閉店後の客足の途絶えたモストロ・ラウンジ。
外の海が月の光も途絶えた宵闇の世界に包まれていて、まるでただの地上の夜のように見える。

少し光の落とした照明の下で、アズール先輩の白い手袋が踊るようにマドルの枚数を数え帳簿に何かを書き連ねている。
若き経営者のいつもの締め作業を横目で眺めながら、当の私は掃除を終えジェイド先輩とフロイド先輩の本日の賄い料理を待っているだけだった。今日はなにかなぁ。


「───そういえば今更ですけど、アズール先輩ってすごい魔法使いだったんですね。」

「魔法士、ですよ。僕が優秀だなんて何を今更言っているんですか。」


返ってきた当の本人の肯定にはただただ事実があって嫌味はない。
でも少しだけその声色が通常よりも少しだけ上擦っていることに気付いて少し微笑ましくなる。
すぐ終わると思っていたこの3人との付き合いも何だかんだで長いということだ。双子が飽きるまで、という期限はいつまで続くのだろう。


(この人達は先輩なんだから流石に卒業したら縁は切れるよな・・・)


それに私も卒業したら元の世界に戻っている(予定)なので、そうなると先輩方の卒業は同時に永遠の別れでもある。
かなり気の早い感傷に少し浸りそうになり、いや流石に気が早すぎると頭を振ってさっきまで磨いていた机を手持ち無沙汰に撫でた。


「いや優秀なのは知ってましたが・・・カリム先輩が言ってたでしょう、この学校でもトップクラスだって。
 あの人はたぶん無意味なお世辞とか言わないタイプだと思うので、やっぱり真実なんだなぁと・・・。」


熱砂の国で生まれ育ったという、砂漠の日光で灼かれた砂のように清潔な笑顔を思い浮かべる。
翻って、今目の前でウキウキしながら売り上げを確認するアズール先輩の俗っぽい笑顔との対比が少し面白い。


「ええ。ですので、何か困りごとがあれば僕に相談してくれていいんですよ。」

「いや先輩の相談の対価ってえげつないじゃないですか・・・。」


少し前の、学園全体すら揺るがしたあの大騒動を思い出す。
頭にイソギンチャクを生やされた友人や相棒の姿が頭を過ぎる───今だから笑い話にできるけれど当時は本当にどうしたものかと思った。
当然と言えば当然だが、それだけの強制力を持つアズール先輩の実力の恐ろしさを伺わせる。その手腕の悪辣さも。


「もうあのオンボロ寮を抵当に入れるなって学園長からは怒られましたし、私に差し出せるものなんてないですよ。」


───以前。

あのハーツラビュル寮の寮長を務めるリドル先輩に「よくあの三人と付き合っていられるね」と言われたことがある。
アズール先輩の悪辣さに手を焼き、フロイド先輩には金魚ちゃんと呼ばれ絡まれて、それを止めないジェイド先輩という組み合わせは彼にとっては頭痛のタネだろう。
そうでなくてもこの三人は教師ですら手を焼く優秀な問題児たち。ましてや一般の生徒達にとっては天災に近い。


(確かに、あの時初めて不思議に思ったんだよなぁ。)


弱みを握られて働いているという前提はあるけれどそれだけで、何かを強要されることもなく奪われることもなく労働内容も不当ではない。
個性の強い3人に振り回されることはあれど、明確に何らかの被害を受けた記憶はない。

それもそのはず。なんせ私には価値のあるものがなにもない。
分かりやすいお金はもちろん、権力も、美しい声も、麗しい外見も、この学校のみんなが持つ魔法も、抜群の運動神経も、素晴らしい頭脳もなく、全て軒並み平凡かそれ以下だ。

何もないものからは何も奪えない。なんて単純な答えだろう!
そんな分かりやすい答えに辿り着いてしまった時は我ながら空しかったが安心した。
この優秀な生徒が集う学園において、私だけは何も損なわずにこの深海の商人達と接することができるのだ。

