「んがっ!?」
左半身に走った軽い衝撃と、頬に当たる冷たい木の感触に目が覚めた。
そのままごろりと転がって仰向けになると、やけに高い天井に洒落た黒いシーリングファンが静かに回転して空気を攪拌していた。
ダメ元で一度目を閉じてからもう一度開けてみるが、景色は変わらない。そりゃそうだ。これが夢ならさっきの衝撃でとっくに目が覚めているはずなんだから。
例によってまたしても知らない天井である。
でも前回見た光景とは違う。つまりまた知らない部屋にいるらしいが、せめて今度は危険のない場所であってほしい。
(・・・これで実は夢オチでした説が否定されたってことか・・・・いやだなぁ)
あのあと、たぶん私は気絶して(突然寝たとは思えないし)、あの人が私を連れ出してくれたのだろう。
もっと深く思い出そうとすると、どこからか頭痛がやってきて頭蓋骨の内側を激しく暴れまわった。
考えるのをやめるとすーっと痛みはどこかへ去って行く。まるで『深く考えるな』と言わんばかりだ。まぁ、あんな非常識で非現実的な出来事の連続だったから頭が痛くなってもしょうがないか。
のそのそと身体を起こすと、私に掛けられていた薄い毛布が動きに合わせてずり下がる。
前回は天蓋付きの大きくて柔らかいベッドにビロードの掛け布だったが、今回は革張りの固いソファーに薄い毛布である。待遇としてはランクダウンだ。
でも部屋の主の予想が当たっていれば、むしろ意外なほどの優しさに感謝すべきだろう。ほら、顔を上げればそこにいる。
(やっぱりそうだ)
広い机の上に長い足を乗せて、腕を組んで目を閉じている銀髪の男。なぜか半裸。寒くないのか?いや、私のせいか。
昨日あの屋敷で出会ったばかりの自称便利屋―――兼デビルハンターのダンテ。いや助けてもらったんだからダンテ『さん』だ。
流れ的に考えればあの人の家なのだろう。しばらくじっと眺めてみたが動きはないからたぶん眠っているんだろう。・・・ちょっと安心。
(もしかしてこれ以外に布団とかないのかな。申し訳ないことしちゃった)
それならせめて近くの壁に掛かっているあの派手な赤いコートを着ないのかとも思うけど。まぁ、私が唯一の毛布を奪ってしまったらしいことは事実だ。
物音で起こしてしまわないようにそっと近付いて、その素晴らしい肉体美に毛布をかぶせる。
長い銀糸の睫毛に縁取られた瞼は閉じたまま動かない。どうやら移植手術は患者に気付かれず成功のようだ。おめでとう、私。
(もちろんだけど、何かされた形跡はなし。服もあのドレスのまま。まぁ、こんな美形ならそんな必要もないか)
街角にただ突っ立っているだけでも無限に女を引き寄せそうな外見の男が、わざわざ犯罪に手を染めてまで私ごときに手を出すまい。
文字通り身一つなのだから盗まれるようなお金も物もない。よかった、何も持ってなくて―――いやよくないか。おかげで何も分からないしできないんだから。
「さて・・・」
落ち着いたところで、改めて周囲の様子を見渡してみる。
人の部屋を勝手に観察するのは趣味が悪いが他にやる事がない。それに自称便利屋兼デビルハンターという、普段の自分からは一生関りがない相手への純粋な興味があった。
部屋の隅に鎮座するのは大きなジュークボックス、凹凸が目立つビリヤード台と床に転がるナンバーボール、使ってるのか分からないドラムとアンプのセット。娯楽には事欠かないらしい。
それらを全て睥睨するように奥に置かれた机と椅子はまるで玉座のよう。そこに眠る王様がダンテさんというわけだ。
その背後には大きくて立派な毛皮がその飾られているが、何の動物だかさっぱり分からない―――もしかしたら悪魔かもしれない、なんて。
(普段はどんな生活を送ってるのか全然想像がつかない・・・まるで子供の遊び場みたいだ)
唯一、階段下にひっそりと置かれている古くて小さな冷蔵庫だけが生活感を感じさせる。
二階へと続く階段は雑多に物が置かれて足の踏み場がない。恐らくまともに使っていないのだろう、もったいない。
机に意識を戻す。
長い足の横には古風な黒電話、大きな黒白の二挺拳銃に鈍く光る弾丸。そしてトマトジュースの空瓶とピザが入っていたらしき空き箱が無造作に置いてある。
一応は第三者の私がいるにも関わらず、堂々と武器を放置するのは豪胆というべきか不用心というべきか―――迷ったところであるものが強く目を惹きつけた。
(きれいな女の人・・・ダンテさんの恋人なのかな)
木のフレームに飾られた写真立てに写っているのは、豊かな金髪に濡れたような赤い唇、柔らかい青い瞳で微笑む美しい女性だった。
さすが、美形の恋人は美女というわけか。恋人の写真を甲斐甲斐しく机の上に置いておくなんて、この男にも意外と可愛いところがあるらしい。
(・・・ん?恋人がいるのなら私がここにいるのってまずくないか?)
