推理漫画に必要なのは謎というよりも、名探偵と死体と事件だと思う。
この世の多数のミステリー創作物に漏れず、この世界でもよく殺人事件が起こる。
そんなこと分かっていたのに、そして自分が今いる世界がどんなジャンルなのかくらい分かっていたのに。

私はまだ、この世界を甘く見ていたのだ。














「────、」

人が死んでいる。
仰向けに倒れた被害者は胸の辺りを深く刺されたらしく、白かったワイシャツは真っ赤に染まって絨毯にも血が染み込んで広がっていた。
一応は呼びかけて見ようかとも思ったが演技ではない本物の死相を見て息が詰まる。苦悶の表情は無念さを訴え、大きく開けた口からは呼吸音一つしない。

素人の私が見ても分かるくらい、この人は死んでいた。
嵐と落石で孤立した、崖の上の洒落たペンションというおあつらえ向きの舞台の、よりによって私の部屋で。


「お前が殺したんだろ!」

「そうよ!現行犯だわ!早くその女を捕まえて!!」


外野の声がうるさい。でもそう思われるのも仕方がなかった。
私の手にはべっとりと血がこびりついた包丁が握られている。誰がどう見ても私がこの人を殺してぼんやりしている図にしか見えないだろう。

早くこの凶器を手放して、『違います』って大きな声で言わないと。
でも身体は硬直して指先すらままならず、無実を証明するための声帯もただ呼吸音を震わせるだけだった。
だって、まさか自分が殺人犯に疑われて糾弾される時が来るなんて思ってもみなかったから、そんな心の準備だって何もなかったから。

どうすればいいのかわからない。どうしよう。どうすればいいんだろう。


「・・・・・・」

「ほら!何も言わない!図星なんでしょ!!?」


違う。私は殺していない。
この人とは今日知り合ったばかりだし、今まで見てこともないし重要そうな気配もない───きっとモブキャラというやつだ。
このエピソード、この事件だけに登場し殺されるために用意されたキャラクター。生贄の羊。舞台装置。言っちゃ悪いがそんな相手にどうして人を殺すほどの感情を持てようか。

ただ、目が覚めたら私の部屋に死体があって、この部屋は私と死体以外存在しない密室で、その凶器を握りしめているのが私というだけだ。


(もしかして、寝ぼけてとか、いやそんなまさか・・・ここに来る前なにしてたんだっけ、確かみんなとご飯を食べたら眠くなって、さきに一人で寝ることになって、)


混乱している間も続く周囲からの激しい糾弾と動かぬ状況証拠に、自分の善性への自信が持てなくなってくる。まさか、本当に?

騒ぎを聞きつけたのか、コナン君と毛利小五郎さん───そして安室透が部屋に駆け込んできた。
一瞬だけあの深い湖畔色の瞳と視線がかち合うが、怖くなってすぐ顔を伏せた。どうしよう、こんな状況を見られたら、この人に私が犯人だと思われたら!


「落ち着いて、皆さん現場を荒らさないで!!」

「あなた名探偵なんでしょう!?何やってるのよ早くその女を捕まえて!!」

「こうしている間に逃げられたらどうするんだ!ああもう、オレが捕まえてやる!!」


熱い正義感を燃やした男の人が怖い顔で私に詰め寄ってきて、反射的に身を引いてしまう。
それを逃亡への意思表示ととったのか、相手の強く握り込んだ拳が大きく掲げられるのがスローモーションで見えた。

あ、殴られる。

だが悪の殺人犯に振り下ろされるべき義憤の鉄槌は寸前で止まった、いや止めさせられていた。
いつの間に近くに来ていたのか、安室透が男の腕を握って止めている。ギチギチと音がしそうなほどの凄まじい力の拮抗。
意地になった男が更に踏み込もうとするが、優男だと侮られた安室透の体幹は少しも揺るがない。

