今日はいつもと変わらない日でありながら特別な日だ。
正直、授業中もずっと今夜の事ばかり考えてて何も手につかなかった。
久々に枕元にクリスマスプレゼントが置かれるのを楽しみに寝た時の気持ちを思い出しながら夜を待って、いつものようにバイトをしてそして。


「・・・・・・・!!」

「はいはい、稚魚のように目を光らせなくても欲しいものは分かってますよ。」


閉店後のモストロ・ラウンジで、支配人であるアズール先輩の艶の良い唇から溜息が一つ。
寮服の内ポケットから長い指が青色の封筒を摘まみだして、お菓子をねだる子供のように差し伸べられた私の両手にそっと置かれる。

プレゼントの包み紙を破くようにドキドキしながら封筒の中を覗き込むと待望の物が入っていた。
それだけじゃ飽き足らずそっと中身を引っ張り出すと、新品のマドル札がお行儀よく収まっている。


「わぁーーー!!これが、初任給・・・!!すごい、本当にもらえるなんて・・・・」

「何ですかその言い方。まさかこの僕が踏み倒すとでも?」

「いや、先輩はそういうところきっちりしてるので信頼してたんですけど、でも実感が湧かなくて・・・」


守銭奴と名高いアズール先輩だが契約の履行については誠実だ。ズルをしようとすると返り討ちにされるけどね。

ニコニコと封筒を掲げて喜ぶ私を、ジェイド先輩はいつものように笑みを浮かべて、フロイド先輩はいつものように気怠そうに見守っている。
二人とも同じく給料日であるはずなのに冷めた反応だ。でもこの双子がお金に執着している図というのもなかなかピンとこない。
でもアズール先輩が給料未払いなんてするはずがないし、意外とこいつらは溜め込んでいるのでは・・という邪推をしかけたが思考を止める。


「今時手渡しなんてレトロですが監督生さんには口座がないですからね。明細については封筒に同封してありますので後で確認して下さい。」

「ありがとうございます!すごく嬉しいです!!」


この世界に来て初めて自分の力で稼いだ、私が自由に使っていいお金。
いざ手にしてみると買いたいものは後からぽんぽんと湧いてくる、が、私の初任給の使い道は既に決まっている。


「よかったねぇ小エビちゃん。何か欲しいものとかあるの?」

「そりゃあもう決まってますよ。」


さながら覇者のように拳を天に突き上げ高らかに宣言する。


「ぜっっっっったいにあのオンボロ寮の鍵を変えてやる!!!!!!!」

「えーーーーーーーーーーーー」


力強い宣誓に不法侵入常習犯の一人であるフロイド先輩が口を尖らせる。

そう、私の住まうオンボロ寮は例のイソギンチャク騒ぎで担保にしたばかりに、あろうことかこの3人にバッチリ合鍵を作られているのだ。
そのせいで家主である私よりも早く寮に戻っていることもあるし、用事があれば考える間もなく雑に呼びつけるし、もし逃げても引き摺り出される、など諸々。

貞操の危機なんて微塵も感じたことはないけれど、あれ?ないけれど、まぁともかく普通に大迷惑の一言に尽きる。
異世界の人間にだってプライベートくらいはあってもいいはずなんですよ。人間として当然の権利だ、当然の。


「いーじゃんあのままで、呼ぶのにベンリだし。」

「よくないわ!年頃の女の子の家に男が醤油借りに来るレベルで気軽に出入りすんな!!」

「ですが、警戒せずとも僕達は別に監督生さんに性的興奮は全く感じていませんし。」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」


何でだろう。面と向かって性欲を感じますって言われるのも気持ち悪いけど、面と向かって感じてませんって言い切られるのも腹が立つ感情の不思議。


「ともかく!!!鍵は変えるとして・・・何を買おうかな。お下がりの筆箱も変えたいし、歯が欠けてない櫛も欲しいし、ええとそれから・・・」

「オンボロ寮のソファーって足伸ばせないからもっと大きいのに買い換えねー?」

「フロイド先輩と違って私の短い足では十分なサイズなので却下です。」


でれでれと緩む頬を給料袋に擦り合わせて使い道に空想を踊らせる。うん、さっそく学園長にも許可をとって見積もりを依頼しないと。
それでお金が余ったら───まぁ相棒であるグリムにモストロ・ラウンジのご飯を一回奢るくらいならしてやってもいい。一回くらいはね!私ってば優しいね!!


