魔法士養成学校ナイトレイブンカレッジ。
こっちでは超名門の有名校らしいが異世界出身の私にはまるで馴染みのない学校名だ。

授業の終わった放課後を、渡すように頼まれた教科書を片手に目的地に向かう。
いつも一緒の黒い相方は補講でエース達と一緒に先生に捕まっているので物理的に肩が軽い。
「薄情者」と恨めしそうに2人と1匹が文句を言ってきたのを思い出すと自然と口から小さな笑みが零れる。ちょっとだけいい気分だ。

途中、鏡に映った自分の姿を見ると、冴えない顔の女が男子生徒の服装を着ているちぐはぐな光景が返ってくる。
これで私が美少女だったら男装の麗人として絵になっただろうに、そうでもないものだから罰ゲームで着させられている滑稽な絵面もいいとこだ。
笑いにできるレベルでもなく、かと言って笑えないレベルでもないという中途半端さが我ながらリアルで嫌らしい。


(こんなんでも本当にみんなからは男の子だって思われてるんだから魔法ってすごいな。)


そう、この学校は男子校なのに通っている私はれっきとした女子だ。
この秘密はグリムと先生方しか知らず、エースやデュースに最近仲の良いジャックも知らない。
どうしてこんな一昔前の少女漫画みたいな非現実的な事がまかり通ってるかというと、学園長が私に魔法をかけたからだ。

どんな言葉遣いでもどんな外見でも、自分から明かしたり相手に女性と確認させるようなよっぽどの出来事がなければ男性と思い込ませる認識阻害の魔法。

学園長は「風紀の乱れを防ぐため」と言ってたけれど、私としてもいきなりプロ並みの演技を求められても困るので本当に助かっている。
エース達にはたまにカマっぽいと言われるのが非常に複雑だが、まぁいい。仲良い友達にも明かせないなんて、ホントはちょっと良心が痛むけどね。


(っと、ここだ。早く用事を済ませてオンボロ寮に帰ろう。)


「CLOSE」の札が掛かる洒落た扉のガラスを覗くと中に人の気配がした。開店準備中なのだろう。
少し気後れしながらも軽くノックをしておずおずとドアを開ける。


「準備中のところすみません、お邪魔しまーす・・・・」

「おや、監督生さんですか。すみませんがまだモストロ・ラウンジは開店準備中ですよ。」

「あ、ジェイド先輩、こんにちは。」


扉を開けてすぐ侵入を阻むようにすっと現れた人物はジェイド先輩だった。

すらりとした長身に美しい眉と長い睫毛に縁取られた黄玉と暗緑色のオッドアイは柔らかい物腰に合わず寒々とした光を放っている。
ドレスコードのある高級店でも咎められなさそうな品のある寮服と相まって、いつ見てもそこら辺の俳優顔負けの美貌だなと感心してしまう。
いつまでも眺めていたい美形だ。その美しい皮の下が実はとんでもなく厄介だという事に気付きさえしなければ。


「開店準備中にすみません。フロイド先輩に忘れ物を届けたくて、こちらにいらっしゃいますか?」

「ああなるほど、これはご丁寧に。フロイドならあちらですよ。」


清潔な白手袋に包まれた長い指が奥を指し、釣られて窓の外(といっても外は空ではなく海中なのだからつくづくこの学園は不思議だ)を見ると巨大な影が過ぎる。
ぎょっとして身を引くが、すぐに見覚えのある魚影だと気付いてしばらく目で追っていると、予想通り目当ての人物が海中を悠々と泳いでいるのが見えた。


「フロイド先輩、今人魚の姿なんだ・・・綺麗だなぁ。」


ジェイド先輩の横をするりと抜けて窓に手を当ててぽかんと口を開けて眺める。
私の間抜けな顔に気付く様子もなく、普段なら隣の先輩とほぼ相似形の姿であるフロイド先輩は、水掻きと長く優美な尾を揺らして小さな魚を追っていく。
追われている側は堪ったものじゃないだろうが、でもこうして傍から眺めている分には被害はないのでいい。