何も持っていなくて本当によかった、というジャックが聞いたら怒りそうな意識の低い感謝を抱いた。


「それは残念。ですが困りごとがあればまずは僕に相談を。」


それまで静かに文字だけを追っていた美しい薄氷色の瞳が私の顔を見た。
でも私は知っている。その慈母のような微笑みを浮かべる薄皮一枚隔てた内側はこの学園でもトップクラスにタチが悪いことを。


「────損はさせませんよ?」

「・・・・・だから、しませんってば。」

そんな何度目かになるやりとりをしたのが数日前。





















急がなきゃ、急がないと、早く早く早く、早く!今すぐに!


「ッ・・・・・!!」


午後の顔を覗かせる静かな青い海の中の通路を懸命に走り、目の前の扉を半ば壊すようにして開ける。
開店前の静謐が無作法に破られたモストロ・ラウンジの店内には切望する3人の姿があった。


「あれぇ?小エビちゃんどうしたの?そんなに息を切らして。」

「これこれは、何か困り事のご様子。ぜひ、アズールに相談を。」


双子に案内されるまでもない、私はそのために来たのだ。

出迎えの言葉に返事をする余裕もなく、目当てのアズール先輩の座る椅子の前で止まる。
ここまでノンストップで走ってきた疲労と、自分がこれからすることが恐ろしくて足が馬鹿みたいに震えていた。
音を発することに怯えて唇を開いて、閉じて、葛藤する。ああけれど迷っている暇はなんてないと、他に手はないと、分かってここに来たのだ。


「グリムが、攫われました。相手は上級生で、強くて、とても、勝てません。」


ついさっき見た光景の恐ろしさに震える。
やっと見つけた黒い相棒は地面に倒れて血を流していて、いつもの威勢の良い声は絶えて静かだった。
助けなければと思うのに足が震えて、これは逃亡じゃないと自分に言い聞かせて何とかここまで走ってきた。

だからここで私が何もしなければその嘘が真実になる。


「相手が、すごく怒ってて、もしかしたらグリム、グリムが、死んじゃうかもしれない・・・」


────この三人を頼る前にエースとデュースに頼る道も考えた。
けれど、どんなに頼りになる友達でも二人はまだ1年生なのだ、上級生に到底勝てっこない。だから助けを求めることができない。

じゃあ他に頼れる先輩はいるのか?いいやあのオンボロ寮に所属しているのは私とグリムだけ。
エースとデュースならケイト先輩やトレイ先輩、そして寮長であるリドル先輩を頼ったかもしれない。
ジャックならラギー先輩と寮長であるレオナ先輩に頼ったかもしれない。

でも、私達には誰もいないのだ。
庇護者のない自由で気楽な生活は、同時に自己責任が付きまとう。


「先生に言っちゃダメって言われました・・・だから、言えない・・・・」


とっくに私の願いの内容を察しているくせにアズール先輩は何も言わない。
いつぞやと同じくジェイド先輩もフロイド先輩も何も言わない。
ただ無言で私の言葉を、決意を促している。ああわかったよ。


「────だから、助けてください、お願いします。」


言ってしまった。
それがどんな破滅の言葉なのか正しく理解しているのに、言ってしまった!

緊張からの解放で毛足の長い絨毯の床にへたり込んで、自然と3人に頭を垂れる形になった。
無様で無力な私に対し嘲笑の一つも聞こえない。それが救いだった。


「僕と取引をするその意味、あなたは分かっているのですか?」

「分かって・・います・・・でも私には他に頼れる人がいません・・・」


一体何を要求されるのだろう。
この人との取引の事だ。絶対にろくでもないことになる。
これから先、この取引をしたことを私は絶対に悔やんで、死にたくなるに決まっている。


「絶対に後悔するって決まっているのに、グリムがいなきゃ駄目なんです・・・」


グリムが死んでからの後悔か、あの時グリムを助けずに見殺しにした後悔か、グリムを助けて取引をした後悔か。
感情を殺して冷静にずらりと並べてみればどの後悔がまだマシかなんて一目で分かる。