相手の顔に焦りの色が見え始めるのに反し安室透は眉一つ動かさず冷静で、やがてこの場に不釣り合いなほど穏やかな声が響く。


「───落ち着いてください。まだ彼女が殺したとは決まっていません」

「な、アンタなに言ってんだ!死体のある部屋で凶器を握りしめた女が立ってんだぞ!?いくら恋人だっていっても、これ以上ない証拠だろ!!」

「そうかもしれません。が、僕達はまだ彼女の口から何も聞いていません」

「っ・・・・」


静かに諭す言葉と声は相手の頭を冷静にさせたのか、それとも一向に進まない拳にプライドを傷つけたのか。
大きな舌打ちと共に安室透の腕を乱暴に振り払い、男が苦々しい表情を浮かべて一歩退く。
それでも目が殺人犯への敵愾心と侮蔑に燃えていて、真っ向から受けてしまった私は恐ろしくて顔を上げられなくなる。

でも何よりももっと怖いのは───、私、今この人にどう思われてるんだろう。


「落ち着いて、顔を上げて」


喫茶店で接客をする時のように、いやそれよりも優しい声で私に呼びかける。でもまだ恐ろしくて顔を上げられない。安室透がどんな顔をしているのかを見るのが怖い。
自分の言葉に反して俯いたままの私に溜息一つ吐かず、大きな手が凶器を持つ方の手に触れてびくりと全身が震える。
すっかり固まって自分の手の一部になってしまっていた血塗れの包丁を、まるでテーブルクロスを交換するようにそっと引き抜く。恐ろしいものから指先が解放された。


「大丈夫。僕に任せろ。絶対に何とかしてやる」


他の誰にも聞こえないような小声で耳打ちされた言葉は力強くて、そこに私を責めたり疑ったりするような成分はちっとも含まれていなかった。
奴隷の首輪を指で引き上げられるようにのろのろと顔を上げる。再び出会った青い瞳は清冽で美しく、その奥には確かに燻ぶる炎が見えた気がした。

あれほど怖かった外野からの罵声はただの街中の雑音に成り下がり、今は目の前の安室透の声しか聞こえない。男の唇がゆっくり動く。


「きみは、人を殺したのか?」


誰が見ても明らかな状況で放たれる直線の問い掛け。
そこには『恋人』への気遣いはなかったが、『犯人』としての疑いもなかった。

裏も表もないシンプルな言葉だからこそ、私もシンプルな答えを返すことができる。


「ころしてない」


恐怖で喉に貼りついていた言葉がやっと解放されて、同時に涸れた泉から水が湧き出るように涙が溢れた。
安室透の長いまつ毛に飾られた碧眼が軽く見開かれて、唇が強く引き結ばれる。


「───だろうな」


それが聞けて良かった。

氷柱から融けた雫が静かに垂れていくような呟きは密やかで、私にも聞かせるつもりがなかったかのように小さかった。
どういう意味かと聞き返すよりも早く、今度は血に濡れて茶色くなりつつある私の手を掴んで抱き寄せられる。まるで恋人を冤罪から庇うように力強く。


「すみませんが、僕は彼女の無罪を信じます」

「なっ・・・アンタ頭がおかしくなったのか!?こんな状況でいったい、どう無罪だって言うんだ!?」

「僕は彼女の恋人ですから、信じたいんです。これが冤罪だってことをね」


例え本物の恋人でも犯罪に手を染めれば容赦なく断罪しそうな男の、全く心にもない言葉に不謹慎にも少し緊張が緩んだ。お前、それは絶対に嘘だろ。
そんな気配を察してか、私の頭を強く自分の胸元に押し付けながら(痛い!)恋人を気遣う優しい好青年の皮を被った安室透が提案する。


「だから、こうするのはいかがでしょう?僕と彼女を別の部屋に隔離するのは」

























同じペンションの、さっきとは違う部屋に私達は隔離させられていた。
スマホは没収されて、ドアには外側から鍵を掛けられ、入り口付近には交代で見張りも立っているという念の入りようだ。
こんなに厳重に取り扱って頂いても、私は犯人ではないのだけれど───でもこれでお互いに安心が買えるのならそれでいい。


「落ち着いたか?」

「・・・・うん、少し」


ベッドに座ってぼんやりしていると、安室透の大きな手が湯気が立つマグカップを握らせた。
気持ちはありがたいけど何も口に入れる気にならず、琥珀色の水面をじっと眺める。今にも死にそうな自分の顔がうっすらと映っていた。

