とっくに日は昇り、春特有の気怠い空気とうららかな気候が本丸を包んでいる。
いい加減に起きなければならないと思いつつも全身がそれを拒絶していた。


(無理無理無理・・・・・もう、無理だ審神者なんて私にできない・・・)


布団の中で蓑虫になりながら、軽率に審神者になった事を私は猛烈に後悔していた。
やっぱり私みたいな小市民に務まるような御役目ではなかったのだ、崇高な理想もなくたかが生活のためになど引き受けるべきではなかった。

一昨日まではそうじゃなかった。
特に大きな事件もなく、順調に進んでいると、このまま審神者をやれるのではと勘違いしていた。

昨日だ。
昨日は強敵を相手にした酷い戦だったという―――なんとか辛勝を収めたものの、見てしまった。
死者こそいないものの、血塗れの皆に担ぎ込まれた大和守くんから更に流れる沢山の血を見て、思い知った。

平和に安全に保たれた庭の中で、自分が戦の渦中にいたのだとやっと自覚したのだ。


(あんなにたくさんの血なんて、初めて見た・・・)


元は刀でその付喪神とはいえ彼らは今や人間の身体を持っているのだから、傷付けば当然血が出る。
血が流れるのなら、生きているのなら、戦いの中で死ぬ可能性もあるに決まっている。

その認識を今までぼんやりと許容できていたのは、皆が掠り傷程度で帰還してきてくれたからだ。
だから優しい物語のように、皆は強いから深手を負う事も死ぬ事もないだろうと都合の良い見解に浸っていた。

浅はかに過ぎる。

そんなことはないなんて、少し考えれば子供でも気付けたことなのに。
ずっと見ないフリ聞こえないフリで、誰かに怪我をさせる責任から逃げ続けてきた。


『大丈夫、どうかお気になさらずに私達の主。折れない限り、私達は死にません。』


そう優しく宥める一期さんの手に、表面上は優等生らしく納得したフリをして―――しかしその内心は嵐が吹き荒れていた。

今まで平凡で平和なばかりの日常を送っていたニートが血みどろバイオレンスを突きつけられて気にせずになどいられるか。
確かに昔の戦乱の時代なら納得できるのかもしれないが、私は平和な現代出身でしかも物わかりも悪い。


(・・・・・こわい)


私が彼等に血を流せと、そしてその果てに死も致し方なしと命令する立場になった。
最初からそうだと知らされていたのに、今更その責任が重い。

人の命が伴う責任が怖い。
見知った親しい人が自分のせいで血を流すのはより恐ろしい。 
大和守くんの、元から色素の薄い肌が更に血の気を失っていくのを見るのを思い出すと再び心が凍える。

皆からいくら大丈夫だと宥められても不安でたまらなくて、手入れ部屋の前でずっと待っていた。
そして傷一つない様子で出てきた大和守くんを見てやっと安心して、そして自分の部屋で泥のように寝た。

それでも震えは止まらなかった。


(大和守くんが無事なのはよかった、よかったんだ・・・でも)


やっぱり私なんかに審神者を続けるのは無理だ。こわい。
私なんかを主としてしまったばかりに誰かが傷つくのが、そしてその重責を自分が背負うことが何より怖い。 

相手が無事だと分かるや否や、義憤に駆られるでもなくその責任からどうにかして逃げようとするなんて、私はなんて卑怯で卑小な人間なのだろう。 


(私なんか、早く主をやめたほうがいいんじゃないだろうか)


無能な人間を主に据え置かれたばかりに優しい皆が傷付く事に耐えられなくなってきた。

他の審神者ならもっと皆の助けになっているだろう。
自ら戦場に立ち共に勇猛に戦う審神者、指揮を執り毅然として敵に立ち向かう審神者、高い霊力で本丸を豊かにして皆を支える審神者。
噂に聞く他の審神者達は皆それぞれの能力を生かして役に立っている。

けれど私如きの低スペックではそのどれにもなることができない。
近侍の薬研藤四郎と戦の総指揮の一期一振に、捕まった宇宙人が如く両脇から支えられて何とか立っている状態だ。


「大将、起きてるか。」

「あ、うん。」


襖の向こうからいつも私を起こしに来る薬研くんの低い声が聞こえてくる。
習慣で自然と反応してしまい、頭を抱えて猛烈に後悔した―――今は誰かに会いたいような気分ではない。大絶賛自己嫌悪中だ。