自己犠牲だなんて美しい言葉は相応しくない。相棒だなんて言っておきながら出会って間もない不思議生物にそこまでする義理はない。
でもそれでも私を切り立った崖の端へ駆り立てるだけの感情が確かにある。


「対価は、何でも支払います。だから、お願いします・・どうか、グリムを助けてください。」


血を吐くような声色で言葉で祈りを紡ぐ。
神に救いを求める殉教者もこんな気持ちなのだろうか。信仰心など欠片も持ち合わせていないのに。


「覚悟がおありのようだ。では、ここにサインを。」


アズール先輩が救いの御子のように慈悲深く、けれど菩提樹の下で誘惑する悪魔のように蠱惑的に囁く。
両脇に控えるジェイド先輩とフロイド先輩は早く林檎を食べてしまえと催促する蛇のようにも思えた。


(大丈夫、私には何もない・・だから大丈夫だ。どうせ大したものは要求されない・・・・)


長い指で差し出された眩い黄金色の紙を恐る恐る伺うが、何も書かれていなかった。
つまり、私が署名した後で何でもさせることのできる絶対行使の白紙の委任状。

例えアズール先輩が契約の相手でなくても署名を拒否したい恐怖があった。


「・・・・・!!」


凶悪な鮫の口に手を突っ込むのもこんな気持ちだろうか。
今すぐにでも飛び出してきそうな心臓を押さえ、震える手で署名欄に自分の名前をサインする───ああもう戻れない。

私の署名した黄金の契約書を愛おしそうに指で撫でてから大事に懐に仕舞い、アズール先輩が立ち上がる。
未だ床に這う私の肩に自身のコートをそっと掛けてくれるが、布一枚増えたところで心の底から冷えるようなこの震えは到底収まりそうもなかった。


「───商談成立です。ジェイド、フロイド、行きますよ。今日は店は休業です。」

「はぁ~い。」

「はい。」


最後に場所を伝えこれでもうグリムは大丈夫だと安堵すべきなのに、泣きそうな顔で呆然とする私を置いて3人が店を出ていく。
扉の閉まる静かな音で我に返って飛び出すと、もうあの恐ろしい人魚達の姿はどこにもなかった。










それから少しの時間が経って。

どのくらいそうしていただろうか、薄暗い店の中で両手を祈りの形で握りしめながら縮こまっていると、扉の再び開く音がして顔を上げる。
待ち望んでいた姿に鼠色のコートが落ちるのも構わず入口に駆け寄った。


「契約は果たしました。」


3人からしても上級生だった人達と戦ったであろうはずなのに、その服には傷どころか埃一つなくまるで散歩から帰ってきただけかのような気軽さ。
けれどジェイド先輩が抱える黒い塊には包帯が巻かれていて、依頼が果たされたことだけは分かった。


「グリム・・・・!!」

「ご安心を。薬が効いて眠っているだけです。」

「よかった、本当によかった・・・・・!ありがとう、ありがとうございます・・・!!」


尊い宝物を受け取るように恭しく両手で軽い体を受け取って、頬を寄せると温かい。心からの安堵の声が出た。
散々心配したこちらの気持ちなど露知らず、安らかに眠ったままの黒い毛皮を大粒の涙が静かに伝い床に落ちていく。

ぐずぐずに泣き崩れる私が落ち着いたタイミングを見計らってアズール先輩が囁く。


「今度は監督生さんは約束を果たす番です───今夜、この店にもう一度来てください。」


死刑宣告の方がまだ結果が分かっているだけ優しく感じる。
命の恩人が仇の仇敵に反転する。いいや、これは分かっていたことだ。分かっていてこの人の手を取ったのだ。

頷きたくはなかったが、顎を引いて了承した。



























約束の時刻だ。

未だ眠るグリムをオンボロ寮のベッドの上にそっと横たえて、夜の海の通路を歩く。
何度も歩いたことのある道なのに、ともすれば闇を垂らしたような黒い世界に肌が粟立つほどの恐ろしさがあった。
制服のポケットの中に忍ばせた保険を何度も確認し、辿り着いた目的地の前でドアを睨む。