話は安室透の提案通りトントン拍子に進んだ。
恋人の冤罪を信じる健気な姿に胸を打たれたというよりも、殺人犯を一刻も早く自分達から遠ざけたかったのだろう。
もしこの隔離中に安室透が死んでも加害者が確定するだけで誰も困らない。まぁ私は犯人ではないのでそんな事は起こらないのだけれど。


(本当に、人が殺されたんだ。私のすぐ近くで、きのう会話をした人が、自然の病死ではなく殺された)


コナン君の行動先でたまたま殺人事件が起きて、それを見事な推理で真犯人を言い当てて事件を解決してハッピーエンド。そう、いつもの物語。だから焦るような事じゃない。
でも実際に殺人事件が目の前で起こり、しかも自分が思いっきり巻き込まれているという事実は私の心をとても暗いものにした。


(だから最初の内はコナン君達と外出するのは避けてたのに、油断してた。最悪。早くこんなフィクションの世界から帰りたい)


マグカップを持つ自分の手はいつもの肌色。べったりとついていた血は清潔なタオルで丁寧に拭かれて跡形もない。まるで最初から何事もなかったかのよう。
でもあのヌメヌメした感触とどんどん冷えていく血の温度は鮮明に覚えている。できれば二度と経験したくない体験だった。───この世界にさえ来なければ、経験しなくて済んだはずの。


(大丈夫、これはフィクションだ。フィクションの世界の出来事だから、大丈夫)


大きな息を吸って、吐いて、とっておきのおまじないのようにフィクションを頭の中で繰り返して。なんとか私の普通を取り戻そうとする。


(・・・これは原作にある殺人事件なのか?それとも私が巻き込まれている時点で別物なのか?)


今更こんなIFを考えてもどうしようもないと思いつつ、私が原作を全巻読破し全ての事件とその犯人の名前を覚えていられるような熱心なオタクだったらよかったのにと思う。
そうしたら、そもそもこの事件は起きることなく未然に防げたかもしれない。───いや、それは言い過ぎか。それでもやりようはあったかも。せめてこんな風に巻き込まれるのを避けるくらいは。


(コナン君達が私を疑ってないのが救いだな・・あの名探偵なら絶対に解決してくれるだろうし)


この部屋に入る前に「絶対に真犯人を見つけるからね」と彼がこっそり耳打ちしてくれたのが心の支えだ。
まぁそもそもその名探偵と一緒に行動しなければこうはならなかったというささくれた気持ちもあったけど。


「その様子じゃ、殺された死体を見るのは初めてそうだな」

「当たり前でしょ・・・普通に生きてたらそんなの見る訳ない。───漫画じゃあるまいし」

「・・・・それもそうだな」


こちらをじっと見つめていた端正な顔が短く息を吐いてからおもむろに立ち上がる。
巷で女性を騒がせる美貌にはいつも通り『安室透』の表情が貼りついていたが、雰囲気は少し硬いように感じた。そう、まるで『降谷零』のような。


「さて」


短い気合の言葉に一体何事かと身構える私をよそに、テレビ裏やベッドの下、クローゼットの中などを隈なく調べ始める。
必要とあらば家具さえも動かす念の入りようだ。壁も軽く叩いて何かを確認しているようだが、いったい何をしているんだろう。私も手伝うべきか?


「そういえば、こっちに来てよかったんですか?私なんてほっといて、コナン君と一緒に色々調べたかったんじゃ、」


というか、私の感想としては確実に犯人じゃない自分なんて放っておいて、二人で連携して早く事件を解決してほしかったんだけど。
それなのにわざわざこっちに残るってことは、やっぱり私のことなんて信じられないってこと?
恋人のために、なんて耳障りの良い言葉を本気にしたわけじゃないけど、殺人犯だと疑われるのも結構傷つく。泣きそう。

しかし、もっともだと思う私の言葉に対し恋人(嘘)は大きな溜息をついて呆れたような顔をしてみせた。なんだその反応。


「きみ、自分が今どんな状況に置かれているのか分かってないだろ」

「分かってますよ。殺人犯だって、疑われてる」

「違う。きみが真犯人に命を狙われてるってことだ」

「・・・・・・・・・え?」


予想外の言葉に、衝撃のあまり手に持ってたカップを落としそうになった。は?なんて??私が、命を、狙われてる?