それでも往生際悪く逃げ出したくて、布団の中に潜り込んだ。
浅い闇の中に身を潜めると、自分の卑小さも紛れるようでほっとする。山姥切くんの気持ちがちょっと分かる。


「入るぞ―――っと、こりゃ特大の蓑虫が居たもんだな。」


布の向こう側の光から薬研くんが快活に笑う声がして非常にバツが悪い。
嫌な事から隠れ、逃げる子供みたいな自分が嫌になる・・・このダメ人間め。


「具合でも悪いのか?」

「・・・・・悪くないよ。」


悪いのは自分の心根と甘ったれた根性です、とは言えない。

適当に体調が悪いとでも言っておけばいいかもしれないが、それではあらゆる方面に迷惑をかける。
ただでさえ本丸の迷惑の塊のような審神者なのに、これ以上誰かに心配させて煩わせたくなかった。


(もしかしたら、いやもしかしなくても私のせいで薬研くんも、いつか怪我をするのかな・・・
 いやそれならまだしも、もしも折れて、そして死んでしまったら―――、)


視界が真っ暗になるのは布団の中だからというだけではない。

しばらくすると布越しに何かが左に右にと動く感覚がして、ああ布団の塊ごと撫でられていると分かったのは数秒後だった。
私を宥める優しい所作に、しかし自分にそんな価値はないのだと自己嫌悪しながらその心地良さに身を任せる。


(・・・・薬研くんは優しい)


でもこの優しい手も、いつか私のせいで事切れてしまうのではと思うととても重たく恐ろしく感じた。

しばらく撫でたり宥めたりしていた薬研くんの手がふと止まる。
どんな表情を浮かべているのは分からない(きっと呆れてるだろうが)が、ふっと笑う気配と共に悪戯っぽい声が聞こえてきた。


「・・・・大将、天岩戸ごっこか?それなら今ここで俺っちが裸で踊ればいいのかね。」

「えっ」


今なんつった。
否定するよりも理解するよりも早く、外の世界でパサリと軽い何かが落ちる音。そう、布的な。

言葉と物音から連想する事態にさーっと血の気が引く。いやそんなまさか、でも。


「ははははは早まらないで薬研くんごちそうさまです!!!」


ガバッと勢い良く布団をめくるとすぐ近くに満面の笑みを浮かべた近侍が居た、がその着衣に全く乱れはない。
海のように深い紺の軍服から白く伸びる足、そして紫水晶の瞳を持つ端正な少年の顔―――いつもの薬研藤四郎だ。

視線を移動して畳を見ると、そこには自分の薄い方の掛け布が落ちている。
たっぷり数秒間沈黙して薬研くんの表情は伺うと、してやったりと言わんばかりに目を猫のように細めた。


「騙された!!絶望した!!!!」


がっくりと大仰に項垂れて、しかしちょっと残念だと思っちゃった自分に一番がっくりくる。変態か。


「おいおい、いくら俺でも自分の主の前でそんな無体働くわきゃないだろう。」

「その主を騙すのはいいのはアリなの?」

「こうでもしないとずっとだんまりを決め込むつもりだっただろう?」

「・・・・・仰る通りです。」


そうだ。
この小さな護衛はその少年のような外見にそぐわず、ずっと老熟しているのだ―――私のちっぽけな生など彼にとっては瞬きの一瞬だろう。

小さな策士にすっかりしてやられた私は、大人しく布団の上で正座をして敗北を認める。


「疲れて寝てるところ起こして悪いな。大将に土産があったから、すぐさま渡したかったんだ。」

「おみやげ?・・・・お菓子とか?」

「いいや、もっとイイモノだ。」


宝物を分け与える子供のように、声を潜めてから端正な顔がふっと微笑む。

手を、と言われ素直に差し出せば気負いもなくするりと薬研くんの指が絡んだ。
触れ合う彼の手袋からは微かに乾いた土の感触がする。


(私とあまり大きさ変わらないな・・・・)


さも自然に絡められる手に、されど不思議と緊張も恥じらいも感じない・・・・むしろ安心する。
体温が低そうな涼やかな容貌に反し、薬研くんの指は布越しでも温かい。生きている。


「指輪を嵌める指にはそれぞれ意味があるの、大将は知ってるか?」

「ううん。知らない。」


指輪を嵌める位置の意味など、せいぜい薬指に嵌めるのが婚約指輪ということくらいか。
絡んでいた指が秘め事のようにそっと私の右手の小指に触れる。


「右手の小指は表現。」


こちらを真っ直ぐに見つめる紫の双眸に射止められたまま、するりと彼の指は私の薬指へ。


「薬指は創造、中指は霊感、人差し指は積極。」


言葉と共に指が踊るように移動し、私は付喪神の託宣を聞く信徒となっていた。
本丸の喧噪はやけに遠く、切り取られた世界の中で密やかに導くその終着は親指へ。


「―――そして親指は指導者。」

「・・・・・指導者。」


端正な顔に誂えられた紫電の瞳が真剣な色を帯びる。

指導者、つまり今の私のことだ。
途端に右手の親指が鉛のように重く感じる―――先程まで自分が指導者としての重責に悩み、苦しみ、そして逃げ出したいと思ってしまったばかりに。

