「俺の主の名前は何だったかな。」 「え?」 直前まで三日月さまとしていたのは、長く記憶にも留まらないほどにとりとめもない会話だったと思う。 まるで夕飯の献立でも確認するかのような気軽な問いに答えかけ、慌てて軌道修正する。 それは私にとって簡単に答えられても、気軽に明かしてはいけない禁忌の単語だった。 「あー、えっと、名前、名前ね、でも教えちゃダメって言われてるんです。」 「・・・・・そうか。」 美しい唇からは失望の声があがり、月の麗人の表情は深い憂いを帯びる。 絶世の美貌からその憂いを払拭するためなら世の女性は何でもするだろうが、かくいう私もそうしたいが、堪える。 「ごめんなさい・・・あの、でも、」 「―――俺達は主の為にこの命と刀を捧げ、至誠を尽くしている。」 長い指先が慈悲を請うように私に伸ばされ、深く慈しむようにそっと髪を撫でる。 「優しい俺の主は、たかが名前を教えてほしいという些細な願いを断るのか?」 「えっと・・・・・、」 引く私の手をやんわりと取り、最も美しいとされる顔が近付き、その眩さにぐらぐらと頭の中が揺れる。 強い哀切を込めた声と言葉は彼の言葉を無下にする自分が悪いのではという罪悪感すら起きてきた。 一回逃げ出して心を落ち着けようとするも彼の手がそれを許さない。 決して強くはないが、しかし逃走を許さない明確な意思がそこにはあった。 平和なはずの本丸の廊下で、しかし謎の圧迫感に喘ぐ。睫毛の長い瞳が近い。なんかこわい。 逃げたい。逃げられない。どうすれば逃げられる?ああでも名前程度でこの場を逃げられるなら、 「わ、私の名前はオアフッ!!!!!????」 もちろん私の名前がそんな愉快なものである訳がない。 突如、頭に走った軽い衝撃に慌てて背後を振り返る。 そこには手刀を振り下ろした体勢で、その精悍な顔に呆れの表情を浮かべる薬研藤四郎の姿があった。 深い紫の双眸に呆れと憂いを帯び主をしばし見つめた後、鋭い視線が雷光となって月を貫く。 「―――三日月の旦那。」 「ふむ、見つかってしまったか。」 悪戯が見つかった程度の気軽さでぱっと私の両手を離し、謎の圧力から解放される。 紺碧の袖で隠す前に一瞬だけ覗いた口許は、半月に歪んでいたような気がする。 しかしそれよりも、聞いたことのないような冷たい声で話す薬研くんに内心で戦いていた。 まるで戦の直前のような鋭利な緊張感に世界が撓む錯覚。えっここ本丸の廊下ですよね? 「俺達が大将の名前を聞くのは禁止事項だろう?」 「ああ、知っている。」 「・・・・・・・・・・・・・・・。」 じゃあなんで聞いたんだよ。 思いっきり疑念と不満とを視線で訴えるも、月面のような静けさの表情は揺るがない。 それでもなお自分の名前を尋ねた理由については・・・・・考えると怖いからそっとしておこう。 しばし無言で二人が睨み合った末、その去りゆく背中すら優雅に退いたのは三日月さまの方だった。 男達の不可視の圧力に自然と詰めていた息を、やっと安堵の溜息と共に吐く。 が、そんな一呼吸も置く間もなく耳を何かにつままれる嫌な感触と予感。 「・・・・ウチの大将は簡単に名前を教えようとするなって何度言わせれば気が済むのかね?」 「あいっだだだだだだだだだだ!!!!!!」 黒手袋に包まれた長い指が容赦なく私の耳を引っ張り、その痛みに情けない悲鳴を上げる。 いつもながら、いや、いつも以上に力の籠っている気がします!これはもしかしなくても怒っている・・・!! 「あだだだだ、いやだってなんか雰囲気こわかったし、 それに名前を教えるなんて英語の教科書でも最初にやるくらい普通過ぎて・・・」 「でも、俺達に名前を教えたらどうなるかくらい聞いてるだろう?」 「ウッ」 曰く、あの狐の精霊が朗々と語る事には。 名前を知られるということは相手に存在を掌握されるということ。 まして、名を知る相手が神であれば人間など簡単に支配できる―――それはつまり、元の世界に戻れなくなるということ。 