何度目だろう、このパターン。

どんどん人気のないところに追い込まれていくのを感じながら、背後から徐々に近付いてくる罵声から逃れようと懸命に足を動かす。
午後の穏やかな日差しも今の私にとっては遠い出来事で、胸中には怒りの嵐がごうごうと荒れ狂っていた。ああもう決して許すまじ!!


(グリム!グリムあいつマジ!マジでいつか猫鍋にして食ってやるからな・・・!!)


相棒である黒い毛玉、猫だか狸だか謎の生物、そして問題児───グリムが今追いかけられている連中の服を焦がしただかなんだでこんな目に遭っている。

確かに私の監督不行き届きといえばそれまでだけど、でもちゃんと謝ったのに殴られるかもしれないのは納得がいかない。
そして肝心の張本人は「二手に分かれるんだゾ!」とか賢そうに提案してさっさと別方向に逃げて、なお自分が追われているという事実が理不尽さに拍車をかける。


(そりゃ小さくてすばしっこいグリムよりもどんくさい私を狙いますよね!ええ私でもそうしますよ!!でもぜったいにやだ!!!!!)


さっき飲んだ脚力を上げる秘蔵の魔法薬は順調に効果を上げている、が、元々の足が速くない上に性別によるそもそもの運動量の差というのはあるわけで。
優しい少女漫画みたいに誰か都合よく現れて助けてくれないかとついに神頼みを始めた頃に、曲がり角で誰かに思いっきりぶつかった。


「うわーーーーー!!?すみません殴らないで下さい!!!!」

「ウワっとなーにー?ああ、小エビちゃんじゃん」

「ふ、フロイド先輩・・・・」


パンを咥えた転校生よろしく曲がり角で運命的にぶつかったのはフロイド先輩だった。
天を突くような長身を屈めて整った顔が蟻を観察するように覗き込んでくる。右耳の青いピアスがさざ波のように揺れた。

見知った人物にこれ幸いと、藁をも掴む思いでそのしなやかな両腕にしっかりしがみつく。
たった三人で指定暴力団呼ばわりされ、その中でもバイオレンスに振り切ったメイン暴力担当であるこの人なら多分この場を何とかしてくれる!助かった!!


「た、たたた、助けて下さい!今、上級生に、追われてて!!」

「ふーーーーん・・・・」


やっと見つけた救い主の手を離すまいと縋る私に対してフロイド先輩は実に興味がなさそうな冷めた反応。
逼迫した状況の私とのあまりの温度差に、自分がどんな状況に置かれているのか一瞬忘れてしまった。あれ?知り合いのピンチですが?あれっ???


「でもオレ今日助ける気分じゃねーからパス。ガンバって~」

「・・・・・・・・・は!!!!!????」


助ける、気分じゃ、ない?えっそんな、気分?気分ってどういうこと??

冗談ですよね、と言いかけたが私の腕をあっさり払ってやる気のない救世主はすたすたと歩いていってしまった。
すぐに振り向いて「なーんちゃってウソだよぉ」と言ってくれる展開を期待したのにそんなつもりはないらしい。
自分の置かれた状況を理解するのにきっちり三拍経ち、そしてさっと血の気が引いて全身から汗が噴き出す。

やばい、マジだ。マジで助ける気分じゃないからって見捨てられた。いや確かに気分屋だってことは重々承知してましたが!?嘘でしょう!!?


「おい、こっちに逃げたぞ!」

「あわわわわわ・・・・」


あまりの出来事に忘れかけていた、追っ手の皆さんの元気な声にヒィィと心臓を縮こまらせる。

衝撃を受けてる場合じゃない、とりあえず気持ちを切り替えて近くの空き教室に飛び込んで教壇の下に隠れた。
いやもっと気の利いた隠れ場所があるだろと腰を浮かせるがすぐにドアの開く音がして断念。心音が加速する。


(やばい、やばい、やばい、こわい!)


絶対にここにいるはずだと声を掛け合って(大正解です)、複数の足音が教室の中を探し回る音がする。
こんな分かりやすい隠れ場所、よっぽどの幸運でなければ十分に見つけられる。そしてこの状況からもお分かり頂けるように自分の強運など信じていない。


「ほら、オンボロ寮の監督生さん出てきてくれよ~。」

「そうそう、オレらはお前の相棒に用があるだけで大人しくしてれば何もしないからさ。」

「・・・・・・・・・」


私も年齢二桁を生きる身なので、そんな耳障りの良い言葉を信用して素直に飛び出るほど純粋な心は持っていない。
仮に事実だとしても、結局グリムに何かがあるんじゃ目覚めが悪いわけだし。

でもあの猫野郎は自分の手で本気で一度は締め上げるべきだと思う。連帯責任被害が多すぎる。


(でも、どうしよう、このままじゃ見つかる、何か、何かいい手は・・・)


私達はただでさえ名門のプライドが高い生徒から目を付けられやすい。
グリムがもちろん大前提として悪いのは純然たる事実だが、偶然出会ったフロイド先輩が助けてくれなかったのが痛い。

本人が乗り気じゃないことは絶対にしない気分屋なのは知っていたし、その気分だって春の天気のように変わりやすく読めないものだとは分かっていたけれど。
そして私とフロイド先輩は特別仲が良い訳ではないし、たまたま面白い秘密を持っているだけの数ある魚の群れの一匹に過ぎないことなど分かっていたけれど。

