そうだ、遺書を書こう。
京都へ旅行にいくノリで、以前に買った100均のノートのページを破いてボールペンを用意した。

とっておきの遺書をしまっておく場所は決まっている。自室のベッドの下からカラフルなお菓子の缶を取り出して中身を確認。そこには私の通帳と印鑑が入っていた。


(ちょっと貯まったかな)


ポアロのバイトで手に入れた給金にはあまり手をつけないようにしている。いや、ゲーム機とソフト買っておいてなんなんだと言われそうだが、あれは必要経費。でないとやることがなさ過ぎて心が死ぬ。
それに、決められた生活費さえ入れれば後は自由にしていいという家主からのお達しがあった。が、お世話になったお礼としてなるべくお金を残しておきたい。
元の世界での物欲を思えば謙虚なものだが──本音を言えば、どうせこの世界に置いてくると思えば所有欲もあまり騒がない。人付き合いも同じこと。

(私が元の世界に戻った時に備えて、なにかしら手紙・・・遺書は用意はしておいたほうがいいよね)

正確な意味としては変わってくるが、永遠にいなくなるのと死ぬことはほぼイコールであると思う。
それが真の意味にならないようにと米花町の治安を信じるばかりだ。・・・いや、やっぱりダメかも。まぁそういう意味でも用意して間違いないだろう。


「・・・・・・」


ノートを破いただけのささやかな便箋に何を書こうかぼんやり悩む。今までの人生で真剣に遺書を書いたことがないし、検討もしたことがないものだから、勝手がわからないのだ。
お馴染みのこの世界、他にも推理ドラマや漫画にはそりゃあもう凝ったものが出てくるが、だいたい遺産がらみの暗号が入っている。それに対し、私の遺産は隠すほどの額ではないし相続人も一人。うーん無意味。

悩むより文明の利器だ。スマホで検索してみるも、あまりしっくりくるものがない。
私たちの関係を思えば、そこまで真剣なものでなくていいと思う。そう、遠方の友人に手紙をしたためるような、あるいはタイムカプセルのような。


(お世話になりました。楽しかったです。ありがとうございました)


とりあえず浮かんだ言葉を書いてみた。我ながらありきたりで面白みのない言葉だが本心である。
だが、たった一行で完成してしまった遺書に余白が泣いているようだ。少し考えてから、書き忘れに気付いてペンを再び手に取る。


(PS.通帳のお金は自由に使ってください。お世話になったお礼です。暗証番号は××××です)


安室透が金に困っているとは思えないが、せっかくのお金を死蔵されるよりは寄付でもなんでも使ってもらった方がいいだろう。おいしいものでも食べて忘れてほしい。
そしてもう一つ書き忘れに気付く。


(PS.買った・買ってもらったものはお手数ですが処分してください)


これも大事だ。故人のものを処分するにはやはり大義名分が必要だろう。
こればかりは私ができることではないのできちんと頼んでおくべきだ。いつしかその空白をもっと素晴らしいもので埋めてほしい。

並べた文字を見て、ううんと唸る。文字量は増えたが、内容が事務的すぎてまるで通達書のようだ。──私だって、透さんとの生活に何も感じていないわけじゃないのに。


(・・・これを読まれる時はもう会えないんだから、もうちょっと本音を書いておこう)


四度目のペンを手に取る。
コナンくんとは仲良くしてほしいこと、生活は不便もあったが楽しかったこと、ポアロのためとはいえ料理を教わって上達するのは嬉しかったこと、身体には気をつけてほしいこと。
赤井さんとも仲良くしてほしい、と書こうとしたが、こればかりは私が口を出すことではないのでやめておいた。せっかく消えるのに最後に嫌な印象を残したくないし。

素直な気持ちでペンを走らせると、さっきまではおとなしくしていた言葉や思いの群れが溢れて止まらない。
気付けば、余白だらけだった遺書はPSから始まる追記ですっかり埋まっていた。


(伝えたいことって意外とあるんだなぁ)


それだけこちらで過ごした時間が長いということだ。
ただの漫画のキャラクターだと思っていた男に、こんなにも真摯に。まるで生きた好きな男に惜別の言葉を送るように熱烈に、遺言というよりも祈りを綴っている。