「じゃあ今日はこれであがりますね!ありがとうございましたー!」

「ええ、また。来月もよろしくお願いします。」


人生初の初任給を引っ提げて、アズール先輩に見送られてウキウキ気分で帰ったのが昨日の夜の出来事。











「・・・・・・・・・。」


翌日、私はバイトがないにも関わらずモストロ・ラウンジのドアの前に立っていた。

硝子に映る自分の目の端は少し赤くて、それを見るとまた泣きそうになるのをぐっと表情筋を引き締めてドアノブに手を掛ける。
大きく息を吸って、吐いて、暗澹とした気持ちが物理的に手足を重くしているのを感じながら扉を開けた。


「おや、監督生さん。今日はバイトはお休みでは?」


形の整った細い眉、切れ長の瞳は眩い黄金と正反対の暗い闇色の光を湛えた玲瓏な美貌の男。
表情はいつものように柔らかさと冷たさを等しく同居させた複雑な陰影の微笑みで、ジェイド先輩は入り口で立ち尽くす私を出迎えた。

何も言わない私に小首を傾げて、他の従業員に何か指示を出してからこちらへと歩み寄ってくる。


「何か困りごとですか?アズールをお呼びしましょうか。」

「・・・・・・いえ、」


きちんと事情を説明しなければならないのに舌がもつれて言葉がつっかえてしまう。
ただでさえ普段から可愛くもない自分の顔が、今にも泣きそうに不細工になっているのを見られたくなくて、相手に失礼だと分かっていながらも俯く。

もう一度だけ躊躇ってから、握りしめ過ぎて皺が寄ってしまった青い封筒を差し出す。


「これで、おいしいツナ料理、を、作って、包んで下さい。」


昨日まであんなにはしゃいでいた初任給を差し出して、顔も上げられずに自分に懇願する私を果たしてこの人魚はどう思ったのだろうか。
少しだけ驚いたように息を詰めた気配を感じて手が微かに震える───どうか、まだ聞かないでほしい。どうしてこんな事をしているのかを。


「分かりました。では、まだ開店まで時間もあるので購買部で食材を買ってそちらの寮で作りましょうか。」

「い、いいんですか?・・・でも、あの、仕事が、」

「ええ。もちろん出張費は別途で頂きますが・・・僕でよろしければ。」


考える。
他の二人───アズール先輩かフロイド先輩が対応してくれるパターンを想定して、深く息を吐いた。
結論からすればむしろ三人の中ではジェイド先輩が一番この件に関してドライでいてくれそうだ。むしろを初手で最善手を引けたと言ってもいい。

案の定、顔を上げると私の泣きだす寸前の表情を見ても美しい眉一つ動かさない。ああ、安心した。
これでもし慰めの言葉なんてかけられたらこの場で泣いてしまうかもしれなかったから。


「いえ、他の二人じゃなくてジェイド先輩がいいです。是非お願いします。」

「では少しお待ちを。話をつけてきますので。」


しばらくしてから戻ってきたジェイド先輩と二人で購買部へ向かう。
店に着いてからも、食材を選ぶ間も、オンボロ寮へ向かう道中でも、ついぞ何も聞かれることなどなかった。



















買い物を終え、オンボロ寮の狭い台所に二人で並んで立つ。
幸いにも今の憂鬱の原因は昨日の夜からどこかへ行ったきり、まだ戻ってきていないようだ。


『せっかくなので二人で一緒に作りませんか?』


そう提案してくれたジェイド先輩は私達の不和に気付いているのかもしれなかった。
私としてもそちらの方が問題が早く片付くかもしれないという冷静な打算をもって了承した。
事実、バイトのシフトが入っているこの人を長く借りていられないという事情もあったが。


「メインの調理や味付けは僕がやりますので。監督生さんはそちらの具材を切って水にさらして、ああそれは皮ごとソースにするので軽く水洗いするだけで大丈夫です。」

「ヒィィ・・・・指示が多い・・・」


隣のジェイド先輩が手際よく具材を切るのをたどたどしい手付きで追従していく。
そもそもとして火を使えない海と陸ではまるで調理方法も変わってくるだろうに、とても陸上生活二年目とは思えない手際の良さだ。
年齢=陸上生活の私の方がすっかり遅れているというのも情けない話で、今度きちんと料理を勉強しようと強く誓った。