そんな、そんなのは当たり前のこと分かっていたけれど。


(でもあんなにあっさり見捨てられたのは普通にショックだ・・・泣きそう・・・・)


これからもっと泣かされる羽目になるのはわかっているのに、フライングスタートをキメた涙が流れそうなのが分かる。
たぶん今から味わうであろう痛みよりも、フロイド先輩にあっさり見捨てられた心の痛みのが辛い。


(だめだ、今はどれどころじゃない。何とかしてこの状況を切り抜ける方法を考えなきゃ!そう、グリムのせいでこうなったこの状況を・・この、・・・・、)


よし、売るか、グリム。

相棒を尊い犠牲として売り渡すという黒い考えが現実味を帯びてきたところにもう一度扉が開く音がした。
まさかの増援の到着にひゅっと息が詰まるが、それ以上に追っ手の皆さんが露骨に動揺し息を詰まらせる気配がした。一体何だろう。


「───キミたち、一体なにをしている?」

「ゲッ・・ハーツラビュルのリドル・・・寮長・・」

「へ?」


まさかの人物の登場に教壇から顔を覗かせると、扉の傍にそこだけ光が差しているような苛烈な存在感。
咲き誇る赤薔薇色の髪に滑らかな頬と蕾のように柔らかそうな唇。一見すると美少女と見間違うような可憐な顔だが、青灰色の麗しい瞳には鮮やかに燃える炎の意思。

リドル・ローズハート。ハーツラビュルの寮長。
ただそこにいるだけで空間を圧倒し、女王のように場を睥睨しただけで、私を追いかけてきた生徒達が言い訳もそこそこに散っていく。


「はぁ・・・まったく、規律が乱れているね。」


自分達だけになったのを確認してから、窮地を救った白馬の王子様が平民の前まで歩いてくる。
深紅のマントを翻す寮長服を着た姿も相まって、まるで童話のワンシーンのような神々しさだ。

私はというと奇跡のような偶然に口をあんぐりと開けて事の成り行きを見守っていた。


「監督生、無事かい?」

「へっ・・・あ、やっぱり、助けてくれたんですか?」

「当然だろう。偶然、向かいの廊下から追い回されているのを見かけたからね。」


でなければ用もなくこんな使われていない教室までやって来ないよ、とさらりと付け加えて白いハンカチまで差し出してくれる。
そこでやっと自分の頬が濡れていることを自覚して、もう既にちょっと泣いていたことにも気付いた。
使われた形跡のなさそうな清潔な白さに、さすがにその好意には甘えられないと首を振ると強引に押し付けられる。む、むぐぅ。


「本当はボクの出番はないと思ったんだけど。でもフロイドが一人で歩いてくるからまさかと思ったらこれだ。」

「う、ううーーーーーーーー、」


あのフロイド先輩を苦手に思うリドル先輩ですら助けるだろうと予測したのに、実際は助けられなかったことに本格的に涙が出てくる。

あの人魚を薄情だとなじる怒りなのか、仲良くなったつもりで別にそうじゃなかった悲しみなのか、それらをひっくるめて気分屋だと分かっていたのに期待して裏切られた情けなさか。
色々な感情を混ぜこぜにして(外見上は男なのに)女児のように泣き始めた私を、引きながらも小さな手が頭をぎこちなく撫でる。

さっき求めても得られなかった優しさを改めて与えられると、水が浸透するように胸に染み渡ってますます泣いてしまった。


「ホラ、キミも男なんだから泣かない。まったく、グリム絡みなんだろうけど監督生ならしっかり手綱を握らなければならないよ。」

「そ、それは、そうです、すみません、アイツ、あの野郎は後で絶対に三味線にします・・・」

「シャミセン・・・・?」


良い音出させるんで聞きに来てくださいね、と殺意の滴る言葉を漏らすとリドル先輩は細首を怪訝そうに揺らした。
そして腕を組んで一息つくと、あろうことか私の隣に座って長い睫毛の瞳を閉じる。どうやら落ち着くまで傍にいてくれるらしい。


「・・・・・・・・・。」

「・・・・・・・・・。」


しばらくして、私の涙で汚くなったハンカチがしっかりと重みを感じるのに比例して落ち着き始めた頃。
それまでじっと隣にいてくれた真の救世主様は立ち上がってマントの埃を軽く払った。


「じゃあ、ボクはこれで失礼する。何でもない日のパーティの準備があるからね。」

「よ、用事があったのにすみません・・・私のせいで・・・」

「気にしなくていいよ。無事に何事もなく済んだのだから。」


立ち上がったリドル先輩と握りしめたハンカチとの間で目線を往復させる。
・・・・わざとではないけれど、自分の涙(とこっそり鼻水あり)でがっつり汚したこの布をその場で返すのは流石に憚られた。


「ハンカチの事なら気にしなくていい。今度返してくれればいいよ。」

「す、すみません、洗って返します・・・!あとこのご恩は必ず返します・・・・!!」


そりゃもう真心こめて自分の制服よりも丁寧に洗いますとも。ええ、もちろん。

宣言通り去っていくかと思われたリドル先輩は、何事かを考えるように大きな瞳を伏せた。
そして花を観察するように背を屈めて私と視線を合わせ、可憐な唇が少し迷ってから動く。


