カボチャや魔女などのグッズが店頭に並び、この世もあの世も浮かれる祭りが近づいてきた夜。
久しぶりの我が家を訪ねた小学生名探偵が、いつになく切羽詰まった様子で言うことには。

「今からあと5、いや4分後にこのスマホに電話が掛かってくるから、お姉さん出てくれる?」
「…、わかった」

コナンくんのただならぬ様子と奇妙なお願いに、隣にいた同居人の昴くんはおやと首を傾げるが、なんとなく思い当たる節があった。
小さな手からケースも保護シートも付いていない剥き出しのスマホを受け取って、自分の部屋に戻る。
時刻は16時56分。つまり17時頃に電話が来るのだろう。

誰から、とか何故、という言葉は出てこない。一般人の私とこんなスパイ映画染みたことをする必要がある人など、あの男しかいない。
そしてたぶん、彼がこんな珍妙な真似をしてまで私に連絡をとりたがるというのは、きっとそういうことなのだ。
足早に自分の部屋に戻って数分、いや先程の会話からきっかり4分後。17時になったと同時に、初期設定の着信音と共にスマホが震えた。
胃の底から重い息を吐いて通話ボタンに触れて、耳に押し当てる。

「もしもし」
「もしもし。――ああ、声を聞いたのは随分と久しぶりに感じるよ」
「先週も喫茶店で会ったんだから大げさだなぁ、と言いたいけれど」

案の定というべきか、電話の相手は降谷零だった。
表向きは探偵見習い兼喫茶店のアルバイト。裏の顔は反社組織所属の有能な探り屋。そしてその実態は公安警察のエリート。…ついでに付け加えると私の恋人だ。
機械越しとはいえ耳元に響く愛しい声にデレデレと頬が緩むところだが、たぶんそういう場合じゃないのだろうと気を引き締める。

「何かあったの?…もしくは現在進行中?」

ドアに寄り掛かっていた背を起こしてベッドに座る。
床まで届かない爪先を落ち着きなく揺らしながら、相手の言葉を待つ。

「当たり。あまり時間がないから正直に白状するとね、今とてもピンチなんだ。――詳しくは言えないけど」
「…そんな気がした」

こともなげに自身の危機を話す彼が、今どこにいてどんな状態にいるのか私には想像もつかない。捕まっているのなら悠長に電話なんてできないだろうし、大怪我ならなおさら無理だし、今は無事ということなのだろう。
これから危険な任務に行くとか?…不安になる。でも、わかりもしないことを妄想して勝手に落ち込むのはやめよう。。
予想通りの事態に自分の顔が曇るのを感じながらも、声は努めて平静に。お互いの表情が見えない電話って、こういう時に便利で助かるね。

「無事に帰ってこられそう?」
「分からない」
「しばらく帰ってこられない?」
「恐らくは」

ウウン、と小さく唸った自分の声もしっかりスマホから伝わったらしく、相手が困ったように笑う気配が伝わってきた。
笑う余裕があるのなら大丈夫だろう。…笑うしかない状況ってのもあるけど。
また悪い方向に考えそうになった頭を切り替えて、会話を続ける。

「私が零さんのピンチに何かできることはある?」
「ない」
「何かしてほしいことは?」
「何も」
「……そっか」

にべもない相手の返事に、まぁそうだろうと素直に自らの戦力外通知を受け入れる。聞いてみただけだ。
彼は約束を律儀に守って電話をしてきただけで、私にピンチを打開する期待など一切していない。そしてそれは正しい。

「ただ、僕が帰ったら『おかえり』って言ってほしい」
「それだけ?」
「それから抱き締めて、キスして、『ただいま』って言いたい」

相手からのストレートな愛の言葉に、不覚にも自分の相好が崩れるのを感じる。
いや零さんは私に事前報告してくるほどのピンチなんだが!?ばか!ニヤけてる場合か!でも嬉しい!!