「先輩って人魚なのに料理お上手ですよね・・・凄い・・・・」

「ふふ、ありがとうございます。ですが気分が良い時のフロイドの方がずっと上手いですよ。」

「それもある意味凄いんですけど・・・でも気分がのってなくてもいつも料理が美味しいジェイド先輩の方が凄いと思うけどなぁ。」


そもそもフロイド先輩の調理の腕が気分次第で上下するのもどういう理屈なんだという話だが。
けれどあの気分屋天才肌の人魚の事だ、そういう事もまぁあるだろうと納得してしまうのが面白い。


「そちらの人魚は料理をしないのですか?」

「・・・・そもそも私の世界に人魚はいません。おとぎ話にはありますが、誰も見たことがないですし。」

「では姿を見せていないだけでしょう。過去を遡ればこちらの人魚も閉鎖的でしたから。」

「───そう、かもしれませんね。」


ジェイド先輩にとっては異世界だというのに人魚が実在することが前提で返ってきた言葉に驚いて、思わず肯定してしまう。

私の世界で本気で人魚の実在を説けば鼻で笑われるだろうが、この人の言葉には何の気負いもない。
当の人魚本人だから自分達が存在しないという世界が想像できないのだろう。改めて異世界との常識の違いを感じさせられた気持ちだ。


(・・・もしかしたら、私の世界にも本当に人魚はいるのかな・・・)


一瞬でもそんな事を考えてしまった自分を馬鹿馬鹿しいと頭を振って幻想を追い出す。そんな訳ないのに。
普段なら笑って済ませるだけの内心だが、今ははっきりと不快感があった。
異世界の常識に自分の認識が刺激される感覚は普段は物珍しくて楽しい。けれど正直言って愉快なだけではない───今は、特に。


「そういえば、ハッピービーンズデーの時の話ですが。」

「えっあ、はい、」


ぼんやりしかけた私に語り掛けながらも白い手は踊るように動きちっとも速度を緩める気配はない。
こちらに気を遣っているのかいないのか、しかし会話をしているおかげでかなり気分は紛れてきた。

これならグリムが戻ってきても、きちんと内心を殺してしおらしく取り繕って話しかけることができるだろう。ああよかった。


「ハッピービーンズデーの逸話に似たような物語が異世界にもあると仰ってましたが、他にもあるのですか?」

「ああ・・・そうですね、例えば人魚といえば童話で人魚姫という話がありますし、先輩方は・・・見てると×××××の××××××××を思い出しますね。」


自分の口から出した言葉だというのに、言語化に失敗したような謎の音が聞こえた。
さっきまで淀みなく動いていたジェイド先輩の手もさすがに驚いたように止まり、その美貌に戸惑いの色を浮かべてこちらを見ている。ああ、やってしまった。


「失礼ですが、今何と?」

「うーん、それがですね、私にも分からないんですよね・・・こっちに来てからこの現象ってたびたびあるんですけど。」


自分でも分かっていないこの現象を何と説明すればよいものか。
指先でツナ缶の表面を撫でながら、思いつくままに言葉を並べていく。


「口にする寸前までは多分頭の中で浮かんでるんです。けれど、いざ口にすると言葉にならないというか、バグのような・・・紙にも書けなくって。」

「・・・・聞いたことのない、不思議な現象ですね。学園長に相談は?」

「一応はしましたが原因は分からなくて・・まぁ日常生活に不便があるわけでもないので、このままですね。」


自分のことなのに原因不明とは、何度繰り返しても気分が悪い。
ましてやそれが元の世界での知識に関するものでそれを口にできないもどかしさというのは、まるで自分の世界から拒絶されているような気持ちになる。

さすがに大袈裟に考え過ぎだと頭を切り替えて、気にしていない風を装って話題を変える。


「でも童話で有名な人魚姫はグレートセブンの海の魔女の話と似てますよ。まぁ、こっちは悲劇で終わっちゃいますが・・・」

「ぜひ聞かせて下さい。」

「うーん・・・私も子供の頃に本で読んだだけなので詳しくはないんですけども、」


人魚のお姫様が助けた人間の王子様に恋をする。でも人魚のままでは結ばれないと魔女と取引をして声を失い、結ばれなければ泡になって消える事をを承知で足を手に入れる。
人間になった人魚姫は王子様に会いに行くが自分が命の恩人だとは気付かれず、愛しの王子様は別の女と結婚する。
最後、姉にナイフを渡されこれで王子を殺せば人魚姫は助かると言われながらも王子達の幸せを願い、人魚姫は自分を犠牲にして泡になった。

