モストロ・ラウンジ。
客同士の諍いを制限するために照明が絞られた店内は、窓の外は海に繋がっていることも相まってまるで水中にいるかのような幻想的な雰囲気を纏っている。
さっきまでの客の波がやっと落ち着いて一息つくと、見計らったようにアズール先輩が長い指で私を招いた。
「なんですかアズ─、・・・、支配人。」
「結構。仕事中は僕のことはそう呼ぶように。ですがボウタイが乱れています。」
ずっと店内の動向を見守っていたアズール先輩が私の首元に手を伸ばす。
そして少し乱れていたボウタイを慣れた手つきで解いて有無を言わさず結び直した。
間近に迫る深窓の令嬢のように美しい顔にこの年で身だしなみを直されるのは、嬉しいというよりも正直気恥ずかしい。
「ヴィルさんほどとやかく言うつもりはありませんが、ボウタイは少しでも乱れているとそれだけで全てが台無しになります。
出勤時にもフロイドに直されていたでしょう───まったく、監督生さんは不器用ですね。」
「うう、すみません・・・練習はしてるんですけど・・・・こう、パチンと留めるやつになりませんかね・・・」
「なりません。他寮の制服に文句を言わないように。」
「正論すぎる。」
でもそれなら留める事を盛大に放棄しているフロイド先輩にも何か一言あってもいいようなものだが、そこは諦めているのだろう。
当の本人は今日は気分が乗っているらしくテキパキとオーダーを取って料理を運んでいる。
その片割れであるジェイド先輩はシェイカーでドリンクを作り、細いグラスに鮮やかな色の海を注いでいた。
二人とも私や他のアルバイトとは比べ物にならないほど有能で働き者だ。はぁと息を吐いてその無駄のない動きに見惚れてしまう。
「支配人は友達に恵まれてますよね。」
「・・・・・・・は?それは嫌味ですか?」
流れるような銀糸の下の眼鏡の奥の紫電の瞳が理解不能だという色を帯びる。
「ええ・・・・素直に褒めてるのにどうしてキレ気味なんですか・・?だってジェイド先輩とフロイド先輩が、」
「ああ、でしたらお生憎様。僕と彼らはオトモダチではありませんので。」
「ええーーーーー?」
思わず二人と隣にいるアズール先輩の顔を見比べてしまう。
ど、どこからどう見てもそう思えるっていうのに、いや確かに友達と言われて肯定するような素直さは持ち合わせていない人達だけどどうして。
今度は私の理解不能だという顔に、艶のある唇からは呆れたような溜息が出る。
「ジェイドもフロイドも面白いから僕に付き合っているだけです。今の関係だって真の忠誠や友情ではなくただの主従ごっこ遊び。
もしも僕が彼らにとってつまらない判断やミスをしたらあっさり寝返りますよ。オトモダチではないので。」
「・・・・・・・・それは・・」
本人は気が動転していて覚えていないんだろうけれど、私はアズール先輩がオーバーブロットした時の事をよく覚えている。
友達ではないと断じたあの二人が、傷付きながらも先輩を救うために必死になって一緒に戦ったのを見ている。
言葉通りの本当に薄っぺらい関係だったら見捨ててもよかったのに、ジェイド先輩もフロイド先輩もそうしなかった。
(なーんて言っても絶対に三人とも友達だって認めないんだろうなぁみんな捻くれてるんだから。)
その他もろもろを踏まえると、なんというか、友情よりも凄いのろけを聞かされただけなのでは?