自分がここにいるのは不可抗力とはいえ、「キーッ誰よその女!」みたいな展開には―――ならないか。どう考えても相手の方が美人だし。
でもそういう面倒なことが起こる可能性がカケラでもあるなら逃げ出したい。いや、そもそも私としてはとっとと家に帰りたいのだ。怪しさ満点の謎の依頼人なんかに会いたくない。
その依頼主とやらは、たぶん、否、絶対に私があの屋敷に連れて行かれた原因を知っている。ひょっとしたら一枚嚙んでいるのかもしれない。
でもそうなると、どうして高い金を払ってまで一度は確保した身柄を、わざわざダンテさんに回収させるというワンクッションを挟むのかという話になる。それはさすがにないとしても。
―――とにかく、そんな勘ぐる必要がある相手と会う事に誰が乗り気になれようか。殺されるのも危ない目に遭わされるのもごめんだ。
(眠っている今なら逃げてもバレないかな?)
そろそろと足音を殺して外へ続く扉に近付き、鈍色に光るドアノブに手を掛ける。
ここがどこなのかも知らないが、例え外国でも同じ地球なんだから何とかなるだろう。それこそ迷子だと警察に駆けこんでもいい。
このよく分からない事情をどう話せばいいのか頭が痛いが、ともかくこんな異常な状況から抜け出して現実的な何かに頼って安心を手に入れたい。普通を感じたい。
(でもこの人、依頼を果たさないと明日のピザ代にも困るって言ってたし・・冷静に考えればだからどうしたって話で、無関係な他人なんだけど)
昨日出会って、それも一時間にも満たないくらいの時間を一緒に(しかも半ば強制的に)過ごしただけ。
それまでの面識は全くないし、彼のこれからの人生においても通行人ですらないだろう。ここで恩を売っておく必要性も、気に掛けるような関係性もない。
きっと第三者の視点から見ても私がここで逃げても責められない。それくらい他人で、無関係で、どうでもいい。きっとその依頼とやらがなければ相手もそう思ってる。
『アンタの悪いようにはしねえ、相手がどうであれ守ってやるよ』
でもこの男はそう言ってくれた。
実際、私を守って悪魔と戦って、そしてあの危険な屋敷から自分の家に連れ帰ってくれた。おかげで私は今こうして無事でいられている。
依頼のためだと言えばそれまでだし実際にそうかもしれないけれど、でも結果を見れば私は一方的に助けられている。
「・・:・・・・」
それでもたっぷり数分間迷ってから―――結局はさっきまで眠っていたソファーに戻って大きな溜息をつく。
「アホくさ・・・・」
出会ったばかりの変なイケメンの言葉に従って自分から逃げ出すチャンスを棒に振るなんて馬鹿みたいだ。我ながら従順すぎて呆れる。
でも私史上最大と言ってもいいピンチから助けられたからには恩を返さなければならない、と思う。
その結果が後悔することにならないかとても不安で、もう既に後悔しているけれど。・・・これで何かあったら化けて出てやるからな。
(何かあってもいいように、せめて誰かに連絡をとっておきたところ)
再びダンテさんの眠る机に近付く。さっきから落ち着きなく部屋をウロウロする不審者だけど誰も見ていないのでセーフ。
目当てのレトロな黒電話は長い足の交差点の近くにあった。くそ、結構広い机なのに何でそんなギリギリのところにあるんだ。
なるべく相手を起こさないように電話したい。もし起こしてしまったら―――ちらりと視線が机の上にある大きな拳銃に胃が重たくなる。いやいや、さすがにまさかね?