結局、王子は自分の命の恩人の正体に気付かず、物語は悲恋で終わる。


「とまぁ、こんな感じですが・・・同じ人魚仲間のジェイド先輩としてはどうでしょうか。」


実際は記憶を辿りながら喋ったのでつっかえることも多かったが、まぁ正確に伝えられた方だろう。

真っ白な清潔な皿に瑞々しいレタスを敷き詰め、切った具材を飾り立てながら横目でジェイド先輩を伺う。
異世界で語られる同じ種族の悲劇的な最期にこの人魚はどう思うのだろう───私が見守る中、やがて美しい唇が沈鬱な声を絞り出す。


「───それは、なんとも慈悲のない物語ですね。」

「・・・・・・・・・・・・先輩、それ嘘でしょ。」

「おや、バレましたか。」


先程までのしおらしい雰囲気はあっさり反転し、止まっていた手が何事もなかったかのように再開する。


「泡になったのは結んだ契約を果たせなかった人魚姫の自己責任でしょう。最期の行動に関しては悲劇的な自分に酔っているだけかと。」

「同じ人魚相手なのに容赦がなさすぎる・・・・」


ジェイド先輩ってそういうところありますよね、と乾いた笑い声が漏れる。
私の世界では涙を誘う悲劇もこの男にとってはただの失敗談なのだろう。おい海の魔女の慈悲の精神はどこへ行った。
・・・・・いやアレも引き合いに出すには前提が結構怪しいものだけど。


「じゃあジェイド先輩ならどうするんですか?恋をした相手が人間だったら。」


私の好奇心からの質問に現実主義の人魚は長い睫毛を伏せ、そして疑問を吐き出した。


「そもそも、なぜ人魚姫が人間になる必要があったのでしょうか?相手を人魚にすればもっと話は簡単だったでしょうに。」

「へ?」


目からウロコとでもいうべきか、人魚姫という物語を根本から覆すような言葉に手が止まる。

いやでも確かに言われてみればその通りだ、必ずしも人魚側から人間に歩み寄らせる必要はない。
人魚が人間になるもの、という無意識の思い込みというか───傲慢のようなものを抱いていた事を初めて自覚した。


「人魚と人間では生活様式が全く違います。なので王子を人魚にすれば、右も左も分からぬ深海で自分以外に頼る相手もなく、簡単に篭絡できます。
 ・・まぁ最初は憎まれるかもしれませんが、そんなものは時間をかければどうとでもなるでしょう。」

「・・・・・・・うっわ。」


ロマンチックが文字通り光速で空の彼方へと飛んで行った。後には甘い砂糖菓子とは程遠い荒涼とした荒野が横たわっている。
気のせいか頭痛までしてきた額を指先でさすって告げようか告げまいか迷い───良心が耐えかねて忠言を吐き出す。


「ジェイド先輩・・・・絶対に人間の女の人好きにならない方がいいですよ・・・」

「おや、前時代的な事を仰るのですね。今や種族間の恋愛は自由ですよ。」

「自由だけど、自由なのはいいことなんだけど、ジェイド先輩には自由にしてほしくない・・・・・」


確かに他人の色恋沙汰なんて自由にすればいいと思うけれど、でも今の話を聞いて放置しておくのも罪だろう。
いや、そもそもこの学園に通う人間で、まともな旦那になりそうな候補者はむしろ少ないのかもしれない。
敢えて挙げるのなら・・・アズール先輩は意外と良き夫になりそうだし、レオナ先輩はお国柄で女性には優しいという噂を聞くが優しくされた覚えは全くない。

・・・・・最後のは私が女性としてカウントされていないのは認識阻害の魔法がかかってるから当然であって、別にそれ以外の要因はないんですけどね?ええもちろん。


「・・・・じゃあせめて、もしジェイド先輩に好きな人ができたらこっそり教えて下さい。」

「監督生さんはそんなに僕の恋愛事情に興味があるのですか?」

「興味、いや興味・・・うーーーーーん・・・興味があるというか・・・・」


こんな話をされて何もせず放っておくのがただ単に目覚めが悪いだけなんだけど。
だからと言ってこの隙のないハイスペック男相手に自分如き低スペック女が何をできるのかと言えば分からない。分からないが・・・この男と恋バナ(?)なんてすべきではなかったのは確か。


