しかく窓の外側は夜。
半袖で過ごすのは有り余る元気と謎の意地を持つ小学生くらいという気温の今日この頃。

泊まりにいった降谷零の家で頭を抱えていた。ローテーブルを挟んで座る美貌の男はそんな私の葛藤を面白そうに見下ろしている。
琥珀色の髪の下の碧眼は小悪魔じみて光っているが、目の前で悩む子羊に自ら手を下すつもりはないようだ。良くも悪くも。

「一緒に寝ようかって…いやー、その、年頃の男女が同じベッドで寝るってのもさ……」
「君、今の姿見て言ってる?」
「うぐ」

晴れて恋人同士になったんだから一緒に寝よう。
といわれると確かにその通りそりゃおかしいという要素など微塵もないのだが、恋愛ド初心者にはとんでもないハードルの高さだ。棒高跳びか?
確かに今の自分はそっち方面の魅力は何もない小学生ボディなので、こちらが想像するような間違いなど起きようもないのだが。この男がそういう性癖を持っているはずもなし。

「そのうち、一緒に寝るどころじゃないもっとすごいことするのに?」

向かいの席で頬杖をつく色男が妖艶に微笑み、桃色の舌が口の端からちろりと覗く。たったそれだけでその色香にぶん殴られてすっかり参ってしまう。
林檎をお食べよと誘惑する蛇もこんな感じだったのだろうか。なら人間が楽園を追い出されたのも仕方のないようなものだ。こんなの、手を伸ばさない方がどうかしている。

「やっぱ…しますか…!そういうの…!!」
「する。だから今からもう慣れておいてほしい」
「うぐぐぐぐぐ」

高名な予言者のように揺るがない声。改めて目の前の男を見る。
獅子の鬣のような黄金の髪、その下に象嵌された海色の瞳、甘く整った鼻梁と柔らかい弧を描く唇、美しいカーブを描く顎。
こんなに綺麗な人が自分のような外見も内面も地味な存在を好きだと微笑むのは、覆水が盆に返っていくくらいありえないことだ。今でも夢を見ているんじゃないかとたまに思う。
しかし私を見る目には慈しみと愛しさが溢れていて、愛し愛されることへの多幸感を腹の底から噛み締めてしまう。うう、好き。

(でも恋愛経験幼稚園児レベルの私には刺激が強すぎる…!)

拙いながらも相手からの愛情にはできる限り応えたいという気持ちと、しかし恥ずかしくて死んでしまうのではという未知への恐怖が脳内で激しく殴り合う。
どっちが勝つかと頭の中の裁判官が経緯を見守っていると、長い指が私の手を取って愛しそうに頬を寄せた。何事かと固まるこちらに構うことなく、真珠色の歯が軽く指先を食む。
子供が親に甘えるように、救世主の爪先に口付ける信者のように、恋人に跪き愛を囁く凡庸な男のように、青い瞳が一心に乞う。

「心配しなくても、君の許しがなければ何もしないよ。…ダメかな?」
















「……」

という経緯でいま布団の中にいる。隣には降谷零がいる。
同じ枕に頭を預け、肩と肩が触れ合い、ゆるく握られた大きな手からはずっと熱を感じている。まるで炎を握りしめているよう。
もちろん私は北極圏の氷のようにガチガチに緊張感している。自由な方の手は所在なくシーツを握りしめる。寝れるか、こんな状況で。
いっそ夜が明けるまでスマホで時間を潰そうかとも考えたが、眩しいというもっともな苦情で没収され、手の届かない距離に追いやられてしまった。くそう。

(ひまだな…)

羊を数えてみても柵から逃げていく。青々とした草が生える無の牧場が頭の中に広がっている。…想像のくせになんだか悲しくなってきた。

降谷零はとっくに眠っているようだった。
最初はとりとめもない話をポツポツとしていたが、やがて会話も自然と途絶えて、静かになってからしばらく経っていた。
声を掛ければ返してくれるかもしれないが、喫茶店のアルバイトに公安警察に潜入捜査官と多忙なこの人の睡眠を、しょうもない理由で邪魔するのはどうにも気が引ける。

