「――――、」


自分が今の今まで眠っていたという自覚すらなく、けれど暗い世界に違和感を感じて瞼をゆっくりと開ける。
清潔感のある白い天井を仰ぎ見てどうやら自分がベッドに寝かされているらしいことにやっと気付いた。ここはどこだろう。
視線を動かすと、近くで点滴を弄っていた看護士さんと目が合い、お互いにたっぷり数秒かけて瞬きを交わした。ああ、分かった。


「ここは、病院ですか?」

「は、はい、米花町総合病院です。」

「・・・・・そうですか。」


返事をした私の声にははっきりと失望感が滲んでおり、患者の暗い反応に看護師さんが困惑するも束の間、慌ただしく医者を呼びに部屋の外へ走っていった。
視線だけを動かして周囲を探っても他に人間どころかベッドすらない。どうやら個室の病室らしい。
たぶん普通に比べ広くてちょっとした家具も揃っているので、もしかしたらちょっとリッチな方かもしれない。入院経験浅いから知らないけれど。


(あーーーー、なんか色々思い出してきちゃったな。)


意識が覚醒するのを待ってましたと言わんばかりに、頭の中にどっと情報の洪水が押し寄せて気分が悪くなった。
特に毒の記憶は――安室透の狙い通りにいったということなんだろうけど、思い出しただけで額から汗が噴き出てきて布団の端をぎゅっと掴んだ。
いや悪い思い出ばかりでもなく、よくよく思い返せば国宝級のイケメンに抱きしめられたり一応はキス(口移し)されたという記憶もあるのだが、でもそれよりも一番大事なことがある。


(私、元の世界に戻れなかったんだ。)


その後やってきた医者からは懇切丁寧にどうして毒から助かったかを説明されたが、視線は白衣の胸元になる「米花町総合病院」の文字に目が釘付けになっていた。
別にあの看護師さんが嘘ついていることを疑っていたわけではないけれど、実際に目にしてしまうと首から下が溶けてしまうような虚脱感。
検査と問診の間は堪えたけれど、部屋で再び一人きりになると子供のようにぼろぼろと涙が溢れてしまった。


(せっかく帰れそうだったのに、放っておいてほしかったのに、でも安室透に邪魔された!あいつのせいで帰れなかった!!)


目の間でおもちゃを取り上げられた子供みたいに、布団に潜り込んで嗚咽を漏らし背筋を丸める。
沸騰するような負の感情は病み上がりの身体が抱えるには重たく、現実として息苦しさと胸の痛みを伴って耐えがたく、再び気絶してしまいそうだった。

このままこの感情にこの身を殺してもらうことができたのなら、私の望みは今度こそ邪魔されることなく叶えられる。


『でも君がいた方が―――ずっと楽しい。』
『僕に天寿を全うさせたいのなら────遠くで応援するよりも近くで見守ってくれ。』


煮えたぎる汚泥のような記憶の中にあっても輝きを放つ言葉があった。
私を苦しめた原因の男の言葉が、同時に私を感情の醜い泥流の中から引き上げる。


(ああくそ、普段は平気で上手に嘘をつくくせにあの言葉は誠実だった。)


あの縋るような言葉が頭の中を何度も反芻する。
輝くばかりの顔にも誰もが羨む才能にも恵まれた男が、みっともなく頭を垂れて本心を尽くして、大して恵まれていない平凡な私を欲した。

ああいや、私から見ればありとあらゆるものに恵まれたあの男は―――でも運命には恵まれなかったのだったか。


(・・・・・複雑だ・・・・)


あの安室透にあそこまで言わせるなんて身に余る光栄だぜヒャッホウという喜びよりも、私をこの世界に留まらせた元凶という恨みの感情が勝る。
けれどそれだけでなく、私如きにしか縋る相手がいないという彼の孤独に対する憐れみもあり、そこそこ長い時間を一緒に過ごした親愛の情もあり―――ありとあらゆる感情に我が身が散り散りに裂かれそうだった。
魔女がかき混ぜる毒薬の窯の中身のように、かつてこんなに愛憎極まる複雑な感情に身を置いたことがあるだろうか、いやない。苦しい。誰かが私の今後の最善の行動を決めてくれないか。


(漫画みたいにうまくいけばいいのに。)


それからの数日間は検査や治療を繰り返しながらも、ほぼ一日を白い天井をぼんやりと眺めるだけの生活であれば嫌でも考える時間だけはたっぷりあるもので。
私の面会謝絶が解かれるまでの間、決して完全ではないけれどまだ自分が納得できる答えを固めていた。


