「ちなみに、監督生さんならどうしますか?王子を殺すか、自分が泡になって消えるのか。」

「えっ私ですか?えーと、そうですね・・・・」


そんな事、考えたこともなかった。

手を止めて考える私を他所にジェイド先輩が一品完成させてお皿に盛りつける。
色合いを気にしているのか、ミントの葉を乗せる角度を気にしているのが何とも料理人だ。


「・・・・そもそも、契約しないで諦めますね。私だったら。全部を捨てるほどの恋っていうのは正直ピンとこないです。」


そういえば、人魚姫と私は少しだけ似ている。ああもちろんビジュアル面の話ではなく。
彼女にとっては陸、私にとっては異世界という全く違う文化に放り込まれている事が、だ。

陸に上がった人魚姫もこんな心細い気持ちだったのだろうか。
けれどそれも自分の選んだ道だと言い聞かせて、もしも王子と結ばれたのなら一生歩み続ける覚悟だったのだろうか。


(そうなると私と人魚姫はまるで違うか。)


自分の覚悟で海を捨て陸を選んだ恋する乙女は、例え最期が悲劇であろうと強い。
何の覚悟もなくただ流されてここにいるだけの恋知らぬ私とでは、比較するのもおこがましい。


「その様子だと、元の世界に残してきた恋人はいないようですね。」

「・・・・・ええーー、あーーー、まぁ・・・・残念ながら・・・」


別に騙したり隠していた訳ではないけれど、聞かれるまでは見栄を張りたい気持ちがあったので気まずい。
遠くを見て冷や汗を流す私に対し、これから先も一生女性関係に苦労しなさそうな見目麗しい男は微笑んだ。


「それは良いことを聞きました。」

「別に。この程度のこと弱みになんてなりませんよ。」

「ええ、そうですね。」


ジェイド先輩の言葉は謎めいていてよく分からない。どうせ私如きが考えてもその思慮深さに追いつくことはないだろう。
そうこうしている間にパスタが完成してお皿に行儀よく巻かれていた。他のフライパンや鍋からの良い匂いが鼻先を擽る。


「ところで、グリムさんとはどうして喧嘩をなさったんですか?」

「ウッ・・・・・」


やっぱり気付いていたのか、と溜息をつく。このまま突っ込まれないかと思ったのに、少し意外だ。
腕を組んで思考。まぁ、ここまで付き合ってくれた訳だし、何よりこの人は私を否定しないだろうという後ろ暗い計算から質問に答えることにした。


「────昨日、お給料を持って帰った後に、グリムと揉めて・・その、経緯は省きますけど『元の世界に戻った時はお給料を全部グリムにあげるよ』って言ったんです。」


人の労働や苦労も知らないで『そんなにたくさんあるんだからオレ様も使いたいんだぞ』なんて軽く言われてムッと来てしまった。
どうせ『オマエじゃ使い切れない』なんて畳みかけられれば更に腹が立って『じゃあ元の世界に戻った時はグリムが使えばいいでしょ』なんて言った。言ってしまった。

そうしたらあのターコイズのように綺麗な青の表面が酷く波打って、そして。


「そうしたらグリムが・・・怒っちゃって、それで飛び出して、それっきりです。」


どこかで危険な目に遭っていないか、なんて心配をしていない訳ではないが・・・まぁ大丈夫、だろう。
きっとお腹が空けば戻ってくる。その時に大好物の料理があれば仲直りできるはずという、問題の根本から目を逸らしたその場しのぎ。
それでもいい。この世界にいる間だけ健やかに過ごせれば、最低限としてそれでいいのだ。


「・・・・・私は恵まれてます。」


恵まれているはずの人間の、ちっとも恵まれていなさそうな声色の独白。
今思い返してもやっぱり、あの場は私が大人になってあげるべきだった。あんな事を言わないで私が我慢すればよかった。
一生じゃない、たった四年間───されど四年間。私が、ちゃんと、我慢できていれば。


「エースも、デュースも、グリムも、最初は仲が悪かったけど、みんな今は仲良くしてくれてる。一緒にいると楽しいです。
 けれど、私が元の世界に帰りたがるのを・・・最近は嫌がってる。気軽に元の世界なんて帰らなくてもいい、帰れなかった場合の話をしてくる───それが堪らなくイヤだ。」


