私とて成人女性だ。風邪くらい今まで何度もひいたことがある。
だからたまに熱が特別に高くても慌てることはない。現代医療を頼って病院に行けばいいだけの話──そう思っていた。


「・・・・・・」 


信じられないくらい体がだるくて熱いのに悪寒がする。少しでも布団の冷たい部分を求めて身をよじるが、すぐに安全地帯はなくなった。
夏でもないのにうっすら汗をかき、喉は貼りついたように渇いていて、全身がガッツリ発熱している。馴染みのあるイヤな感覚だ。


(最悪。風邪ひいたわこれ)


薄いせんべい布団の中でクソでかため息をつくと、空気が喉を通り抜ける感覚すら辛くて咳き込む。
この熱の感じからして体温はここ数年で一番の記録を出してるかもしれない(と、高熱が出るたびに毎回思う)(今回こそは自信がある)。
しかし私もいい大人である。ポアロのシフトが明日だからといって慌てることはない、病院に行って薬を処方して貰えばいいのだ。現代医療最高。


(あの多忙の見本みたいな男に風邪をうつしたら大変・・・あー伝えるのも憂鬱。絶対怒られるか呆れられるか、どっちかされる)


健康管理がなっていない、と幻聴からも厳しく叱咤されて憂鬱になる。うわぁ言いそう。
でも不健康や不摂生の心当たりは特にない。むしろ以前よりも健全なくらいだ。言い訳をさせてもらえるのなら、この強制的な新生活と慣れない生活への緊張やストレスのせいだろう。
まぁあのウルトラハイスペック男からしたら、結局は気が弱いと切り捨てられそうな気がするが。うう、悔しい。


(とりあえず、熱測って・・・病院行って・・・一日で治さないと・・・)


幸いなことに安室透は家にいないようだ。バレる前に病院行って薬をもらって、明日のバイトには行けるくらいに回復したい。

体力と気力を振り絞って立ち上がり、苦労して居間の薬箱を引っ張り出して体温計を探る。
無事に発見して熱を測ると、なかなかの数値が出ていた。この新記録には記録係も予想が当たった高熱ソムリエもニッコリ。笑っとる場合か。

人体とは不思議なもので、高熱を自覚すると途端に症状が悪化する。しかし熱を測らなければそれが体調不良なのかどうか分からないのだから、ままならない。
一気に体温が上がった気がする身体を何とか引きずり、市販の風邪薬を水で流し込む。ついでに喉も潤してやっと一息。
このままベッドに倒れこみたいという甘えを振り払ってパジャマから着替えようとして、そこでやっと大事なことに気付いた。


(あれ、いま健康保険証なくない!?)


突然この世界にやってきてしまった私は、当然ながら健康保険証はおろか戸籍すらない。
だって、本来なら自分はここにあるべき存在ではなくて、単なる異物でしかなくて──だから心配してくれる人も、助けてくれる人も、いなくて。


「・・・・・・」


あ、だめ。
ぽっきりと小気味よい音を立てて心の中の何かが折れた。それはたぶんメンタル的なもの。
精神へのダメージに肉体も引っ張られて、膝から崩れ落ちて布団の上に突っ伏する。常温放置された布団すら、この病身にはうっすら涼しくて気持ちいい。

──冷静になれば、健康保険証がなくたって病院での治療は受けられるし僅かだが渡されたお金もある。でも今の私はもう何かもかもダメだった。
たかが健康保険証を持っていないだけで、自分がいかにこの世界で孤独で浮いた存在かを思い知らされる。世界のつまはじき者と言っても過言ではない。


(これは・・キッツいなぁ・・・)


肉体的にも精神的にも。あーあばかみたい、たかが風邪を引いたくらいで。
ふらふらと力なく布団に再び入り、憂鬱な気持ちで目を閉じる。・・市販とはいえ、一応は薬を飲んだのだから寝れば治るかもしれない。

















よくならなかった。

体調悪化で神経が過敏になっているのか、微かな物音で目を覚ました。スマホの時計を確認すると、夕方くらいのようだ。
熱に冒された頭でもその音が安室透の帰宅の音だということくらいはわかる──だってそうじゃなかったら怖いし。

たかが数時間の睡眠と市販の薬ごときでは高熱には太刀打ちできなかったようで、寝て起きても体調が改善した気が全くしない。
枕元に置いてた体温計を使ってみても、そうだそうだと数値が全力で声をあげている。望む結果を出さない役立たずな体温計を放って仰向けに布団に倒れこむ。

(なんかもう、このまま死ぬのでは?)