何とも言えない表情をしていると、視線の先のテーブルに座っている暗赤色の髪のハーツラビュル生と目が合う。
ここのところ毎日通い詰めている人だ。そっとアズール先輩の影に移動する。
「僕を利用して何から隠れているんです?場所代をとりますよ。」
「・・・・本当にとられそう。」
「ええ、とりますよ。」
「うう・・・・・・」
双子の身長が規格外の為に三人で並ぶと背が低いと誤解を受けがちだが、アズール先輩だって十分に背が高い。
鼠色のトレンチコートで視界を埋めて安心しながら小声で言い訳する。
「あ、あの・・・最近来るあの暗めの赤髪のハーツラビュルの先輩、いるじゃないですか。あの人なんか・・怖いんですよね。」
「怖い、ですか。何かされたのであればジェイドを呼べと言っているでしょう。」
「えっと、されてはいないんですけど・・・なんか私のことをじっと見てるような気がして、いや私なんか見る価値もないので気のせいだとは思うんですけど。」
あのエペル君やヴィル先輩のような輝く美貌の持ち主ならまだしも、私なんかはすれ違っても誰も気に留めない容姿をしている。
それ以外の要素では、確かに自分とグリムは不本意ながら学園内の大きな問題ほぼ全てに首を突っ込んでいるので目立つ存在ではあるが。
でもそういった経緯から絡んでくる連中とはどうにも違う気がする。気のせいだと思い込むには、あの視線は粘着質で息苦しく感じるのだ。
「───だからと言って、彼は僕の店に来て金を支払う以上はお客様です。僕の店でお客様に対する失礼は許しませんよ。」
「ぐうの音も出ません・・・・すみませんでした、支配人。」
渋々と安全な隠れ家から歩み出て、店内を見渡す振りをしてあの先輩のテーブルをそっと盗み見る。
目の前に並ぶのは店でも高価な料理ばかりだ。いつもと同じチョイスに、他人事ながら懐事情が心配になった。
(料理が好きだからじゃなくて、よっぽどスタンプカードで叶えたい願いがあるんだろうな・・・)
隣に立つこのモストロ・ラウンジの支配人兼オクタヴィネルの寮長であるアズール・アーシェングロット先輩。
その性格はともかく、この学園内でその優秀さを疑う人間なんていないだろう。
そんな秀才がランプの魔人よろしく何でも一つ願いを叶えてくれるというのだ。一体、どんな夢を持っているのだろう。
「だから、上手くやりなさいと言っているのです。声を掛けられないように立ち回るなり、他の者を頼るなり。
それにもし万が一危害を加えられそうになったら僕に言いなさい。従業員を守ることは支配人の義務なので。」
「あ、アズール先輩・・・・!!」
「支配人です。」
寮長の証である杖で軽く小突かれて「すみません、支配人」と姿勢を正す。
「ああ、そういえば今日は閉店作業まで残らなくて結構です。賄いはフロイドとジェイド、好きな方に頼んで持って帰りなさい。」
「・・・というと、例のスタンプの件ですか?」
「ええ。前々から相談を受けていた特別なお客様です。きちんとおもてなしをしなくては。」
美食家を自負する支配人が提供する美味しい料理を目当てに来る客は多い。
けれど学生の財布には少し厳しい値段提供を確かなものにしているのはアズール先輩のスタンプカードだ。
守秘義務を遵守する深海の商人は相談相手が誰かなんて聞いても答えないだろうが、何となくあの赤毛のハーツラビュルの先輩だろうなと思っていた。
根拠はないけれど、なんとなく嫌な感じがして背を伸ばして小声で囁く。
「先輩・・・私が言っても無意味でしょうが・・・あんまり危ないことはしちゃダメですよ。心配ですし。」
「心配?魔法も使えない監督生さんが、オクタヴィネルの現寮長であるこの僕をですか?」
「・・・・まぁそうなんですけど、でも万が一っていう事もあるじゃないですか。やっぱり心配ですよ。」
彼にしてみれば身の程知らずでしかない弱者の言葉に、ふっと一瞬だけタンザナイトの瞳が柔らかく緩む。
そしてすぐに厳粛な商人の顔になって杖で軽くホールの床を突いた。
「気持ちだけ受け取っておきましょう。監督生さんは、明日はラギーさんのお手伝いでしたっけ?雑用にも精が出ることですね。
弱いなりに考えて行動した結果のコネづくり、僕は嫌いではありませんよ。」
「ええ、まぁそういう下心もあるし実際は大変なんですけど・・・でも結構楽しいですよ。ここのバイトも含めて。」
確かにコネづくりや情報収集という下心はあるしそれを相手は理解しているが、色々な寮の手伝いは憂鬱な雑用というだけではない。
決して自分が勤勉な働き者という訳ではないが、どうせ部活もしてない、他に用事もない、嫌なら事前に断って休んでもいい、とくればそれがただの労働でもさほど苦ではない。
まぁこのオクタヴィネル寮で働く事はあの双子の口止め条件でもあるのでコネには結びつかないだろうが。
「もしあの二人が私に飽きても、支配人さえよければバイトは続けたいものです。」
「そういう台詞は有能になってから言ってもらいたいものですね。この間も注文ミスをしたでしょう。」
「うッ・・・・す、すみません・・。」
アレ?もしかして続行どころかこの場でクビの可能性も有り得る?