(大丈夫、私には何もないから大丈夫。奪うものなんてない、価値もない、だから大丈夫だ。)


氷のように冷たいドアノブに手を触れながら自分に何度も言い聞かせ、小さく息を吐く。

実際、どんなに頭を捻っても対価なんて浮かばなかった。
以前はオンボロ寮を欲しがっていたけれど、それも学園長命令で禁止されているからもう手は出さないだろう。
きっと、せいぜいがモストロ・ラウンジで卒業までタダ働きだとか、そんなものに決まっている。

───でもどうしてこんなに不安な気持ちが消えないのだろう。

意を決してドアを開くと、高級ホテルのドアマンのように恭しくジェイド先輩が一礼して優雅に微笑んだ。


「いらっしゃいませ、お客様。アズールが奥で待っています。」

「・・・こ、こんばんは・・・・・・」


いつもの「監督生さん」ではなく「お客様」とジェイド先輩は言った。
何度もこの店には来ているのに、普段とは違う丁寧な応対にごくりと喉の奥が鳴った。
───今の私はバイトの手伝いに来た従業員ではなく、取引相手なのだ。

普段は茶化してくるフロイド先輩も口の端を吊り上げるだけで何も言わず、私を奥のVIPルームへと招き入れる。
不本意ながら何度も来たことのあるはずの部屋が、監獄のように息苦しく感じて呼吸が浅くなった。大丈夫、大丈夫のはずだ。


「来ましたね、監督生さん。さぁ遠慮せずおかけ下さい。」


朗々とした声に促されるまま、取引相手であるアズール先輩の正面に座る。
机の上には伏せられたあの黄金の契約書と、それをペーパーウェイトにする硝子の小瓶が置いてあった。
硝子の内側は闇の色よりも深く黒い色でなんだか不吉さを感じる。ただのインク瓶で色のせいだと自分に言い聞かせる。


「あなたへの対価は色々と考えたのですが・・・足を、頂こうかと思いまして。」

「あ、足・・・?」


思わずズボン越しの自分の足に触れる。
どう考えても自己弁護できない、控えめに言っても短くてお粗末な、そこら辺に生えている普通の足だ。
価値なんて到底つくはずがない。じゃあどういう意味だ?購買部のパシリに永久就職しろってことだろうか?

なんだその程度、と安心しかけた心が次の言葉で瞬時に凍り付く。


「はい、足を。そちらの人魚姫は美しい声と引き換えに人間の足を手に入れたとか。僕もそれに倣ってみようかと。」

「な・・・・・・そ、それって、本当に、足?」


比喩など生温いものではなく現物。
カレーのルーがないから今夜はシチューにしようみたいな軽さで下される恐ろしい言葉にぞっとした。

足がなくなる?足がなくなったらどうなる?
予想以上の恐ろしい対価に、支払った後の自分の姿の想像が追いつかない。
いいや追いつく必要なんてない、これはきっと悪い冗談で私はからかわれているだけだ。そうに決まっている。


「じょ、冗談ですよね?私の足なんて、ね、どうするんですか?太いし、短いし、いいところなんて一つもないただの足ですよ?」

「価値があるかどうかなんて本人が決めるものではなく、取引相手が決めるものでしょう。」

「────、」


絶句。

確かに自分の取引相手が恐ろしいことも分かっていた。
対価として何を要求されるのか、覚悟しなくてはならないことも分かっていた。

けれど本当は『先輩方とは仲が良いからそんなに酷い目には遭わされないだろう』という思惑が根底にあったのも事実。
そんな私の砂糖菓子よりも甘ったるい考えを打ち砕かれて心の底から目の前の人が恐ろしいと思った。