我慢しなければというお題目だけは立派に掲げつつ、汚泥が煮立つような感情を吐露するのを止められない。

しかし隣の男はその綺麗な眉一つ動かすことなく、料理を仕上げ並べていく。
その所作にまるで許されているような安心感を勝手に感じながら、一度動き出した毒の舌は止まらない。


「贅沢な悩みだって事は分かってるんです。衣食住も保証されて、帰れって疎まれるよりもずっと幸せだっていうのは分かってるんです。」


もし帰れと皆から疎まれ続けて、けれど今のように帰れないのならきっと私は耐えきれずに自殺する。
そんな自分の弱さを自覚しているから、こうして生きていてなおも文句を言える立場の自分は恵まれている。けれどそれでもなお、苦しい。


「でも、イヤなんです。私は帰りたい。」


暗い感情の提示にもこの玲瓏な人魚は慰めるでもなく無反応だった。その事に心底安堵する───ああ予想通りだ。
だからアズール先輩でもなく、フロイド先輩でもなく、ジェイド先輩がよかったのだ。
きっとこの人は私が帰りたいと言っても、慰めず、引き止めず、ただ壁に話しかけたように流してくれると思っていた。


「・・・・なんて、今の話は内緒にして下さいね。」

「そこは『冗談です』とは言わないのですね。」

「ええ、冗談ではないので。」


報酬の青い封筒を差し出すと、首を振ってジェイド先輩が懐から手書きの領収書を取り出す。オーナーの意向なのだろうが律儀な事だ。
ペンで金額を書き込んで更に下に出張費と食材費など細かな内訳を提示していく───うん、ぼったくられている様子もない。納得の価格だ。
グリムの好物を使って並べられた料理の群れも壮観で、これならきっと機嫌を直してくれるに違いない。そうすれば元通りだ。


「僕が今の話を吹聴するとは思わないのですか?」

「まぁ、私が帰りたがっているのはみんな知ってますし、それにジェイド先輩は私が元の世界に帰っても「お元気で」の一言で済ませそうじゃないですか。」
























『私が元の世界に帰っても「お元気で」の一言で済ませそうじゃないですか。』


へらへらと軽そうに弛緩しきった笑みを浮かべる彼女にジェイド・リーチは腹の底が少しざわつくのを自覚した。
その不快な表情の横に手を突き立て見下ろすと、黒い瞳に疑問と不安の色が掠めて少し気分が良い。

かつてない自分のその内面に少し戸惑い───そして昏い感情の赴くままに相手を傷付ける言葉を吐き出す。


「・・・・いえ、僕も貴女が元の世界に帰ったら寂しいです。」

「─────、」


効果はてきめんだった。
やっと浮かんだ笑顔には見えない亀裂が入り、その裂け目からはどうしようもない絶望が覗いていた。

ここで冗談だと言えば物事は簡単に収まる。後々の面倒を思えばそうするべきだと冷静な計算が告げる。
けれどどうにもそんな気分にはならず、また自分が黙っていても彼女は「じゃあやめます」と取り繕うに違いなかった。それを待ち望んでいた。


「────それでも。」


こちらの予想に反し、小さな唇からは竜の吐息のような声が漏れる。
普段は意志の弱そうな黒い瞳は確かにこちらを睨み、その奥には常にはない静かに燃える炎の意志があった。


「それでも、私は元の世界に帰ります。」


妥協とは真逆の宣戦布告。

安易に彼女の逆鱗に触れたことを後悔したが、同時に背筋を擽る高揚感があった。
「すみません」と熱意のない謝罪をし場を収めるが、この場における模範解答である「冗談です」という言葉は出なかった。


「ですが、元の世界に戻れなかった場合に是非僕達に相談を。」


元の世界に戻りたかったら、ではない。
いくら秀才であるアズールでもさすがにどうにかできる問題とは思えなかったから無駄を省いた。ただそれだけだ。


「───海の魔女の慈悲の精神で、必ず貴方の力になりますよ。」

「要らない。絶対に元の世界に戻るので。」


返ってきた言葉は素っ気ない訣別の言葉だったが、自然と口の端が吊り上がるのを感じていた。








































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あとがき。
×××××の××××××××→ディズニーのリトルマーメイド
一般女子程度にディズニーの事は認識しているけれど、検閲が掛かって言葉にできず脳内でも言語化できない。

頑張って書いたので感想頂けたら嬉しいです~!読んで下さりどうもありがとうございました。


2020年7月4日執筆 八坂潤
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