大将と呼ばれるのにまだ抵抗感があって、薬研くんに名前を教えようとした時も同じ事を言われて止められた。 けれど自分からすれば、こんなに長く接しているのにむしろ互いの名前を知らないという方が奇妙に思う。 自分だけが相手の名前を知っていて呼ぶのも、そしてそんな資格がない自分を主と呼ばれることに後ろめたさがあるのも事実。 「ごめん、まだ名前を教えちゃいけないっていうのがなんか、慣れてなくって・・・」 かくいう最も付き合いが長く私が頼りにしている近侍も、私の名前を未だ知らない。 耳を解放されて、きっと赤くなっているそこをさすりながら自分の軽率な行動を謝る。 よくよく考えれば結構危ない目に遭いかけていたような気がするけど、怖いからやっぱり考えないでおこう。 「まったく・・・三日月の旦那も旦那だが、大将も大将だからな。」 いい年をした大人が、神様とはいえ外見は少年の薬研くんに怒られるという恥ずかしい構図。 仰る通りですと身を竦ませながら、この失態に甘んじる。 「――――俺にだって、大将の名前を教えたりするなよ。」 そう私に言い聞かせる薬研くんの言葉は、むしろ自分に言い聞かせているようにも聞こえた。 薬研くんも私の名前なんか知りたいのだろうか?・・・いやまさか。 三日月さまもそうだが、私みたいなまるで駄目な女審神者、略してマダオの存在を握っても驚くほどにメリットがない。 少し気まずい空気に耐えられなくて、小心者の舌は場を繋ぐ為に動く。 「うーん、でも、私は薬研くんのこと一番信頼してるよ。 薬研くんだったらさっきみたいに名前を聞き出されても、そうとは気付かないかもね。」 「・・・・・・・、」 私からすればなんでもない言葉に、軍服に包まれた薄い肩がぴくりと揺れた。 紫水晶の瞳が伏せられて、そして何かを振り切ったように曇りのない眼差しで私を見る。 「分かった。それなら、大将の名前を俺に預けてくれるか?」 「へ?」 間抜けに疑問を返す私をよそに、腰のポーチから準備良く紙とペンを取り出してこちらに差し出す。 精悍な表情には真剣さを、声には真摯さを宿し近侍は主に懇願する。 「俺が他の連中にとられないように大事に仕舞っておく。そうすれば、大将も俺も安心だろう?」 安全なところに預けてしまえば誰かにとられることもなくなる。 確かに道理だが、名前みたいに形の見えないものはそんな事ができるのだろうか。 そっち方面の常識が皆無の一般人にはそう提案する薬研くんが正しいのか分からない。 しかし最も私の信頼の厚いと告げた彼がそう言うのなら、そうなんだろう。それを素人の私が疑う余地など、無い。 「まあ、そっか。うん、薬研くんが預かってくれるなら安心だね。」 小さな手から紙をペンを受け取り自分の名前を書く。 皆からはずっと主と呼ばれていたせいか、長く親しんできた自分の名が随分と久しぶりに感じる。 もしかしたら、私は密かに自分の名前を呼ばれることに飢えていたのかもしれない。 大将だの主だのと、ともすれば誰でも指せる言葉はどこか不安定で、自分でなくてもいいのではとその存在が揺らぐ。 そう考えるとこんのすけの言葉もなるほど真実だ。 名前とは自己の存在証明なのだ。 「はい、薬研くん。これが私の名前。」 書いた紙を差し出すと、彼の手は一瞬だけ攣れたように躊躇い―――しかしそれを両手で恭しく受け取った。 まるで女王からの叙勲を受ける騎士のように、その白磁の頬を高揚感に僅かに染めて。 「これが、大将の名前か・・・・」 自分よりも大きい敵にも、不利な状況にも、決して揺るがない薬研藤四郎の語尾が少し震えていた。 「そうだよ。すぐに忘れちゃうような、普通の名前でしょ。」 「いいや、忘れない。」 長い指が私の名前の文字列をそっと愛おしそうに撫でるのを見ると、なんだか気恥ずかしくなる。 そうしてから紙を真ん中で折って、そして粉薬を飲みほすように自分の整った唇に宛がう。 反らされた白い喉が何かを飲み下すように嚥下すると、同時に自分の中に違和感。 (・・・・・あれ、なんだろう) どんな言葉でもうまく説明できないような、初めての感覚に戸惑う。 敢えてセンチメンタルに語るのなら、自分の中の一部がもぎとられたような。 先程までの微笑ましい気持ちは去り、胸中に僅かに不安が過ぎる。 (なんだろう、この絵面ってどこかで似たようなのを見たことがあるような・・・) 首を捻り記憶の中から既視感の正体を探してみるが咄嗟に浮かばない。 喉元まで答えが来ているのに正体が分からないもどかしさに身悶えしていると、やっと薬研くんの唇が開いた。 「―――これで大将の名前は俺が預かった。」 閉じていた紙を開くと、何が書かれていたのか分からないようなただの白紙になっていた。 まるで腹の中の胎児を慈しむ母親のように自分の腹部をそっと撫でる。 「もう誰にもとられない。」 「・・・うん。」 そうなることを望んだはずなのに、胸中ではなぜか不安が起こる。 いやまて疑うな、薬研くんはずっと私を助けてくれて、支えてくれたんだぞ。それを不安に思うなど。 私の歯切れの悪い言葉をかき消すように、細い腕が伸ばされて抱き寄せられる。 いつもならびっくりして膠着する身体も自然とそれを受け入れた。 「大将のことは俺がどんな大国のお姫様よりも大切にする―――今の俺が一生、というのも変だがずっと大事にする。」 「お、大袈裟だなぁ。」 まるで世紀の一大愛の告白のように切実な言葉と声に苦笑してしまう。 やはり主の名前を預かるなんていうのは、さすがの彼にとっても大役なのだろうか。そう思う事にする。 普段の雑務に加えてそんな面倒な役回りを押し付けてしまった事に罪悪感を覚えながら、そっとその背に手を回した。 (しかし、名前なんて見えないものをどうやって返すんだろう。) 薬研くんはその腹の中に私の名前の文字を収めたように見えた。 文字通り大事にとられないような場所に仕舞い込んだのだ、けれどそれはどうやって返せるものなのか。 頭の中に湧きあがった疑念を頭から追い払う。 そんなものはその時になって聞けばいい、薬研くんに任せておけばいい。 ―――――今までずっとそうしてきたように。 薬研くんに名前を預けた翌朝。 朝、というには大分日が昇っている世界で欠伸を噛み殺しながら廊下の花を取り換える。 手元に提げていた花瓶の新しい花と、枯れた花とを交換し、白百合の清楚な香りが廊下に満ちた。 時間の観測を怠るなというこんのすけの言葉に従っての習慣だが、未だにその重要性というのもピンと来ない。 (実際、ここって審神者パワーで電子機器も仕えるしそれ以外は普通に生活できるからあんまり神域って自覚がないんだよね・・・) こんな花だらけの本丸なんて刀剣男士達は嫌じゃないのかなとも思う。 幸い、乱ちゃんや加州くんはノリノリでやってくれているけれど・・・同田貫さん辺りはどう思ってるのかなぁ、うーん。 「主。」 思考に沈む背後から呼び止められ、振り返ると三日月さまの柔和な笑みがそこにあった。 海原に浮かぶ月の瞳が私を見とめると一瞬見開かれ、そして長く深い息を吐いた。 それは絶望を含んだ嘆息だった。 「―――そうか、名を奪われたか。」 「へ?」 名を奪われた?どういうことだ? 神の深く憂う言葉とその表情の意味が理解できず首を傾げる。 いや、確かに昨日は薬研くんに名前を預けたその翌日だが、それを奪われたと表現するのは。 「あ、えっと、薬研くんに名前を預けたから、その事ですかね?」 「預けた・・・か。ではその薬研が主に名前を大人しく返すという保証は?」 「・・・・・・・、」 保証なんてない。必要ない。 そう反復する言葉が、しかし喉から出てこない。 どこかで自分も感じていた不安だった、しかし最終的には薬研藤四郎を信用した。 何故ならいつもあの近侍は私を支え、助け、そして守ってくれたのだ。 主が不幸になるようなことなどその彼がするはずがない。無いに決まっている。 「――――そうか、薬研が奪ったのか。」 「ああ。そのままにしておくと誰かに大将の名が割れるのは時間の問題だった。」 