「そんな、待ってください、いくら何でも対価として重すぎるでしょう!?こんなことになるなら、」

「こんなことになるなら契約しなかった、と?グリムさんをあのまま見捨てた方がよかったと、そうおっしゃるんですか?」

「それは・・・・」


何度も読み込んだ教科書を朗読するように言葉の先を読まれて声が詰まる。
救いを求めるように背後のジェイド先輩とフロイド先輩を伺うが、二人とも無言で私達の会話を楽しんでいるだけだった。


「グリムさんを人、と言ってもいいか分かりませんが人一人の命を助けたのです。これくらいの対価はあってしかるべきでしょう。」


その通りだ。
誰かの命を助けてもらったのだから、私の足程度どうでもない、はずだ。
命を助けてもらった同程度の対価として考えるのなら私の命を要求されてもおかしくなかった。それを、たかが足だけで済むなんて幸運だ。


(そんな訳あるか!?いくら何でも絶対に嫌だ!)


”黄金の契約書は破棄できる”

保険のために隠し持っていたマッチを取り出そうとポケットを探る、がそれを制するように双子の長い腕が胸元を交差してひゅっと呼吸が止まった。
自分達の知り合いがこれから恐ろしい目に遭おうとしているのに、それを止めるどころか助ける動きにぞっとする。
両側から獲物を覗き込む形になった捕食者はくすくすと笑いながら続けた。


「困りますよお客様、願いには対価が必要だと散々申し上げたでしょう。」

「そうそう、オレら小エビちゃんのことなるべく壊したくないんだよね───だから足だけで済ませたいなら大人しくして?」


オクタヴィネル寮の暴力担当の二人と凡人である私が戦って勝てるか?答えは断じてNOだ。対峙することすらままならない。

陸の上だというのにまるで海の底にいるように目の前が暗く、息苦しい。
そんな私の呼吸を更に奪うように、静かな銀嶺の光を讃えた魔法石が喉笛に突きつけられる。


「それとも今僕と戦って契約書を奪還してみますか?試してみる価値はあるかもしれません。」

「っ試してみる価値も、ないでしょう・・・・」

「ええ、そうですね。賢明な判断かと。」


許可なくジェイド先輩の手がポケットの中を探り、頼みの綱として握りしめていたマッチをするりと取り上げて床に落とす。
落下音は柔らかい絨毯に吸われ、小さな箱からは流血の代わりにマッチ棒が広がった。


「・・・・・・・・、」


打つ手が、ない。

浮かしかけた腰が力なく柔らかい椅子の上に落ちる。
意味なんてありっこないのに、自然と指は祈りの形を組んでいた。神様、もしいるのならどうか助けてください。


「結構。ではこの契約は内密に。もしこのことを誰かに漏らしたら、うっかりしてもっと酷い条件を書いてしまうかもしれません。」


長い指で裏返された黄金の契約書にはまだ何も書かれていない。
先生に相談するという逃げ道すら封じられて、いよいよもってどうしようもない。


「ではこちらを。僕の調合した魔法薬です。」

「─────、」


きっとこれを飲んでしまえばこの足はなくなってしまうのだろう。
今まで自分の足への愛着なんて意識したことはなかったけれど、この窮地に陥ってやっと手放したくないと初めて思った。

差し出された薬瓶をがたがたと震える手で受け取る。溢したフリをしてこの場は逃げてしまおうか、いいやすぐに代わりを用意されるだけ。
これから自分の身に起こるであろう変化が恐ろしくて泣きながら、強く目を閉じて液体を胃の中へ流し込む。


「あは、ちゃーんと飲んでえらいねぇ。」


えらくなんてない。本当は飲みたくなんてなかった。

目を覆いたくなる気持ちを抑えて裾をめくって自分の足を見る。
だがそこには依然として変わらぬ二本の足が生えていてるだけ。

予想していた変化がない喜びにやっぱり冗談だったのかと顔を跳ね上げるが、アズール先輩の瞳は依然として凍土の輝きだった。


「今すぐに足が無くなっては困るでしょう?なので足を頂くのは卒業後とします。これは手付け金、ということで。」

「手付け金・・・・ひっ」


フロイド先輩に予告なく足に水を垂らされて身体が跳ねる。
突然の悪戯に気持ちが瞬間沸騰するが、途端に感じた足の違和感によって心の底まで瞬間冷却。

慌ててズボンの裾を捲り上げると、さっきまで何の変哲もなかった肌色が見る見るうちに醜く鱗に覆われていくのを見て、喉の奥で蛙のような悲鳴が漏れた。
海を思わせる青緑色の魚鱗が人体に、しかもよりによって自分の足に生えていることに眩暈がする。


