まずいところを見てしまった、というのはすぐに分かった。
呼び出したエレベーターの中で男に吊り上げられてるコナンくんと、目撃者の登場にわかりやすく動揺する犯人。
その背後の抜けるような青空がどこか他人事で、非現実的だと思った。

「お姉さん、逃げて!」
「で、でも、」

少年の声で我に帰る。確かにコナンくんは漫画の主人公だけど、ここで躊躇いなく子供を置いて逃げるのは自分の中の法に反するものがある。
いや、だからと言って素人代表に何かができるわけではないが!

「っ、誰か呼んできて!はやく!」
「・・・・・・!」

逃げろ、という呼びかけを耳障りのいい言葉に変換されてやっと反対側へ走り出す。
スーツの男がどっちを追うか迷う気配と、痛そうな呻き声がしたのはほぼ同時だった。
いけないと思いつつ振り返ると、犯人の男が後頭部を押さえながらふらふらとこっちへ向かってくる。
まずいという少年の顔と伸ばされた小さな手を呑み込んで、エレベーターのドアが閉まり無情に登っていく。

三拍遅れて状況把握。

(コナンくんは安全になったけど、私が、まずい!)

恐怖にもつれそうになる足をなんとか動かして、洗練されたガラス張りのビルの中を走る。
透明な板を隔てた向こうでは普通の街並みが広がっているのに、誰もこの危機に気付いちゃくれない。
同じく後ろから足音。振り返ると、さっきの男が凄まじい形相でこちらを睨み、歩いてくる。
コナン君から受けた攻撃がまだ頭に残っているのか、足取りはやや覚束ないがじきに回復する。とか言ってる間に早足からの駆け足へ加速。私なんかあっという間に追いつかれる!

「!」

直線の廊下の先、小さな空中庭園を挟んで左右に分かれたガラス張りの通路から安室透と蘭ちゃんが歩いてくるのが見えた。
何かを探しているように視線を動かしているのは、きっとコナンくんを探しているからだ。

――どっちに助けを求めるべきか迷った。

空手部主将の蘭ちゃんは強いけど女の子を手放しで頼るのは気がひけるし、公安警察の降谷零は更に強いがその戦闘力をみんなにどれくらい公開しているのか分からない。
安室透は公安警察ではなく一介の喫茶店アルバイターなのだから。

(どっちに、いや迷惑になるかも、だから、蘭ちゃんに、)

口を開こうとした時、廊下の先の安室透がいち早く異常に気づいた。
私の視線が空中庭園の木々に気を取られる蘭ちゃんを見ていることにもすぐ気付く。
聡明な青い瞳はすぐに事態を把握した。

「バカ!迷うな!こっちに来い!!」
「っ!」

長い廊下を直線で貫いて、空気を震わせるような怒声に脊髄反射で背筋が伸びる。
行き先を迷い躊躇っていた足が、絶対の言葉と安全に導かれて再び速度を取り戻す。教育の賜物だ。
突然の大声に蘭ちゃんが何事かと周囲を見渡すのに反し、安室透が弾かれたように猛烈な勢いで走り出して白壁の向こうに消える。こっちに向かってくれている!

後ろからは微かな笑声。
たぶん相手は私の判断ミスだと嘲笑った。挨拶の時に空手の有力者と紹介された女の子よりも、その少し後ろで探偵見習いだと紹介されただけの優男を選んだからだ。
だが、その答え合わせはすぐにできる。

「っぐぇ、」
「!!」

白壁の切れ目、角の死角から長い手が伸びてきたと思うと襟元を掴まれて引き倒される。
顔面と床が熱い接吻をしそうになるのを堪え、思わずついた手からは絨毯の柔らかい感触。振り返ってすぐ仰いだ頭上には半月を描く冷たい銀の軌跡。

(いまの、うそ、死にかけた!?)

ナイフを振りかぶって行き場を無くした手がすぐに返されるのを、長い足が雷光のように閃いて弾く。
甲高い音とともに壁に当たって落ちるナイフを、ほぼ反射的に拾って後ろ手に隠す。いやこれどうしよう!?

「よくやった」

こんな状況でも美しい男がなけなしの援護に微笑み、倒れ込んだままの私を背に庇う。広くて逞しい背中に力が抜ける――ああもう絶対に大丈夫だ。
犯人の男は予想外の展開に一瞬躊躇いを見せ、それが命取りになった。思考する暇すら与えないほど安室透が素早く距離を詰め、一切の躊躇いなく拳をその腹に叩き込む。
衝撃音の幻聴が聞こえそうなほど重い拳に、相手は苦鳴とともに唾液を吐き出して、身体をくの字に曲げて安室透の拳に凭れこむように倒れる。うわぁあれは痛い。合掌。

「今の声って、・・・ウソ、何が起こったの!?二人とも大丈夫ですか!?」
「大丈夫です、ご心配なく。この男が毛利先生の依頼にあった会社犬誘拐事件の犯人だったようです」

異常事態に年相応に狼狽える女子高生を安心させるように探偵見習いの美青年が微笑む。ついでに私が後ろ手に追いやっていたナイフを示して自分達の正当性を示した。
すぐ近くで戦闘があったことに怯えながらも、その収束と怪我人がいなかったことにほっと息を吐く。・・・いや、怪我人はいるが。そこで白目剥いてる犯人とか。

