陽光さす学校の帰り道、ポアロの前を掃除している安室透と目が合った。
竹のようにすっと伸びた背筋に整った顔を乗せて、海色の瞳が柔和に微笑む。

「こんにちは。学校帰り?」
「こんにちは、安室さん。そうなんですよ、お店は忙しいですか?」

返事の代わりに長い指で店の中を指差す。
お客さんもいないどころか、梓さんの姿も見えない。休憩時間か買い出しにでも行っているのだろう。

「今さっきちょうど団体のお客様が帰られてね。梓さんはそれで切れた材料の買い出し」

だから、と続けて喫茶店の扉を開いて私を招く。少し迷ったが素直に恋人の誘いに乗ってカウンター裏までついていく。
すると、待ち構えていた透さんが長身を屈めて手を伸ばし、私のランドセルの肩ベルトをするりと外した。
がたん、と重い音を立てて倫理の楔が床に落ちると同時に強く抱き寄せられる。空気の隙間すら許さないような密着した姿勢に全身の血がぶわっと熱くなった。
逞しい肩口に顔を埋めながらも行き場のない手は、やや迷ってから相手の後頭部に添えて抱き締め返す。
不思議なもので、好きな相手の頭はいつまで撫でていてもなかなか飽きない。さらさらと清流が流れていくように指の間を金糸が抜けていく感覚を楽しむ。

(おいしそうな匂いがする)

お客さんが注文した料理の匂いだろう。匂いが混ざりすぎてどのメニューかを特定はできないが、ともかく夕飯前の空腹の胃をくすぐる危険な匂いだ。
でも消毒液よりも物騒な匂いよりも、この匂いがする透さんが一番好きだ。

「・・・・」

ちら、と外の様子を伺う。扉とガラスを隔てた外側からはこちらの姿は見えない。
耳をすませばいつもの人通りの気配と音が僅かにするのに、私たちの周囲だけは雪がしんと積もるような静謐があった。
秘密の共有にどきどきしていると、すんと鼻を鳴らすような音がした。

「甘い匂いがする」
「あ、それは」
「待って。当てるから」

摘んだ花の匂いを楽しむような声と言葉。宣言通りあの高い鼻が耳元に近付くのを感じてしまい、羞恥心から反射的に逃れようとする。
しかし離れるどころか匂いを追ってますます抱き寄せられる姿勢に天を仰ぐ。
恋人に抱き寄せられるのはもちろん嫌じゃない。でも恥ずかしくて死にそうだから早く答えを言わせてほしい。

「・・バニラエッセンス?調理実習の授業でもあったのかな」
「正解。理科の授業も兼ねて今日はアイスクリームを作りまして、っ」

整った鼻梁の先が首筋を掠める感覚にぴんと背筋が伸びる。私の反応にくつくつと笑う気配がしたので、返礼として髪を少し引っ張って反撃。やや痛そうな声がした。

「その余ったバニラエッセンスを女の子達が香水代わりに使って、まぁ私もその場のノリで付けたけど・・」

香水を自前で持っている小学一年生はさすがに早熟過ぎる。
だからというべきか、甘いお菓子の匂いがするバニラエッセンスこそが少女達にとってシャネルに勝る最高級の香水だった。

「首筋と耳辺りが特に匂いが強いね」

合ってる。
犬のように匂いを追って、猫のように擦り寄ったまま、もう一度深く呼吸する相手に恥ずかしい気持ちでいっぱいになる。いま、私はこの人に味わわれているのだ。

「――ってもうよくないですか!?ポアロのメニュー作る時に死ぬほど嗅いでるでしょ!?」
「いや、覚えておこうと思って」
「覚えるってなんで!」

ぐぎぎぎぎぎ、と引き剥がそうと全身の力で抗っていると少し体が離れた。というよりも引いてくれたのだろう。
抱き締める前と同じ青い瞳は、しかしさっきとは違って露骨に情を孕んでいた。長い指が私の耳たぶに触れるだけの仕草も扇情的で息を呑む。

「後で使うから」
「使う?・・つかう・・?・・、・・・・!!」

その意味するところをしっかり理解してしまった私は、反射的に抗議してやろうと大きく口を開いて――蓋をするように突っ込まれた何かにまんまと黙らされる羽目になった。
舌先に感じる甘さとバターの香り、マフィンだと理解した次の瞬間には長い足の間に挟まれて目を瞬かせる。
本職の力強さを感じさせる屈強な足で完全固定されて間もなく、店のドアが開く音がした。

「戻りました!ごめんなさい、お店のことすっかり任せてしまって・・」
「いえ、あれからちょうどお客さんも来てないタイミングだったので大丈夫ですよ」

こちらから姿は見えないが(そして向こうからも私の姿は見えないが)、どうやら梓さんが買い出しから戻ってきたらしい。
口封じのマフィンをありがたく味わいながら事の成り行きに耳をすませる。言うまでもなくこの状況が見つかるのはまずい(まぁこの人なら何とかしそうな気もするが)。

「買ってきたものを裏に置いたらすぐ戻りますね」
「大丈夫ですよ、そんなに慌てないで。ごゆっくり」

ぱたぱたと慌ただしく駆けていく音がすぐ近くを通るが目線的に気付かれない。
ドアが閉まる音と共にやっと拘束が緩んで解放された。トングに挟まれるパンの気分だった――今度からパンを買うときは優しく挟もう。

「えっと、じゃあそういうことで・・」

さっきの件については断固として強く抗議したいが、このまま自分の姿を見られる方が面倒だ。マフィンは遠慮なくもらっていく。
コソコソとドアへ向かおうとする、前に手を引っぱられて再度抱き寄せられる。背後から覆い被さるような抱擁に、獅子の鬣のような金糸が額をくすぐった。

「あむ、」
「今度ウチに来る時、それ付けてきて」

すん、と再び匂いを味わうあの音にまた恥ずかしくなる。青い瞳には隠しきれない欲情の色。
喫茶店で働く好青年の気配は鳴りを潜め、一人の男の人として自分を求める言葉につま先から背筋まで見えない何かが走る。

「――期待してるから」
「っ」

ドアの外に出て乱れた呼吸を正す。通りの途中で立ち止まる私を、道ゆく通行人がやや不審そうに見るのを受けて慌てて歩いた。なるべくなんでもないような顔で。

(あ、あのやろ~~!)

耳たぶと首筋が異常に熱い。それが体調不良ではないとわかっているけれど。いや、いっそそうであってほしい。
・・でも、頭の中ではあの家にバニラエッセンスがあったかどうか考えしまうあたり、自分の頭も相当甘ったるいのだ。








































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あとがき。
バニラエッセンスってあんなに素敵で甘いにおいがするのに、実際舐めたら死ぬほどマズいですよね。


2022年 5月11日執筆 帆立
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