「…帰ってこられるかも分からない、って言っておきながら待っててほしいなんてワガママだな!」
「うん、ごめんね。ワガママで」

電話越しの恋人の甘えるような声に苦笑する。
降谷零の普段の厳格な態度からは想像もできない声色は、あの気苦労の耐えない部下が聞いたら卒倒するだろう。私は恋人なのでしません。

「――いいよ。待ってるから、なるべく無事で帰ってきてね」
「努力する」

そこで適当に肯定しておけばいいのに、断言しないのが彼の生真面目なところというか。
でも私にはなるべく嘘をつかないという誠実さだと思うと、そういうところがますます好きになるのだ。

「あとそれから、次に泊まりにくる時に何を食べたいか考えておいてね」
「唐揚げ」
「即答。いいけど、なんで?前は固めのプリンとかふわふわのパンケーキが食べたいって言ってなかった?」
「だって、安室透ならプリンもパンケーキも作ってくれそうだけど、唐揚げは作ってくれないでしょ」

電話越しの相手が虚をつかれたような気配。顔は見えないけれど、琥珀色の髪の下のあの綺麗な海が揺れる姿を幻視した。

「――確かに。ポアロのメニューに唐揚げはないし、載らないだらうね。いいよ。とびっきりのを揚げてあげる」
「うん。楽しみに待ってる」

それから数秒、けれど体感にして数時間。
あまり時間がないくせに、けれど互いを抱きしめ合うような柔らかい沈黙が流れる。
新雪が街路樹に薄い雪化粧するように。そしてどちらからともなく小さく息を吐く。

「ごめん、そろそろ切る」
「うん。じゃあ、頑張ってね。ちゃんと待ってるから」

もしかしたら最後になるかもしれない恋人との会話に、心臓を針で刺されるような痛み。
名残惜しく耳からスマホを外そうとした時、ちゅっという甘いリップ音が耳の中に流れてきて慌てて手を離す。
鈍い音と共に床に落ちたスマホからは無機質な通話終了の文字。

「……あ、あんにゃろ~…」

床にしゃがみ込んでしばらくそのまま、さっきまでの不安とは違う胸の動悸を抑えて顔の熱が去っていくのをじっと待つ。
あ、ダメだ。耳からその先の脳までさっきの甘い痺れが浸透して、うわっ思い出すなもう!キスなんていつもするし、…ダメだ今度はキスの余韻が頭を、…。

「…………」

どれくらいそうしていたのか。しっかり頬の熱が冷めるのを待ってから、床に落とされたまま恨みがましい視線を送るスマホを拾いリビングへ。
応接用の椅子では昴くんとコナンくんが向き合ってコーヒーを飲んでいた。伺うような黒檀の瞳と緑柱石の瞳に軽く手を振って応えて、同居人の隣に座る。

「ちゃんと話せた?」
「うん。おかげさまでね、ありがとう。スマホ返すね」

さっき床に落としたことは当然伏せながらスマホを小さな手に返す。
きっとこれは零さんが私との連絡用にわざわざ用意したものだろう。どこにそれを返しに行くのか、私には見当もつかないけれど。

「…聞かないの?安室さんが今どこにいるのかとか、その、どうしてるのかとか」
「すごいピンチらしいってのは聞いたしもちろん気になってるけど…でもさ、聞いたら教えてくれるの?」
「それは…ごめん」
「だよね。だから後で本人の口から直接聞くよ」

近くにあった空のコップを引き寄せてポットを傾けると、中から少し冷めた紅茶が出てくる。わざわざ淹れておいてくれたらしい。
昴くんが横から渡してくれたシュガースティックを溶かして飲んで、小さなため息をつく。うん、甘いものを飲んで少し元気が出てきた。