「監督生、もしも時間があるのなら何でもない日のパーティの準備を手伝ってくれないか?以前、エースとデュースと一緒に準備をしてくれただろう。」

「えっ・・・ああ、あの薔薇を塗ったりする・・・」

「今日でなくても、明日でいいから手伝ってほしい。あれは人手がいくらあっても足りないものだから。それがお礼でいいよ。」

「えっと・・・・・はい、じゃあ今から、いきます!」


最後に一度だけ大きく鼻を啜ってから立ち上がる。ずっと座りっぱなしだったから少し足が笑ったけれど大丈夫だ。


「・・・・大丈夫かい?別に明日からでも、」

「いいんです。その、むしろ今一人になりたくないので・・それにエースとデュースにも会いたいし、」


今また一人になると、さっき助けられなかった事が情けなくてまた泣いてしまう。
そして勝手な期待をしまくったフロイド先輩への口汚い文句もとめどなく溢れてきてしまう。


(ただの他力本願なのに、勝手に期待して、ばかみたいだ。)


例えそれが世間一般から測れば怒ってもいい出来事だとしても、私はその一般レベルに達しないほどここでは弱いのだから飲み込まなければならない。

他力本願に縋った結果の身勝手な失望だと自分に言い聞かせて、これからは期待するなと肝に銘じて。
こうして無事に済んだのだからフロイド先輩にマイナス感情を持ってはいけないと言い聞かせて。


(ああでも、しばらくフロイド先輩に会いたくはないな。)
































あの事件からしばらく経ったある日。

モストロ・ラウンジの壁掛け時計を見るとそろそろ約束の時間だった。作業を切り上げて片づけの準備をして服を着替える。
姿見の鏡に映るこの格好は自分にはつくづく似合わないと苦笑して、けれど気分は不思議と浮かれてしまう。

更衣室を出てアズール先輩へ挨拶をして、いざ外へ出ようとした時に軽く腕を掴まれて動きと呼吸が止まった。


「っっっっくり、びっくした・・・」


不意打ちに凄まじく跳ねる心臓を胸の上から押さえながら引き留めた人物を眺める。
端正な顔に嵌る右目は深みのある暗緑色、左目は静かに輝く金色、さざ波のように揺れる海色のピアスは左耳に。
一見すると高級仕立て屋のスーツの仕事と見間違う寮服を模範的に着込み、片割れとは対照的に静かに微笑む姿───結論、ジェイド先輩だ。


「じぇ、ジェイド先輩、心臓に悪いです・・・」

「おやこれはすみません。この程度で驚かれるほど小さな心臓だったとは思わなかったので。」

「まごうことなき小心者なんですから心臓なんて米粒サイズですよ・・」


腕を掴んだ体勢のままジェイド先輩が小首を傾げ、私も釣られて首を動かした。
遊園地でやっと親を見つけた子供のように解放されない腕と、何とも言い難い奇妙な沈黙に戸惑う。何だろうこの謎の空気。


「・・・・・あの、腕・・・」

「ああすみません、珍しい格好をしていたものでつい。」

「あ、それは確かに。これハーツラビュルの寮服ですからね。」


ぱっと解放された腕を広げて自分の服装を見下ろす。
赤黒白そして金糸という派手な色で作られた服はオクタヴィネル寮、ましてやこの照明の絞られた店内では確かに浮いているだろう。


「最近ハーツラビュルに出入りすることが多いので、リドル先輩が貸してくれたんですよ。派手過ぎて私には似合わないですけどね・・」

「ええ、ちっとも似合っていませんね。」

「容赦がなさすぎる。」


まぁ言われるまでもなく自覚している事実なので腹は立たないが少し落ち込む。いや分かってましたけどね?さっきもそう思いましたけどね?

それにしてもこの服をさらっと着こなす友人達はやっぱり一緒に馬鹿やってても顔が良いのだと思い直す。
私も可能であれば美少女に生まれたかった。そうすればこの服だって似合うと言ってもらえただろうに。


「今日も閉店までいないのですか?賄いはフロイド担当ですよ。」

「うーん、フロイド先輩のおいしいご飯は残念ですけど今日はこの後予定がありまして・・」


あの気分屋の天才肌が作る絶品賄い料理を思い出すと頬が緩みそうになるが、同時にちくりと胸を刺されたような小さな棘もある。
我ながら女々しいとは思っているし仕方がないと納得したつもりでも、しっかりあの出来事を引き摺っているのだ。


「ここのところずっとですね。監督生さんに誰かとの約束があるとは・・・驚きました。」

「この後ハーツラビュル寮でエースとデュースと一緒にリドル先輩に勉強を見てもらう約束なんですよ。」


どうせ私は知り合いが少ないですよ、と内心で毒づきながら答える。


「それに、まぁ、例の秘密もありますし人付き合いを避けてたってのもあるんですけど、ちょっと思うところもあったので。」

「思うところ、とはフロイドのことですか?」

「げ・・・・・・」


さすが双子というべきなのか、いや私の態度が露骨過ぎたのか?
いきなり核心を突かれてバツが悪くなっていると、原因と瓜二つの顔はさも面白そうに口の端を吊り上げた。心臓に悪い。