なるべく相手を刺激しないように、ゆっくり首を動かして様子を伺う。至近距離の美貌にはまだ慣れないが、相手が目を閉じている今だからこそ幸いと暗闇に慣れた目でじっと観察する。
私は降谷さんの顔がこの世で一番好きなのでいつまでも見ていたいが、そうなると当然自分の顔も見られてしまう。こんなつまらない顔を見られるのは嫌なのだ。

(相変わらず、つくりものみたいに綺麗な寝顔)

誰もが羨むような長い睫毛に縁取られた瞼は、固く閉じられて赤い口唇は引き結ばれている。耳を澄ませると聞こえる規則正しい寝息。
天使のような寝顔、というのは度々聞く常套句だが、この男の場合は名匠が手掛けた彫像のよう。
しかしどんな芸術家もこの美しい題材の目の下の濃いクマや眉間の皺まではわざわざ再現しないだろう。やはり相当お疲れのようだ。
空いている方の手を伸ばして整った目許をそっとなぞり、ほぐれろーと念じながら眉の間の亀裂を揉んでみる。あ、ちょっとほぐれた。

(起きない。…いや起きなくていいんだけど。意外と人前でも寝られるんだよなぁこの人…眠りが浅そうな職業と性分をしてるのに)

この人と寝た(敢えての誤解を招く表現)のは初めてじゃない。いずれも意外とすんなり入眠して、私よりも先に起きて活動している。
気の休まらない生活を送るこの人が、せめて眠りだけでも深く摂れていることは救われる話だ。それが自分の隣というのも。

(まぁ私はこのまま眠れないけど、激務の恋人の可愛いワガママを叶えられたんだからよしとするか)

いつも零さんに手を引かれてよちよち歩きの恋愛幼稚園児ですが、ちょっと恋人としてレベルアップできた気がする。ふふん。
ちょっとだけ自己満足感に浸ってから、そのままじっと恋人の美しい寝顔を眺める。なんとも不思議なもので、相手はただ眠っているだけで特にハプニングも変化もないのにいつまでも見ていられる。

まだまだ夜は長そうだ。
















──なんて思ってたんだろうな。

隣の気配が大人しくなってしばらく、自分を観察する様子が絶えたタイミングを見計らって横目で伺う。
予想通り小さな恋人は爆睡していた。僕の寝顔を見ていたのか横を向いたまま無防備な表情で健やかに眠っている。
恥ずかしがり屋で小心者の彼女を、こんな至近距離でじっくり見られるのは寝ている間くらいだ。そんな不便さもかわいいと思っているのだから自分は重症だろう。でも悪くない気分だ。
遠慮なくじっと寝顔を観察してすぐに、やわらかく緩んだ口が微かに動いていることに気付いた。目を凝らして見ると自分の髪の毛を食っているらしい。おいしくないらしく、やや眉根を寄せて寝苦しそうだ。

(…かわいい)

そんな幼子じみた間抜けさも愛しく思える。もしかしたら、以前ポアロで出した時に絶賛してくれたパスタを食べる夢でも見てるのかもしれない。それともこの間一緒に行ったラーメン屋か。
明日彼女が起きたら確かめてみよう、なんて楽しみが増える。そんな些細な未来をくれるところも好きだ。

そのまま眺めているのも悪くなかったが、起こさないようにそっと髪の毛を掬って口から解放してやる。
薄く開いた唇から引き出された髪が唾液と共に細い尾を引くのが扇情的で、でもまだその時ではないと己を律する。
こちらの腹の底の浅ましい欲情など露知らず、自分の肉体年齢を理由に安全圏にいるつもりの恋人は眠り続けていた。信頼されているというか、油断しているというか。

「……」

一緒に寝よう、とは言ったものの本当は彼女の前でも眠れた事はない。
こういうシチュエーションの時は今まで寝たふりをしてやり過ごしてきた。これからもそうかもしれない。
でも恋人らしいことがしてみたかった、なんて平凡な願いに我ながら苦笑する。これがあのトリプルフェイスとは、バーボンを知るベルモットは指をさして笑うだろう。

実際、彼女の寝顔を見るのは好きだ。
死や暴力とは縁遠いこの間の抜けた寝顔を見ていると柄にもなく心臓が温かくなる。

恋人のために働いている、というのは流石に過言だが、長くこの平和な寝顔が続くように。彼女を取り巻く周囲から不幸や暴力が減って、良き隣人が少しでも増えるように。
自分の激務はそのためぼまだ見ぬ良き人達を守るためだと思えるようになった。
今までも漠然と思っていた使命感がはっきりとその言葉を得たのは最近で、その原因は無自覚に隣で呑気に眠りこけている。それでいいと思う。