「…意外と平気そうだね」
「いや、心配だよ。また会えるまでずっと憂鬱」
「じゃあなんでピンチの時は正直に話すなんて約束したの?…心配するの、辛くない?」

分からないというように名探偵が小首を傾げる。

「もちろん辛いけど…でも心配したいの。そりゃ確かに私には何もできないけど、もし何かあった時に能天気に過ごして後悔したくないから」
「…そっか」

そういう考え方もあるかと少年は細い首で頷いて納得する。かく言うコナン君は大事な幼馴染に自身のピンチを隠したがるタイプだ。
相手が大切だからこそ、その心に少しでも負担を掛けたくないという考えは否定はしないけどね。

「でも大丈夫だと思ってる。コナンくんもいるしね」

私の期待に名探偵が困ったように笑う。零さんはどうやらあの時とは違って、小細工を弄さずにちゃんと素直にコナンくんに助けを求めたらしい。
成長したな、えらいぞ降谷零。私も鼻が高い。

「――それで、坊や。こちらに何か協力を要請することはあるか?」

それまで黙って成り行きを見守っていた昴くんが身を乗り出す。こちら、というのは彼が密かに所属しているFBIのことだ。

「そうだね…それに関して安室さんからの伝言がもう一つ。『黙って見ていろ、FBI』だってさ」
「…なるほど」

柔和なマスクの下からくつくつと低い音で笑って、椅子に背を預ける。
私に電話してくるほどのピンチのくせに、彼らしい言葉とお高い矜持に私も呆れ顔になる。いや、ここで赤井さんにも助けを求めたら逆に偽者感が増すけど。

「…で、昴くんは素直に黙って見てるの?」
「ええ。今回は僕の出番はないようですから。逆に現場で鉢合わせて撃たれたくはありません」

味方同士でそんなことはないんじゃない、と私もコナンも否定しない。むしろ揃って苦々しく、深く頷く。そういう面倒くさい男なのだ。……そういうとこも好き。
私達のシンクロに軽く笑った同居人が「それに」と付け加える。

「君を放っておくな、ということでしょう。狙われるような危険度は低いようですが、一応ね」
「…すみませんね。ウチの過保護者が…」

隣に座ったまま恐縮。私の心情的にはぜひ昴くんには零さんを助ける方に回ってほしいが、わざわざ伝言までした。これで鉢合わせたら、観覧者の上のガチンコファイトの再現だ。
話の着地を見届けたコナン君が軽く手を挙げる。

「ちなみに今日は蘭たちは家にいなくて博士の家に泊まることになってるんだけど、このまま泊まっていっていい?昴さんと色々話したくて」
「ええ、もちろん。ここは君が遠慮する理由のない家ですから」
「…じゃあ二人が難しい話をするなら、風呂とか用意しておこうかな」
「ありがとうございます。お願いします」

叔父の言葉に軽く頷く。応接ソファーから立ち上がって伸びをして、無意識に緊張していた肩をほぐしながら部屋を出た。
そして中の二人に聞こえないように軽い溜息。表面上とは裏腹に逸る心臓を押さえて、薄暗い廊下を歩く。
平気そうに装えても、内面はやっぱりいつも通りにはいかない。胃に鉄を流し込まれたように体も気も重い。あのコナン君が味方についているのならきっと大丈夫だろうけど、でも。
やっぱりあんな約束しなきゃよかったのかもしれない。そうすればいつも通り能天気に過ごせただろうに。どうせ何もできないのなら何も知らないほうが。

(…でもやっぱり、一生後悔するよりはきっといいわ)

見えない重圧に負けて俯いていた顔を勢いよくあげて、ヨシと短く気合を入れる。
いま私にできることは誰もが認める名探偵と優秀なFBIの捜査官の二人の思考の妨げにならないように、そして推理の時間を作ることだ。恋人の危機を救うためにまずできることが家の風呂掃除ってのも情けない話だけど。

(零さんがピンチでも何にもできない覚悟は恋人になる前にしたんだから。些細でも情けなくても、私にできることはやらなきゃ)