「そんなに口を開けて眺めていると埃が入りますよ・・・二人の人魚の姿を見るのは初めてではないでしょう。」

「あ、アズール先輩。こんにちは。っと、あ、すみません勝手に中に入って、つい。」


視線の先にはこれまたジェイド先輩(いつの間にか隣にいる)に負けず劣らずの美しい男が腕を組んで呆れたようにこちらを見ていた。
雪原のように静かに輝く銀髪に、眼鏡の奥は氷河を削り出したような薄氷色の瞳、口元の黒子が完璧に嵌ったこの人も内面の恐ろしささえ分からなければお金を積んででも眺めていたい。

というかこの学校はそんな人達ばっかりだ。
顔面偏差値は恐ろしく高いが、その内面は一癖あるなんて言葉では収まらない問題児の数々。

色々な意味でつくづく不釣り合いな自分はこれから数年やっていけるのだろうかといつも不安になる。
可能な限り早く元の世界に戻る方法だけでも知って早く安心したいところなんだけど。


「お二人の人魚の姿は確かに見たことがあるんですけども、あの時は追われてて恐怖でしかなかったので・・・」


軽く思い出しただけで息が詰まり背筋が冷たくなる。もっと深く思い出すと泣きそうになるのでやめておく。
慣れない水中で嗜虐趣味を煮詰めたような捕食者二人に追いまわされるのは金輪際ないと思う・・・思いたい。ないよね?
当の元凶の片割れは「おやおや」と困ったように笑うがそこに申し訳なさ成分は微塵も感じられなかった。そういうとこあるよねこの人。

そうこう話している内にフロイド先輩が遠くの方へ行ってしまい、窓の外はいつものモストロ・ラウンジの静かな水中の姿に戻ってしまった。


「ああ、行っちゃった・・・すみませんがジェイド先輩、これ渡しておいて頂けませんか?トレイン先生から頼まれてしまって。」

「おや、僕を使うつもりですか?高くつきますよ。」

「えっお金とるんですか・・うそでしょ・・・」


貴方の片割れの不始末なんですがそれは。

しかし私の言葉にも返事を返さず笑みを深めるだけなので本気かもしれない。
この人達に大小関係なく借りを作るのは自殺行為だとつい先日それはもう深く思い知らされたばかりだ。
皆の補講が終わるまでの軽い時間潰し程度の用事が一気に面倒になってしまったぞ・・・軽く引き受けなきゃよかったな。


「丁度いい時間なので監督生さん、フロイドを呼びに行ってくれませんか?店に連れてきてくれたら新作のケーキを試食させてあげますよ。」

「えっいいんですかやったーーーー!・・・・って何ですかその破格の条件・・絶対に怪しいじゃないですか・・・・・」

「いえいえ、少し気分が良いのでそのお返しです。」

「はぁ・・・・・」


ジェイド先輩がいつもの慇懃無礼な笑み、とは少し違った柔らかい微笑みを浮かべるが私は首を傾げる。はて、何かしたかな。
彼の勝手な提案にもアズール先輩はその涼し気な目元でちらりと一瞥しただけで特に異論はないようだ。


「ではジェイド、監督生さんを奥の従業員用通路へ。僕は引き続き開店準備に取り掛かりますので。」

「はい。ではこちらへどうぞ。」

「き、期待しないで下さいね!?期待しないで下さいね!!?」

「ええ、美味しいお茶を淹れておきます。」

「だから圧かけないでくださる!?」


呼びに行って油断したところをジェイド先輩に背中から水中に突き落とされたり、もしくは機嫌を損ねたフロイド先輩に水中に引き摺り込まれたりしないだろうな。

どうやって合図を送るのかを説明されながら、半ば連行されるような形でひっそりとした狭い従業員通路を歩く。
だからどうという訳ではないけれど、こういうお店の裏側の雑多な雰囲気ってなんだかドキドキする───。

道の左右に高く段ボールが積まれた狭い道につっかえることなく進む長身を感心しながら追い、うっすらと光が漏れる扉に続く長い螺旋階段のでやっと止まった。


「では僕はここで。アズールを手伝わなければなりませんので。」

「ありがとうございます。じゃあまた後で。」

「健闘をお祈りしています。」


丁寧に頭を下げて一礼して去っていく背を見送って、螺旋階段を上ってから意を決してドアを開く。
するとプールサイドみたいにツルツルした白い床と深い青を湛えた海面、天井には無数の照明が下がっている場所に出た。
実際に見たことがあるわけではないけれど、水族館の水槽を上から眺める機会があればこういう光景なのだろう。飼育員さんの気分だ。