「そんなに怯えないでよ小エビちゃん。人魚だったら普通のことだよ?」

「ええ、僕達にとってはそちらの方が見覚えのある肌と言ってもよいでしょう。」


私の体の変化をアズール先輩とジェイド先輩は上機嫌で話すのを耳を塞いで拒絶する。けれど現実は変えられない。
魚鱗が水を吸って乾き元の人間の足に戻っても、それを楽観視することなど到底できなかった。


「卒業後、代金を頂戴に参ります。」


塞いだ耳の中、天使のような優しい笑顔でアズール先輩はそう言った。
























(どうしよう・・・・・)


オンボロ寮の狭い浴槽の中で膝を抱えて途方に暮れる。

あの悪夢みたいな夜から数日、お店には行っていない。
特に向こうからも私を呼び出すようなことがないのはもう売約済みだからだろうか。

恐る恐る、腕から足を開放してお湯に浸している自分の足を見下ろす。


「・・・・・・・・・・・気持ち悪い・・・」


膝下から爪の先までびっしりと青い魚の鱗に覆われた自分の足は、何度見てもグロテスクで吐き気がする。
昼間は自分の異常を忘れていられるけれど、風呂に入って現実を直視させられるこの時間はいつも憂鬱だった。

手の爪で鱗を剥がそうと引っ掻くが、まるで最初からそれが自然であるようにびくともしない。
もう何度繰り返したかも分からない無意味な抵抗に、肩を震わせて静かに嗚咽した。


(こんな足じゃ、元の世界になんて戻れない・・・それどころかどこへも行けない・・・・・)


ぼろぼろと両目から雫が溢れて静かに浴槽のお湯の一部になる。
どんなに悲しくても人間一人が流す涙の量などたかが知れているもので、詩のように浴槽から溢れることはない。


(あんな取引、契約なんてしなきゃよかった・・グリムが、グリムがいなければ、)


でもそのグリムがいなければここまで来れなかった。
でもそのグリムががいたからこんな目に遭っている。

相棒が助かってよかったという心からの安堵と、異世界の知り合いなど助けなければよかったという心からの憎悪で心がバラバラになりそうだった。
いっそ足を奪うなんて生温い方法ではなく泡になる呪いの方がずっとマシだったのに。
こんな苦しみを抱えて学園生活を終え、そして最後は海に潜れとでもいうのか。それならいっそ今すぐに、


「オマエ、風呂長いんだゾ・・・ってその足、」

「あ・・・・・・、」


私の心を、未来を無残に引き裂いた原因がのこのこと現れる。
咄嗟に両腕で鱗の部分を隠そうとするが青い目は見逃してくれなかった。

見られたくなかった。
だって、見られてしまえば口から毒の言葉が飛び出すのを止めることなんてできない────、


「ま、まさかオマエ、アイツラと契約したのか!?」

「・・・・・・・・そうだよ。あの時、グリムを、助けたくて。」


最後の恨みごとを言ってしまった私はどんな表情をしていたのだろう。
グリムの愛らしい瞳が零れそうなほど見開かれたのを見て、ああ言わなきゃよかったと後悔した。
ここで相棒に呪いの言葉をぶつけたって現実はどうしようもなく、無駄に私達の両方が傷付くだけだって、そんな事分かっていたのに。


(頼むから何も言わずに出て行ってほしい。)


目を閉じて浴槽にもたれ掛かって、次に目を開けた時には誰もいなくなっている事を願った。
そして明日からは今まで通りの態度で接してほしいと、自分で平穏を壊しておきながら都合の良い願いを付け加える。