「二度も死に損なった気分はどうですか?」

「お見舞いの第一声がそれ?」


交友関係の乏しい私の病室に初めて現れた見舞客、無駄に背が高く最高に顔の整った男―――安室透の姿と言葉に思いっきり顔を歪める。
見舞い相手の心底嫌そうな声を全く意に介した様子もなく、ベッドのすぐ近くまで椅子を引き摺り腰を下ろした。
陽光に透ける金糸と春の湖沼のような青い瞳、甘い鼻梁と涼やかな表情を浮かべる輪郭からは、数日前はこの人も死線に立っていたことなど誰が想像できようか。

本職の仕事帰りだろうか、いつもの安室透の私服ではなく降谷零のスーツ姿。
決して高い服ではないだろうに、ここまで顔の整った男が着れば最高級ブランドの一着に見えるから世の中は理不尽だ。

それにしても、この人も確かがっつり負傷していたはずなのに私よりもずっと退院が早く、しかももう現場に出て働いていることに軽く恐怖を感じる。やっぱりターミネーターでは?


(どんな顔でどんな言葉をかけてくるのやらと思ったけれど、普通だ。)


この男だって私の最後のあの血を吐くような呪いの言葉を忘れた訳ではあるまい。
けれどまるで昨日さようならを言って別れた友達にまた会ったかのように、何でもないような態度で整った手に顎を乗せ、さも面白そうに私の顔を覗き込んだ。
ただそれだけの仕草なのにこの人の本職がそうさせるのだろうか、なんとなく居心地が悪くなる。いやこれは私に後ろめたさがあるからか。


「今での最悪に悪くなったから二度寝していい?」


暗い感情を糊塗するように返した言葉に、長い睫毛に縁取られた海色の瞳が少しだけ見開かれ、そして猫のように細めて喉奥でくつくつと笑った。
今までの遠慮だとか拒絶といった虚飾を取り払った率直な返答は案外彼を失望させなかったらしい。まあこれで難色示すのならもっと簡単な話だった訳だが。


「その様子だと元気になったようでなによりだ。助けた甲斐がある。」

「助かりたくないって言ったのに無理やり助けたのはそっちなんだよなぁ。」


助けられた幸運な被害者とそれを助けた英雄の会話とはとても思えない冷たい内容だった。

第三者が聞けば眉の一つでも顰めそうなものだが、なんせ安室透の計らいでグレードがお高めの広い個人の病室には私達しかいない。
いや、そもそも戸籍もない私は健康保険にも入っていないはずなので色々と治療費を考えただけで頭が痛くなるのだが・・・・一切おくびも出さないところを見るとさすが公安エリート様の懐事情。

そして誰も邪魔が入らないということは、この病室はこの私達の今後を左右する決戦の場でもあるのだ。


「僕の事をまだ恨んでるか?」

「うん。もちろん。」

「それはよかった、存分に恨んでくれ。―――僕はずっときみに恨まれたかったんだ。」

「えっこわ、なに?すみませんお巡りさんこいつやばい人です。」


どういうことだこいつ。色々な受け答えを想定してたけど全く理解できない言葉に引く。ええ、こわ・・・マジでどういうこと?

ベッドの端に避けて物理的に少しでも距離をとろうとする姿を、安室透はさも面白そうに微笑んだ。い、意味不明。
まぁ何でかは敢えて突っ込まないとしても、裏でも表でも大層恨みを買ってそうな男からすると私程度の恨みなんて羽根よりも軽いのだろう。


「見舞客のしかも恋人に対してつれない態度をとるな。ほら、お見舞いの品。」

「その恋人ごっこまだ続けるの・・・って林檎オンリーじゃんそれ!メロンとか桃とかは!?」


にっこりと清潔な笑顔で掲げられた贈答用の綺麗な籠の中には赤一色。
みちみちに詰められた林檎の山を受け取りながら笑顔を引き攣らせる。え、なに、これがこっちの世界のお見舞いのトレンドなの?


