それが降谷零の凶運が呼び寄せた強運なのか、それとも私のビギナーズラックが引き寄せた物語の筋書きなのか、分からない。

「……」

猫の爪のように細い三日月が闇に飾られる夜。
寂れた倉庫に一発の銃声が響いて、それまで争いあっていた音が強制的に途絶えた。降谷零に馬乗りになった男が振り下ろされるはずだった鉄片が一拍遅れて落ちる。
雷撃を受けたようにぴんと仰け反っていた男の背が、柱が折れるようにゆっくりと仰向けに倒れていく。
地面と近くなった男の目と私の視線がかち合った。信じられないというように瞠られた目が私を射抜く。撃たれた男越しに、血塗れの青い瞳もまた呆然とこちらを見ていた。

「だって、殺そうと、するから、」

だから二人の揉み合いで近くまで転がってきていた銃を拾って、撃った。
銃を撃つどころか触るのも初めてだった。当ててやろうだなんてちっとも思わなかった。
相手の気を引いて、この状況を打開するきっかけになればいいと、ただその一心だったのに。

「っ、」

自由の身になり、跳ね起きた降谷零が上着を脱いで男の止血にかかる。
私も手伝わなきゃいけないのに体が全く動かない。撃っておいて助けようとするのもおかしな話だが、そうでなければあの人が死んでしまう――私が、殺してしまう。

「はは…」

緊迫した空気の中、場違いな笑声に肩が跳ねる。声の主は私じゃない。降谷零でもない。消去法で男を見る。
撃たれた男が笑っている。楽しそうな雰囲気さえ纏っているその異様さが怖い。どうしてこの状況で笑えるんだ。私に撃たれて、目論みを阻止されたのに。

「何がおかしい」
「お前を、殺し損ねたが…これもまた、悪くない展開だ…笑ってやろうと、思ってな」

血反吐と共に吐き出した言葉に、また笑い声を一つ。
この男は私を人質にバーボンを殺そうとして、失敗した。私が阻止してしまった。
なのに失意に歪むどころか、より楽しそうに見える。その意味の分からなさが怖い。背筋を這う冷たい恐怖。

「オレはもう、助からないだろうから、一つ言っておいてやる」
「黙れ」

応急処置で手を離せない降谷零が苦い顔をするが男の舌は止まらない。
聞いてはいけないと頭の奥で警鐘が鳴るが、あいにく耳を塞ぐべき手は凍りついたように動かない。

「お前のせいだ」

毒の言葉は狙いを違わずに無防備な私に突き刺さる。

「お前が、オレを、殺したんだ」

その通りだった。嫌味でも罵声でもない、ただの事実の指摘に息も心も凍りつく。そこに嘘や誇張のような余計なものはない。シンプルな攻撃だからこそより深く心を抉る。
いまの自分はどんな表情を浮かべているんだろう。想像もつかない。人を殺して、その相手からそれを指摘され笑われる時に浮かべる顔なんて、考えたこともない。
死にゆく男は満足そうに私を見ている。こちらは分かりやすく、クリスマスに枕元に置かれたプレゼント箱のリボンを解くような、そんな顔だった。

「……」

降谷零が止血の手を止めて立ち上がる。…ああ、あいつの言う通り、本当に助からないんだ。
その後ろ姿からはどんな表情を浮かべているのか窺うことはできず、またできなくてよかったと思った。
だってこれでもし想像の通り、人殺しを見る目をあの青い瞳から向けられたら、私は。

「はは、は、はははは!」

瀕死でありながら心底楽しそうに笑う男を置いて、長い足が反転。
こちらに向かって歩いてくるのを見ていられなくて俯く。近付く靴音は死刑宣告へのカウントダウンのよう。

バーボンに扮する降谷零――その正体は警察だ。
きっと私は人殺しの現行犯として逮捕される。警察が目撃者では言い逃れも申し開きのしようもない。
こっちの世界に来て、殺されることはあっても、殺すことはないと思ってたのに。

(最悪だ。たかが漫画のキャラクターを助けるために、人を殺すハメになるなんて、本当に最悪。どうして、普通に生きてきた私がこんな目に、)

その理屈で言えば漫画の世界の人間を殺したのだから、いわば紙面上の人間を消しゴムで削除したようなものだと、なんとか免罪されないものか。

(免罪。免罪って。誰が私を赦して救うんだよ。この期に及んで馬鹿じゃないのか、いや馬鹿は私か。安室透を救う如きに、人を、殺して)