(さて、癒されたところで仕事の続きでも)

宝物を眺める少年のように、恋人の寝顔をいつまでも眺めていたいが大人には仕事がある。
急ぎの内容ではないが今のこの浮いた時間を使って進めておくべきだろう。今までにそうしてきた通りこっそり起きようと体を浮かすと、襟元に軽い抵抗を感じて引き戻される。
予想外の妨害に内心で驚きながら、服を掴む小さな手とその先を視線で辿る。眠そうな黒い目がこちらを見ていた。

「ごめん、起こし」
「寝ろ」

ドスの効いた低い声の短い命令。
しかしすぐに黒い目を閉じて、やがて安らかな寝息が再開される。そのまましばらく待ってみたが動く気配はない。どうやら寝ぼけていたようだ。

(…参ったな)

警告はまぐれで二度目はないと思いたいが、自分が一緒に寝ようと誘った手前、仕事をして起きているとバレるのはまずい。
ついでに今までも寝たふりだったとバレてしまったら、気を遣って次からは一緒に寝てくれないかもしれない。それは困る。だがそういう恋人なのだ。

(しょうがない。このまま朝まで待つか)

せめてもの、そして追加のワガママというべきか、小さな恋人の手を一度離してからそっとその体を抱き寄せる。
容易く腕にすっぽりと収まる身体は灯火のように温かい。呼吸に合わせて微かに上下する薄い肩すら愛おしい。
どうせ眠れやしないくせに、形として一応は目を閉じてみる。

まだまだ夜は長そうだ。
















「……」

休日という特権をフルに使い、無粋な目覚ましのアラームなしで自然と意識が覚醒していく。
目を開けたはずのに視界が暗い。いったい何事かと身じろぎしようとするも動けない。そこでやっと自分が抱き寄せられていることに気付いた。
ひぇっと小さく声をあげて視線を動かすと、至近距離に降谷零の麗しい寝顔があって心臓が止まりそうになる。あっぶね、あまりの美の暴力に永遠の眠りにつくところだった。

(あれ…でもなんか違和感…)

カーテンから微かに漏れる陽の光の中で見る零さんの寝顔は、眠る前のそれとは違うように見えた。
ゆるく閉じられた瞼、力が抜けて微かに開く唇。いつもの芸術品めいた美しさではなく、こちらも気が抜けるような自然な寝姿があった。

(…かわいい)

今まで綺麗だ美しいだと思っていた寝顔が今朝は違って見える。いつもの暗闇の中ではなく明るい朝のせいだろうか。よく分からないけど可愛いからいいか。

(そういえば、私がこの人より早く起きたの初めてかも)

よっぽど疲れていたのだろう。
いつもは起きれば隣に姿がなく、とっくに活動を開始している男が今回はぐっすり眠っている。珍しいこともあるものだ。

できることならこのまま自然に起きるまで眠らせておいてあげたい。だが切実な問題として胃袋は空腹を感じ始めていた。
こういういい場面でもしっかりお腹が空く自分には呆れてしまう。

(……こんなに深く寝てるんだからこっそり抜け出せば…)

相手を起こしてしまわないよう細心の注意を払いながらこの抱擁から抜け出ようとする。
しかし微かでも相手の腕を動かしてしまった次の瞬間、素早く閃いた手にすぐに引き戻された。任務失敗。

「大丈夫、ちゃんと寝てる…」
「はぁ?」

何言ってんだこの人。
珍しく寝惚けているのか、意味不明な言い訳をする恋人をじっとみていると青い目がゆっくりと開かれていく。
霞がかっていた碧眼が私の姿を認めると、素早く左右を見渡して安心したように肩の力を抜く。野生動物が警戒するような動作。

「朝だよーってうわ、もうこんな時間か。ぐっすり眠っちゃった」

遠慮なく遠く伸ばした手でたぐり寄せたスマホの時刻表示を見て軽く驚く。
ついでに同じ画面を恋人にも見せてやるとぎょっとしたように目を剥いた。これも珍しい反応だ。ちょっと楽しい。