現代日本で風邪を引いて死ぬのはなかなかレアかもしれない。もちろんそういう事例はある、周囲に誰もいなかっただけで。
なんだか泣けてきてしまって、大の大人がべそをかきながら布団の中で絶望する。そんな自分が情けなくて、更に落ち込んで、より深みにハマる──そんな負のループ。

負の永劫デススパイラルに陥る思考を断ち切ったのは控えめなノックの音だった。


「入っていいか?」

「え、あ、いや、今は、その、・・・風邪、ひいてて、」

「知ってる」

「え?なんで?」


何で知ってるの?あれ、言ったっけ?言ってないよね?なんで??

人の一世一代のつもりの告白と極大の疑問符をさらっと流してドアの開く音が響く。今なるべく会いたくない男、安室透が部屋の入り口に立っていた。
きっと今の自分は体調不良とぽっきり折れたメンタルで酷い顔をしている。顔の良い推しにそれを見られる羞恥心と乙女心はあったがわりとすぐにどうでもよくなった。
つい最近この男には本物の公安恫喝をされて本気で泣かされたばかり。思い出すだけで更に体調が悪化しそう。・・・・いや、した。


「具合が悪そうだな。熱は?」


近付いて身を屈める苦手な相手に対し、半身を起こして体温計を見せた。凛々しい眉が顰められる。
幻聴の中でそうされたように現実に叱責が飛んできそうでこわい。普段なら表面上はしおらしく、内心では舌を出してやるが今は抵抗する気力がない。本当にこわい。つらい。

「病院には?」

「・・・健康保険証がなくて、」

「なくても行けるだろう」

「まぁ・・・・そうなんですけど・・・」


全く隙のない正論武装が耳に痛い。客観的にみると、明日仕事があるにも関わらずただ病院に行くのをサボった怠け者だ。
しかもその仕事は唯一私がこの人のためにしてあげられることで、それ以外には価値がないといってもいいのに。この人に役立たずだと切り捨てられたら他にどうしようもないのに。

一体どんな言葉を投げつけてくるのか、私をどう思っているのか、恐ろしくて相手の顔が見られない。もうダメだ。おしまいだ。

教師に怒られるのを待つ生徒のような神妙な面持ちでじっと相手の言葉を待っていると、息を吐く音と共にどこかへ行ってしまった。・・・呆れられる方だったか。
が、意外にも少ししたら戻ってきた。木製のお盆の上には、水の入ったコップと風邪薬にインスタントの味噌汁が湯気を立てるお椀。


「とりあえず何か腹に入れて薬を飲んで寝るんだ。・・・そうだな、3時間くらいで戻る」

「・・・え?あ、はい。いってらっしゃい・・」


それだけ言い残すと、長身を翻してさっさと部屋を出て行ってしまった。労わりの言葉も恐れていた嫌味もない、ハイスピードな会話と退場に複雑な気持ちになる──まぁ私への興味なんてそんなものか。

言われるがまま味噌汁を飲むと空腹に染みて精神がやや安定する。これは素直に感謝。そういえば朝から何も食べていないんだった。
そして薬を水で流し込んで、やっと人心地つく。さてどうしようかと思ったけど、やはり寝るしかない。


(これは同居解消かな・・・)


枕に頭を沈めると気持ちも沈む。分かってはいたけれど、あの人の役に立つどころか体調不良で迷惑をかけるなんて。3時間は私を野に放つための準備時間かもしれない。
一度は安堵しかけた心が更に憂鬱な気持ちへと突き落とされて、しかし何もできることはなく重い瞼を閉じる。

当然、悪夢を見た。

















汗ばむような悪夢と意識の浅い浮上を何度か繰り返し、そのループが億劫になった頃に再びノックの音が響いた。
どうぞ、と言おうとして喉が嗄れてうまく発音できない。相手はそれを了承ととったのか、ドアを開けた。
端正な顔に浮かべた安室透の表情は、ポアロの人気店員のような愛想のよさはなく、フラットもとい乏しい。付き合いの浅い私には彼が怒っているのか呆れいてるのか判断つかない。