(それにしても、昨日はバタバタしててそれどころじゃなかったけどすごく綺麗な顔。モデルさんや俳優さんみたい)
まっさらな雪原のように輝く銀髪、あの宝石のように青い目は閉じられていたが長い睫毛が行儀よく並び、美しく通った鼻筋と唇は甘い魅力を放っている。
それに加えて(今は毛布で隠れてしまっているが)名匠の彫像のように完璧な筋肉と肉体美。
同性から見ても憧れるであろう美形っぷりは、異性である私ももちろん見惚れてしかるべき―――だが。
(いや、全然ときめかねーな・・・なんでだろう・・・)
もちろん相手を美しいとか格好良いとか思う感情はある。この男を恋人にできる人はきっと幸福だろう。誰もが羨む外見なのは間違いない。
でも、心が浮つこうとしてもピシャリと冷水を浴びせられたような冷静さがすっとやってくる。
それどころか頭の奥がチリチリと焦げるよう。猛獣と対峙したように落ち着かない。私だって人並みに美形は好きなのに、なんでだろう。
物騒な銃や剣を持っていて、それを武器として使うと知っているから?
でもこの人は私を傷付けなかったし、むしろ悪魔から助けてくれたというのに。・・・ゾンビを殺すのは何故か拒否されたけど。
(そもそも今時こんな大きな剣って・・・どこで売ってるんだ、こんなの)
椅子の後ろ、男の手の届く距離にはあの大きな剣も立て掛けられている。こんな物騒なもので斬られたら文字通りひとたまりもない。恐ろしい、恐怖の対象だ。
でも「この機会を逃したら二度とナマで拝見することはないだろう」という好奇心から剣に近付いてしまう。
目と鼻の先の距離まで近付いてじっと観察。
その大きな金属の塊は室内の光を受けて重く鈍色に光り、柄には角の生えた悪魔の骸骨と肋骨を思わせる装飾が施されていた。
何をどう考えてこんな不気味な剣にしたのか。どう見ても正義の騎士が持つような剣のビジュアルじゃない。
―――しかし安っぽいコスプレグッズにはない、真に迫るような迫力と言い知れぬ圧力、そして昏い魅力があった。
「――――、」
まるでその剣自体に引力があるように、それが本物で危険な代物だと分かっているのに、吸い寄せられるように手を伸ばしてしまう。
触れるだけで斬れてしまいそうな刀身に指が届きそうになった時、何かが雷のように閃いて私の手首を掴んだ。
「そこまでだ。それに触るのはやめときな」
「ヒェッ・・・す、みません・・その、珍しくて、つい・・・」
いつの間に起きていたのだろう。
あの綺麗な薄氷色の瞳が私を見ている。さすがに盗もうとは微塵も思っていなかったが、そうとられてもおかしくない状況の気まずさに息が詰まる。
このまま腕を折られたらどうしよう―――そんな事を考えた時にぱっと相手の手が離れた。恐る恐る表情を伺うも、特に怒っているような気配は感じない。安堵の溜息。
「おはようございます。・・・その、もしかして最初から起きてました?」
「鳥が車に轢かれるとあんな声が出るかもな」
ってことは最初から起きてたんかい。というか気付いてたんなら声掛けろや。
私の無様な様子を思い出してか、ダンテさんは屈託なく喉奥で笑う。意外とツボに入ったらしい。
その笑い方は無邪気な子供のようで、昨日バンバン銃を撃って剣を振り回して悪魔を殺していた人間と同一人物とは思えなかった。いや、確実に同一人物なのだが。
相手が楽しそうなのは結構だが、しかし当の本人としてはとても気まずいのでさっさと話題を変えることにする。
「すみません。私、気絶しちゃったみたいで・・・。それで、あのお屋敷は、」
舞台役者のように大袈裟にごくりと唾を飲む。