「え、なんで、え・・・え!?」

「当然だろ。きみを自殺に見せかけて殺せば、罪の意識に耐えかねて自ら命を絶った犯人のできあがりだ。
 もしくはこの状況下で僕を殺して罪を確定させるでもいいが・・・どっちにしろ真犯人は堂々とこの場から脱出できる」

「さ、最悪過ぎる・・・・」


自分が置かれている状況を正しく理解してしまい、顔からさっと血の気が引く。

え?わたし、殺人現場に居合わせただけでもかなり可哀相なのに、殺人犯の疑いをかけさせられてしかも口封じされそうになってるの?哀れすぎるだろ!
でも言われてみれば確かにそうだ。私が犯人だったらそうする。いや、もちろん犯人じゃないですけどね!


「それに、『安室透』ならこの状況で恋人を守らないのはおかしいだろう。きみ、僕の恋人なんだぞ」


確かに。正義感が強く善良でお優しい一市民である安室透は恋人が疑われている状況で放っておいたりしないだろう。
でも、もし今が『安室透』としてではなく『降谷零』として巻き込まれていたら───彼はこの部屋に残ってくれただろうか。


「それと、コナン君からこれを預かっておいた」

「探偵バッジ・・・いつの間に」

「スマホは取り上げられたが、これで彼とはいつでも連絡がとれる。さっきも散々聞いたが、何か思い出したらすぐ教えてくれ」

「さすが抜かりがない・・わかりました。といっても、本当に何も覚えてないんだけど・・・」


彼の長い指先にはあの探偵バッジが光っている。なるほど、これなら直接ではなくてもコナンくんと調査ができるってわけだ。

一通り部屋を調べるのに満足したのか私の向かいのベッドまで戻ってくる。
サイドテーブルを挟む程度の距離で、彼はその長い足を組んで頬杖をついた。気だるげに見えて油断なく目の奥が光っているのを見ると、野生の肉食獣と対面しているような気持ちになる。


「念のため、この部屋も調べてみたが盗聴器や罠ほかの危険はなし。まぁ小細工ができないようにランダムで部屋を選んだから当然だ。
 幸い、ホテル程度の設備があるし風呂・トイレも部屋毎についている。しばらくはここで僕と一緒に籠城してもらう」


なるほど、だからさっきゴソゴソと部屋の中を念入りに調べていたわけか。
さすが有能エリートな公安秘密警察・トリプルフェイスの異名。敵に回すと恐ろしいけれど、味方になればこんなに頼もしい人もそうそういない。
自分が背に回している男の心強さを再確認すると、少し安心する。すっかり冷めてしまっていたお茶に口を付けて、借り物の元気と一緒に胃に流し込んだ。


「・・・・すみません。その、こんなことになって・・・変に目立ったりして」

「謝らなくていい。むしろ僕が悪かった───きみをこんな目に遭わせた」

「────、」


こちらの謝罪よりも深く、透けるように美しい金髪の頭を下げられて困惑する。
この男の本当の職務のことを考えれば、こんな風に注目を浴びてしまうのは不本意極まりないはずなのに、怒ってもいいくらいなのに!?


「え、いや、そんな、気にしないでください!私が迂闊だったのが悪かっただけで、透さんは悪くないですよ!?」


確かに、この海よりも深い正義感と炎のような闘志の化身じみた男が、仮とはいえ自分の恋人をこんな目に遭わせたのは確かに不本意だったのだろう。
その謝罪の成分は罪悪感よりも責任感のほうがきっと割合が高い。でも、自分のために誰かが心配したり怒ったりするのは、不謹慎だけど少し嬉しい。
嬉しいついでに、「そういえば」とここに来てからずっと聞きたかった質問を切り出す。


「でも、透さんは私が人を殺したのは思わないんですか?・・・あんな状況で、どう考えても犯人は私だったじゃないですか」

「色々と理由はあるが・・・動機がないし、何より僕がいると分かっていて殺さないだろう」

「そりゃそうですけど・・・」


確かに、(悪人にとっては)恐ろしすぎるこの男の素性を知った上で、その目と鼻の先で殺人を犯す人間は頭が足りない。もしくはよっぽど度胸があるか。
それに加えてここにはあの名探偵の毛利小五郎(本体であるコナン君つき)がいる。