(えっと・・・確かこの辺にあるって言ってた・・・・・あったあったこれだ。)


濡れないように預かっていた教科書を棚に置いて、入り口近くにかかっている紐に通された貝殻の装飾の石を二つとった。
そして鈍い銀と金色の石を両方の掌に持って水中に手を浸し、コツコツと何度か合わせる。


(特に大きな音もしないけれど、こんなので本当に来るのかな。)


地上から水中に声は届かないけれど、この石なら特殊な音波を出すから届くとかなんとか。さっき説明を受けたばかりだから間違いようはない、と思う。
暫く音を発して(?)みたが反応はなく、もしかして担がれたのかと不安になり始めた頃に近くで大きな水音がしてビクッと体が跳ねた。


「ああーーーーーーーもううっさいなぁ!今日はそんな気分じゃないって、あれ、小エビちゃんじゃん。どうしたのここで。」

「ど、どうもフロイド先輩・・・こんにちは・・・・・」


本当に来た。

探してた人物が水面から現れてこちらに寄って来るのを、バクバク跳ねる心臓で出迎える。
プールの縁に肘をついて私を見上げる顔と唇は平生よりもずっと血色が悪いが体調が悪いという事はなく、これが彼の本来の姿。
肌も人間の平面さからは程遠い青い鱗に覆われ、本来足があるであろう位置にある大きな尾ひれがぱしゃりと水面を叩いた。


「もしかしてオレを呼んだのも小エビちゃん?何の用?つまんない用だったら絞めちゃうよ~?」

「ヒェッこわ・・・・」


オクタヴィネルの寮長と副寮長であるあの二人ももちろん危険人物なのだが、こちらから仕掛けない限りは安全だと、思う。
けれどその二人と対等につるんでいるフロイド先輩はこちらが何もしなくても気まぐれで攻撃してくるので厄介さは段違いだ。
機嫌の良い時を引ければ面倒見が良かったり優しかったりするのだが、こればかりはソシャゲのガチャに近い。

水面から出た瞬間は不機嫌だったのに、今はにやにやと笑う春の天気のような読めなさに内心で嘆息しながら慎重に言葉を選ぶ。


「えっと、トレイン先生から忘れ物を届けるように言われて・・・」

「なんだやっぱつまんない用事じゃん。絞めよ。」

「ウワーーーーーーー!!まってまってまって死ぬ!死んじゃう!!」


そういえばこの人、トレイン先生が嫌いだったの忘れてた!あっこれ水中に引き摺り込まれて死ぬパターンかな!!?そういう妖怪いるよね!!!!?

上機嫌から反転して私の手首を掴んで水中に引き込もうとするのを必死に身体を引いて抵抗する。
ふんふんと鼻歌交じりの声に頬が引き攣った。こ、こいつ私の抵抗を楽しそうにしてやがる・・・!せ、性格が悪い・・・!!


「つかさ~そもそもアズールがよくここに部外者が来るのを許したね?もしかして忍び込んだの?」

「いやいやいやいやいや!?ちゃんと許可はもらってますって!ジェイド先輩が呼んで来いって言ったんですよ!!?」

「本当に~?小エビちゃん、ジェイドに何かしたの?」

「し、してないですって!したことと言えば・・・泳ぐフロイド先輩が綺麗って言ったくらいで、」

「あーーなるほどね。」


何かを納得したような声でぱっと手を離され、さっとプールの縁から距離をとる。
小エビちゃんは本当に小エビちゃんだね、という謎の納得と共に手招きされて恐る恐る再び近付いた。本当は離れていたかったけれど、逆らうと怖いし。

従順に戻ってきた獲物に何を思ったのか、上機嫌で私の頭を優しく撫でる。
もちろんさっきまで水中に居た手でそんな事をされれば容赦なく髪も制服も水に濡れるのだが本人はお構いなしだ。
衣服にボタボタと水が染み込んでいく不快感をぐっと堪える。機嫌が悪くて暴れられるくらいならこの程度で済んでよかったと思おう。


「小エビちゃんも一緒に泳ぐ?そしたらキレイな姿もっと近くで見られるよ?」

「いや嬉しいんですけど着替えを持ってないのでまた今度の機会がいいかな~って・・・・」

「ハダカでいいじゃんそんなの。」

「遠慮しときますマジで!!!!」


いくら魔法の力を借りてても全裸になったら流石に正体がバレる!!そしてこの人にバレるのはマジでやばい!!!!!