その資格はないと、目の前の幾星霜の剣に問われているようで。

重圧の荒波に打ちひしがれる私をよそに、薬研くんはごそごそと腰のポーチを漁り、何かを取り出す。


「で、これが大将へのお土産だ。」


だらりと頼りなく垂れる私の親指に、繊細な硝子細工を扱うよりも丁重に輪が通される。
そっと離された自分の親指を掲げると、そこには銀の台座に控えめな緑の石が収まった指輪が嵌っていた。

大地を潤す優しい緑が深い理知的な瞳となって私を見つめ返してくる。
金属特有の冷えた感触はすぐに体温で人肌になり、さも最初からそこにあったようにすぐに馴染んだ。


「きれい・・・これって翡翠?」

「ああ。」

「・・・・・・これって本物?」

「何で大将に偽物なんか渡すんだ。」


前人未到の秘境の森、その深奥の神秘を思わせる綺麗な宝玉に目を奪われる。
しばらく翳したり障ってみたりその美しさを堪能して、そして我に返って叫ぶ。


「だ、駄目だよ!高いでしょこれ!!わたしにはもったいないよ!!!」

「だが残念なことにもう買った店も時代も分からん。」

「うぐっ・・・」


そう言われてしまえば今すぐ返して来いとも言えない。

薬研くんが悪戯を成功させた子供のようにくつくつと口の奥で笑う。
浮かしかけた腰をすとんと落とすしかない。この小さな策士に観念するしかない。


「何でぴったりなのこれ・・・私だって自分の指のサイズなんて把握してないのに・・・・」

「大将が寝ている間に勝手に計った。」

「マジか・・・薬研くんぬかりなさすぎるわ・・ほんと策士かよ・・・・・」


そんな事をされているなんて全っ然気がつかなかった。
ついでに私の間抜けな寝顔を見られたであろう事は落ち込むけれど気付かないふりをしておく。


「ちなみにこの翡翠の意味は知ってるか?」

「うーん・・いや、知らない。」


そういえば花言葉と同じように宝石にも石言葉があるという。

私が掲げていた親指に恭しく薬研くんが触れ、まるで宝物のように捧げ持つ。
その先にある白皙の美貌は真摯な色を宿し、やがてその薄い色の唇が動いた。


「災難除けと幸運。」

「・・・・・ふふっ験担ぎってこと?」


神様に験を担がされるなんて、何だか笑ってしまう。


「あ、大将。縁起や験を馬鹿にしちゃあいけないぜ。
 俺達の前の主、歴史の偉人名将だってあらゆる験や縁起を担いできた。」


それに固執し過ぎるのも良くないがな、と困ったように笑い、しかし再び真剣な瞳で続ける。


「だから大将も、大将にとっちゃこんなの気休めかもしれんが・・・
 それでも気が休まるのなら、そいつを持っていちゃくれないか?」

「・・・・・・。」


じっ、と深緑の石を見つめると不思議と心が落ち着く。
ルビーやサファイアのように燦然と輝くものではない、しかし懐の深いその色は私をかえって安心させるものだった。 


「・・・・うん、大事にする。」


私は単純だ。
この宝石一つ、されど自分の為にわざわざ探してきてくれたであろう指輪一つで心を持ち直せる。

こんな自分が必要とされている。駄目な私でも大事にされている。

それは私の立場と彼らの元来の忠誠心の高さ故で自分だけの特別ではないと、冷静な私を差し置いても嬉しい。
もう少し審神者として頑張ろうと、そう思える程度には。


「これ、遠征で手に入れたの?」

「ああ。昨日、大将が寝た後にちょっとおつかいをな。」

「・・・薬研くんは最初の約束、ずっと守ってくれてるね。」

「ああ。俺に大将を支えさせてくれって言っただろ?」

「・・・・うん。」


本丸を初めて訪れてすぐ、私はその時に既に審神者を逃げ出したいと思っていた。
そんな卑怯な私へのあまりにも優しいお願いに面を食らったのを覚えている。それはこれからもずっと忘れない。


「もうちょっと、頑張ってみる。」

「その意気だ、大将」


主の稚拙で傲慢な言葉に従者は満足したように、心底嬉しそうな顔でくしゃりと髪を撫でてくる。
そんな風に喜ばれると、愚かにもああもう少しだけ頑張ろうと改めて思ってしまう。

二人分の温度を吸って、指輪は人肌を通り越しすっかり熱くなっていた。








































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あとがき。
補足事項
翡翠の意味→魔除け・災難除け・徳を高める・幸運を呼ぶ・閉じた心を開く・願いを叶える・不老長寿・

この世とあの世を繋ぐ 


2015年 5月10日執筆 八坂潤


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