「透さん、犬とか飼ったらどうなんですか。犬」
「はぁ?」

私が操作するテレビゲームの画面では、女の子と犬が協力して怪しげな飛行船から脱出しようと頑張っている。そこから連想した単純な思いつき。
それに対し、横でお酒を飲みながらその様子を観戦していた安室透は、当然のように呆れた声をあげた。琥珀色の柔らかい前髪の下、南国の海のように綺麗な碧眼がこちらを見ている。

「君、もしかして僕の仕事を忘れたのか?」
「いや忘れるわけがないんですけど・・・意外とうまくいくんじゃないかなって、透さん人望あるし」
「人望ね・・・」

公安警察・やばい組織の潜入・喫茶店アルバイト・探偵の弟子、と隣の男には肩書が多い。それに比例して役割も責任も多く引くほど多忙だ。もちろん危険も多い。
そんな人に気安く命を養えとは無責任な発言だ。しかしきっとうまくいくであろうという謎の自信がある。

「なんというか、透さんには手間のかかる存在がいた方がいい気がするんですよね。危険が多いお仕事だし、コイツには自分がいなきゃいけないみたいなのがあるとよさそう」

一番いいのは本物の人間の恋人を作ることだろうが、どうにも職業柄難しそうだ。表には出ていないだけで、実は恋人がいました!という展開だと思っていたのに驚くほどその気配はない。
望めは世界の8割くらいの女性の首を縦に振らせることができる男は、このままだと映画のあのセリフのように『恋人は日本』で終わらせるつもりらしい。
なんてもったいない。恋愛は個人の自由とはいえ世界レベルの損失だと思う。

「犬は忠実だしかわいいし、なにより秘密を守る。複雑な事情をお持ちの降谷零にはピッタリでは?」
「君なりに考えてプレゼンしてくれるようだが、やはりないな。命に対して無責任すぎる」
「ですよねー・・・」

まぁこの男の事情を抜きにしても生真面目な性格を思えば、その返事は分かっちゃいたけどね。私も降谷零が犬を飼い始めたらビビると思う。
こうして二人揃うのも久しぶりだというのにどこからそんな時間が湧いてくるのか。でも意外とうまくいきそうな気はやっぱりある。相変わらず根拠はない。

「・・・・・・」
「・・・・・・」

見えない誰かが通り過ぎるのを、おしゃべりをやめて待つような一瞬の沈黙。やがて同居人兼恋人(仮)がその整った唇を開いた。

「それに、うちにはもう犬よりも手間のかかるのがもういる」
「はぁ?私はちゃんと自分で自分を散歩できるしご飯も用意できますけど?」
「そうだな。えらいな」

雑な褒め言葉と共に頭をわしゃわしゃと撫でられた。まるで犬を褒める飼い主のような扱いに、成人女性としては誠に遺憾である――という風に装っておく。
今の言葉の真意はちゃんと分かっている。この男にそう言わせたことが、言われることが、どんなにすごくて嬉しいことがわかっている。でも素直に受け取れない。

(だって、その犬よりも手間がかかるやつはあなたの前からいつか消えるのに)

砂に染み込む水のように、反論は静かに胸の内側に仕舞い込む。溜息も押し殺す。

現状、元の世界に戻る方法はちっとも分かっていない。
だからそれがいつなのか、自分でもわからないくせに口にしても意味がない。それだけだ。後ろめたさなんて感じてない。

(後ろ髪を引かれたりなんてしない。元の世界に帰れるのなら絶対に帰る)

もしその時が来たらこの男は私の不在を嘆くだろうか。それとも肩の荷が降りたとすっきりするのだろか。
それを知りたいような、知りたくないような、傷ついてほしいような、傷ついてほしくないような――やめだ。思考が湿っぽくなってきた。

(誰かが。この人の元に帰りたいと降谷零が思えるような誰かが現れてほしい。この人の標になってほしい)

会話のオチはついたのに降谷零の大きな手は未だ私の頭に乗せられたままだ。
ときおり長い指が髪を梳く仕草があまりにも優しくて離れ難くて、もしかしたらこの人は飲み込んだ言葉も理解していたかもしれなかった。