ぐぬぬぬぬぬぬと再び綱引きが始まったところで、はっと何かに気付いたようにフロイド先輩が天井を仰ぐ。
釣られて上を見上げると一瞬何かが動いたような気がした。なんだろう。


「小エビちゃん、ごめんね。」

「はっ!!!!???????え、」


今までの駆け引きはなんだったのか、さっきとは比べ物にならない強い力で急に引っ張られて身体が傾き、冷たい水面に身体ごと叩きつけられる。
突然の暴挙に目を白黒させる私が文句を言ってやろうと口を開いたタイミングと水中に引き摺り込まれたのはほぼ同時だった。


「~~~~~~~~~~~~~~!!!!!!!!!」


心の準備もなくいきなりの強制水中呼吸にがぼがぼと口から大量の空気が漏れる。
命の危機レベルの息苦しさに当社比2倍の渾身の力で暴れるが先輩の腕はびくともしない。さすがオクタヴィネル寮の暴力担当、力が強すぎる。

えっ待ってやばい、これ本当に死ぬのか?というか殺されるの?マジで????


「ぶっっっっっは!!!げほ!!えほっげっほ!!!!」


死を覚悟した瞬間に急速に水面に浮上。恐怖で相手にしがみついたまま救いの酸素を全力で貪る。は、肺呼吸バンザイ・・・!!
水を吸って重くなった制服の不快感と急速に冷える身体と、未だ収まらない死の恐ろしさで身震いするのをフロイド先輩が優しく頭を撫でる。
力任せにその手を振り払って睨めば面白そうに捕食者は瞳を細めた。こ、この野郎。


「せ、先輩、さすがの私もおこ、怒りますよ!!!!?」

「え~~~~だってあのままだと小エビちゃん死んでたし。」

「は!!?殺そうとしたのは先輩の方で、」


半透明の水掻きの付いた手で器用に背後を指さされて振り返ると、さっきまで立っていた白い床には黒いカバーの何かと粉々になったガラスの欠片が転がっている。
まるでどこかから落ちてきたかのようなそれを見て、天を仰いで、もう一度往復して、そしてやっと天井の照明が落ちてきたのだと理解した。

フロイド先輩が引っ張ってくれなければ潰れていたのは私の頭だったかもしれない───しれないではなく、そうだ。


「・・・・・・・・・・・・・・・。」

「うんうん、怖かったねえよしよし。」


寄る辺がなく、先輩の体温の低い身体に強くしがみつくと白い手がよしよしと頭を撫でてくれて少し泣いた。やばい、怖い。
少しだけそうしてもらってからはたと気付く。ん、そういえば今私って何にしがみついて、


「ッッッッッッッッ!!!!?」


自分が何に誰に抱き着いているのか、自覚した瞬間に後ろに思いっきり飛びのいたところで頭の中を星が散った。
後頭部の激痛を訴える間もなく意識ごと頭が水中に再び落ち、そしてそのまま浮上することはなかった。



























「フロイド!監督生さん!?今の音は!!!?」

「あ、アズール。」


店にいても聞こえた破壊音に息を切らせて螺旋階段を駆け上った先には当然のようにジェイドが先行していた。まぁいい。
次いで床の惨状を眺め状況を把握。粉々になった硝子を革靴の先で忌々しく踏みにじりながら、水上でぐったりとフロイドにもたれかかる人物に声をかける。


「監督生さん、生きてますか?」

「生きてるけど死んでるみたい。」

「はぁ・・・・。」


額に刻まれた皺を指先でほぐしながら海の底よりも深い溜息を吐く。
他でならともかく、よりにもよって自分の店で死人などが出たら洒落にならない。
しかもフロイドが「えー働く気分じゃなーい」と言って逃げたのを、監督生さんに捕まえさせる計画だったのだから猶更だ。