今回の犯人は不運だ。私に濡れ衣を着せやがった分までしっかり追い詰められろ。


「そこは嘘でもなんかこう、美しい理由とか言えないんですか」

「もちろん、きみを信じてたからさ」

「嘘くさすぎる・・・」

「分かってるなら言わせるなよ」


誰にでも満点笑顔の接客の『安室透』ではしないような、少し意地の悪い顔で男が笑う。あ、これ素の表情だ。


(・・・まぁ、そりゃそうなんだけど。でもここでいつもみたいに完璧な嘘で少しはこっちを乗せてくれればいいのに)


普段はその甘い顔でお店の女子高生から有閑マダムまで無限にキャーキャー言わせてるくせに、なんというサービスの悪さだ。私はサポート対象外ってか。
身の程知らずな不満に内心で口を尖らせていると、「それに」と安室透が半身を倒し天を仰いだ。完璧な顎のラインを晒してその表情は見えなくなる。


「僕としても、きみが人を殺していたら困る」

「困る?・・・ああ、後始末とかが面倒だから?」

「それもある」


演技としての快活な空気はヴェールのように取り払われ、静かな声が部屋に響く。


「きみの後始末は───骨が折れそうだ」

「はあ・・・・」


骨が折れそう?たかが潜入先の一つに過ぎない喫茶店のメニューにあそこまで手間と情熱を注げられる人が?
そうでなくても本業でもトリプルフェイスを使い分けて身を粉にして働き、国家の安全に全てを捧げても弱音を吐かないような男が?

一見すると面倒を厭うだけのそっけない言葉に聞こえるけれど、その言葉には切実な響きがあるように感じる。
・・・でも、その重さを感じていないように、あえてこちらも軽く返しておく。


「じゃあ、疲れさせないように気を付けます」

「ああ。是非そうしてくれ。・・・・さぁ、一度寝るといい。疲れてるだろ」


天井を仰ぐのをやめて戻っていた安室透の表情はいつも通りだった。
まだお茶が残っているマグカップを私の手から取り上げ、部屋の電気を落とす。サイドテーブルに置かれた柔らかい照明だけが私達を照らしている。


「自分が殺人犯に狙われてるって状況だし、あんな事件があった直後だし、あんまり気が進まないんだけど・・・」


───さっきの会話は、安室透がわざと空気を明るくしてくれていたことくらい分かってる。私の心の負担を軽くするために。
確かにだいぶ気持ちは和らいだけれど、でもやっぱり精神は暗い影を引きずったままだ。現に今こうして部屋が暗くなっただけで子供みたいに落ち着かない。

落ち着きなく指先を組んだり、爪先を弄ってみたり、そうしていると神経がどんどん悪いほうへ冴えていく。
散り積もる雪のように不安が重なる。けれどこれ以上迷惑をかけたくない。安室透にも推理する時間は必要だ。・・・ああ、いやだな。困らせないようにしないと。


「大丈夫。今きみの傍にいるのが誰だと思っている?今度は何があろうと僕が守る」

「────」


こちらを安心させるような柔らかい声色と耳障りの良い言葉にドキリとする。
いやいやいや、落ち着け。こいつ警察だから一般市民を守ることなんて通常運転だから。普通だから。勘違いするな舞い上がるなしかもこんな状況で!


「じゃあ、・・・そうします。何かあったらすぐ起こしてください。・・・ありがとうございます」


内心で自分殴りつつも、はっきりと感情が浮かんでしまう顔を隠すためにそそくさとベッドに潜る(きっと呆れられる!)。
可愛くない自覚のある寝顔を見られないように布団を目深にかぶって、更に暗くなった世界に小さく溜息をついた。

大丈夫、今は安室透がいる。この人の傍は安全。でも、ああは言ってくれたけど本当にずっと傍にいてくれる?