いくら漫画の世界だと割り切ろうとしても、飛び散ったのはインクの黒ではなく血の赤だ。どう言い訳をしても取り繕っても、人間が死んでいる。
否、私が殺した。

(おまえのせいだ、降谷零。私が助けなくてもお前は漫画の重要な登場人物だから助かったはすだ。私が手を汚す必要なんてなかった。おあつらえ向きの奇跡でも起きて、助かったに違いないんだ)

でもそうじゃなかったら?もしあのとき奇跡を信じて何もせず、降谷零が殺されたら?
そもそもこんな事を考えられるのは全部終わったからだ。さっきはそんな可能性を考える余裕なんてさっきはなかった。無我夢中で、あの人を救いたいと銃を握って、そして。

「……」

降谷零が俯いたままの私の前に屈む気配。神の審判を仰ぐ蒙昧な信者のように天を仰ぎ、息を呑む。
漫画の主要な登場人物で主人公の味方という最高の安全圏にいるはずの男は傷だらけだった。激しい格闘の末に服のあちこちは破れ、その下からは打撲痕と朱色が滲む。
滑らかだった頬にはいくつもの細かい傷と血の珠が浮かび、高い鼻筋から垂れていた赤色は酸化し茶色に変化しつつある。更に額から派手に流血した大河は美しい顎先で雫を作っている。満身創痍だ。

そんな中でも、南国の海のように透き通った碧眼はこちらを見つめていた。
自身の怪我など一切の考慮の外に置き、普段の演技染みた色もなく、私のことを心の底から気遣う目だった。

(お前を助けるために人を殺した。お前のせいで人を殺す羽目になった。お前と一緒にいなければよかった)

おもちゃ売り場で駄々をこねる子供のように、我を通したいだけの意味のない感情が込み上げる。幼稚な不満が溶岩のようにぐらぐらと沸騰し噴火の時を待つ。

「  、」
「お前が無事でよかった」

降谷零が私の名前を呼ぶのと、無意識に自分の口から言葉が飛び出たのはほぼ同時だった。
お前のせいだという刃はなりを潜め、代わりに飛び出たのは安堵の言葉。
口にして初めて、自分がこの男の生存を喜んでいることに気付いた。人を殺した衝撃と罪悪感よりも、なによりも。

しかし男は警察で私は殺人者だった。

「…私のこと、…逮捕、する?」

向こうに聞こえないように小声で呟く。
問いかけに見せかけた無意味な言葉に我ながら自嘲する。否定し救ってほしいという願望だけが透けている祈りに、例え神が存在しても応えてくれるものか。

「そんな事はしない」

降谷零は優しい。それだけに虚しい。
今のは私が欲する耳障りの良い言葉を機械応答のように返してくれただけだ。
言わせた側としては惨めさが込み上げる。馬鹿みたい。きっと相手も呆れたに違いない。

「――する理由がない」

どういう意味だ、という問い掛けが新しい銃声にかき消されるのと、大きな手に視界を塞がれるのはほぼ同時だった。
何が起こったのか分からず硬直する私の目許からゆっくりと手を外す。
正面に立つ降谷零の背後に何が起こっているのか分からない。美しい顔には死を告げる天使のような冷厳さが宿っていた。

「なにを、して、」
「…銃を」

私の疑問を無視し、磁石のように手に張り付いた銃から指を一本一本丁寧に解いて奪う。
そして脱いだ手袋で念入りに凶器を拭いてから素手で握り直す。そこまでされれば私にも分かる。証拠の隠滅と指紋の上書き。

(撃った、の?誰を、誰をってそりゃ…)

ここには私達以外の人間はいない。新しい銃声以降、笑い声は途絶えている。となると答えは一つ。

知りたくないのに何が起こっているのか確かめたくて立とうとすると、胸元に押し付けるように強く抱き寄せられた。
恋人にするような甘い抱擁ではなく、言葉と行動を封じる拘束にまんまと何もできなくなる。

どうすればいいのか迷っていると、降谷零がもう片方の手で携帯電話を操作して耳に押し当てる。すぐに繋がったようだ。

「――バーボンです。例のターゲットを射殺しました。回収班をこちらに…はい、報告はのちほど。事後処理をお願いします」

安室透の時のような優しい声色とは真逆の、聞いたことのない冷たくて平坦な声。しかしそれ以上にその内容に動揺する。
電話を切る音と、数秒遅れて息を吐く音。拘束が緩むが相手の顔は見えない。