とりあえず最悪の事態は避けられた事を安堵し、気を取り直して指示を飛ばす。


「ジェイド、現場写真を撮っておいてください。僕の店で手抜き工事なんていい度胸だ。たっぷりと締め上げます。」

「分かりました。」

「フロイド、気が進まないのは分かりますが監督生さんと一緒に上がってきなさい。早く着替えさせないと風邪を引かれてそれこそ店の責任になります。」

「はぁい。あ、ジェイド相手を絞める時はオレも呼んでね。」


棚に備えてある変身薬をフロイドに投げて、相手が飲んだのを確認してからバスタオルを多めにとる。
気は進まないがVIPルームには僕の予備の寮服が置いてあるからそれを監督生さんに貸し出すとして、ああこの始末をどうつければいいのか考えると頭が痛い。
あのお人好しの事だから誠意をもって謝れば許されるか、いや怪我こそしなかったとはいえ流石に何かで補填しないと後々こちらの不手際を突かれるか。


「あーーーーーーーーー!ジェイド、アズール見て見て~~」

「なんですか素っ頓狂な声を出して、こちらは今それどころでは────は?」


深刻な状況下にも関わらず能天気な声の主が掲げたものに、僕はもちろんあの冷静沈着なジェイドですら硬直し言葉を失ったのだった。




























「・・・・・・・・・?」


どこだここ。

薄紫の品のある色をした天井はどう考えてもオンボロ寮の埃っぽい粗末なそれとは全く違う。
部屋の主の趣味を伺えそうな、これまた上品な照明をじっと眺めてから首を動かして周囲の本棚と冗談みたいに大きい金庫を見てやっと思い出す。あ、ここVIPルームだ。


「いだだだだだだだだだだ・・・・・」


起き上がろうとすると後頭部が2つに割れたんじゃないかという激痛に頭を抱えて再び沈み込む。
ご丁寧に用意された柔らかい氷枕が気持ちよくてずっとこのままでいたい。いやでもどうしてこうなってんだマジで。


「目が覚めましたか、監督生さん。頭の具合は?まだ痛みますよね。」

「え、あ、痛いです・・・」


部屋の主でもあるアズール先輩が机の上の書類をまとめてこちらに歩み寄ってくる。
どうやら応接用のソファーに寝かされていたらしい。白手袋が何かを探すように彷徨い、そして棚から薬瓶と机の水をとって差し出す。


「ではこの痛み止めを飲んで下さい。苦いので噛まないように。」

「すみません、ありがとうございます。」


冷えた水が入ったコップと群青色の錠剤を渡されて言葉通りに一気に飲み干す。
・・・・我ながら飲んでから気付くのは遅いと思うけれど、これで代金を請求とかされたらどうしよう。

吐いてでも戻すべきだろうか、と守銭奴として悪名高い先輩を見上げる。
けれど杞憂だったのか何の言葉も続かない。どうやら素直に好意として受け取ってよかったらしい。ちょっと気まずい。


「・・・・・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・・・・。」


それから互いにしばし戸惑うような沈黙。探るように視線を向ければ気まずそうに目を逸らされる。なんだその反応。
本当にどうしたんだろう、この人にしてはどうにも大人し過ぎるような気が、


「あの、アズールせんぱ、」

「ねえ小エビちゃん目ぇ覚めたってホント?あ、ホントだよかったね~小エビちゃん。」


勢いよくドアが開いて、今度は人間姿のフロイド先輩が部屋に飛び込んできて頭を撫でられる。もちろん痛い。
続いて入ってきたほぼ相似形の顔をしたジェイド先輩が頭を下げながら後ろ手にドアを閉める。

妙に上機嫌なフロイド先輩がニコニコとソファーに両手をついて私の顔を見上げるのは可愛い、可愛いが怖い。何でそんなに機嫌が良いのだろう。
そういえば何でオンボロ寮でもなくこの部屋で寝てるんだっけ、確か忘れ物を届けに来て、店の裏に通してもらって、人魚姿のフロイド先輩がいて、それで、


「それにしても小エビちゃんが女の子だなんて知らなかったなぁ。どうして気付かなかったんだろ。」

「ゲッ!!!!!な、ななななななな何で、なんでそれを、」

「覚えてないの?店の照明が落ちてきて小エビちゃんを助けてあげたのに、その後自分で頭を打って自爆して気絶したんだよ?」

「・・・・・・・・・・・・・」


誰にも明かしてはいけない秘密がバレた理由があまりにもお粗末過ぎて言葉をなくした。マジか。
よく見るとこれ自分の服でもないし、というか多分目線の先のハンガーに掛かっているのがいつもの制服で、あれ、つまり、つまり?