「すぐ剥いてやるから少し待ってろ。」

「桃・・メロン・・・金色の羊羹・・・・・」

「全くワガママを言う・・・わざわざ良い林檎を選んだんだぞ。これはふじ、その隣はシナノスイート、あと秋映にええとそれから、」

「えっ待ってこれ林檎の種類全部違うの?変なとこ凝らないでよ!」


私の抗議の一切を無視しながら長い指が編み籠の林檎を取り、持参していたらしい小さな果物ナイフでしゃりしゃりと皮を剥き始める。
流石に器用なだけあってお手本のような皮むき―――よりも私の視線はその銀の刃を見つめていた。

もしも、この場でこの男からナイフを奪って、この首に突き立てることができたなら、


「まだ死にたいんですか?」

「――――、」


短刀のように直截な言葉に静かに息を詰める。青い視線の先は私を見ていないはずなのに思わず居住まいを正してしまった。
知らず開きかけた指を上からもう片方の手で覆い隠すが、きっと安室透にはお見通しだろう。


「正確には死にたいってわけじゃないけど・・・まぁ、そうだよ。」


正直に肯定するとすっとナイフの持ち手を差し出される。
さっきの楽しそうな雰囲気と表情から一転して、周囲の空気を凍てつかせる表情にぴりりと頬の筋肉が攣れた。


「じゃあ今僕から奪ってみるか?刃が小さくても本気なら首を掻っ切ることはできる。」

「・・・・いいや、しない。」

「だろうな。そもそも素人がそんな事をしてもここは病院だ。すぐに処置をすれば助かるし痛い思いをするだけで、そもそも君にそんな度胸はない。」

「勘違いしているみたいだけど、例え安室透がこの場を離れてうっかりナイフを置き忘れていったとしても、しない。」


ばち、と私とトリプルフェイスとの視線がかち合う。甘い雰囲気なんて微塵もない、殺伐とした空気にごくりと唾を鳴らす。
相手の真意をつまびらかにしようとする本職の鋭い眼差しに内心怯みながら言葉を続ける。


「あれからずっと考えてたんですけど―――私はしばらくはこっちにいるつもりです。」

「しばらくとは?」

「安室透に本物の恋人ができるまで。」

「・・・・へえ?」


ああ、言ってしまった。言葉にしてしまったのならやっぱり嘘ですと翻すこともできない。
私の言葉は予想外だったようで、丁度剥き終えた林檎を白い皿に乗せて私に差し出しながら続きを促す。
受け取った林檎を苦い感情と一緒に噛みしめて、飲み下して一息つく。イケメンがせっかく剥いてくれたのにその味は遠かった。


「安室透が、いやあなたが、私がいなくなって寂しいというのなら。そうならないように本物の恋人ができるまでは傍にいてあげる。」


ずっと考えて悩みに悩んで出した結論とはいえ口にすると馬鹿みたいだ。
家に帰りたいという気持ちは今も変わらないし、本当は今すぐにでもこの窓から身を投げることができたらとさえ考えている。

でも画面越しには分からなかったこの完璧超人の孤独と苦悩に触れてしまったから。
私から見れば漫画の世界の住人でも、この人は生きているのだと、表面には出さなくでも苦しんでいるのだと実感してしまったから。

こうなってしまえば全てを振り切って元の世界に戻ったとしても、あの炎の中で拾ってしまった救難信号は一生引き摺る。
でもこの場で全てを振り切って逃げ出さなかったことも、あの時全てを投げ出しておけばと後悔するだろう。

どっちにしろ後悔するのならまだマシだと思う方を選んだだけ。
私には、やはり安室透のためなんていう綺麗な理由だけではこの世界に留まれなかったのだ。


「で、でででも言っておくけど今までみたいに適当な扱いしたらマジで帰るからね!?もっと私を大事にしてホント!!」

「・・・・・・・・・・。」


しんとした沈黙が気まずくて言葉を並べる。やっぱり馬鹿げた提案だっただろうか。あ、もしかして上から目線に感じた?そもそも気にくわなかった?
でもここで彼が冗談だと笑い飛ばしてくれたのなら元の世界に帰る決心が今度こそつく。だからどちらに転んでもいい。

冗談めかして続けた言葉の裏の、そんな浅い計算はこの鋭い男にはとっくの昔にお見通しだろう。
さてどう出るだろう、と思った瞬間に広い胸板に頭を抱き寄せられて小さく呻いた。す、少し苦しい。


「ヒェッッななななに、なにして、」

「嬉しくなってつい。」

「ええ・・・・・?」


そういうのは本物の恋人作ってやってくれよと内心で悪態をつくが、息を吐いて広い背に手を回してぽんぽんと叩く。
こんなに広くて頼もしい背中なのに、けれどあの瞬間はふとすると折れてしまうのではと不安だったのだ。

そしてその原因が自分になりたくないと心底思った。
だからこの案は安室透の為だけでなく、自分の罪悪感への軽減のためで―――とどのつまり自分のためだからそうした。それだけ。