「──起きてたか。相変わらず具合は悪そうだな」

「はい。・・・その、すみません」


老婆のようにしゃがれた声でなんとか返す。
熱にすっかりやられてしまった頭では、近付いてしゃがむ男の顔は相変わらず美しい以外の情報が読み取れない。安室透は何を伝えに私のところに戻ってきたのか。
頭の中に強く浮かぶ戦力外通告という言葉に(いやそもそも戦力になってなかっただろという突っ込みはさておき)怯えて俯く私の頭に、パサリと何か軽いものが載せられる感覚がした。


「え、なに、」

「君の住民票と健康保険証だ。これで明日は病院に行け」

「・・・えっ!?」


さらっと告げられたとんでもない言葉に、体調不良も忘れて相手の渡した書類に飛びつく。
透明なクリアファイルの下には確かに私の名前が入った住民票の原本と健康保険証があった。いやいやそんなまさか、ありえない。


「な、な、どどどどうやって、」

「君なら分かると思うがな」


完璧な造形の顎を手に載せて、頬杖をついた綺麗な顔が悪戯っぽい笑みを浮かべる。その意味を察する。
そうだった、この人そういうのが得意なんだった・・・!いやでもマジか。そんなのアリ!?


「明日のポアロは僕が代わりに出る」

「だ、だめだよ!そんなの、・・・私がここにいる意味なくなっちゃう・・・・」


相手の言うことは正しい。しかし幼児が親に追い縋るように必死な声色でその正しい提案を拒否する。

この男にそうされてしまっては、いよいよ自分がここにいる理由がなくなると思ったのだ。いや、なくなる。
でもそんな私を見て、蒼穹の空のように青い瞳がふっと柔らかく笑う。さっきの笑顔とは違う種類の、邪気のない微笑みに虚をつかれた。


「少しでも僕に報いたい気持ちがあるなら、早く熱を下げてくれ」

「──、」


ぽかんとする私に対し、安室透がなんでもないように立ち上がって軽く伸びをして携帯を確認。


「別件があるから僕はもう出るが、お粥を作っておいた。食べておくといい」

「ちょ、ちょちょまって、」


本当にそのまま立ち去ってしまいそうな広い背中を慌てて呼び止める。
言いたいことが色々あるけれど、驚きと高熱でうまく頭がまとまらない。ええと、何を一番伝えたいんだっけ、ええと、えっと。


「・・・ありがとう・・・」


やっと絞り出したシンプルな感謝の言葉に、軽く手を振って応えて安室透は去っていった。続くように玄関のドアが閉まる音が響く。

今しがた起こった衝撃の連続を頭が処理し終わるのを待ってから、手元のクリアファイルの中身をまじまじと見つめる。
改めて見ても単なる自分の名前が記載された書類だ。でもそれだけの紙が今はこんなにも嬉しい。


(・・・公安ってすごいな)


画面越しにその力の凄さは知っていたつもりだったけど、実際に目の当たりにすると凄すぎる。
3時間で架空の戸籍を用意したってこと?どうやって?・・・まるで分からない。熱が下がってもきっと分からないだろう。


「・・・・・」


寝直そうか迷ったものの、安室透の言葉を思い出してふらふらと台所へ向かう。
コンロに置いてあった土鍋の蓋を開けると、少し冷めた卵粥があった。おいしそうな匂いにつられて、行儀が悪いと思いながらも軽く指先で掬って舐める。


「おいし・・・」


高級レストランの逸品でもなく単なる家庭料理なのに、でもその味が優しくておいしいものだから。
すっかり心が温かくなってしまって、──もうちょっと頑張ってみようと思ってしまった。








































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あとがき。
・安室透はゴミ箱の薬のゴミと、薬箱から体温計がなくなってることから風邪を推理した感じ
・3時間くらいで戸籍偽造をしたのか、もしくはあらかじめ手続きを進めてたのかもしれない(どっちかな・・戸籍偽造をしたことがないのでどれくらい時間がかかるか分からないですね)
・安室透の卵粥食べたい



2022年 5月16日執筆 八坂潤
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