ぎ、ぎ、ぎ、と油の差し忘れた機械のように首を動かした自分が一体どんな表情をしていたのか。
ばちっと目が合ったアズール先輩は非常に気まずそうな顔をして視線を彷徨わせた後に渋々といった様子で言葉を吐き出す。


「仕方がないでしょう陸の人間は濡れたままだと風邪を引いてしまうんですから・・・なるべく目は瞑って作業しましたよ。」

「あ・・・・はは・・・はは・・・これは、おお見苦しいものを・・・えっと・・・・すみません・・・・・」


何で私が謝ってるんだろう。分からないけれどとても居た堪れない。
穴があったら永眠したいがここには穴がないので今すぐ床ぶち抜いて自分の墓場にしたい。スコップが欲しい。


「あ、あの、黙っておいてほしいんですけど・・・おいくら支払えばいいでしょうか・・・?」

「僕は要求しません。そもそも、杜撰な工事を許した僕の管理不届きですから。ですが───」


薄氷色の瞳がちらと視線を寄越した先はもちろん分かっている。
この状況を心底楽しそうに見ている暗緑色と黄色の2対のオッドアイ。
美しく似通った2つの顔が嗜虐的な笑みを浮かべればそれはそれはただ恐ろしく、背筋を氷塊が滑り落ちていくのを感じていた。


「さて、どうしましょうかフロイド。確かにアズールの責任ではありますが僕達にはこれっぽっちも非はないですからね。」

「どうしよっかジェイド。────ねえ、小エビちゃんは黙っておいてほしい?」

「・・・・・・・そりゃ、黙っておいてほしいですけど。でも、」


はあと大きな諦めの溜息をつく。
ああ、いつか誰かにバレることはあるかなーと思っていたけれど、それがエース達ではなくよりによってこの双子とかそんな事ある?

アズール先輩は経緯がアレなだけに黙っておいてくれるみたいだけど、この二人に願いを聞いてもらうために何を要求されるのか。
私の頭でぱっと考えただけでも全身から嫌な汗が噴き出してくる。やばい、絶対に取引したくない。
頭の中でゆらゆらと不安定に揺れていた計算の天秤はついに片方に傾いた。


「別にいいですよバラしても・・・私みたいなのが女の子だってバレても誰も喜ばないだろうし・・・・」


確かに美少女だったら諸々の危機はあるだろうが、部屋の鏡に映る姿は地味で冴えない顔が映っている。
いくら男子校という特別な状況でもこんなの相手じゃ一体誰が喜ぶんだか。むしろガッカリされて見向きもしないのが関の山だ。それはそれでむなしいけれど。


「うわぁ甘いね小エビちゃん、今度からは甘エビちゃんって呼んであげよっか?」


まぁ確かにツメの甘さは甘えびちゃんですよ、と悪態をつこうとした口の横に強く手を突かれてひゅっと息が止まる。
フロイド先輩は両手を頬に付いたまま私を見ている、ということはこの手の持ち主はいつもよりも薄い笑みでこちらを見下ろすジェイド先輩か。

長い指先が私の鼻先に突き付けられ、そのままなぞるようにゆっくりと動いて腹の辺りで止まる。
ただそれだけで実際には触れられていないのに、どこか淫靡さを感じる所作にぞわりと背筋が粟立った。


「陸の人間はいつでも発情できるのでしょう?この男子校でたった一人の女生徒ともなれば、あのオンボロ寮に毎晩男の行列ができますよ。」

「─────、」


もう少し自身の立場を弁えた方がよろしいかと、涼やかな声で締められた言葉のその意味するところに絶句する。

今まで何とも思っていなかった自分の状況が初めて怖くなった。
そうか、別に見た目がどうかなんて関係がなくて、性別が違うだけで十分に危ういのだと自覚すべきなのだ。

無意識に脅威から身を守るように腕を自分の身体に巻き付かせて男を見る。先程とは別の恐怖が背筋を這いあがってきた。


「2人ともそこまで。今回は僕にも責任があるのであまり無茶な要求はさせませんよ。」

「はぁい。」

「はい。」


魚なのに鶴の一声というのも変な例えだが二人がやっと身を離してアズール先輩の横に並ぶ。
男から少し距離をとることでやっと息を少し吐いた。今後はもっと真剣に、魔法があるから大丈夫なんて思わず秘密を隠さないと。