「その―――悪魔は、どうなりましたか?」
悪魔。よりによって悪魔だなんて、普段なら馬鹿馬鹿しくてとても口にしないワードだ。
でも今の私はこの上なく真剣だったし、同じ認識を共有する相手もまたそれを笑おうとしなかった。ふっと小さく息を吐く。
「燃えた」
「もえ・・・燃えた?いや、えっ本当に?何で!?」
「さぁな。俺は気絶したアンタをここに連れ帰って、出直したらもう大火事だった。消防車は来てなかったけどな」
屋敷が燃えた。あの場所は一体何だったのかとか、どうして私が寝かされていたのかとか、そういうのを調べる前に一切燃えてしまった。
別に、火事自体は現実にも有り得る事だ。
それ自体とびっきり不審な訳でもないが―――でもこの場合はタイミングにはサイコロの出目の悪手のような偶然よりも滴るような悪意を感じる。
「それって、証拠隠滅みたいな・・・なんて、」
「『みたい』じゃなくて『そう』なんだろ」
「・・・・・・・・こわ・・・」
じゃあ、あそこにいたあの女ゾンビ(?)さん達も全部燃えた訳だ。
目が合った時の息が詰まるような恐ろしさと、触られた時の背筋が凍るようなあの冷たい体温を思い出す。彼女達が自分を庇うような行動もしたことも。
モヤモヤする。
べつに、私とあの人達に繋がりはない。年齢や顔立ちだってバラバラに見えた。会話すらしていないんだから思い入れもない。
でも、ただ襲ってくるだけだったらこんな気持ちにならなかったのに。どうして私を助けようとしたんだろう。
(ああ、まただ。頭が痛い)
非現実的な事態に戸惑っているせいか、慣れないことをしているせいか。再びあの頭痛がやってきてこめかみを押さえた。
無心で痛みが治まるように念じていると徐々に引いてくる。―――これ以上考えるのはやめよう、名探偵でもないんだからどうせ答えなんて出やしない。
「なぁ、アンタ何者なんだ?」
矢を射るように直線で探られても困ってしまう。私だって何がどうしてこうなっているのか聞きたいくらいなのだ。
もし『失われた王家の血筋』とか『実は超能力者でした』とかそんな分かりやすい設定があれば誰も悩まない。
しかし普通の基準は千差万別とはいえ、どう考えても自分の生まれも育ちも一般家庭の域を出ないのだ。誰かに物語として綴られたり読まれたりするほどの価値もない。
「別に、どこに出しても恥ずかしくない普通の人間ですよ。見りゃわかるでしょう」
「確かに見りゃわかるがつまんねぇ答えだな」
悪かったな、つまんなくて。でもそうとしか思えないんだからしょうがないだろ。
私達の間を沈黙が静かに通り過ぎていく。薄氷色の視線が私を検分するように見つめていて居心地が悪い。そんなに疑っても何も出ないんだってば。
誰かもしくは何かがこの状況を何とかしてくれないものかと思い始めた頃、ジリリリリというアナログな黒電話の音が鳴った。
興ざめだとい言わんばかりに大きな溜息を吐いた男が、机の上に乗せた足を雑に叩きつけると毛布とコードレスの受話器がくるくると宙を舞った。
流星のように落ちていく電話機は吸い込まれるように大きな手に収まり、気だるげな声で相手に応じた。もう片方の手で毛布をキャッチするのも忘れない。
「開店休業中だ。よそをあたりな―――ってエンツォか」
学校の授業中に暇を持て余した子供みたいに椅子を傾けて、ゆらゆらと揺らしながら鬱陶しそうに答える。
この変人に電話を掛けてくるエンツォという人にも興味はあったが、それよりも今しがた目の前で起こった神業のような出来事に脳みそが痺れていた。
(い、や、いやいやいやいやいや待て!今何した!!?さらっとなんかすごい事しなかった!!?)