廊下の窓から見える細い月。彼も同じ空を見上げているのか、それとも見えないところにいるのか。感傷を振り払って前に進む。


後日、唐揚げを食べながらあの会話の最中の恋人の首には爆弾が巻かれていたことを聞いて、ひっくり返ることになるのはまたべつのはなしである。





















「実は最近、首に爆弾が付けられていたんだ」
「……うわ」

自分の首を指でなぞりながらさらっと告げられた恋人の衝撃告白に、自分の顔がゲッと引き攣るのを感じる。
これがもし降谷零ではない一般人の発言であれば「えーじゃあどこのデスゲームに参加したの?」程度のウィットに富んだ返しができるところだが、こいつはちがう。
世間一般に認知されるただの喫茶店員、ではなく公安警察官兼ヤバ組織の有能構成員ともなれば彼の言葉には真実の重みがある。胃がもたれるくらい。

(もしかしなくても、ニュースになってた渋谷のアレかな…テロリストが逮捕されたって言ってたし。確か爆弾犯の…聞いてもきっと答えてくれないけど、多分そうなんだろうなぁ)

なんだかんだと宥めすかして、自分の膝の上に乗せた恋人の百面相をどう思っているのか。零さんが手持ち無沙汰に私の髪をくるくると指先に巻き付けて遊ぶ。彼の家だから誰も咎める人はいない。
さっきまで感じていた顔の距離の近さとか、布越しでもわかるくらい鍛えられた太腿を意識して恥ずかしいとか、そういうのが一気にどうでもよくなってしまった。
まさかこれも計算の内なのだろうか、とジトっと不審な目を向けるがすぐ近くの美貌は首を傾げて見せるだけだった。29歳成人男性のくせに異常に可愛い。くそ、負けだよ負け。

「それ、私と電話してた時も?」
「うん」
「マジかー…そんなピンチに陥ってた人と会話してたのか…いや確かにピンチとは言ってたけど…」

恐る恐る零さんの首筋に手を伸ばす。指先に触れる皮膚は炎のように熱く呼吸に合わせて脈打ち、目の前の人間が幽霊でないことを確かに教えてくれる。
そっと両手を広げて包んでみるが、小学生の自分の手は小さくて首輪というには長さが足りない。
ぺたぺたと遠慮なく自分の首を触る私を、青い瞳が柔らかく細めて見下ろしている。止めるつもりはないようだ。

(本当は、そんな危ない真似をするなとか言わせてほしい)

ぐっと本音を堪える。
それを承知でこの人に付き合うのだと、決めたのは誰ともなく私だ。強制されたものでもなく、ちゃんと自分の意志で決めたのだ。
むしろダメ元で約束させたルールをせっかく守ってもらえたのに、肝心の相手がこんな風でいるとこれから先の危機ももう話してくれなくなるのかも。

(そっちの方がイヤだ。私は、望んでこの人の心配をしてるのよ)

蚊帳の外に置いて大事に囲われるのも愛かもしれないが、そんな薄皮隔てたような愛情は拒絶する。
大きく息を吸って吐いて、首から離した手で相手の頭を包み込む。そして琥珀色の髪をぐしゃぐしゃにかき乱して、恋人の謎行動に瞬く海色の瞳を見下ろして、笑ってやった。

「でかした!よく頑張った!なによりも、ちゃんと無事に帰ってきて、それが一番えらい!」
「…うん」
「――、」

虚を突かれたような表情のあと、あの降谷零らしからぬ子供みたいな笑顔に一瞬呼吸を忘れる。見惚れてしまった。…ああ、やっぱり私は、この人のことが好きだな。
同じような不安はこれからもずっと、影よりも親しく付き纏う。無事な姿を見てネガティブな感情が綺麗さっぱり浄化されるわけではないけれど、深い愛情の前では少しだけ忘れられる。
これは私が零さんを好きでいる限り一生付き合っていく感情だ。こればかりはどうしようもない。むしろ私が強くならなくちゃ。