「安室さんって強いんですね・・・」
「ええ。まぁ、探偵見習いなので護身術程度には」
「なるほど・・・」

黒い目が納得したように頷く。あ、それでいいんだ。

「ウチのお父さんと同じですね!むしろお父さんより強かったりして!」
「まさか、僕程度じゃ先生には敵いませんよ」

予定調和のような公安警察の朗らかな謙遜。・・・実際どっちの方が強いんだろう。ちょっと興味あるな。

「・・・・・・あの、」

さっきから一言も喋っていない私を気遣うように蘭ちゃんが覗き込んでくる。
状況的にも私が犯人に追いかけられていたことは予想できているだろう。先ほど向けられた冷たい殺意とは反対の温かい心配に嬉しくなる。

「いや、ごめん、大丈夫・・・です。すごく・・・びっくりしちゃって・・・だからかな、体に力が入らなくて、動けなくて」
「彼女、腰が抜けちゃったみたいで・・・」
「ああ、これが腰が抜けるかぁ・・・あはは・・・初体験・・・」

安室透が動けない相手の首元からネクタイを抜いて、手早く犯人の手を縛って仰向けに転がす。そこまでしなくても、さっきの一撃で相手はまだまだ動けそうにないが。

「私、人を呼んできますね」
「お願いできますか?僕はこのまま彼女の傍にいたいので」
「ぅ・・・・・・」

私の肩を抱いて自分に凭れ掛けさせて、申し訳なさそうに微笑んでみせる。
突然の接近に心臓が跳ね上がるが、事件に怯える恋人を労わる演出だと少し遅れて気付いた。さすが抜け目がない。

「・・・・・・」

こちらを見る蘭ちゃんの黒瞳が瞬く。私の態度が不自然だったかと身構えるが、よく見ると視線は恋人を抱き寄せる男を見ている。

「?・・・どうかしましたか?」
「ああ、いえ、いつもの安室さんだなって思って。ほら、さっきの声」
「あー・・・」

確かに。あの怒声は穏やかな癒し系アルバイター安室透ではなく自他共に厳しい辣腕警部補の降谷零だった。
真相を知る私と風見さんは違和感がないと深く頷くが、そうでもない蘭ちゃんは驚くだろう。あの完璧トリプルフェイスにしては珍しい失態とも言えるが、どうするのか。

「すみません。恋人の危機に気が動転してしまって・・・お恥ずかしいところをお見せしました」
「いえ、とんでもないです!むしろ新一を思い出したっていうか・・・、・・・・・・っ」

自分で言っていて恥ずかしくなったのか、少女の頬に赤みが増していく。慎ましい羞恥心が可愛い。

「え、えっと、じゃあ失礼します!」

残像を残す勢いで反転してパタパタとエレベーターの方へ駆けていく。恥ずかしさに比例するように足が速い。さすが運動部。

(恋人の新一くんみたい・・・ね・・・いやまだ付き合ってないんだっけ?相思相愛なのは明らかだけど)

とは言え、そう見せるためのハリボテ演出でもそう言われるとこっちまで恥ずかしい。本当の恋人関係だったらよかったんですけどね!違うんですよね!

「すみません、透さん。ありがとうございました」

まだやや鈍いながらも足先が動く。やっと腰抜け状態から回復したようだ。離れようとすると頭ごと広い肩に抱き寄せられて再び身動きが取れなくなった。さっきよりも強い。

「・・・あ、ああああの、」
「無事でよかった」

その短い言葉にどれだけの感情が込められているのか。
この体勢からは表情は窺い知れないが、雰囲気と声色でその重みを噛み締める。・・・そうだった。さっき数秒遅ければ私は死んでたかもしれないんだった。
立ち上がろうとするのをやめて、躊躇ってから空いてる方の大きな手に恐る恐る自分の手を重ねた。
ぴくりと長い指先が動いたが払われたりはしない。そこで初めて自分の手が血の気が引いて冷えてる事に気付いた。

「・・・助けてくれて、本当にありがとうございました」

知り合いである蘭ちゃんがこの場を去った今、もう恋人らしい演出は要らない。もう離れたっていい。
でもエレベーターの開く音が遠く聞こえても、私達はずっとそのままだった。








































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あとがき。
・会社犬誘拐事件→
犬は無事です。
書きたいところだけ抜粋してしまいましたが、毛i利探偵事務所に持ち込まれた依頼の付き添いの安室透の付き添いで夢主もビルにいた。
社員に可愛がられていた会社犬が誘拐された!身代金を用意しろ!なお犯人は会社役員だった模様。
依頼をした社長が顔合わせで毛利探偵ご一行を紹介した場に犯人もいたのであった。
ちなみに犯人が安室透の拳で床に沈められた時。一方おっちゃんは喫煙コーナーで煙草を吸っていた。

・教育の賜物→
喫茶ポアロで働く前、お世辞にも料理が上手いとは言えなかった夢主のために開かれた安室透ヘルズキッチン。
おかげさまで、レシピ通りの料理にそこまで躓くことなく作成できる程度の腕は手に入れた。大変だったらしい。
でも安室透や梓さんのように食材の状態や気温や温度など、そういう細かな状況に応じて作り方を変える──みたいなことはできないので、料理が上手くなったわけではない。


2022年6月19日執筆 帆立
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