(ああもうこうなったら道は一つしかない。)

危機的状況で自分の家族と恋人どちらを助けるか、なんて陳腐な問いを実際に突き付けられた人も私と同じ表情をしているのだろうか。

観念して唇を開きかけ、怯えたように閉じ、また開いてを繰り返す。
その様子を心底楽しみながらも自分達からは何も持ち掛けない、あくまで私の口から言わせたいという底意地の悪い考えが透けて見えた。


「じゃ、じゃあ黙っててもらうために私は何をすればいいですか・・・・?」


まな板の上の鯉の命乞いに捕食者たちは笑みを深め、そして、

































「で、明日からモストロ・ラウンジでバイトすんのか?」

「はい・・・・・そうなりました・・・」


目の前で腕を組んだ黒猫、の割には喋るし尻尾の形は変で耳も燃えている不思議生物。
この学園の運命共同体でもあるグリムとすっかり夜も更けたオンボロ寮の自室で遅めの晩御飯をつつき合う。

お土産にとタッパーに入れて持たせてくれたモストロ・ラウンジの賄いはうまい。うまいはずなのだが生きた心地がしない。明日の自分が見えない。


「オマエ迂闊なんだゾ・・・よりによってアイツラにバレるなんて・・・・・」

「迂闊とかチョロいとか抜けてるとかグリムにだけは言われたくない・・・・」

「ぶな!!?オマエ失礼なんだゾ!!この肉はもらっていくからな!!」

「あーーーーーーーーー!!それ私が目をつけてた、くそ、吐けーーー!!!そもそもこれ私がもらったんだからね!!?」


ぎゃーぎゃー言いながらも夕飯を食べ終え、すっかり空っぽになったタッパーを洗って埃っぽいベッドに倒れこむ。
このまま全てをなかった事にしてリセットできたらどんなにいいだろう。何かそういう都合の良い魔法って、ないですかね。ないかなーーーーーー!!?


「ま、まぁちゃんとお金は出してくれるみたいだし、私みたいなのを雇ってくれるだけありがたいのかなって・・・・」


事実、最低限の衣食住は学園長が保証してくれるって言ったけれどこのオンボロ寮を見れば本当に最低限だし・・(もちろん文句を言える立場じゃないけれど)
身の回りの物はエース達のお下がりでほぼ成り立っているから、自由に自分の意志で気兼ねなく使えるお金が切実に欲しい。
それに身元保証のない私なんて他所じゃ絶対に雇ってももらえないし、金銭感覚も自信がないから足元を見られるところをアズール先輩は絶対にきっちりしてくれるし。


「ちなみにいつまでとか決まってんのか?」

「それがね・・・二人が飽きるまで、だって。」


あの後、どんなに交渉してもこの具体的な数字のない不安だらけの期限は覆ることがなかった。
ポジティブに考えれば1週間で終わるかもしれないし、ネガティブに考えればずっとこのままかもしれない。怖すぎる。

そんな私の怯えに反し、あっけらかんとグリムは言ってのけた。


「なーんだ、じゃあ簡単なんだゾ。」

「は?????どこが???????」

「だってオマエお笑い芸人でもないからすぐ飽きられるに決まってるんだゾ。」

「あっ」


これぞ天啓というべきか。
さっきまでの暗雲(幻覚)は神々しいBGM(幻聴)と共に急速に晴れていく。

その袂に立つのは我らが相方グリム様である。
入学からずーっと問題ばかり引き起こしてきた相棒がやっと救世主に見えて思わず両手で拝んだ。


「確かに・・・・私って心配しなくてもそんなに面白い人間でもないわ・・・グリム、天才か?」

「フフン、オレ様は将来も有望な天才だからな!もっと褒めてもいいんだゾ。」


こうして夜は更けていったのだが、後にこの認識が大きな間違いであると気付いたのは随分と後になってからの話だった。








































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あとがき。
‪※ジェイドの発情云々のセリフって詰みの言葉で、あの台詞で監督生ちゃんは「エースやデュースのような友人ですら女であるお前は頼れないんだぞ」と
言外に他の退路を潰されてしまったので双子と取引するしかなくなったのです‬



2020年5月10日執筆 八坂潤
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