「しかし、首輪爆弾ね…創作の世界でしか見たことないけど、ちゃんと零さんの首が繋がったままでよかった」

不安そうになる声を薄布で隠して軽口をたたきながら、頭を撫でていた手を再び首筋へ。つつ、と人差し指を熱い皮膚に滑らせる。

「いつもの手触りだ」
「…ふ、くすぐったい」
「あ、ごめん。イヤだったよね、大変なことがあったばかりなのに」
「恋人なら大丈夫。だからたくさん触って、上書きして」
「うわ、っとと」

春の風のようにくすくす笑いながらゆっくり体重を掛けてくる零さんに、びっくりして身を引くが指先に重ねられた大きな手が離れない。
このまま気まぐれに押し潰されたらどうしようと焦る恋人を見下ろして、男がまた微かに笑った。もう片方の手を私の腰に回してぐっと抱き寄せられると、本当に逃げられない。

「実はあれ以来、ネクタイを巻くのも少し緊張して。ちょっと困ってるんだ」
「…ちょっと困ってるって人の声色と顔じゃない気がする」

蜂蜜よりも甘ったるい声と囁き、噎せ返るような色気の暴力に眩暈。脳が甘く痺れるのを感じながら、それを薄っぺらい不機嫌さで隠そうとする私に零さんは小さく笑う。
さっきまでは忠実な飼い犬と飼い主のような距離感だったくせに、あっという間の逆転。さっきまで持っていたリードと首輪を自分に付け直されたみたいだ。

(……まぁ、いいか)

頭上に藤花のように垂れる金糸と、凪いだ海のように穏やかな碧眼と、なによりも深い恋慕に満ちた顔に見つめられると大概のことはどうでもよくなる。
よく考えなくても、この警戒心の強い男の急所を好きなようにさせてもらえる人間なんてそういない。自分がその小さな円の内側にいることにたまらない喜びを感じる。

「君と話している間、正直この首輪がいつ爆発するか気が気じゃなかった。通話を切ったらこれが最期の言葉になるのかもしれないとか、もしくは話している最中に起爆したら、とか」

さっきまでの恋人同士の戯れから一転して、真剣みを帯びた声色と言葉の端からは恐怖が感じられる。
結果だけを見れば助かったけれど、それは現在だから言えることであって過去の零さんがそのことを知る由もない。

この人も不安になるのだ。
漫画のメインの登場人物だからいつも生きて帰ってくるのが当たり前じゃない。
職業柄いつ死ぬかもしれないと覚悟を決めていても死にたくなくて、懸命に抗って、だから生き残れるのだ。

インクで書かれた絵ではなく生きている人間だから。
そしてその獅子の死にたくない理由の一つに自分のようなちっぽけな虫が存在が居座れていることことがまた嬉しくて、愛しい。

「だから今、こうしてまた君と話せて本当に嬉しい」
「……零さん」

雨垂れのように静かな声を聞きながら、電話をしていた時のあの沈黙の中で、ついぞ口にせず堪えた感情や言葉の数々を思うと胸が締め付けられる。
湧き上がる情動のままそっと首を引き寄せて唇を寄せる。蜂蜜色の肌の下で密やかに脈打つ鼓動は泣きたくなるほど力強い。

「……」

微かに濡れた音と共に唇を離して、一拍。…冷静になると何やってんだ私。いや恋人なんだし上書きしてくれって言われたから別にいいんだろうけど、いや、だめだ、恥ずかしくて死ぬ。
目を合わせないようにすすすと顔を移動して、額を相手の胸板にぐりぐり押し付ける。うわっだめだこれ一生顔を上げられん。

「ふ、ふふ…び、びっくりした?」
「うん。かなり」
「そりゃよかったです……」

どうやらきちんと上書きできたらしいが、恥ずかしくてとても顔を上げられない。できればこのまま消えてしまいたい。
お客様!お客様の中に人体消失マジックが得意な手品師の方はいらっしゃいませんか!?…いやいないか。でも後悔はしない。