だらだらと内心で冷や汗をかきながら雇い主の顔を伺うが、恐縮した私の様子にふっと端正な顔が口の端を緩める。
「ですが、まぁボロ雑巾としてなら雇ってあげないこともありません。」
「遂にイソギンチャクはおろか生物ですらなくなってしまった・・・」
けれどこの成果至上主義の商人にしてみればかなり妥協してくれてる言葉だ、と頬を緩ませた瞬間に本当に小さな痛みが頭に走る。
何事かと横を見ると形の良い眉を下げてアズール先輩の長い指が何かを摘まんでいる。見逃しそうなほどに細いそれを注視すると見慣れた自分の髪の毛だった。
空調で所在なさげに微かに揺れる細い線を、緩く手を振って手放す。
「・・・すみません。僕としたことが、髪に埃がついていたので取って差し上げようと思ったのですが、つい。」
「いえ、別に大丈夫ですよ髪の毛が抜けたくらい。しかも一本。」
ごっそり抜けた、ばっさり切られた、というのなら流石に文句の一つでも出てくるがたかだか髪一本。
しかし許容する側である私の言葉に何故かアズール先輩はその美貌を曇らせて呆れたような溜息を漏らした。
「ダメですよ、それでは無警戒が過ぎます。髪の毛は魔法薬の材料に使うにはもってこいの遺伝情報なんですから。」
「・・・・・・・えっと、というと?」
「対象を絞らない漠然とした魔法薬は便利ですがその分効果は薄い。そこに相手を特定する情報───つまり髪の毛などの遺伝情報があると効果は強まります。
一番精度が高くなるのは対象の血を採取することですが、髪の毛も十分に代用となり得ます。これは調合する術者の腕次第ですね。」
突然始まった学年でも一、二を争うとびっきりの秀才の魔法薬の授業に聞き入る。
「ですから魔法士は自分の髪の毛については特に注意を払って扱うのです。とある地方では悪用を防ぐために髪をツルツルに剃り上げることが推奨されているとか。」
「へぇ・・・・なるほど、気を付けます。」
なんとなく自分の髪の毛を触りそうになって、仕事中だと堪える。
いくら身を守るためだからって頭をスキンヘッドにするのは嫌だろうなと、そのとある地方に生まれなかったことを密かに感謝した。
私の返事に満足がいったのかいっていないのか、臨時の講師は横目で生徒を見て踵を返す。
「では僕はこれで失礼します。今夜のお客様の要望を叶える最後の仕上げをしなくては。」
「あ、はい、分かりました。お疲れ様です、支配人。」
優雅に杖を突いて去っていくアズール先輩を見送って、さぁバイトが終わるまであと少しだと気合を入れ直す。
今の話で頭に引っかかるものがあったはずだが、数秒後には今日のまかないお土産を誰に頼むかで頭が一杯になってすぐに忘れてしまった。
「こんばんは、お客様。この度は当店を利用しスタンプを貯めて下さりありがとうございました。」
閉店後、照明の絞られた人気のない店内で支配人であるアズール・アーシェングロットが両手を広げ歓迎の意を示す。
その椅子の両脇をあの上級生も対立を避けるリーチ兄弟が護衛のように立っていた。
もちろん、その真ん中で守られている主人こそが最もこの場で強いのだと一目見て理解できる人間は少ないだろう。
対峙するハーツラビュル寮の三年生の男は静かに唾を飲み込んだ。
目の前の商人は自分よりも年下だというのに圧が違う───そう、まるで自分の寮長であるあのリドル・ローズハートのように。
寮長になる者は生まれながらに王者の素質があるとでもいうのか、という考えが脳裏を掠めるが頭を振って追い出す。
