夜の闇と昼の光の境目の夕刻。

仕事を終えて耳に装着していたイヤホンから流れる音に暗澹たる気分に沈み、深い溜息をついた。
そして同時に、自分の中で着々と増長しつつある何かが押さえつけられるのを感じて安心する。
我ながらアホな行いだとは思うが、この時代遅れの旧式のCDプレーヤーから流れる音楽、いや台詞の羅列は必要な儀式だった。

と、不意に自分の両肩に誰かの細指が掛けられ、耳を塞いで完全に油断していた私は大きく跳ねる。


「あーるじ、何をしてるんですか?」

「うぉおおわ!!?」


間近に接近する気配。
微かに自分の耳朶に触れた吐息の先からかっと熱が広がっていく。

慌ててイヤホンを両耳から引っ張り、芋虫のように這って緩い拘束から逃れればそこには予想通りの人物。
深い夜色の髪を垂らし濃紺の軍服を着こみ、少年の顔にどこか蠱惑的な笑みを浮かべた鯰尾藤四郎が座っていた。

私の無様な逃げっぷりをからかう様な表情も加味される。くっ、ちくしょう。


「びっくりした!びっくりした!!」

「いやぁだって主、俺のこと全く気が付かないからちょっとからかってやろうと。」

「お前のからかいはなんかこう、悪い!心臓とかその他諸々の内臓と心理的に悪いんだよ!!!自重しよう!!?」


これがもし男慣れしている百戦錬磨の美女なら軽くいなして絵になるだろう。
しかし実際にやられるのは顔面偏差値お察しの喪女だ。やめろ。悪戯でもドキドキするから本当にやめろ。
心臓が竦むを通り越して毎度毎度寿命までも縮んでる気がする。


「えー、だって主の反応が面白いから・・・」


黒曜の瞳を猫のように細め、濡れた唇を悪女のように歪ませる。
少年とは思えない壮絶な色香に早くも屈伏しそうだ。しかし無抵抗でいるつもりもない。


「よしわかった。後で一期さんに訴えよう。」

「で、何を聞いていたんですか主。」


粟田口の絶対的な長男である兄の名を出せば音速で話を逸らしやがった。

けどやるからな!私は絶対に一期さんに訴えてやるからな!!そして叱られるがいい!!
・・・・多分私じゃ絶対にこの御色気魔人に勝てないし。


「うーん、いやなんというか、私がこう、天狗にならない為の儀式っていうか・・・」


外したイヤホンを手持ち無沙汰に振りながら答える。
私的には必要な儀式だが、いざ誰かに説明しようとするとこれが結構イタくてとても恥ずかしい。

どうやって誤魔化したものかと、軽量型の脳味噌を捻るがさっきの台詞の手前引き返せない。
考えなしに素直な言葉を返してしまった自分の舌の迂闊さを恨みながら白状した。


「最近、罵声CDを聞いて我に返ってるんだよ。
 豪華声優陣じゃないガチなやつってなかなか無くってね・・」


ここでは主として皆が私を大事にしてその美しい膝を折り無条件で傅いてくれる。

しかし審神者という肩書を剥がした現実はどうだ。
頭も運動能力も低性能、顔面レベルも褒められたものではない、ただの小心者が居るだけだ。

この都合の良い非現実で自尊心を肥え太らせ、数少ない自分の謙虚さという美点を失ったらどうなるのか。
・・・・いや、謙虚もといただの小心者なんだけど、美しく飾り立てればそうなるだろう、うん。それはともかく。


(自分の立場を忘れちゃいけない)


いつか私はこの居心地の良いぬるま湯からあがらなければならない。
その時に問題なく現実に戻れるために自制しなければならない。

しかし私は自分の心が弱いから、こうやって何かの力を借りなければとても自分を保てないのだ。


「ふーん・・・・」


神降ろしの際にある程度は人間と、そして現代の知識を共有している彼には私の行為の意味が分かるだろう。

美しい唇から不服そうな声が聞こえたと思ったら即座にCDプレーヤーを取り上げられる。
遅れて驚きの声を上げるよりもずっと早く、耳障りな音を立てて部屋の隅に機械の残骸が転がっていた。