「いやまぁ、それは私が自分の立ち位置を見直す原因の一つなんですけど・・・」

「続けて下さい。」

「ええ・・・・・?」


やけに食い下がるな───いや考えるまでもなくこの性悪な先輩はこういう話が大好物だからか。

話したくないという顔とオーラを放つ私を、楽しみな物語の続きをせがむ子供の顔で見つめ返される。
表情筋の下の静かな攻防に、ついに根負けして「フロイド先輩には内緒にして下さいよ」と駄目元で念を押して慎重に言葉を選ぶ。


「この間、ピンチの時に気分じゃないからってフロイド先輩に見捨て・・うーーーん、見捨てられた、と言っていいのか分からないんですけど、まぁそんな事があって。」

「ですが結局はリドルさんに助けられたのでしょう?」

「それは・・そうなんですけど、でも、そこで私ってすごく危ういところにいるんだなって思ったんです。
 フロイド先輩の気分の匙加減一つでピンチになっちゃうような・・・ううん、私達には味方が少ないんだなって。」


オンボロ寮には寮長どころか先輩もいない、私とグリムだけ。
そもそもとして異世界に来た私には友人もエースとデュースとジャックだけで、他大勢からはあまりよく思われていない。
勝手に味方としてカウントしていたオクタヴィネル寮悪徳三人組の一人には、この間現実を突きつけられたばかりだ。
いやしかしそれもきちんと対価さえ払えば助けてくれるのは分かっているが───逆に言えば対価がなければ助けてもらえないビジネスライクな関係。


「あの時、フロイド先輩の気分が向いてれば助けてもらえたんだと思います。これからも多分そう。
 でもまた次のピンチに陥った時に偶然会わなかったら、いても気分が向いてなかったら、それだけでもう私達はおしまいだ。」


あの場にいたのがジェイド先輩とアズール先輩だったらどうかは分からないけれど、でも期待しない方がいいだろうと正直思っている。
そもそも論として、その2人が偶然同じ場にいてくれる幸運を引く確率を計算に入れてはいけない。


「でも私はこの通り弱いので・・・それならもっと横の繋がりを作れっていうのがトレイ先輩からのアドバイスで。」


言われてみれば確かにそうだ。
顔も知らない誰かが酷い目に遭っていても、それを知らなければあるいは知っていてもわざわざ助けに行こうと思わない。
けれどそれが知り合いだったら、一度でも恩のやり取りがある相手なら、仲が良い友達だったら、必ずとは言えないかもしれないけれど助けてもらえる確率はぐっと増える。

どこまでも他力本願の思考だがこのメルヘン殺伐ワンダーランドで一般人が生き残るにはそれしかない。


「だから最近は他の寮の手伝いとかしてるんです。ラギー先輩を手伝ったり、特にハーツラビュルは行事が多いので結構手伝ってます。
 元々エースとデュースと一緒に行動する事が多いので、最近ではリドル先輩たちも同じ寮の生徒みたいに一緒に面倒見てくれるんです。」


リドル先輩は相変わらず厳しいし、ハートの女王の法律云々を持ち出される事には正直辟易するけれど、でも根は善人だと分かっているので受け入れられる。
実際、勉強は少し分かるようになってきたし、トレイ先輩のおいしいお菓子を食べられるし、ケイト先輩とエースとデュースと一緒にいると楽しいし、メリットの方が多いくらいだ。

もう一方の手伝いは、最初はレオナ先輩の機嫌や行動が読めなくてハラハラしたけど、ラギー先輩は面倒見がいいし要注意人物とかを教えてくれるようになった。
ジャックも頭が良いから勉強を教えてくれるし、最近は機嫌が良いと尻尾を触らせてくれることもある。あのモフモフは今や私の癒しの一つだ。

 
「では、フロイドが嫌いになったわけではないと?」

「─────、」


一瞬、何を言われたのか分からないくらいに予想外過ぎてびっくりした。
別人だと分かっていても、同じ顔に問われるとまるで本人を相手にしているかのように落ち着かない、のを曖昧に笑って誤魔化す。


「それ、まさかフロイド先輩に聞いてこいって言われた訳じゃないですよね?」

「ええ、まさかですね。」

「そうですよね・・・・。」


あの自由気ままに生きている人が私がどう思っているかなんて気にする訳ないですよね。

そんなまさかと適切な社交辞令を返しそうになったが、思ったよりも目が真剣なので思い留まる。
うううんと唸って自分の内面を見つめ、整理して慎重に言葉を紡ぐ。


「フロイド先輩のことが嫌いになった訳じゃないです。だってあんな風に周囲の事を気にせず正直に振舞えるのは、
 それだけ強くて自信を持ってるってことでしょう。私はそんな風にできないので。」


強さも自信もまるでない、人の顔色ばかり窺って周囲に合わせてばかりの自分からすれば素直に羨ましいところだ。
だから堂々と見捨てられても心の底からは嫌いになれないのかもしれない。根底にあるのは自分にはない強者への憧れ。羨み。そして妬み。

こんな風に世界が広がるきっかけになった元凶に感謝───するほど心が素直ではないけれど、あの時はまぁ気分じゃないなら仕方なかったとは思えるようになった。


「だから何だかんだで憎めない、私にはないあの自由さが羨しくて、そこが好きなんだと思います。」

「─────、」


私としては精いっぱいの誠実さと本心を包み隠さず告げたつもりだが、対するジェイド先輩の返答は意外にも沈黙だった。
表情もいつもの熟練の愛想笑いではなく素直な驚きを表示していて、そういえば普段はマフィアに例えられるくらい恐ろしいこの人も一つ年上なだけの少年だと今思い出した。