優秀さならば自分も備えているはずだ。誰にでもその資格の門は開かれている、そう俺にだって。
「こちらがご依頼の品、惚れ薬です。」
店の洒落たテーブルの上に置かれたのは分かりやすいピンクの液体が入ったガラス瓶。
外の水槽の静かな光を受けて紫にも変化する魔法薬は蠱惑的な色を見せていた。
「ご依頼の通り、監督生さんの髪の毛を使用したものですので対象以外には効果はありませんが、それだけに効能は折り紙付きです。」
「ああ、助かる。さすが同じ店で働いているだけあってこんなに難度の高い薬も簡単に作れたようだな。」
「ええこの程度の薬、僕の手に掛かれば造作もありません。」
細い顎を引いてアズールは自らの有能さを肯定する。
自分もこの程度の薬なら作れる、と毒づく内心を押し隠してこちらも微笑んだ。
そう、材料であるあのオンボロ寮の監督生の遺伝情報を手に入れるのに苦労するだけで同じ条件なら自分も作れた───はずだ。そうに決まっている。
「しかし、スタンプを貯めるために店に通い詰め高い料理を頼み続け、禁薬に指定されている魔法薬にまで手を出して。
よほどあの監督生さんが好きなのですね、とても情熱的で・・・ええ、人魚である僕達には熱すぎるくらいです。」
「この俺があの監督生を好き・・・?アハハッ別にアレ自体に用はないよ。ただ、あのいけ好かないリドルを寮長の座から引き摺り下ろすのに使うだけだ。
けれど愛は盲目、惚れた弱みっていうだろう?俺に従順になってもらうために一番都合が良い方法は惚れてもらうことなのさ。」
「なるほど。つまりあなたはハーツラビュル寮の寮長になるつもりで?」
「・・・・・・そうだ。」
つい薬を手に入れた喜びで口を滑らせてしまった。警戒で身を固くする自分を、オクタヴィネル寮長は両手を広げて敵意がないことを示す。
「おっと、そんなに警戒しないで下さい。上手くいけば僕達は同じ寮長になる身でしょう?
それに心配なさらずとも守秘義務契約を結んでいるので僕達はこの場で聞いたことを一切口外しませんよ。」
「はい。ですからこれは純粋な興味ですがどうやってあのリドルさんを倒すおつもりで?
クラスメイトである僕から見てもあの方は間違いなく学園でもトップクラスの実力者ですよ。」
「・・・・・・どんな手を使ったんだか知らないが、監督生は魔法も使えないくせに各寮長に気に入られてる。
通常なら他寮に立ち入る事すら暗黙の了解でタブーなのに、あいつときたら自由に行き来してるし寮長室にすら出入りできるそうじゃないか。
だから俺に惚れさせればリドルの弱点を握るだけでなく、各寮長の弱みを握ることだってできるわけだ。」
長年の夢に手が届きかけている喜びで饒舌に動く自分の舌を自覚しながら、五指は渇望するように強く閉じられる。
自分はこの学園に通ってもう三年になる───そう、三年生だ。
寮長になるチャンスは短く、そして忌々しいことに現寮長は歴代でも最強クラスと噂される実力者。
トップに次ぐ地位である副寮長にもなれなかった俺はそれでも夢を諦めきれず、こうして屈辱を飲んで他寮に頭を下げている訳だ。
「監督生さんが各寮長に重宝されているのは、オンボロ寮という中立の立場であることはもちろんですが・・・仕事内容はともかく真面目に働くからですよ。
あなたも同じことをすればいずれはコネを築くことができるでしょうに。」
「道徳の教科書みたいなことを今更お前たちが語るのか?第一、そんなの面倒じゃないか。」
