のない舌打ちと同時に安室透の柔らかい唇が押し付けられて今度は呼吸も止まった。
「〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜!!!!????」
私の歯が柔らかい唇を傷付ける感触よりも、蛇のように動いて私の口の中をなぞる舌の感触にぞぞぞと背筋が別の意味で痺れた。
そして舌先は私の口奥にカプセルを追いやり、喉の中を通り抜ける感触に息が止まる。飲んだ、キスされた、いや飲んで、しまった、いやキスされ、えっ、
「ッ、安室透、」
上手く動かない指で安室透の胸倉を弱々しく掴む。ああいやだ、これから苦しむのか、まだ、この世界で、苦しまなければならないのか。
「どうして・・・私、嫌だって、言ったのに、そっちからしたら頭のおかしい発言かも知れないけど、私は!本気で!!」
「知ってる。どういう理屈だか知らないが君が本気だったことは付き合いで分かる。」
「だったら・・・・・・・・、!!!」
ぶわっと全身の毛穴が開くような、今までに感じたことのない悪寒に身震いした。やばい、これさっきよりも絶対にやばいのが、くる。
舌先も攣れてもはや何の抵抗できない私をそっと抱き寄せてあやすように頭を撫でる。今まで触られたことのないような優しい所作に深い絶望感。
どうしよう、これで助かってしまったら、やっと帰る方法が────帰れそうなのに、こんな、こんなのって、
「僕に天寿を全うさせたいのなら────遠くで応援するよりも近くで見守ってくれ。」
「は────────、」
それは、この男にしては祈りのような言葉だと思った。
ヒロインだったらこんなに傷付いた声の人をきっと放っておかない。いいよ、と優しく頷いてハッピーエンドだ。
けれど私はとてもじゃないがヒロインの綺麗な器ではなかったので。
「いやだね、絶対に、死んでやる・・・」
視界が痛みで赤く塗り潰されていく。意識を保つ事すら難しい。首から下は切り離されたようにぴくりともしない。でもこれだけは言ってやる。
最後の力を振り絞って安室透の頬に噛みついて歯が肉掠める。そのまま耳元で呪いを絞り出す。
「っ、恨んで、やるからな・・・・、」
(死なれるくらいなら、その時は手足を縛ってでも生かしてやる。)
腕の中で声なき呻き声をあげ続ける身体をなるべく揺らさないように細心の注意を払いながら駆ける。
自分が通ってきた道を反転するだけなのに、予想以上に時間が経っていたらしく、通行不可になっている道もいくつかあった。
炎のように熱い身体と、玉のような汗が流れ苦しむ彼女を見て、心配するというよりもずっと安堵した。
苦しんでいるという事は生きている。この瞬間もまだ、この背中には命が燃えている。
『っ、恨んで、やるからな・・・・、』
先程の言葉が頭の中を反芻する。
通常なら呪いである言葉が、今の自分には福音のように錆びた胸を震わせた。
(あんなに感情を剥き出しにしたきみは、初めてだ。)
彼女は今まではどこか他人事のように―――もっと明け透けに言うならば観客席にお行儀よく座っている観客のようで。
何かを依頼すれば口では何と言いつつも最終的には唯々諾々と従う姿はどこか寒々しいものがあり、まるで人間ではないように感じていた。
それが自分のような人間には便利だと上手に利用してきたはずなのに、いつの間にか腹の底にふつふつと感情が沸くようになっていた。
「────────は、」
それが、初めて人間らしく憎悪を向けてきたのだ。
死の淵で引き摺り出された剥き出しの感情は決して美しいものではなく、むしろ正反対の醜悪なものだったが胃の底がぞくりと熱くなった。
あの瞬間、やっと自分は君を舞台の上にまで引きずり上げ―――否、引き摺り下ろしたのだ。
「遠くで応援するだと?ふざけるな。君にとってそうでなくても、行って帰ってこないのなら―――死んだも同然だ。」
意識がないことは承知で語り掛ける。
今まで味わったことのない苦痛に身悶えする姿に良心が痛まないわけではなかったが、毒で発熱する身体はなお生きている証拠だ。
死体のような冷たさと固さとは真逆でいて、生きている人間の熱さと柔らかさを背に感じる。
ああ彼女は生きていると、安心できる。
「死なないでくれ、頼むから、帰らないでくれ。」
君がいない部屋は寒い。
けれどご指摘の通りその寒さに耐えて生きられることは自分の事だからよく分かる。
(――――――けれどもう味わいたいものじゃない。)
----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
あとがき。
毒の効果はファンタジーなので薄目で見てほしいのですが、実際にフグ毒とトリカブト毒の拮抗を利用した事件はあったらしいですね。
2020年4月5日執筆 八坂潤