「・・・やっぱ犬のがいいと思うけどなぁ」
「――君もなかなか小賢しいよな」

互いに見えないジャブ。結果はたぶん互角。
まるで台本のようなやりとりだ、なんて感想はやはり気付かないふりをした。












 
遠くには自分達を探す怒号と仲間を罵り合う罵声。
炎が夜空を赤く染め、照らされた人影が忙しなく行き交い銃声が響く。僕たちにとって典型的な戦場だった。

爆発の余波で半ば崩れたコンクリの柱の影で息を潜めながら、自身の損傷を診断する。
腹部に裂傷と出血あり、右肩に打撲、左腕と肩には刺傷が二箇所。両足は幸い問題なし。
だが、全身には診断名をつけるほどではない痛みと重い疲労が泥のようにのしかかる。つまり満身創痍だ。

「風見」

察しのいい部下が銃の弾倉を手渡すのを、すぐさま装填して息を吐く。隣の風見も似たような姿だった。
これが最後の弾だと付け加えられると新鮮な頭痛がする。通信機器も壊され、味方の救援も望めないこの状況はどう考えても悪すぎる。

「何か策はありますか?降谷さん」
「考え中だ」

四方を大勢の敵に囲まれ、頼れるのは自分と風見の二人だけ。徐々に包囲網は狭まりつつあるのを肌で感じる。このまま発見されずに、また笑顔で見逃されるような幸運はないだろう。

考えろ。
頭の中で地形や情報を整理し、なんとかこの死線に活路を見出そうと試みる。同じく風見も眉を寄せて打開策を検討しているが苦い顔をしている。

今回こそは死ぬかもしれない――そんな予感が頭をよぎった時に思い浮かべるのは彼女のことだった。

(もし僕が帰らなくても、彼女の世話は信頼のおける人間が引き継ぐことになっている。だから問題ない)

本人の言葉を借りるのなら、僕がいなくなったことを悲しみこそすれ、しかし散歩も食事も自分で面倒を見られるだろう。
人間は途方もなく深い喪失を抱えても生きていくことができる。自分がまさにその証明だ。
初恋のあの人、友人、親友――信じられないような痛みに何度も打ちのめされても、僕は今も生きている。
遺された者の義務の日々の中でもう希望などないと諦念しながらも、時おり輝く細い星の光を見つけて、今にも止まり錆びつきそうな足を動かして。

「・・・・」

このまま自分が戻らなければ、彼女は知らない誰かの手をとって結婚するのかもしれない。
そうなれば己の存在など、幸福な生活の中のふとした時にその表情を翳らせる程度の思い出になる。うっすらと埃を被り、やがて光も届かなくなるような忘却の底で飾られるだけの絵の一部に。

「・・・・・・」

猛烈にむかついたな、今。
内臓の底に灼熱の蛇がのたうち回るような激情。そのせいか冴えた思考で細い勝ち筋を見出し、風見に伝える。分の悪い賭けだが部下は迷わず頷いた。

「しかし、よくそんな手が浮かびましたね。・・・・・・もしかして、その、愛の力・・・ですか?」
「いや、違う」

あの小さな名探偵が、かの女子高生のために躊躇わず危機に身を投じ一心に奔走する眩しい姿と自分の姿はまるで違う。美しい宝石と並べるのも烏滸がましいほどに、この感情は醜く汚い。

上司の返答を照れ隠しと受け取ったのか、風見はそれ以上追求しなかった。最後の銃の動作確認に意識を戻す。互いに今装填されている弾倉だけが頼りだ。
額に押し当てた冷たい銃身が思考を冴えさせる。部下に手信号を送り、突破の合図を出す。

(・・・帰りたい)

願望をはっきりと頭の中で形にすると堪らない気持ちになる。大きく息を吐き、雑念を振り払い、集中。
それでも視界の端には控えめに光る星の光が、泥の中で静かに散っていた。








































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あとがき。
・書き終わった後にトムとジェリーのような仲の良さだな…と思いました。捕食関係で、片方が本気で殺そうと思えば殺せるところとかが。
・犬と女の子がバディを組むゲームといえば、私的にはデメントかルールオブローズですが今回は後者です。こっちの方が陰湿でエンディングも後味が悪いので。

・昔の船乗りは星を標に航海していたので。
・二人とも「帰りたい」と同じことを思っても、帰りたいと思う場所が決定的にかみ合わない感じ


2022年 5月16日執筆 八坂潤
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