「フフッ・・・それは確かに。僕達の考えからすればそんなものは奪った方が早いですね。ええ、効率的かと。」
普段は忌々しいアズールの顔が自分の言葉に首肯するのは気分が良い。
いずれ同じ地位になる男だ。例の騒動でも守秘義務を守ったという実績もあるしもっと胸襟を開いておいてもいいだろう。
「外見がもっとポムフィオーレのあの1年生みたいに可愛ければ他にも使い道があったんだがイマイチなのはしょうがない。
せいぜい賢いこの俺が有意義に使ってやるさ・・・ああそれとも、アンタ達にも回してやろうか?」
「いえ、結構です。僕にも選ぶ権利というものがありますから。」
「そりゃそうだ。俺もあんなのは選ばない。」
仮面が剥がれてどんどん粗野になっている口調の男を、この場でただ一人フロイド・リーチだけは一言も喋らず沈黙していた。
だがその噤んだ口の内側からはゴリ、という何かが噛む砕かれる音が静かに響く。飴でも舐めていたのかもしれない。いけすかない男だがまぁいい。
自分も寮長になればアズールとの接点も増える。不本意だがこのフロイドとも関わる機会は増えるだろう。ならば無駄に対立しない方が得策だ。
「・・・・じゃ、これで取引終了だな。ありがとう。くれぐれもこの事は内密に。」
「ええ、取引終了です。この瞬間よりあなたはお客様ではなくなりました───またのご利用をお待ちしております。」
鼻歌交じりに立ち上がった瞬間、確かに握りしめていたはずの瓶の感触が無くなった。
ついさっきまで魔法薬があった位置には長い足があり、高く跳ね上げられた足と遅れて響いたガラスの破砕音に、状況を理解するまで数秒かかった。
呆然とする自分と目が合ったフロイドは口の端を吊り上げて笑い、足を下ろして眉尻を下げる。
「あは、ごめんねぇ尾びれが滑っちゃった。まだ陸に上がって2年目だからたまに滑っちゃうんだよね。」
「すみません僕達は元は人魚なもので・・・ああこれはこれは、掃除が大変ですねぇ。おっとガラスを踏まないように気を付けて。危ないですよ。」
「な・・・・・・・・な?え?なにを、」
床に無残に散らばったガラス瓶と液体に、自分の夢を重ねた。
次の瞬間、沸騰する感情のままにマジカルペンを握ってニヤニヤと不愉快な笑みを浮かべる双子に突き付ける。
「な、なんてことをしてくれたんだ!今すぐ薬を作り直してくれ!!」
「ええもちろん。もう一度スタンプを貯め直してくださるのなら何度でも。」
「お前のところの従業員のせいでこうなってるんだろ!?そっちの責任なんだからもう一度作り直すべきだ!!」
「しかし・・・僕への願い事は『監督生さんの惚れ薬を作ること』であって以降は業務外ですよ?」
自分の従業員の暴走にも関わらず、アズールは咎める気も補填する気配もなく手を組んだ姿勢のままちらりと双子に視線を寄越すだけ。
もう一度。もう一度?
今までの自分の子供の頃からの貯金を崩してまでこの店に通い詰め、やっとの思いであのスタンプカードを貯めたのに、それをもう一度?
───無理だ。そんな金銭的余裕は学生の自分にはもう残っていない。
(クソ!クソ!!クソ!!!!こんな、こんなのって、)
脳裏に過ぎるのは自分を神童だと讃えた村の大人達と同級生。息子を信じ新天地へ送り出してくれた家族の顔。
自分は確かに天才だと信じて疑わなかった過去が鋭い痛みを伴って胸に去来する。いや、いいや!俺はまだ天才だ。
だから寮長にも副寮長にもなれないただの一般生徒で終わるはずなんてない!!