躊躇なく無造作に放られた精密機械は悲鳴の代わりにCDを吐き出して、恐らく死んだだろう。


「ちょっと鯰尾くん!!?」

「別にあんなのがなくても、俺がいくらでも言ってあげるのに。」


私の咎める声も意に介さず、するりと鯰尾君の指が扇情的に私の頬に絡みつく。
妙に熱の籠った指先からぞわりと肌が粟立っていく感覚。


「いやですね、その、あれ、結構お高かったんですけど・・・」


蛇の甘言に対し粘つく舌で何とか現実を絞り出し、少年の淫靡な雰囲気に呑まれまいと抵抗する。

くっこんな時に限って彼の相棒である骨喰藤四郎の姿がない事が悔やまれる。
白雪のように美しく儚い要望を持つ彼は、鯰尾くんの兄弟であり良心のストッパーでもあった。


「あ、あのさ、」

「黙って。」


目の前にいる刀の付喪神は、外見こそ少年の姿をとっているが噎せ返る程の色香で誘う。
全身の毛穴が逆立ち変な汗が出そういや出る、何とか動ける内に逃げようと思うのに首から下は蛇に絡められたように動かない。

ふとすれば美少女に見間違えられる程に整った顔がゆっくり近付いてきた。
羨望の溜息が出るほど艶のある長い黒髪と、賛嘆の眼差しが向けられるほど美しく深い紫の瞳が情を煽る。


「――――ばか」


文字にするとたった二文字。

きっと茹で立ての蛸よりも赤い耳に、鯰尾藤四郎は掠れた声で甘い溜息のように囁いた。
固まったままの私を観察するように数秒、美しい顔が私を見つめ後ろに下がっていく。

知らず止めていた呼吸がやっと回復し、酸素不足の脳味噌が息を吹き返す。


「それだとご褒美だからやめてほしい・・・・」

「ご褒美?」

「・・・・・・・・・・・あ」


しまった本音が出てしまった。

馬鹿か!ご褒美は確かにその通りなんだけど馬鹿か!!
これじゃ私が鯰尾くんに迫られて喜んでる変態みたいじゃないか!いやその通りだし嬉しいけど、嬉しくない!!

夜の瞳が瞬き、今度は次の悪戯を企てる子供のように笑う。
私の間抜けな反応を彼はいたく気に入ってしまったようだ。勘弁してほしい。


「じゃあこれから毎日、あの機械の代わりにやってあげますね。」

「やめろ。いやすいません切実にやめてください。」


これから?毎日?今のやつを?考えただけで内蔵と理性が甘い悲鳴をあげる。
絶対に一期さんと、そして骨喰くんに後で言いつけてやめさせてやる。


「だって主の御褒美なんでしょう?従属の務めじゃないですか。」

「このダメ人間製造機め・・・なら主の止めろっていう言葉を聞けよ。」

「ところで夕餉の話をしに来たんですけど。」

「無視か。」


本日二度目の話題転換である。
清々しいまでの自分の都合の良い話題展開には頭が下がる思いだ。見習いたい。


「今日はどうするのかって、光忠さんが。」

「あー、うーん・・・」


都合の良いように話題をすり替えられるのは癪だが、いつまでも引っ張るのも嫌なので乗せられておく。
決して相手の話術に都合よく嵌っている訳じゃないぞ、あくまでも乗ってあげてるだけだ。

急に現実にかえるようなまともな話題に視線を彷徨わせる。
やっと思考が平常時に切り替わるまでたっぷり数分。そこから答えを弾くまでもう数十秒。

鬱陶しいまでの頬の熱も五月蠅いまでの心臓の音もやっと収まってきた。


「えっと、今日はもう家に帰って」

「ちなみに献立は遠征でとってきた山菜の天婦羅がメインです。」

「ぐぬぬ・・・・・」


光忠さんのおいしいご飯、しかも山菜の天婦羅という山の幸の強い魅力に負けそうになる。
いや堪えろ、ここで食欲に流されてはいつも通りの敗北だ。

ちなみにこの場合の敗北とは今日、私が家に帰らないことを示すものとする。


(最後にちゃんと家に帰って夕飯を食べたのって、いつだっけ・・・・)