(ばかみたいだ。こんなに真剣になっちゃって、相手は漫画のキャラクターなのに)


目の奥から熱い何かが溢れそうになるのを、目頭を抑えて物理的にグッと堪える。しばらくそうしてから遺書を見直す。


「・・・あは」


調べなくても分かるくらい正式な文体を成していない、不恰好な遺書に書いた本人が小さく笑う。
本文よりも追記の方が長いだなんて、ちゃんと最初から文章を書き直すべきだ。──しかしそれをせず、そのまま小さくてカラフルな棺に収めた。

また追記するのかもしれないと思うと、せっかく最初から整え直してもまた最初から書き直ししたくなってしまう。
それに、いつしか安室透がこれを読む時に、今の私と同じようにこの無計画さと書き直さない横着ぶりを笑ってくれる気がしたからだ。

私が帰った時に少しでも笑ってほしい。それを真剣に祈る自分と、冷めた目で見る自分とが並んでこちらを見下ろしている。


(透さんは仕事でもう何日も帰ってきてない。きっとヤバい事件に巻き込まれてるのかも)


居間から流れるつけっぱなしのテレビのニュースからはそれらしい情報は流れてこない。
それが無事の報せなのか、公安パワーで揉み消されているのか分からない。・・・この調子だと、案外遺書を受け取る側は私の方なのかも、なんて。


(・・・・・・帰りたいなぁ)


そんなものを受け取る羽目になる前に。これ以上書くことが増えてしまう前に。
帰りたいという気持ちにこれ以上後ろめたさを感じてしまう前に。もしかしたらそうなんじゃないかという感情にはっきりと名前がついてしまう前に。

遺書を書いたばかりのこのタイミングがこの上なくベストであると、目を閉じて真剣に家に帰れることを願った。
──でもしばらくしてから目を開けても、やはり光景が変わることはなかった。
















約束の日。
あいにくの雨の中、大して遠くないはずなのにわざわざ車で迎えに来て、招待された安室透の家。
少し前まで自分も住んでいた場所なのに、この7歳児の身体の体感ではまるで改装工事をしたかのように広く感じる。


「本当はお酒が飲みたいんですよね」
「――そんなに好きだったか?アルコール」


宣言通り私の好物ばかりが並んでいた空の皿が広がる食卓で、ワインの代わりに琥珀色の林檎ジュースをくゆらせる。
テーブルを挟んだ向かいに座る男は、アルコールの芳醇な香りを纏った酒杯を傾けながら、その青い瞳を疑問に瞬かせた。


「いやー禁止されると途端に飲みたくなるというか・・昴くんは基本的にうるさく言わないし、私の実年齢も知ってるけど、こればかりは許してくれないんですよね・・・」


安室透が私のために用意してくれた、厚いガラスの瓶に入ったお高そうなジュースは確かに美味しかった。
高級感のあるラベルが貼られたそれは近所のスーパーで買う紙パックとは明らかに味も値段もたぶん違う。こわいけど後でちょっと値段を調べてみよう。

しかし欲を言わせてもらえるのならアルコールが足りない。あの酒精が頭を支配してハイになる感覚が恋しい。
私からの羨みの視線を受け、グラスの中の琥珀色の液体が蠱惑的に揺れるがすぐに相手が飲み干してしまった。


「ま、気持ちはわかるがもちろん僕も許さない」
「ちっ」


と、表面上では残念がってみるものの予想通りの反応だ。まるで漫画に載っているようなやりとりだと頭の隅で冷静に思う。
予期せぬ暴投を恐れる私は反応がコントロールしやすい球を投げているし、相手もそれを分かったうえで優しい球を返してくれているように感じる。
お互いを気遣ったといえば耳障りはいいが、しかし無害なだけの味の薄い会話の応酬が続く。


(わざわざ家にまで呼んで雑談するだけ。これで満足なのかな)