言葉にすれば、ただ電話をとっただけ。それなら私だってできる。
それをこの男の手にかかればまるで映画のワンシーンのように格好良くなる。なった。CGもトリックもなくやってのけた。今この目で見ても信じられない。
自らの神懸った芸当を顔色一つ変えずに(訂正。むしろ相手の声にはうんざりしたような表情をしている)ダンテさんは応答している。
彼にとっては数ある失敗の成功例ではなく、成功して当然の日常の一コマということなのだろう。マジか。
デビルハンター。便利屋。
たぶん物騒な職業だ。きっと強くなければ務まらなくて、強さとは身体能力の高さや各種感覚の鋭さなのではないかと思う。素人考えだけど。
たった今それらをさらっと証明したこの人はその職業から物語を連想するように本当に凄いのか?それこそ主人公のように!
「目覚めの悪くなるモーニングコールだ」
電話越しの相手はまだ何かを喚いている途中のようだったようだが、意に介さず電話機を放る。
それはもちろん無様に地面に落ちることなく、運命や台本に定められたようにお行儀よく本体に収まった。思わずパチパチと拍手してしまう。
そういえば、スタイリッシュ電話応対にすっかり気を取られてしまっていたけど、何を話していたんだろう。・・・この人も電話するような友達いるんだな。
「なんだその拍手」
「いや、世界一かっこいい電話応対を見させてもらったのでつい。・・・にしても、相手の人怒ってませんでした?」
「俺にこの仕事を紹介した仲介屋だよ。待ち合わせの時間を忘れてんじゃねーかってわざわざ電話してきやがった」
「ああ・・・・」
なるほど信用がない。そしてそれはたぶん正しい。
なにかこの部屋に違和感があるなと思ってよく観察して気付いた。ここには時計がない。窓から差し込む光で夕方かなと分かる程度だ。
確かに勤務時間に融通が利くのが自営業の強みとはいえ経営に強気すぎるだろう。・・・この人にお金がないのって自業自得なんじゃないか?
不機嫌そうにしながらも、近くにあったコート掛けに掛かっていたあの赤いコートを手にとって身に纏う。銀嶺色の髪と彫像のように白い肌に赤は確かによく似合った。
あの大剣は黒革のギターケースの中に隠して背中に背負い、机の銃はクルクルと回して背中のホルスターに収める。
(こんな自由人みたいな人でもちゃんと剣を隠すような社会性はあるんだ)
剣はともかく銃は隠さなくていいのかとも思うけど。まぁここ外国みたいだし、問題ないのか・・・?
それでも日本だったら職質待ったなしの格好で、ダンテさんは大きな欠伸をして首の骨をコキコキと鳴らす。野生の猛獣の寝起きのような仕草だ。
「待ち合わせ?えーと、いってらっしゃい?」
「なに見送ろうとしてんだよ、アンタも来るんだ。依頼主に引き合わせるんだからな」
「う・・・・・・」
そうか、依頼人と会うから仲介屋さんはわざわざ電話をしてきたのか。・・・そりゃそうか、じゃなきゃわざわざ電話しないか。
あの言葉を真に受けて逃げないという選択をしたのは自分だけど気乗りはしない。やっぱり後先考えずにここを飛び出しておいた方がよかったかもしれない。気が重い。
「いやー、でもこの格好で外を歩くのは無理かなって・・・っとと、」
言い訳にもならない言い訳を試みる私の手元に目掛けて何かを投げ、慌ててキャッチしようとするが落ちる。・・・・そんな鈍くさい生き物を目で見ないでほしい。
地面に転がる何かを見て見ると黒いスニーカーだった。手に取ってみると吐き古されているようだが、サイズもちゃんと私の足に近いものになっている。
「これどうしたんですか?買ってきた、とは違うみたいだし・・・元の持ち主が困るんじゃ、」
「近所のストリップバーから借りてきた」