(一緒に寝てほしい、とはさすがに思わないけど、寝てる間くらい手を握ってくれたりとか・・)


あなたの傍が安全だと言うのなら、眠っていても隣にいるという証が欲しい。
感情のままにおもむろに枕から手を出してみたはいいものの、幼稚な願望を口に出すのは憚られる。こんな状況だし許してほしい、けど、・・・いや、やめておくか。

叱られた子供のように、そそくさと布団の中に手を戻そうとすると大きな手が私の手をそっと握った。
犯人を捕まえる時のように強く握るのではなく、恋人とデートをするように柔らかく優しい力で指を絡める。


「・・・・・・」


大人のプライドとしてここは振り払って威厳を見せておくべきかもしれない。数多くの殺人事件や窮地を相手にしてきたトリプルフェイスからみれば、たかがこの程度でへこたれるなと思われているのかも。
でもからかうでも気遣うような言葉を発することもなく、布越しの相手は沈黙し自分の手を握っている。鈍い私には安室透の感情を推理できない。

だから結論として、その温もりに素直に縋ることにした。なぜなら私はいま眠っている設定なので。


(安室透の手、温かい)


生きている人間の手は、流れる血の温度と違っていつまでも下がることなく温かい。
安室透は私が起きていることに気付いているのかただの惰性なのか、ずっと私の手を握り続けている。

しばらくそうしていると、そんなつもりはなかったのにゆっくりと眠気が忍び寄ってくる。
それに身を任せるのは少し怖い───確かに感じる手の中の温もりを信じて目を閉じた。

できるなら、次に目を開けた時も手を繋いでいてほしいと思った。





























まるで救いを求めるようにひっそりと伸ばされた手を握ってからしばらくすると、布団の中にいる人間が眠ったような気配を感じた。
それから間もなくあの探偵バッジがあの少年探偵の声を受信する。握る手は離さないまま、もう片方の手で小声で応答する。


『もしもし、安室さん聞こえる?』

「ああ、聞こえてるよ。───にしてもすごいな、博士は。こんなものも作れるのか」


ただのバッジに模した小型トランシーバーへの返答には素直な驚嘆半分、恐れ半分。あの素晴らしい頭脳にこれらの発明品の力が加われば百人力だろう。
あの発明博士には自分に向けてもぜひ何かを作ってもらいたいところだが、その場合は正体を明かさなければならないのが困るところだ。まぁその話はいずれおいおい考えるとして。


『お姉さんはどうしてる?その・・大丈夫?結構ショックを受けてたみたいだけど・・・』

「問題ない、いま寝かしつけたところだ。・・・それより、事件について何かわかったかい?」

『そのことで安室さんに相談したいことがあったんだけど・・・』


そこで不自然に少年探偵が一度言葉を切る。不思議に思いつつも大人しく続きを待つ。


『安室さんさ・・・お姉さんがあんな形で巻き込まれたの、結構怒ってるでしょ』

「そうかな?」

『そうだよ。いつもより声が怖いもん』


小さな名探偵の指摘が無自覚に柔らかい部分に刺さり、自分でも軽く驚く。彼が言うのならそうなのだろう───ああでも、確かに。
彼女が見せたこの世の終わりのような顔と。滅多に流さなかった涙と。いま無言で自分に縋った小さい手。これらを考えると、なかなか気分が悪くなる。
自覚している正義感と、彼女に対する愛着のような感情の境界は曖昧で、そのどちらから由来する感情なのかの整理は我ながらまだつかない。


「じゃあ、話を進めよう。僕の恋人をこんな目に遭わせた犯人には必ず報いを受けさせる」


いずれにせよ、『安室透』なら自分の恋人を傷つけられれば怒る。だからこの口をついて出たセリフは不自然ではない。
僕の言葉に『こわ・・・』と小さい声が聞こえたが、もちろん聞こえないふりをした。








































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あとがき。
ミステリジャンルものの夢主なら一度くらいこういう冤罪の憂き目に遭いそうだな~と思って書きました。
コナンの全事件の全犯人・被害者の名前と全トリックを記憶するのって結構大変だと思うのですが、いかがでしょう。
私は「こういう人が犯人だったな~」くらいの記憶はあるのですが、名前はぜんぜん覚えられてません。
ちなみにトリックとか殺人の動機とか一切考えてないので、そこは名探偵と公安の二人に任せます。


2021年12月4日執筆 八坂潤
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