こちらからの視線に対し安室透はその端正な顔に微笑みを浮かべて酒杯を遠ざける。模範的な応対に私も不満そうにしてみせる。生ぬるいやりとり。

――だめだ。喫茶店員、反社会的組織、そして公安警察と三つの顔を使い分ける最強ポーカーフェイスの男の真意は凡人ごときでは到底窺えそうにない。
とりあえず相手も昴くんのことや私について、核心を突くような質問もとい攻撃で困らせるつもりはないようだ。今はそれでよしとしよう。


(さて、どうしようかな)


表向きのメインの用事である食事も、それに伴う会話もひと段落してしまった。自然と互いに口を閉ざして沈黙が薄く積もっていく。
安室透の紺碧の瞳と私の黒い目が交錯。相手の柔らかい視線に探るような意図も悪意も感じられないが、それだけになんとなく居心地が悪い。

この家に招かれた時、ボディチェックの類はされなかった。
自分の懐に招き入れるにも関わらず、だ。まるで家族を家に迎え入れるように自然と私をこの家にあげた。
・・・気付かなかっただけで、もしかしてもう盗聴器の類は調べられているのか?なんて。


『それに、これは俺の推理だが・・・彼は君に盗聴器を仕掛けることはないだろう』
『彼は君から俺の情報を得たいのではなく、君に会いたいのだから』


信頼する我が同居人である昴くんの言葉が頭をよぎる。

疑心のままに侮りととるべきか、素直に信頼ととるべきか。
その二つを天秤にかける自分の卑小さにはイヤになる。今の外見らしく、駆け引きなく素直に相手を信じる少女時代はもう終わっているのだ。


「!」


微かな振動音が部屋に響き、弾かれたように私達の視線が音の発信源に向かう。
長いそれはおそらくスマホの着信で、私のものではないとなると消去法で安室透だ。取り出したスマホの画面を青い瞳が確認し、美しい顔に苦みがプラスされる。察した。


「あー、私のことは気にしないで。お皿でも洗っておくよ」
「いや、この部屋に今は僕以外の人間がいると思われたくない」


言われて考えてみれば確かにそうだ。
安室透は私と別れて同居解消。降谷零は――どう風見さんに伝えたのかは分からないが、いずれにしても私は消えたことになっているはずだ。
ではそんな状況のこの男の家に誰が招かれたのかという話になってしまう。さすがに正直に私のことを話すとはさすがに思わないが、嘘をつく手間は面倒に違いない。

しかしこれは私にとってはまたとないチャンスでもあった。


「じゃあ・・・あっちの部屋にいる。内容とか、あんまり聞きたくないし」
「すまない、助かる」


鞄を手に椅子を降りて、内心で風見さんに感謝しながら堂々と本来の目的地へ向かう。行き先はもちろん私が以前住んでいた部屋だ。

ドアを前に静かに唾を飲んで、覚悟する。
私が想像する通りのことになっていたとしても、もちろん文句の一つもない。むしろ安心したと胸を撫で下ろすべきだ――でも、そうでなかったら。


(・・・ぜんぜん変わってない)


想像と祈りに反し、死者の部屋は私が住んでいた頃のままだった。
唯一の間違い探しは、小さなサボテンの鉢植えがベッドのサイドテーブルに鎮座していることくらい。
こんなのを育てていた記憶はないし、他の部屋で見かけた記憶もないからこれだけは新しく買ったものなのだろう。謎。
しかしそれ以外はあの時から時間が止まっている。いつも通り欠伸を噛み殺しながらポアロのバイトへ出掛けて、そのまま戻らなかったあの日のまま。


「・・・・・・」


自分はいま、どんな表情を浮かべているのだろう。
相手の心情を悼む沈鬱な顔か、それとも相手が自分をちゃんと引き摺ってくれていた事に対する昏い喜びの顔なのか。

己の心を確かめてしまうのが怖くて、絵の具で塗り潰すように顔面から寝台にダイブする。
布団に顔を埋めるも埃っぽさをちっとも感じない事にまた胸が痛む。長いこと誰も使っていなかった工藤邸の寝台は掃除が大変だったのを覚えているから。


(・・・このベッドの方がやっぱり寝心地が良くて、安心する)