何となく気まずくなってしまった空気を払拭すべく、そういえばと明るく言葉を続ける。


「助けてもらった時のリドル先輩ってすごくかっこよかったんですよね・・」


デレデレとだらしなく頬が緩むのを止められない。この少女漫画脳めと罵られても今は甘んじて受け入れよう。
でも残念なことにリドル先輩は私を自分と同じ男子だと思っているのでこんな反応を見せても気持ち悪がられること必至だ。
いや私が女の子だと分かっていてもあの可憐な美少年の隣に釣り合うとはとても思っていないけれど。でも。


「リドル先輩になら私の正体話してもいいかなと思っちゃいました。口は固そうだし、むぐ、」


ヘリウムガスよりも浮ついた軽い発言に白手袋がぐっと押さえつけられる。
何事かと目を瞬かせる私に対し、ジェイド先輩の瞳は凍てつく氷河のように冷たく呼吸が止まった。


「滅多な事は仰らない方がよろしいかと。あの方は口は固くても表情に出ますからね。ほら、怒ると顔が真っ赤になりますし。」


それとこれとは話が別だと思いますが。

そんな突っ込みを物理的にも雰囲気的にも許されないのでこくこくと静かに頷くと口が解放される。
警告をした当の本人はまたいつもの微笑みに戻っていたがさっきは怒気さえ感じたような気がしたので、浮かれ過ぎていたかなと反省。


「・・・あ、もう時間がやばい!すみませんが失礼します!これ以上遅れると首を撥ねられる!!」

「ええまた。明日も賄いは不要ですか?」
「はい!明日はラギー先輩の手伝いなのでそもそもバイトがないです!」

だから明後日ですね!と続けて店の外へ飛び出す。
女王様の時間にこれ以上遅れてはならないと猛獣に追われる白兎の如く懸命に走った。




ひらひらと小走りに去っていく背の低い姿を見送ると、背後からもう一つ同じ顔の男が出てくる。


「で、僕の姿を借りた情報収集は満足いきましたか、フロイド。」

「ンーーー、まァね。」


ぐしゃりと無造作に髪の分け目を変えて目を閉じて、開くと先程とはオッドアイの色の位置が違う。
ピアスを付け替えて窮屈なボウタイを緩めればそこにはいつものフロイド・リーチの姿があった。


「おマヌケさん、オレとジェイドが入れ替わってるのにぜーんぜん気付かないでやんの。」

「ここで僕達の入れ替わりに気付くのはアズールくらいのものでしょう。あまり無理を言ってはいけませんよ。」

「まぁそうだけどさぁ~。」


不満とも嘲弄とも聞き訳がつかない声をあげながら、顔が映り込むくらい磨かれた机を長い指が撫でる。


「小エビちゃん、金魚ちゃんに一回助けられた位であんなにデレデレしちゃってさぁチョロいよね。
 どうせ金魚ちゃんが助けるだろうしそんな気分じゃなかったから無視しただけなのに。」


おやこれは珍しい、と表情には出さずジェイド・リーチは内心で驚いていた。
普段はのびのびと腕を広げ何事にも縛られず生きている半身がまるで言い訳めいた言葉を並べている。

人生でも数えるほどしか見たことがない姿に思わずグラスを磨いていた手も止まった。


(これは本当に珍しいものが見れましたね。監督生さんには感謝しないと。)


例えるに、今のフロイドは子供の癇癪によく似ている。
飽きておもちゃ箱に仕舞っておいた人形を、普段は持っていたころすら忘れているのにいざ他人に持っていかれると腹が立つのだ。

普段は教師相手にも一歩も引かない凶暴性を見せながらも、こうして年相応に拗ねる素振りも見せる。
全て演技ではなく本心でやっているのだからこの相棒は面白い。


「そんなに監督生さんが気になるのなら、例の秘密でいつもみたいに揺すって言うことを聞かせればいいでしょうに。」


さらりと告げられた脅迫の推奨に、不揃いの色の双眸が思案するように天井の照明を追う。
その提案を非倫理的だと指摘する誠実な人間はここにはいない、もちろんフロイドもそれを指摘しない、が、別の理由で形の良い唇を尖らせた。


「・・・・・そーいうんじゃねェし。」

「おやおや。」


































(疲れた・・・最近ずっと働き詰めだったし・・・)


放課後、図書館で小さくあくびを抑えながら本をめくる。
学内で一番に静粛を求められるこの部屋は、生徒達の密やかな声が聞こえるのみでそれが眠気を誘うBGMになっている。

今日はモストロ・ラウンジのバイトもなく、ラギー先輩経由のレオナ先輩のお世話もなく、ハーツラビュル組との予定もない完全なるオフだ。
そんな時くらいゆっくり休むべきだと自分でも思っているのに、なんとなく落ち着かなくて図書室で本をめくっている。


(それにしても最近は平和だなぁ。)


例えば、レオナ先輩の縄張り付近に課題の植物を植えておくと荒らされにくいとか。
例えば、ラギー先輩やケイト先輩に教えてもらった魔法士至上主義の人達に近付かなければトラブルが起きにくいとか。
他にもたくさん気付かされることがあって、以前よりも格段にトラブルの回数は減ったと思う。


(いやそれにしてもこれは・・・眠くなる・・・。)