もう一人、聞き慣れたいつもの声に、深く思考の海に沈んでいた意識が回復する。 何時の間にか近くに居た薬研藤四郎はいつもの余裕ある飄々とした表情で三日月宗近に相対する。 いつから?いやしかしそれよりも発言の内容の方が問題だ、何故その表現を否定しない。 どうして「奪ったのではなく預かっただけだ」と三日月さまの言葉を訂正しない。 「だから俺だけの大将になってもらった。」 「成程。そうか。」 少年が夢を語るように陶酔した薬研くんの言葉に三日月さまの笑みが深くなる。 私は失望に口を閉ざしていた、訳ではなかった。 薬研くんの行いは主に対する背信だ、しかしそれを責める言葉も気持ちも出てこない。 自分の愚かさへの諦め?否、そんな殊勝なものではない。 反感も嫌悪の感情もない――――きっとこれが存在を支配されるという事なのだ。 「『預かった』か、俺も次回の参考にするとしよう。」 「・・・・・・・・・・・次回?」 謎めいた言葉とこちらの疑問を残し、美しい男が去っていく。 後に残されたのは、何者でもなくなってしまった女とその守り刀が二人。 全ての音が遠く、世界から切り離されたようにこの空間は恐ろしく静かだった。 「・・・・薬研くん、私の名前とったの?」 「ああ。」 取り繕う訳でもなくあっさりと肯定する。 薬研藤四郎はいつも通りだ。いつも通りの私の守り刀で近侍だ。 しかしこれだけのことをしても普段と変わらない全く揺るがない彼が恐ろしかった。 「あの時もし大将が俺を疑ったのならやめようと思った。 でも大将は俺を疑わなかった、だったらとその信頼を利用して大将を俺のものにした。」 あっけらかんと続く言葉は全く悪びれる様子がない。 きっと彼には悪びれる理由が見つからないのだろう。 「大将の信頼を裏切る真似をしてすまん。だが、俺が幸せにする。」 指先をとり、そっと誓いを捧げる口付け。 しかし私はその先、私の名前を収めた胃袋の方に目が行く。 その白い腹を魚のように裂けば私の名前が返ってくるのだろうか―――だが、とてもそんな事をする勇気がない。 誰かを、まして親しい者を自分の殺意で殺して踏み台にすることを、この弱さが許さない。 (・・・・・・・そうか。) 今までの自分の愚かな言動を振り返る。 私がいつ審神者を解雇されるかもしれない身であること。 私がいつ自分の名前をうっかり告げてしまうかもしれない恐怖。 そして信頼しているという耳触りの良い、しかし思考を放棄した愚かな言葉。 それらがこの薬研藤四郎という善良な神を狂わせたのだ。 (いや、狂ってなんかいない) いつまで人間目線で物事を語っているのだ。 彼らは同じ姿をしていても神様なんだぞ―――そして私は彼らからすれば蟻に等しい下等生物だ。 人間が野生動物に考えもなしに食料を与え、その結果毒になるように。 彼らは私達人間に優しさを一方的に与え、そしてそれが毒になるなど考えもない。 自分達が愛でたいのだからそこに相手の意思などどうでもいい。 私達はただ神の愛という餌で肥え続けていればいい家畜だった。 賞賛に飢え、思考停止した私はまさにその理想だっただろう。 「 。」 耳元で囁かれた名前はまるで遠い世界の誰かの名前のようだ。 それは錠が落ちる音にも似ていた。 ---------------------------------------------------------------------------------------------------------------------- あとがき。 増して誰得感あふれる話になりました。 薬研藤四郎は病んでません。だって神様だから。 私がいつも刀×審神者を書くときに考えるのは、人間のような下等生物を神様という上位存在が真っ当に大切にできないと思ってます。 だから人間目線からは病んでいても、彼らには全く悪びれる理由などないのです。 BADエンドその@「思考停止」 2015年 5月24日執筆 八坂潤