工藤邸の新しい寝台にも慣れてきたが、やはり自分のものには替えられない安心感がある――と思ってから溜息。違う、これだって私の本当の居場所じゃない。
元の世界の自分の寝台は今頃は分厚い埃をかぶっているのだろうか、それともこのベッドと同じように手入れされているのだろうか。
さっきよりも重い胸の痛みに息ができなくなる。泥の中で溺れているような息苦しさに現実の口もきゅっと閉じる。


(どうにもならない事をいま考えるのは、やめだ。・・・そういえば、透さんはあの遺書を読んだのかな)


強引に頭を切り替えて、横着し寝そべったまま手を伸ばしてベッドの下を探り、目当てのものを引っ張り出す。
カラフルなお菓子の缶を振るとカラカラと軽い音がした。当然ながら中身は変わっていないようだ。


(二度と会わない前提で書いたからちょっと恥ずかしいけど・・・間違っても赤井さんのことを書かなくて本当によかった。書いてたら死んでも殺されてたかも)


スチール缶の蓋を開けて中身を確認すると、予想通り印鑑と通帳とメモ紙が数枚入っていた。
自分のものなので遠慮なく預金通帳を確認するが、予想通りというかなんというか――引き出し記録はなし。
ポアロからの最後の給料振り込みの印字からこれもまた時が止まっている。

(家具もお金もそのまま。遺書通りに手をつけるかは確かに微妙なラインだったけど、・・・いや、そもそもコレ見つかってないのかな)

公安警察ほどの頭脳の持ち主でなくとも見つけられるような、敢えて古典的な隠し場所に設定したからとっくに見つかっていると思ったのに。
この部屋がそのままになっている事を考えればあながちそうなのかもしれない。ちょっと寂しいような、よかったような。。

しかしそんな生ぬるい予想あるいは願望は間違いだったとすぐの分かった。
折り畳んだ遺書を確認しようとして、息が止まる。紙は当然何も語らないが、しかし強く握り締められた跡が爪痕のように深く残っていたからだ。


「――、」


見てはいけないものを見てしまった。
全身からぶわっと血の気が引いて周囲の音が遠くなる。そのくせに耳の後ろの鼓動がやけにうるさく、指先が冷たい。氷の手で心臓を撫でられたよう。

震える手で遺書を畳んで戻して、お菓子の缶に封印して、ベッドの下に戻す。適当に引っ張り出してしまったものだから、位置まで完全に元通りできたかはわからない。
もしこれを見たと知られてしまえば、何かしらのコメントやリアクションをしなければならない。何て言えばいい?――どう反応すればいいのか分からないから、なかったことにしたい。


(・・・私、最低だ)


あの安室透が死者になった自分を引き摺ることに、少しでも喜びを感じたなんて。ベッドにうつ伏せに倒れて深い自己嫌悪。

確かにすぐに忘れられるのは癪だけど、ここまでしろとは言ってない。
安室透の柔らかい心に不用意に触れてしまった無神経さに対する後悔も相まって死にたくなる。


(・・・透さんのためにも、早く目的を済ませて帰ろう)


精神的理由で鉛のように重くなった手足を叱咤し、立ちあがろうと気合を入れた時にドアの開く音がした。まだ心の準備ができていない!


「お待たせ。話は終わった――、」
「・・・・・・」


寝台にうつ伏せに倒れこんだまま無視した、というよりも寝たふりをした。
さっきの出来事の直後にこの男の顔を直視してしまえば、上手に私を振る舞えないと思ったから。
分厚い面の皮を被り直すためのクールタイムがほしい。諦めてそのまま出ていってくれれば万々歳だ。


「・・・寝たのか?」


声に出さない願いに反し、安室透が近くに座る気配。男の体重に合わせて軋むベッドと共に私の体もやや揺れるが、起きれない。
顔を見られないうつ伏せ体勢でよかった。鋭すぎるこいつに顔まで見られたらさすがに寝たふりがバレそう。

頼む。お互いの平穏のために諦めて出ていってくれ。
声には出さないが神とか仏とか宇宙の神秘だとかに適当に、しかし真剣に祈った。
だがそんな真摯で自分勝手な願いに反し、大きくベッドが揺れて心臓も驚きに跳ね上がる。声を出しそうになったのを堪えたのは偉い。


「・・・・・・」


たぶん、安室透が隣に寝た。
目を開けると絶対にバレるから確かめられないが、たぶんベッドの傾きと気配からしてそうだ。なんで?なんでこういうことする?
普通だったら相手が寝てたら放置して諦めるだろうに、ああもう、どうしてこう、上手くいかないんだ!