タイトルは机に持ってくるだけでも苦労した、鈍器レベルに分厚いハートの国の女王の法律辞典。
挿絵があることを密かに期待したが、色気のない文字がただお行儀よく整列しているだけなのでますます眠い。


(最近、リドル先輩達と一緒にいることが多いから一応は目を通しておこうと思ったけど・・すごい、まるで覚えられる気がしない。)


自国の自由奔放な連中をきちんと統制するために厳格な法律が必要だった、という事だけどここまで決める必要はあったのか。
そしてこんなのを一字一句正確に全て記憶しているらしいあの小さな頭の中身を想った。うーーん、すごすぎる。僕にはとてもできない。

改めてハーツラビュル寮の適性のなさを実感し、いやそれならエースとデュースも向いてないのではと思う。あの組み分け帽子、じゃなかった鏡の基準はよく分からない。


(うーーん、だめだ眠くなってきた。いやしかしせっかく最近目を掛けてもらってるんだから歩み寄る努力を、)


読んでいたページに指に挟んで机に伏せようとした瞬間やっと目の前に人が座っていることに気付く。
他にも席は余裕で空いているのに何でわざわざ目の前を、と顔を上げた視線の先に少なからず驚いた。

向かいの席に座って私を観察していた人物、端正な顔に嵌った眩い金と昏い緑のオッドアイを細め猫のように笑っている男。
私の視線にやっと気付いたかと言わんばかりに口の端を持ち上げると、そこから覗く歯は非友好的で鋭い。
ピアスや目の色の位置の違いを鑑みるまでもない、同じ顔はあれどこんな表情を浮かべるのは。


「フロイド先輩。」

「ばぁ、小エビちゃん久しぶり~元気だった?」

「確かに、こうして話すのは久しぶりですね。まぁ元気ですよ。」


あの一件以来、こうしてまともに向き合って会話をするのは確かに久しぶりだと思う。
その間もお店も出ていたので一切接触がなかったという訳ではないけれど、最近は閉店作業までいないことの方が多かった。
昨日だって連日の色々なお手伝いで疲労がピークに刺さっていたので切り上げてオンボロ寮で爆睡したのだけれど。

おかげでまたモストロ・ラウンジのバイトの特権である絶品賄い料理を食べ逃してしまった。
お土産を期待していたグリムには文句を言われたけれどそれなら自分で働けばいいと思う(けれどこの話をすると露骨に嫌そうな顔になるのでしない。)


(別に不自然な事じゃないけれど、この自由人が図書室で静かにしてるのってちょっと面白いな。)


つまらなそうな本よりも自分に興味が移ったことに満足いったのか、長い腕を伸ばして重い本を難なく取り上げる。
そして絵本のように頭上高く掲げながら遠慮なくぺらぺらとめくるものだから、あっという間にどこまで読んでたか分からなくなってしまった。


「なに読んでんの?・・・・ウワッつまんなさそ~。」

「あ、ちょっと、図書室の本だから大事に・・・・」


さっきは上機嫌そうだったのに、戻ってきた顔には不機嫌そうな成分が混じっている。久々に感じる春の天気のようなテンションの上下に喉奥で唸った。ウウッこの感覚も久しぶりだ。


「こ~んなつまんない本読んじゃって、小エビちゃんから金魚のフンちゃんに転職するの?」

「は・・・・・・・?」


あまりにもストレートで遠慮のない悪口にびしりと硬直する。同時に違和感。
会って数分で猛烈にけなされた事に対する怒りよりも、らしくない振る舞いに意識が行ってしまう。


(もともと感情の起伏が自由でテンションが読みにくい人だけど、この、なんというか、何といえばいいか分からないけど、変な感じだ。)


助けてフロイド先輩翻訳機もといジェイド先輩。アズール先輩でもいいです。
しかし当然ながら二人ともこの場にいない───いや、やっぱり、許したとはいえこの間の件もあるし腹立ってきたな。


「臭いなら他所行けばいいんじゃないですかね・・・」

「あ?命令すんの?小エビちゃんごときが?オレに?」

「許してくださいすみません何でもしますほんとすみません!」


多分私の舌は「図書室なんて人目のつくところでは流石に暴れないでしょ」と無邪気に判断してしまったのだろうが、この人が常識に囚われない自由人だとうっかり忘れていた。
勢いに乗って更に勝手な言葉を続けた裏切り者の舌を噛み千切りたくなる。痛いのでやらないけれど。


「なんでも?」

「ひ、人を殺したりとかは、勘弁してください・・・」

「そんな事やらせるわけないじゃん。小エビちゃん要領悪そうだし。」


まるで要領が良かったらやらせてみようかなみたいな返事はやめてほしい。要領が悪い自覚はあるけど良くたってやらないわそんなの。

奴隷宣言に気をよくしたのか再び上機嫌になったフロイド先輩が、長い指を顎の下に当てて少し考える素振りを見せる。
夢見る少女のような仕草を身長191センチの男がやっているにも関わらず意外と嵌っていることも恐怖だが、導かれる結論はもっと怖い。何をさせられるんだ。


「ねェ小エビちゃん今日はヒマなんでしょ?ヒマって言えよ。」

「・・・・・・・・・・はい、ヒマです。」


地の底を這うような低音に委縮し従順になったお返事に口の端を上げ、私の首に長い腕を巻き付けて立ち上がる。
持っていた重い本を返却コーナーにスマートに置いていくのも忘れない。変なところで律儀な人だ。