急に現実に戻ったまともな問いとそれに伴う思考は自分が常々感じている問題を思い出させる。

ここのところ、家に帰っていない。
別に差し迫って帰る必要のある理由はない、しかしここらで一度帰らなければ。


「さっきつまみ食いさせてもらったんですけど、タラの芽の天婦羅がおいしくって、」

「要る!!要ります!!すごく食べたいです!!!!」


形の良い口唇からうっとりと続く追撃の言葉に反射的に同意していた。
しばらく間を置いてから自分の敗北を悟る―――しかも敗因は食欲というなんとも情けない理由だった。


「・・・・・・うぅ・・・」


今日も負けてしまった。

目を輝かせて美味しい餌に勢いよく釣り上げられた直後、がっくりと畳に手をついて項垂れた。
そんな私を不思議そうに鯰尾くんが見つめる。


「あれ?主。タラの芽の天婦羅、好きなんでしょう?」

「好きだよ・・・好きなんだけどさ・・・・・」


はあぁぁと大袈裟な溜息を付けば細い指が私の髪に触れて慰めてくれる。

心配してくれるのは嬉しいが、それもまた私を悩ませる種の一つだ。
いや、そもそも私の自制心の脆さが全ての問題なのだが。くっ強くなりたい。


「今日こそ家に帰らなきゃって思ったのに・・・また帰れなくなる。」


指通りの悪い私の髪を優しく梳いていた手が止まる。


「・・・・ああ、そういえば最初の頃はちゃんと毎日帰宅していましたね。」


美味しい晩御飯を食べたら動くのが億劫になって、腹ごなしに風呂(しかも露天)に入って髪を乾かして一息ついたらもう夜はどっぷり。
そうしたらいよいよ帰る気力なんてすっかり衰えて、寝心地の良い床まで整えてもらって朝までぐっすり。

自分の家よりもよっぽど健康的な生活は、しかし私の日常を確実に蝕むものだ。


「そうなんだよ・・・前はちゃんと帰ってたのに、ここ最近はこっちにいる時間の方が長くなってる。」


自室として宛がっているこの部屋を見渡せば随分と自分のものが増えた。
以前は必要最低限の仕事道具しか置いてなかったのに、徐々に私物が増えて、もうすっかり元の自分の部屋と変わらない。

どんどん居心地が良くなっていってしまった。
ますます帰る理由を、自分の手でなくしてしまった。

ここは私の家に、居場所ではなく―――そしてその両方にもならない。


「もうさぁ、家賃払うのも馬鹿馬鹿しくなっちゃうよ。一人暮らしだから帰っても誰も居ないし、しかし引き払うってのもさすがになぁ・・・」


調子にのって家を引き払って、突然新しい審神者が見つかってクビになったら笑えない。
だからこそ、自分の現実は向こうでなければならないのにこちらに比重を置き過ぎている。大問題だ。由々しき事態だ。


「ここ、そんなに居心地が良いですか?」

「良い。良過ぎる。だから堕落しちゃう。」


堕落―――そう、堕落してしまう。

完璧な衣食住と、自分を主と慕ってくれる見目麗しい神様達の耳触りの良い言葉と態度。
向こうの世界では絶対に得られないものばかりだ―――だからこそそれに慣れきってしまってはいけない。

こっちが不思議で異常の世界なのだから。


「・・・ほんっと堕落する。」


鯰尾くんの前だというのに、ごろりとだらしなく床に転がって天井の木目を仰いだ。
堕落という言葉がすっかり似合う無様な体たらくだ。もうとっくに堕落しきっているのだろう。

畳の心地良い冷たさが私の身体を優しく冷やしていく。


「明日こそはちゃんと帰らないと。」


そこそこの味の自炊をして、自分の手で掃除して、主ではなくただの人間としての現実の生活に戻らなければ。
童話の少年少女のように、甘いお菓子の家に囚われて帰り道を忘れてしまいそうだ。


「堕落してもいいじゃないですか。」

「へ?」


そりゃどういう意味だ。私をただの要介護の肉袋にするつもりか。
真意を正そうと浮かせかけた身体を、自分の顔のすぐ横に手を突かれて縫いとめられる。


(ゆ、床ドン・・・・)


中性的な美貌が自分を見下ろし、黒檀の髪が紗幕のように私の頬に舞い降りた。
夜空を切り取ったような瞳が間抜けな顔をした私を写し、柔らかく細められる。


「別に、帰る必要なんてないんじゃないですか?何か、不満でも?」

「ふ、不満は・・・・ないよ。無さ過ぎるよ、ほんと」


迫力のある美人に迫られてあわあわと視線を彷徨わせる。
今の私にこの状況を喜ぶ余裕はなく、それどころか背筋が寒い。


「でもそれじゃ、だめでしょうよ・・・・」


私が仮の主だからとか関係なく、いつかこの戦争は終わる。
在任中に終戦するかもしれないが、まあ初めから期限が決まっているようなものなのでその可能性は低いだろう。

そしたら私の帰る場所は?