こちらのパニックなど当然伝わらない相手の指が私の頭をそっと撫でる。しばらく梳いていたかと思うと、手持ち無沙汰なのか髪を編み始めたようだ。なんでだよ。
骨ばって厚い皮膚の感覚が大人の男の人の手であることを意識させて、なんだか背筋がぞわぞわする。息苦しい。

眠っている(フリ)の私を起こそうとしているのかしていないのか。ここで起きないと不自然だろうか。いや、でもやっぱりまだ対面する心の準備が整わない!
考えてる間に大きな手が止まり、指から解放された髪がするりと戻る。終わったかとほっと息を逃がすがまた再び房を作って編み始める。それを何度か繰り返す。

一向に起きない諦めたのか、軽く息を吐く気配がして立ち去った――というのは私の願望で安室透の気配をすぐ近くに感じるまま動かなくなった。

5分。
10分。
どれくらい経ったか分からないが我慢比べに負け、さもスヤスヤ寝てましたが今やっと目が覚めましたという顔で横を向いて目を開ける。


「っ」


視界が光を取り戻してすぐに目の前に飛び込んできた光景に叫びそうになった。
下手すると互いの息が触れ合うほど近くにあの安室透の美しい寝顔が横たわっている。
春の湖沼のような双眸は固く閉じられて姿を隠し、代わりに長い睫毛が照明の光を受けて影を落としていた。名工の彫像を思わせるような美がそこにあった。


(ね、寝てる・・?)


相手を起こさないよう息を殺して観察する。微かに上下する身体、一定感覚に吐き出される呼気――よし、寝てるのなら今がチャンスだ。
最大限に気を使って最小限の揺れに抑えるよう、腕に力を入れて立ち上がろうとするも、寝ながらも気配を拾っているのか相手が微かにみじろぐ。
慌てて力を抜いて息を殺すと安室透の寝息も安定する。だめだ、私の隣でグースカ寝ているくせに警戒心だけは野生動物並みに鋭い。職業と性分的にはとても納得。

もう一度起き上がりチャンスを試してみるが、今度は露骨に寝顔を顰めたのでやむなく諦める。無駄に神経を使って疲れた。
本来の目的を果たすのも大事だが、今はそれ以上にこの男と顔を合わせてしまうのをなんとか避けたかった。大丈夫、この男がこの午睡から覚める頃にはちゃんと私も装えている。


(・・・前にもこういうことあったな)


あの時は疲れ果てて寝ている安室透を気遣って、苦労して布団に転がして。でもそのせいで結局は起こしたんだっけ。今の体でこの長身男を動かすのは絶対に無理だけど。

この部屋でぼんやりしていると色々なことを思い出してしまう。
こいつと出会った時の恐怖体験、銀行強盗事件に巻き込まれたこと、この寝台を買いに行った時のこと――まだまだ溢れる思い出に、これ以上増えてくれるなと石棺に蓋をして息を吐く。

今日はずっと胸が痛くなりっぱなしだ。こんな痛い思いをするくらいならここに来る約束なんてしなければよかった。
後悔をさも賢しげに語る脳内の私はいつも得意げで腹が立つ。後悔を予言に変えられるわけでもないのに偉そうな顔をするな。


「・・・・・・・・」


とかなんとかやっていても未だに相手の起きる気配はない。
黄金の稲穂のような金糸、玉のように滑らかな額とその下の甘く整った鼻梁、閉じられた美しい形の唇。
美人は三日で飽きると言うが、その美貌に目が慣れてくると、あまりにも実年齢と乖離した顔の幼さがツボってしまい静かに肩を震わせる。ど、童顔すぎる。

しかし蜂蜜色の肌の色で分かりにくい、目の下の濃い隈だけが激務を抱えた29歳だ。ちょっと猛省。


(せっかくの休日なのに私なんかに使ってよかったのかな)