「じゃあ付き合ってよ、ヒマなんだから。」

「そうですね・・・・・」


覇気のない返事など気に留めず再び上機嫌に戻った暴君はずるずると私を引き摺って歩く。
「女心と秋の空」なんてことわざがあるけれど「フロイド先輩の心と秋の空」も辞書に新しく加えておいてほしい。


(一応、見捨てたことに関する謝罪があったりするのかなと思ったけど、案の定というかやっぱりないな。)


まぁそれがフロイド先輩らしいか、と早々に休息は諦めて久しぶりのノリに身を任せることにした。


































「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・」


確かにあのフロイド先輩に付き合って穏やかな時間が過ごせるとは思っていませんでしたが。
いませんでしたが思ったよりもハードワークで感情が虚無だ。素直にオンボロ寮に帰って休めばよかったとひしひしと後悔している。

購買部まで食材の買い出しに付き合ったと思えば、非番なのにモストロ・ラウンジの清掃を手伝わされて、挙句の果てには水中呼吸の薬を飲まされて店のプールから突き落とされ海底散歩。
小学生もかくやというエネルギッシュな一日を終えて今は天井のライトをぼんやりと眺めながら水面に浮いている。

以前、あの照明が落ちてきて命の危機に陥りそうになったという事を今更のように思い出した。今では整然と並ぶ光の群れにどれが元凶だったのかもう思い出せない。


(あの天井のライトが落ちて来なければ、今頃こうしている事もなかったんだろうな。)


当の本人は人魚の姿に戻って私の体に尾を巻き付けて支えながら同じく水面を漂っている。
そういえばこの状態、何か既視感を感じると思ったけれど以前に動物番組で見たラッコの睡眠時の姿に似ていると思う。
確かラッコは眠っている間に波に流されないように海草を身体に巻き付けるだかなんだか、と考えて本来は全然関係ないカリム先輩の顔が浮かぶ辺り私も相当毒されている。


(意外とこの姿勢、快適なんだけど、快適なんだけどさぁ・・・・)


次の瞬間にも飽きられて水中に沈められるかもしれないという嫌なドキドキ感はあるが、今はしっかり身体を支えられているし頭はお腹辺りに預けているので沈む心配もない。
たまに思い出したように頭を撫でられると自分がペットになったかのような気持ちになる、と考えて実際ペット扱いがあまりにもしっくりきて空しくなった。この話はやめよう。


(・・・着替えもないのにここから一体どうやって帰ろうかな・・・・・)


着替えや水着なんて気の利いた用意もなく、制服のまま水中に突き落とされたせいでここからオンボロ寮に帰るまでの道順が想像できない。

ああなんか、さっきまでの凪いだ気持ちは立ち消えて、色々な事が一度に起こり過ぎてちょっと泣きそうになってきた。
確かに今までフロイド先輩の気まぐれに振り回されることはあれど、ここまで酷く振り回されたのは初めてだ。

ちなみに憂鬱の元凶である当の本人は私を簀巻きにしたまま、角度的にどう首を動かしてもどんな表情をしているのか伺い知れない。
いやそもそもこの気分屋の機微など私みたいな初心者が推し量ること自体が間違いだと何度目かの諦めの境地に達した頃。


「そろそろ飽きてきたし、変身薬とってきて~。」

「ハイハイ・・・・」


親が子供にそうするように、脇から抱えられて雑にプールサイドに落とされる。
抵抗する気にもなれず、文字通り全身ずぶ濡れでぺたぺた歩いて棚から例の薬を取って渡した。

すぐに飲み干された空き瓶を受け取って、捨てるのか再利用するのか考えていると後ろから声が掛かる。


「小エビちゃんずぶ濡れだからオレの服着ていいよぉ。」

「・・・・・そうします。着替えてる間向こうむいててくださいね!?」


フロイド先輩の、男の人がさっきまで着ていた服を借りるという普段なら抵抗感あるシチュエーションだがしょうがない。
こんな目に遭わされたからには遠慮する気は微塵もなく、ずぶ濡れの制服を脱いでタオルで身体を拭いて、フロイド先輩の寮服に袖を通す。
夜の海のように黒いズボンに足を通すと胸元までカマーバンドが来てしまい、これは自分の足の短さだけではないと力強く言い訳をした。嘘です悲しいです。


(うっわ、分かっちゃいたけどサイズの差がえげつないな・・・ぶかぶかだ。)


気品ある紫のシャツは当然袖を通しても指先すら出ないし、爪先が出ないズボンも気を抜くと裾を踏んずけてすっ転びそうになる。
せっかくだからと結ぶ必要のない白いボウタイを結ぼうとして、やり方が分からないので苦戦。適当にやっても無様な蝶がだらしなく胸元で垂れる。


「小エビちゃんボウタイの結び方わかんねぇの?ダッサ。」

「フロイド先輩だってどうせ分かんないくせに・・・いや、それよりも服!服着て服!!!」

「服なら小エビちゃんが今着てるでしょ。」

「うわーーーーー!!そうだ、いや、いやでもね!?と、とりあえずこれ!!!!」


タオルを押し付けて一番アウトな腰回りに無理やり巻き付けて私の視界を保護する。
「陸の人間ってめんどくさぁ」と言いながらもされるがまま、自分で気を遣おうという素振りすら見せないところが彼らしい。


(いや、それにしても・・・)