この居心地の良い家を終の住処として―――他の全ての居場所を切り捨てる訳にはいかない。


「―――ずっとこのまま、主がここにいればいいのに。」


ぞっとする程の色気で毒のある甘い言葉を囁き、その真に迫る声色に肌が粟立った。

誰かにこんな風に存在を求められたことなんてない。
けれどそれは私が審神者だからだと、甘い自惚れに急いで警鐘を鳴らす。

凡人の身に余る神の忠誠を勘違いしてはいけない。


「なまずお、くん」


本気なのか冗談なのか、判断がつきかねて呆然と名前を呼ぶ。

冗談であってほしい。冗談でなければ、困る。
私の懇願するような情けない目と、鯰尾くんの傲慢ともとれる深い紫水晶がしばし交錯した。


「なーんて、」


永遠とも思える時間が流れ、荘園の顔には先程までの捕食者の笑みではなくいつもの柔らかい笑みが浮かぶ。


「俺の我儘で困らせるつもりなんてありませんよ。驚きました?」

「・・・・・結構、驚いた。」


私の退路を塞いでいた手を退かしてくすくすと小さな笑いを零す。
先程までの色香はその姿を潜め、身を竦ませるほどの緊張感からの解放に息を吐いた。


「じゃあ、光忠さんに伝えてきますから。用意ができたらまた呼びに来ます。」

「う、うん・・・・よろしく・・」


滑らかな黒髪を揺らして一礼し、鯰尾くんが部屋の外へ消えていく。
情けないことにいつの間にか抜けていた腰のまま、それを大人しく見送るしかなかった。


(冗談、には聞こえなかったな・・・今の・・・・・)


冗談としてくれたのは彼の優しさかそれとも計算か。
とにかくそれに乗っかっておくしかない。


(でもちゃんと、ほんと家には帰ろう。)


帰る方法を忘れてしまう前に、この居心地の良い場所で自分の分相応な居場所を無くしてしまわないように。


(明日にでも、ちゃんと帰ろう)


この甘過ぎるお菓子の家が自分の終の住処となって、幸福のまま息絶えてしまう前に早く。
堕落して糖尿病になってすっかり動けなくなる前に。



















(つい本音が出てしまった)


主の怯えを孕んだ表情を思い返して少し反省する。
冗談として収めておいたが、きっと意思の弱い主はそれを糾弾することはできないだろう。


「兄弟。」


凛とした声が薄暗い廊下に落ちた。
声の持ち主を予測しつつ視線を上げれば、そこだけ光が差したように白い人影。

前人未到の雪原のような髪、整った顔に嵌る自分と揃いの紫の双眸には、憂いとこちらを咎めるような色を帯びている。
自分の兄弟でもあり相棒でもある骨喰藤四郎が影よりも密やかにその場に立っていた。


「なに?骨喰。盗み聞き?」

「あまり主を惑わせるな。」


鋼の声が不機嫌そうにこちらに投げ掛けられる。
いつもの問答に肩を竦ませるしかない。


「帰り道を見失ったら―――あの人が可哀想だろう。」

「骨喰は主が帰ってもいいの?」

「・・・・・・・。」


相棒は答えず、指を伸ばして俺の耳を引っ張って連行していく。
いたいいたいと形ばかりの抵抗をしておきながら、その行く先の検討はついていた。

深い湖畔を思わせる薄青の髪に、歴史を重ねた琥珀色の瞳を持つ自分の兄。


「あーあ、この件に関しては俺と骨喰はほんっとに意見が合わないね。」

「そうだな。兄弟なのにな。」

「そうだね。兄弟なのにね。」


時折、どちらが折れるのかを賭けて手合わせをすることもあるが決着がついた試しがない。
議論を交わしても折れることも妥協点も見つからなかった。

きっと、骨喰の方がよほど綺麗に主を想っているのだろうと思う。
想いの質量は同じでも、その清廉なまでの忠誠に俺が殉じることができないだけで。


(ああでも、明日も主の好物で釣ってしまえば簡単に)


例え兄に叱られ兄弟から咎められようが、頭は冷静に明日の計算をしていた。

甘やかされることに慣れていない主は、今の砂糖菓子を与え続けられる環境に抗えない。
そうやって与えられなければ餓死してしまうほどに弱らせれば。

甘い蜜の味を知ってしまった子供は永遠に菓子の牢獄から出られないのだ。







































→途絶えたパン屑の道
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あとがき。
ツイッターであげていたものを加筆修正しました。

鯰尾が現在実装されている刀剣男士の中で一番色気があると思います。
「ばか、みたいじゃない?」の「ばか」の声色が優しすぎて八坂は二度死ぬ。

鯰尾がぞっとするほどの色気、骨喰がはっとするほどの色香というイメージ。
骨喰くんは結構そっけないのに全刀剣男士中もっとも忠誠値が高いのってほんとどちゃくそ萌える。

読んで頂きどうもありがとうございました。


2015年 4月5日執筆 八坂潤


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