「君は殺してない。だから逮捕する理由はない」
「は……?」

相手が何を言っているのか理解できなかった。
いや、だって、私が撃った。その傷のせいで助からないと降谷零も判断した。だから私が殺した、という名探偵の出番もない事実の羅列。

「君が撃った相手が死ぬ前に僕が撃った。反論の余地はない」
「……それは…無理がありませんか…だって、私が撃った時点で、もう、」
「君は殺したんじゃない。僕を助けただけだ」

言葉というよりも宣言のように確かな力強さをもって、降谷零は私の殺人を否定する。それどころか助けたのだと、逆の意味を持たせようとする。

「もともと、あの男は不要な殺人に強姦と、あの組織ですら鼻つまみ者だった。だから組織への忠誠を示すために僕に殺害命令が出て、それを察知し君を人質に攫って逃れようとした」

言い訳をするような、説得するような補足。
でも、バーボンとしてはそう命令されていても、降谷零はちがったんじゃないのか。
秘密裏に逮捕して情報を提供させるとか、そうでなくても生きて罪を償わせたいと、警察の降谷零ならそう思ったんじゃないのか。

(それなのに、そうさせたのは私だ)

そもそもの発端としては私が狙われたことで、その相手に致命傷を負わせたのも私だ。そんな私の心を救うために、罪悪感を少しでも払拭するために、降谷零は撃った。必要のないオーバーキルまでして。

(……これが漫画の世界なら、きっと都合良く暗転して終わって、次の話では何事もなかったかのようにケロッとしていられるのに)

現実ではそんなことはない。私が人を撃った事実は消えずに残り、そこから地続きで世界は続く。
降谷零がどう取り繕い偽装をしても、そこに正当な理由があったとしても、私が人を撃ち死に至らしめた事実は何事もなかったと上書きされない。
元の世界に戻り全てがリセットされても、この後味の悪い罪悪感を引き摺ってこれからも生きなければならない。最悪だ。
ああでも、それでも。

男が私の両肩に手を添えて、じっと見下ろす。
現実主義で大抵の事は己の力で解決できるであろうこの男もまた、祈るような表情を浮かべるのだと今知った。

「――ここももうすぐ人が来る。行こう」

差し伸べられた大きな手をじっと見つめる。
恐る恐る指先に触れると、ぐっと力強く引き上げられて立たせられる。もう立てないと思っていたのに、自分の二本足で確かに地を踏み締めている。

降谷零が歩き、それに釣られて鉛のように重い足を動かす。半ば引きずられるように、でも自分の足で地面を踏み締めて、前へ進む。その広い背中を追う。
満身創痍で立っているのも辛いはずなのに、そんな弱音をおくびも吐かずに弱気を見せず、降谷零は歩く。私の不安と罪悪感を払い、助けたものの形を見せつけるように。

「…馬鹿みたいなこと、言うけど。私、やっと、初めて、あなたを助けられたわ」
「いつも助けられてる」
「違う。普段のことなんてたかが知れてる。誰でもできる。――でも今この瞬間、降谷零を助けたのは私だった」

例え別の都合のいい奇跡が他に用意されていたとしても、私がその奇跡になった事実は変わらない。

「それだけは嬉しい」

人を殺しておいて最悪の発言だ。
でも私が人を殺していないと、自分を救っただけだと、そう私の心を救おうとするのなら。その欺瞞に全力で乗っかってやる。
だって、あらゆる感情を天秤に掛けてもあなたの生が嬉しい。

血で滑りながらも、返事の代わりに強く握り返された手は炎のように熱く愛おしい。
言葉の通りに割り切るのにはまだまだ時間はかかるし、一生割り切れないのかもしれない。

でも今はこの温もりがあることを素直に喜ぶべきだと、私もまた負けないくらい力強くその炎を握り返した。








































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あとがき。
正当防衛だと夢主が言い訳をしなかったのは、それくらいテンパってるから。降谷零がそれを指摘しないのは、夢主がその言葉を求めているわけではないから。
運良く、そして運悪く銃弾が当たったのは、降谷零がまだ死ぬべき運命ではないと物語に用意された奇跡だから。
これは私だけが楽しい比較なのですが以前書いた話と「相手を救う」という点で対になっていて、
降谷零は力があるので相手を無効化して夢主を助けられたけど、夢主にはそんな力がないので相手を殺すしか降谷零を助けられなかった
なお夢主が拾った拳銃は降谷零のもの、降谷零は男の拳銃を拾った


2022年 7月3日執筆 帆立
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