「まずは、ありがとう。僕のために決心してくれて。」

「・・・・・どういたしまして。」


心底嬉しさをにじませたような素直な声色に、純粋に安室透のためだけではない後ろめたさからぶっきらぼうに答える。
自然と押し当てられる形になった耳には少し早い心臓の音が聞こえて、ああもしかして彼も緊張していたのかもしれないと思った。
私がどんな答えを出すのか、表情や仕草には一切出さなかったけれど―――いやそもそも鼓動が早いなんて気のせいかもしれないけれど、そう思えば少しはこの答えも報われるものだ。


「じゃあ僕からいくつか聞きたいことがある。」

「・・・・なに?」

「君の嫌いなものを教えて。」

「は?」


予想だにしなかった言葉に思わずぎょっと身を引く。えっそれ聞いてどうすんの?嫌がらせに使うの?やっぱり怒ってるの?
警戒心丸出しで慌てて身体を離した私と目線を合わせ、そっと恭しく手を掬い、甘く請うような声で続けた。


「もっと君のことが知りたいんだ。嫌いなものだけじゃない、好きなものも、苦手なことも、得意なことも、全部教えて。」

「な、何で今更・・・・」

「だっていずれ終わる関係だとしても、知っていた方がもっとお互いに上手くやれる。」


そう思わないか?と悪戯っぽく笑われればまぁそうだけどと喉の奥で唸るしかない。
私としてもここまで化けの皮をはがされておいて今更前のように従順でいられる気はしない。
それにそんな我慢を強いられてまで一緒にいてさしあげる義理は、正直ないと思うし。帰りたい気持ちは変わらないし。


「ところで、恋人関係って解消した方がよくない?そっちの方が堂々と相手を探せるでしょ。」

「今更どうやって周囲に別れ話を説明するんだ?まだ同棲は続くのに。」

「えっ続くの!?」

「君が僕の秘密を握っていることは変わらないだろ。」

「あーーーーーー・・・・確かに・・・」


このままだとますます私の提示した条件から遠ざかりそうなものだけど、言われてみれば確かに。仕方がないのか。
そもそも安室透の恋人では意味がないのだから、安室透の周囲から候補を探す必要はない。降谷零の恋人でなければ、きっとこの人は無自覚に窒息してしまう。
可能であればバーボンのことも理解できる恋人ができればいいと思うけれどそれはさすがに難しいのか?

あれ、この高スペック超人が本気を出せば結構簡単な条件を提示したつもりだったけれど、意外と難易度が高い気がする。大丈夫かこの人。


(私もちゃんと協力しないと駄目そうだなこれ・・・)


恋愛経験が絶望的なまでに乏しい私が協力しても何の足しになるんだっていう話だけど、私にとっても死活問題なので。

未だ後悔は重く頭に圧し掛かってくるがとりあえず脇に置いて、気を取り直して残りの林檎を齧る。
さっきとは違って心が落ち着いているおかげか、齧った歯の間から溢れる果汁は甘く、素直においしいと思った。


「林檎しかないのもどうかと思ったけど・・・うん、おいしいね。」

「今日から毎日一つずつ剥きに来るから勝手に全部食べるなよ。」

「うんうん・・・って毎日?そんな時間あんの?気持ちは嬉しいけどさぁ。」


アンタちょっとどうかと思うほど多忙を極めてる男のくせにそんな暇を作る余裕なんてあるのか?

訝しみながら林檎を齧る私に、追加でもう一つ林檎の皮を剥きながら安室透が悪戯っぽく笑った。


「―――そういえばこの林檎、これは僕なりの挑戦状なんだ。」

「は?意味がわからん。」

「じきに分かる。」


妙に確信した言葉で疑問を締めくくった後、それから安室透がまた仕事にいくまでの少しの間に色々な話をした。

私の好きなもの、嫌いなもの、苦手なもの、あまり浮かばなかったけれど敢えて言うならという得意なこと。
そんな知り合ったばかりの恋人達がとっくに済ませているような何でもないような会話を、やっとお互いに紐解いて。

この日を境に私達の嘘っぱちの恋人ごっこの関係は今まで通りながらも、その内面は確実に新しい何かへと変化したのだった。








































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あとがき。
赤い林檎は白雪姫を眠らせた毒林檎の比喩なので、
「君にとって夢の世界だというのならこのままずっと眠らせ続けるし、君がごっこ遊びだと思っている夢を現実に変えてやる」
という意思表示なのですが、それを直接伝えると夢主は逃げるので遠回しに伝えています。



2020年 4月29日執筆 八坂潤
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