「ストリップバー!?・・・いやそもそも借りてきたって、その人家に帰る時どうすんですか。それまでに返せばいいの?」
「安心しろ。元の持ち主はずっと前に不倫相手の店長刺して金を持ち逃げして行方不明だ」
思ったよりもイヤな経緯の靴だった。その情報を与えられてもやったー安心だねとはならないだろ。あとそれは押し付けられただけだ。
気は進まないが、このまま素足で連行されるのも困る。プラスに考えればこのまま私が吐き続けても誰も困らないという事だ。現代文明を歩くには靴は必須だしね。
素直に用意されたがまま履いてみる。
さすがにピッタリとは言わず、やや大きかったけど靴紐をきつくすれば脱げる心配はなさそうだ。
靴紐を直していると肩に黒革のジャケットを掛けられる。これはサイズがでかいから男物―――というか目の前の大男のものろう。立つところを見ると自販機くらいはありそうだ。
「ここら辺の夜は冷えるからそれでも着ておきな。靴の持ち主の服は返り血べったりでさすがに捨てられたらしい」
「ウワッ・・それはめちゃくちゃ助かる・・・ありがとうございます」
このドレス、裸よりは確かにマシだけど肩紐が頼りないし寒いし、あとこの自信のない二の腕をあまり外に放り出していたくない。
いそいそと袖を通してその温かさにほっと息を吐く。拾い物(?)だから仕方がないとはいえ、オタクにこのオシャレドレスはきつすぎる。デザインに罪はない、私が悪い。
(流れ出来ちゃったけどイケメンの彼シャツ・・・・いや、この場合は彼ジャケ?うーん、役得)
あと変態臭い事を思っちゃってアレだけど、なんというか男の人の匂いがする。こういうドキドキイベントに縁がない人生だったから内臓が浮つく。
落ち着け、バレたら絶対に引かれるか笑われる。表面上はなるべく平静を装え。こういう時は素数を数えろって漫画で見た事がある。ええと、素数ってなんだっけ?
そんな私を置いてダンテさんはさっさと店の外へ続くドアを開いていた。一日ぶりの外気はなるほど寒い。
店の外は予想通りというかなんというか、到底日本とは思えない街並みが広がっていた。一応はダメ元で聞いてみたがやはり違った。本当、どうしてこんなところに来たんだろう。
そしてこれから先に何が起こるのか。考えるとやっぱり胃が重くて気分も暗い。
注射を嫌がる子供のように店から出たがらない私を見て、男の美貌が煩わしそうに露骨に曇る。ああ、無理やり連れ出されるのかも。
「こんなにイイ男のエスコート付きなのにまだ不満そうだな」
「そりゃあね。これがおいしいご飯屋さんとかならまだウキウキできるんですけど」
「じゃあ依頼が終わったらピザを奢ってやる。トマトジュースにストロベリーサンデーも、ただしピザはオリーブは抜きだ、嫌いなんでね」
「・・・・ふふっ何それ」
気負う様子も含みもなく、ごく自然に仕事が終わった後の約束をとりつけるものだから毒気が抜けてしまう。
こちらを気遣ってなのか子供の好物を並べたようなラインナップにも思わず笑ってしまった。笑ってしまったのなら私の負けだ。あーあ、ついていくしかないか。
もちろん決してピザとトマトジュースとストロベリーサンデーに釣られた訳じゃないけれど。
店の外へ出て大きく深呼吸をすると、少し冷たい空気が肺を通って鼻から再び出ていく。
あまり治安がよろしくない場所なのか、石畳の道路は薄汚れていて街角にはゴミ袋が積まれている。通りをいくつか挟んで見える風俗の看板ではネオンの女性が挑発的なポーズをとっていた。
さっそく怯む私をよそに、店のドアに鍵を掛けることもなくさっさと歩こうとするダンテさんに慌てる。
「あれ、鍵掛けないんですか?ドロボーとかに入られたら、」
「ここらで今さら俺の事務所に盗みに入るようなマヌケなんてもういねぇよ」
もういない?この、お世辞にも治安が良さそうとは思えない街で??