「…僕、寝てたのか?」
「寝てたよ。…というかなにびっくりしてんの、人間なんだから寝るのは普通でしょ」

いつもの精悍な横顔は信じられないという表情を作っているが、何に驚いているのかピンとこない。名探偵なら分かるかもしれないが私は一般人なので。…まぁいいか。

(しかし、私も私であの状況で普通に寝れちゃったんだからびっくりだな…)

たぶんこの人の驚きとは別だけど。寝る前は絶対に眠れないと思ったのにいつのまにかぐっすり爆睡していたのだから、自分の肝の太さには恐れ入る。
でもよく考えたら恋人の腕の中、しかもその相手が降谷零とくれば世界一安全な場所ともいえるから当然か。緩く伸びをして首を回す。

「まだ眠いなら寝てていいよ。私はお腹すいたから勝手に朝ごはん食べるけど」
「──いや、起きよう。ひもじがっている君にご飯を作るのは僕の使命だ」
「なにその使命。というか、なんか、その、可哀想な表現するのやめてくれない!?胃袋キャラ扱いするな!」
「でもお腹空いてるだろ」
「……はい」

恋人が長身を起こすとそれだけでベッドが大きく揺れる。しばらく何かを考えるようにじっとしていたが、短く息を吐いて気合を入れると私を抱えて立ち上がる。これはもう慣れた。
そしてテーブルの椅子を引いて私をセットした後に自身は台所へ向かう。冷蔵庫の中身を確認する背中は逞しくて広い。

「何か手伝おうか?」
「じゃあ好きな果物ベスト10をランキング形式で解説付きで発表してくれ」
「何もないんなら素直にないって言え」
「興味があるのは嘘じゃない。何かの参考にするよ」

参考にする、と言われると期待してしまう。今度のおやつとかポアロのメニューとか。
頭の中で真剣に果物のランキングを練りながら、リモコンを探してテレビの電源を入れる。その間に恋人は食材を取り出し湯を沸かし、フライパンをコンロにセットしていた。相変わらず手際がいい。
椅子の上に立って料理を覗いてから、必要そうな食器を引っ張り出して並べる。冷蔵庫から出した麦茶を飲むと、ひんやりした液体が喉を通っていく感覚が気持ちいい。のど越し最高。

「食事が終わったら二度寝しないか?」
「え?別にいいけど、どうした急に。零さんがそう言うの珍しいね」

勤勉な恋人にしては珍しい提案に軽率に返事をしてから、ああしまったと内心で頭を抱えて後悔。
また心臓を鍛える時間が始まってしまう。いやでも、これも恋人として慣れるべき日常。それに結局はしっかりがっつり眠っておいては今さらだろう。

「そういう気分なんだ。いい抱き枕も見つかったことだしね」

いつもの朝なのに恋人の声はやけに上機嫌で、その抱き枕の心臓がもたないという文句は口奥に消えていった。
…うん、何があったんだか分からないけどともかく嬉しそうだからいいか。気合はいるけどイヤだなんて微塵も思ってないし。

「あと、今日の昼ごはんはパスタにしようか」
「やった!あ、せっかくならこの前ポアロで食べたアレ、アレ食べたい!」
「ふ、もちろん。わかってますよ」

やけに確信めいた言葉に首を傾げる。
あれ、そういえば何も言ってないのにどうして私があのパスタを食べたいと分かったんだろう。恋人は察しが良すぎる。

「…なんか零さん、機嫌良いね。いい夢でも見たの?」
「いや、夢は見なかったけど良い事があった」

顔だけこちらに向けた降谷零が微笑む。

「たぶんこれからも良い事がある」
「??」

謎の深い笑顔と子供のように弾んだ声を返した恋人が再び料理に集中する。
それとは反対に心当たりが浮かばない疑問符の私は置いて行かれたままだ。だが幸せそうな恋人を見ると自分もまた幸せになる。
なのでまぁいいかと、やがて漂ってきた美味しそうな匂いに頰を緩ませた。








































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あとがき。

降谷零は寝る時は服を脱ぐ派なのは存じ上げているのですが今回は着てます。
というのも、さすがにまだ服を脱いだ状態で一緒に寝ようと言っても夢主は刺激が強すぎで逃げるからです(でもその内慣れることになる)
降谷零も夢主も、ベクトルは違えど野生動物ぶりは同レベル(生存本能と恋愛下手くそ)


2022年 7月10日執筆 帆立
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