しかしこの後どうしたものかと身を強張らせていると、柔らかい笑い声と共に抱き寄せられる。
触れたところから熱がぶわっと元気よく走り回っていくような感覚。

「もうこのまま一生顔上げられない…ずっと地面だけ見て生きるわ…」
「それは困るよ。唐揚げを作る準備もしておいたのに」
「!…それは食べる!」

がばっと勢いよく顔をあげて、迎えられた零さんの生温かい笑みに顔が苦くなる。私の一生分の決意はラムネ菓子よりも脆い。

「そんなに食いついてもらえるなら、昨日から頑張って仕込んでおいた甲斐があったよ」
「笑いたければ笑えよ…」
「笑わないけどかわいいと思うよ」
「そういう意味でかわいいって言われてもあんまり嬉しくはないですね」

くすくす笑いながら子供をあやすように再び頭を撫でられ、不服そうな顔を作っておきながらも大人しく身を任せる。
自分がそこまで食い意地が張っているキャラではないと思っていたけれど、やっぱりこの人の料理がおいしすぎるのがいけない気がする。今
は子供の身体だから大丈夫だけど大人に戻ったらどうしよう。また太るわ、絶対。

「まぁ大変は大変だったんだけど。今回ばかりは死ぬかもしれないと思ったし、でも悪いことばかりじゃなかった」
「ええ…?これ以上ないくらい悪い目に遭ったように聞こえたけど、なんで?まさか何かいいことでもあったの?」
「うん。――あいつらが助けてくれたから」
「あいつらって?」

長い睫毛を伏せて、美しい男の顔に寂寥感が掠める。
訓練されたオウムのように疑問を返しておきながらも、しかしなんとなく思い当たる節があった。
この人がこんなに嬉しそうに、懐かしむように話す親しい人達といえば彼らしかいないだろう。――でも、あの人たちは。

「君にもあまりちゃんと話したことはなかったけれど、僕には幼馴染と警察学校時代に特に仲の良かった友達が4人いて、」
「うん」

シンプルな相槌を打ちながら、でも本当は知っている。彼にしてみれば初めて話すはずなのに、私には全員の名前と顔だって思い出せる。
だから零さんがその言葉の続きに一瞬躊躇った理由も分かっている。

「――でも、全員殉職してて」
「……うん」

それも本当は知っている。どんな経緯で命を落としたかも。
けれどもちろん口にはしない。初めて聞いたような演技で、不謹慎な興奮と驚きを覆い隠して。

出会いは最悪。それから私が失踪し、一度は無残に傷付け合って袂を分かち、そして降谷零と恋人になった。
けれどこの人は今までその恋人である私にも彼らの話をしたことがない。口にしようとした気配はあっても結局は飲みこむのを察していた。それくらい零さんにとって軽々しく触れられない秘密の庭だった。
それを少し寂しく感じはすれども、彼にとってはまだ真新しくて深い傷口を無理に晒す必要はないと思っていたし、このままずっと話さないものだろうと受け入れていた。

「けれどあいつらとの思い出が今回の僕を、たくさんの人を救ってくれた。嬉しかった…油断すると泣いてしまいそうなくらい」
「泣かなかったの?」
「コナン君の前だったからね」

整った眉を下げて笑う零さんを、あの小さな名探偵はその涙を笑ったりはしなかっただろうに。そこで意地を張ってしまうのが彼らしいといえば彼らしいが。
やや短い沈黙。窓から差す夕焼けの光が室内に舞う微かな埃を照らし、音もなく地面に落ちていく。私は尊い言葉を待つ信奉者のように胸を高鳴らせて、しかし催促なんてしないで大人しく待つ。
私が望めば話してくれるかもしれないけれど、彼自身の意志と言葉で続きを聞きたかった。例え後日に仕切り直しになっても。
形の良い唇が意を決したように短く息を吐いた。