水滴が複雑な道を辿る割れた腹筋、贅肉のない胸板、山奥の野生動物のようにしなやかで逞しい手足。
冷静になればただ裸に布を纏っただけの変質者の格好だというのに、まるで美術の教科書に載っている宗教画のような美しさがあった。
顔が良ければ通常なら通報されるような格好でも許されるという実例を目の当たりにしている。直視すれば当然顔が熱くなってしまう。


「首元結んであげるから、じっとして。」

「いや、そんな事よりもジェイド先輩達を呼んでくるので、」

「じっとしてろ。」

「ヒィッこわ・・・・・」


言われた通り貝のように大人しくしていると、長身を屈めて爪の先まで端正な指が器用に動いてボウタイを結んでいく。
他はサイズが合っていなくて控えめに言っても残念な姿だが、胸の白い蝶だけは凛として羽根を広げていた。


「・・・・・・・フロイド先輩、ボウタイ結べたんですか。普段はやってないのに。」

「だって窮屈だし。」


なんとも学園一の自由人らしい返答だった。
当然のようにスーツの上着を渡されたので大人しく袖を通し、灰色のストールを肩からかけられ、仕上げとばかりに帽子を頭に乗せられた。
これでてっぺんから爪先までオクタヴィネルの寮服を着たことになる───そんな私をフロイド先輩が視線を動かしてじっくりと観察する。


「ウンウン、他の寮服なんかよりこっちの方が似合ってる。」

「・・・・・・・、」


どこがだ。
姿見の鏡がないから自分の姿を見ることはできないけれど、見下ろす姿はせいぜいサイズを大幅に間違えた七五三だろう。
けれど目の前のフロイド先輩はなぜか上機嫌なので口を噤む。いつもみたいに相手をからかうことを楽しむような悪い笑みではなく、純粋な笑みに見えた気がしたのだ。


「じゃあ~オレの上着のポケット探ってみて?」

「?・・・これ、なんですか?」


言われた通りポケットを探ると指先に何かが当たって引っ張り出す。
ノートの切れ端を使ったそれには「助けてあげる券」と書いてあって、下に意外に達筆なフロイド先輩の署名がしてあった。

子供が母親に贈る肩叩き券みたいだな、と思ったのが一番最初の感想だ。


「なにって、見たまんま。今日オレに付き合ってくれたからコレあげる。コレ使ったらオレが小エビちゃんを助けてあげるよ。」

「でもどうせ、気分が乗らなかったら助けてくれないんでしょう。」


責めまいと決めながらも先日の件を思い出し、つい毒の言葉が漏れた私を誰が責められようか。
けれど珍しく気分を害した様子もなく、新作の詩を読み上げる詩人のように朗々と告げる。


「ソレ使ったら気分じゃなくても助けてあげる。」

「・・・・・・エッ本当ですか!?それすごくないですか!!?」


あのスーパームラッ気ウルトラ自由人フロイド先輩の機嫌や気分に関わらず助けてもらえる券?

幼馴染二人に聞くまでもない、こんなものをもらったのは恐らく人類で私だけだろう。
その意味するところの貴重さと偉大さにあんぐりと口を開けてしまう。ただのノートの切れ端が黄金色に光って見えた。


「これからもオレに付き合ったり手伝ったりしたらそのチケットあげるよ。」

「それって・・・・・」


未だ衝撃から回復しない私をよそに、鼻歌交じりに長い指が私の袖を丁寧に折っていく。
券の枚数は3枚、つまり3回助けてくれるということらしい。そして今の言葉の意味するところは。


「・・・・・・・でも、これ、使う瞬間にフロイド先輩がいないと意味はないのでは・・・」

「アハッ確かに。ちなみにそれ使用期限があるから気を付けてねぇ。」

「肩叩き券かと思ったら店のサービス券レベルじゃん!!」


確かに、じゃねえよ。

下手したら魔人を呼ぶランプのようにすごいものだけど、いまいち使いどころが困るチケットを裏返してみると確かに日付が手書きされている。
私としては、この期間内に3回もこのチケットを使う機会がない方がよっぽどありがたいと思うのだけど。

どうしたものかと顔を顰める私とは対照的に、フロイド先輩が春の陽光のように柔らかい笑みを浮かべる。


「だから、ちゃんと使ってまたオレに付き合って。」

「・・そうですね、よろしくお願いします。」


彼なりに、あの一件に対し思うところがあったということだろう。

謝罪らしい謝罪もなく、反省の気持ちすら見えないけれどこれがフロイド先輩式の私への歩み寄りらしい。
ノートの切れ端を使っただけの簡単なチケットを宝物のように大切に握りしめる。




後日、いつものようにモストロ・ラウンジのバイトに行くとなんとびっくり私のサイズぴったりに作られたオクタヴィネルの寮服があった。
姿見の鏡に映る自分の寮服姿は、サイズが合っていてもやっぱり着こなせているとは言い難くて気恥ずかしかったけれど。

でもまたボウタイを結んでくれたフロイド先輩が嬉しそうだったのでまぁいいかと思った。








































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あとがき。
前編を書いてから頭の中のフロイド像についてハチャメチャに悩んだ結果、加筆してこちらと合体していますので前編は削除しました。
ここまで完成させるのに苦しんだのは久々なので気に入って頂けたらとても嬉しいです。


2020年 6月13日執筆 八坂潤
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