まさかそういう意味なのかとさっと顔が青くなるのを自分でも感じる。わかりやすく怯える私を高い鼻で笑った。
「アンタの怯えてるようなことはやってねぇよ。ただ、連中は俺の家に金がないことも、むしろ治療費の方が高くつくってことに気付いただけさ」
「それならけど・・・・すいません、疑ったりして」
別にいいとは思わないが、泥棒に入ろうとする相手も悪い。自業自得だしそこは突っ込まないでおこう。
石畳を踏みしめてさっさと歩いていってしまうダンテさんを追いかける。
よかった、お店を飛び出さないでおいて。
こんな治安の悪そうなところを歩いていたら私一人では無事に警察にも辿り着かなかったかもしれない。
やっぱり、裏世界(?)の人間ってこういう場所に住むのがセオリーなのだろうか。それとも単にお金が無いのか。それともまさか、そういう場所を好んで住んでいるのか。
「ちなみにその待ち合わせ場所ってどこなんですか?」
「町はずれの教会。デートの誘いにしちゃシケた場所だ、神様が見てちゃ何にもできねえ」
「神様に見られて困るようなことを企まないで下さいよ。でも教会かぁ・・・・よかった、なら安心ですね」
別に強く信仰する宗教や神様を持っている訳ではないけれど、ほら、教会ってなんだか神聖な感じがするし。悪魔とか悪い人とか寄って来なさそうだし。
露骨に気を緩める私にデビルハンターは大袈裟に肩を竦めて溜息を吐いてみせる。ろ、露骨に馬鹿にされた・・・。
「なんですか、その反応。いいじゃないですか教会。なんかご利益とかありがたい力とかに守られてそうだし、いざとなったら神様が助けてくれるかも」
「映画の見過ぎだ。実際には何の役にも立たねぇ。聖書よりもケツ拭く紙の方が役に立つくらいだ」
「なっっんてバチ当たりな、ちょっとまって、デビルハンターっていうくらいなんだから神様とか天使とかと仲が良いんじゃないの!?」
「あいにく、俺はそういうのから嫌われてるみたいでね」
「あー・・・」
それは確かに。仲が悪そう。神様だってこんな行儀の悪い男はお断りだろう。いや、神様だから選り好みしていいわけじゃないんだが(自分も選り好まれる方とは思えないし)
そもそも自分で言っておいてなんだけど天使なんているのだろうか。自分だって神様の存在を真剣に信じて祈っている訳でもない。
でも悪魔がいるんだから天使がいたっていいと思う。・・・・ん?そうなるとこの状況を助けてくれない天使や神様って薄情なのでは?うーーーん。
真剣に天使と神様の実在性を考えてしまった自分に、そんなのを考えてどうするんだとセルフツッコミを入れるまで数分。
ここら辺の非現実的世界に自分が慣れつつあるのが怖い。これが終わったら早く現実世界に思考を戻さないと、変人扱いされてしまう。
ダンテさんは眉根を寄せて悩む私を面白そうに見下ろしていたが、飽きたようにさっさと歩いてしまう。
私が逃げ出すかもとかは考えないのだろうか?治安が悪そうなこの場所でそんな自殺行為はしないという読みなのか、それとも逃げられても捕まえられる自信があるのか。
仕方がなくその赤い背中を小走り追い掛けて、やっと隣に並ぶ。コンパスによる歩幅の差が悲しいくらいにエグい。知ってた。
「それに、俺に言わせりゃ天使も悪魔も変わんねぇよ」
「いや正反対でしょ。私だって会うのなら悪魔より天使の方がずっといいのに」
「そりゃ期待に添えなくて悪かった」
「そこでダンテさんが謝るのおかしくない?まぁいいや。・・・で、変わらないってのはどういうこと?」
私の疑問に男の形の良い唇がふっとニヒルなカーブを描く。
「悪魔はキレイな外見で人間を騙すが、天使は醜い姿で人間を試す―――どっちも性悪だろ」
沈みゆく夕陽を背に、そう鼻で笑って見せるダンテは彼の言葉を借りるのなら悪魔のように美しく、なるほど説得力があるなと思ってしまった。
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あとがき。
なんだかんだで逃げないのはダンテへの信用と状況への諦め半分、あとは仕込み半分です。
2021年11月7日執筆 八坂潤