「それで、久しぶりに思い出話をしたくなった。聞いてくれる?」
「うん。たくさん聞きたい」

知識として知ってはいても、実際に本人の口から聞けるのはやっぱり嬉しい。
そんなつもりではなかったとはいえ、この人が大事に仕舞ってきた思い出を本人の許可なく知っているのはカンニングをしているようでずっと後ろめたかった。
だからその話を聞けるのは、自分がそんな大事な宝物を共有して一緒に眺めることを許されるほどの存在になれたのは、胸が震えるほど嬉しかった。私まで泣きそうなくらいに。

「じゃあ唐揚げ揚げてからにしようか」
「いやなんでだよ!さすがの私も唐揚げよりも思い出話のほうが大事だよ!」
「でも長くなるからね」

感動の場面からいきなりジャンルが変わった空気感と雰囲気にずるりと肩の力が抜ける。さすがの私の胃袋もそれくらいは空気を読むと強く抗議したい。

「あいつらとの思い出は多すぎるから」
「――そっか」

まぁ本人がそう言うのならそれ以上強く言えない。私の腹時計を心配するだけでなく、彼なりに心の準備があるのだと思いたい。え?あるんだよね?
男は私を膝の上からおろしてから猫のように伸びをして、軽く首を動かして天井を仰ぐ。ああ、そういえば。

「大事なこと忘れてた。…おかえり」
「…うん、ただいま」























「………」

いつの間に眠っていたんだろう。
薄く目を開けて自分が柔らかい布団の中でまどろんでいることに気付いて、傍らに寄り添う熱の正体を確かめる。
微かに上下する胸の先を視線で辿って、終点に千年の眠りも恥じらう美貌の男が目を閉じて寝息を立てている。うん、案の定零さんだった。…むしろ違う人だと困るが。

勝手に充電してくれていたらしいスマホの画面を見ると、控えめな明かりと共に表示された文字は真夜中を示している。
布団に入った記憶はないから話の途中で寝落ちしてたんだろう。大事な場面だったのに、まったくこの体は眠気に正直で困る。

(聞きたいって言っておきながら寝落ちしちゃったのか…ごめん…)

恐る恐る恋人の顔をじっくり確かめて、軽く息を呑む。
閉じられた長い睫毛の端からは透明な細い筋が伝っていた。流星が尾を引くように微かに光る軌跡のその意味するところに、なんだか私も泣きたくなって手を伸ばす。
星を追う子供のようにそっと瞼に触れてまだ残る雫を拭うと、目を閉じたまま零さんの口元が小さく綻ぶ。星明りのように柔らかい笑みで。

「ごめん。起こしちゃったね」
「いいや、まだ布団に入って30分も経ってないよ。こっちこそ長く話し過ぎた」

まるで毛布に包まる子供のように、もう一度体を抱き寄せられて横向きに寝転ぶ。たったそれだけでどうになってしまいそうな多幸感。

「――寝て起きたら、また話の続きを聞いてもいい?」
「もちろん。また話そう。僕もここのところずっと気を張っていて疲れた」

ふぁぁ、と小さな欠伸と共に滑らかな頬を頭に寄せて、そしてすぐに微かな寝息が聞こえてきた。どうやら疲れているのは本当らしい。
目が覚めてからも続きがあることにほっと安堵。まだ綴られる素敵な物語の続きに思いを馳せて、私も欠伸をしてから目を閉じる。

ああ、私もやっとぐっすり眠ることができそうだ。







































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あとがき。
・時系列的にはたぶんコナンくんが安室と接触した後くらいです。夢主に伝言しに自分の家帰ったのだからそのまま泊まっていくかなと…(原作は博士の家でしたが)
・降谷さんに毎回会うたびに好きだと言われ自己肯定を育てられているので、夢主は『待て』ができるようになった。
・思い出の詳細を聞いた夢主は、自分の状況も相まって、さすがに降谷さんに名探偵たちの正体バレたんじゃない!?ってハラハラするけれど、降谷さんは夢主を困らせたくないのでその辺は突っ込まない
・降谷さんは友人達との思い出はこれくらい奥に大事に仕舞い込んでるものだと嬉しい




2022年 10月23日執筆 帆立
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