せめて夢の中ではゆっくり休んでほしい。自分がそうされたように前髪に手を伸ばしかけて、やめる。

そんな恋人みたいな真似は私はしなくていい。
でも愛情を傾ける相手にそうするように、じっと寝顔を見つめる。


(もしかしたら、私はこの人に愛されているのかもしれない)


そう思い上がってしまってもしょうがないくらい、いま私はこの人に許されている。
あの警戒心が強くて油断も隙のない男が、水のように空気のように私の存在を許容している。自分を信頼して、無防備さを晒してくれている。


(・・・でも私、この人の秘密を売ろうとしたんだわ)


胸の奥底から震えるような嬉しさは、しかしすぐに霧散する。
代わりに暗くて冷たくて重い気持ちが全身を密やかに満たして、息苦しくなる。まるで真冬のプールに放り込まれたよう。

視線が左手の薬指へと動く。剥がされた爪はきちんと生えている。
でも何事もなかったわけじゃない。今でもあの恐怖はその空気まで鮮明に思い出せる――それこそイヤになるくらいに。


(あの時、たまたまタイミングよく相手が離れて、昴くんが来てくれたから助かっただけで、あのまま拷問が続いてたら絶対に喋ってた)


安室透が心血注いで守ってきた秘密を、売り払ってしまえばどんな損害があるかを知った上で。
自分が助かるために差し出そうとした――冷静に考えれば、そんなことをしてもきっと助からなかったのに。

こんなに自分を許してくれる相手を、安室透を降谷零をバーボンを、私は殺そうとしたのだ。
そんな卑怯者を彼はきっと許さない。ああ、私がこの人に愛される可能性を素直に喜べる人間だったらよかったのに。

美しく飾ったメッキが剥がれる前に、全てがバレてしまう前に、この人の前から消えたかった。
清らかで、正しくて、勇気がある――そんな守られる美徳があって、惜しまれる価値のある人間だと思われていたかった。せめて、相手の認識の中だけでも。


(・・・・ま、ぜーーんぶ自惚れの可能性の方が高いんだけどね!)


判断材料的にはそうだと言ってもいい気がするが、しかしおいおいあの天下の安室透だぞ。そんな訳あるかい。

誰かに相談できればよかったかもしれないが・・・いや、やっぱり無理だ。たとえ相談相手が親友でも対象が大物過ぎて鼻で笑われる自信がある。
ここまで恋愛下手くそ女の心を揺さぶっておきながら単なる思わせぶりってのも腹が立つけれど、・・・ああ、でもその方が救われる。なんて思うのも傲慢か。


「・・・・・・」


本当は、この部屋に来た目的は荷物の引き取りだった。
遺言通り処分されているのなら、それもよし。そうでなければきっと困っているだろうから、私が引き取ってしまうのが一番丸く収まる。

――そしてこの部屋に来る必要がもうないように。


(でもこの状況じゃ無理か・・・後日また部屋に上がらせてもらうように頼んでみよう)


目的を諦めて、引き続き身動きができない状況を踏まえて私ができることは・・・これはいよいよもって私も寝るしかない。
さっきの衝撃からそこそこの時間が経ち、このシチュエーションにも慣れたとくれば、満腹からの眠気がやっと出番かと重い腰を上げる。小さく欠伸をして目を閉じる。


『でも、もし本当に愛されているとしたらどうするの?』


そんな内側からの問いには耳栓をして、優しい夢の世界へと一目散に逃げ出した。








































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あとがき。
ツイッターに投稿したものを手直しして再掲したものです。

安室透→当然寝てない。夢主の寝たふりにも気付いている。
サボテン→夢主の剥がされた爪が埋まっている。骨の一欠片も残らなければ墓を作れず、(当然ながら)夢主の遺族に連絡はとれず、かといってただ捨てることも忍びなく、悩んだ末に手の届く範囲の墓を作って埋葬するしかなかった。

安室透は夢主が自分の部屋に来た理由も気付いてるので、分かりやすく妨害されてる。
次ものらりくらりと躱して荷物の引き取りなんてさせてもらえないし、夢主はなんとなく言いにくいのでズルズルとお宅訪問は続く。


2022年 5月7日・6月1日投稿 八坂潤
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