だが、予想に反し両頬を肉球で挟まれる感触がして億劫だったが目を開けた。
そこには超高温で青く燃える炎の瞳。


「大丈夫なんだゾ。」

「・・・・・・・・・・・・なにが。」

「オレ様は凄い、凄い大魔法士になるんだから、オマエの足も治してやる!」

「──────は、」


あまりにも馬鹿馬鹿しくて、けれど眩しい言葉に涙が止まる。
冗談でしょと毒のように笑いそうになったのを、小さな額が頬に擦り寄って毒気が抜けた。


「・・・・・なに言ってるのグリム、相手はアズール先輩だよ?」

「オマエこそなに言ってるんだ。オレ様は凄い大魔法士になる、だから大丈夫なんだゾ。」


真っ先に向けられた言葉が取り繕う謝罪ではなく希望ということに、ああグリムらしいなと少し笑った。
笑ってから自分の口元を触って驚く。依然として涙は零れているから、きっと今は泣き笑いの表情なのだろう。


(やっぱり、グリムが助かってよかった。)


心からそう思っていられるのは今のうちで、また時間が経てば弱い私の感情は反転して憎悪になるだろう。
けれどこれから先どうなってもこの出来事を忘れなければ、不幸せでも生きていけるだろうと思った。

































────同時刻。

閉店後の客足の途絶えたモストロ・ラウンジ。
少し光の落とした照明の下でマドルの枚数を数え帳簿に当日の収支を綿密に書き連ねる。
掃除を終えたジェイドが長い指で机を撫で、フロイドが賄いの料理を運んできての見て計算を切り上げた。


「な~んで小エビちゃんの対価、あんなに重くしたの?」

「ええ、あんな対価を持ち掛けるとは意外でした。てっきり、最初は監督生さんをからかっているだけかと。」

「・・・・・・・そうですね。」


何も書かれていない黄金の契約用紙を眺める。

嘘でもなく、取引を持ち掛けられた時の対価は『モストロ・ラウンジでのタダ働き』程度に考えていた。
散々脅しをかけたのはただ単に反応が面白かっただけで、そこまではいつもの自分だった。


(ああ、でもあの時の監督生さんは────)


自分達が帰ってきた時の彼女の姿を思い出す。
相棒を抱きしめて大粒の涙を流す彼女の泣き顔はお世辞にも美しいと思えなかったが、けれど腹の底をぞくりと撫でる何かがあった。

面倒な試験でも、厄介な揉め事でも、こちらがいくら手を差し伸べても彼女は首を振った。
けれど唯一の相棒の為には苦しみながらも頭を下げたのだ。自分がどんな目に遭わされるのかを覚悟した上で。


「欲しいと思ったから、ですかね。」


いつものような損得勘定などない、宝石を請う女よりも無邪気で菓子をねだる幼子ようにシンプルな答え。
物語の悪役のような直線的な欲望に双子達はことさらに酷薄な笑みを浮かべる。


「ま、オレは小エビちゃんが元の世界に帰れない上に海に来てくれるの歓迎だけど。」

「ええフロイド、卒業後も楽しめそうです。」


黄金の契約用紙をいつもの金庫の更に奥、新しく作られた二重の隠し金庫の奥へ宝物のように大事に仕舞われる。

暗闇でも静かに光を放つ白紙の黄金紙はやがて暗闇の底に輝きごと隠されて、そして沈黙した。








































----------------------------------------------------------------------------------------------------------------------
あとがき。
①モブの襲撃は本当に偶然でオクタヴィネル寮は無関与、あの瞬間初めてアズールの関心を引いてしまった
➁死ぬかもしれない、というのは本当に大げさで相手にそこまでの気はなかった
③以前、フロイドの泳ぐ姿を綺麗だと言ったその口で、自分の足に鱗が生えて「気持ち悪い」と漏らすのがエモいと思って書きました


2020年5月22日執筆 八坂潤
inserted by FC2 system