殺意のままに相手を睨むが、こちらの敵意などどこ吹く風で三人の瞳はそれぞれの色で妖しく光るだけだった。
「ねーぇアズール、もうさー絞めていいよね?ちゃんと取引が終わってお客様じゃなくなるまで我慢したんだしさ。」
「・・・・お前らまであのオンボロ寮の肩を持つのか・・・・?一体何の取引で、」
「ンーーー、なんていうかぁ、オレ以外のヤツが小エビちゃんをいじめんのムカつくっていうかぁ。なんでだろーね?」
声色だけは無邪気なフロイドが凄絶な笑みを浮かべ小首を傾げて疑問を返す。
そんな片割れの様子と───自分の絶望した顔を見てジェイドがくすくすと小さな笑いを零した。
「おや、僕が監督生さんで遊ぶのは駄目ですか?」
「ジェイドとアズールはいいよぉ。でも他のヤツらはダメ。腹立つし。」
わなわなと震える手を抑えながら頭の中で戦力の計算を巡らせる。
激情のままに今戦うのは簡単だが人数の分だけ圧倒的に不利だ、そう三人もいる相手に勝てるはずがない。それだけだ。
「・・・・ッもういい!お前らの手を借りなくても俺は寮長になってみせる!!」
床に散らばる惚れ薬の残骸に後ろ髪を引かれるが歯軋りをして未練を振り切る。
もういい、穏便に済ませようとした自分が愚かだった、こ う な っ た ら ど ん な 手 を 使 っ て で も 。
暗く沸騰する感情はあの頭の緩そうな笑みを浮かべる劣等生、もとい監督生に全て向けられる。
この屈辱の代償もあいつに支払わせてやる。そう、例え魔法を使い言語を理解するモンスターを飼い慣らしていても自分が負けるはずがない。この天才である俺が!!!
「ッ・・・!!!?」
足音も荒く店を後にしようとした自分の足が、不意に鋭い衝撃を受けて地面に身体ごと崩れ落ちた。
何が起こったのか目を白黒させながらも起き上がろうとする。が、長い足で地面に縫い留めて動くことすらままならない。
自分を押さえつける足の持ち主、フロイド・リーチはまるで羽虫を見るような表情でこちらを見下ろしている。
そしてその片割れであるジェイド・リーチが跪いてその金色に輝く気味の悪い瞳で覗き込んできた。
「そんなに怒らないで、じっとして・・・僕の目を見て。」
「ッなにを・・・・!!」
猛烈に嫌な予感がして目を逸らそうとするが凄まじい力で押さえつけられて強制的に合わせられる。
「齧り取る歯───もう貴方は監督生さんを諦めますか?」
「・・・・・・・・・・・、」
脳が緩く痺れ魔法に犯される感覚に怖気が走った────精神に干渉するユニーク魔法!
すぐさま抵抗すべく防衛魔法を発動させた、つもりが不発に終わり舌は自分の意志とは無関係に動く。
「ハハッ・・・諦める訳ないだろう・・惚れさせるなんて回りくどい真似はもうヤメだ。殴って、魔法を使って、恐怖で言うことを聞かせればいいんだ。
あんな弱そうなやつ、どうとでもなる・・・そうだ、最初からそうすればよかったんだ。
だって俺は優秀で天才で神童なんだから許される。故郷に残してきた母さんも父さんも弟も、恋人だって俺が成功するのを望んでる。だから、」
「それは、聞き捨てなりませんね。」
それまで黙って事態の推移を見守っていたアズールが立ち上がる。
光の加減で藍色にも見える瞳は氷点下の絶対的な眼差しでこちらを見下ろしていた。
ああ、どうして、どうして俺はそこにいないんだ。
自分だって素質はあるはずなのに、どうして寮長と一般生徒の間にはこんなにも溝がある────
「従業員の安全を確保するのは支配人の務めですので。物理的な手段を講じるのであれば、残念ながら僕が動かざるを得ません。」
「えーーーー、アズール、普段は自己責任とか言ってオレらが同じ目に遭ってもぜってー動かないくせに。」
「仕方がありませんよ、フロイド。監督生さんはただでさえ脆いので。」
寮長の証でもある誉れ高い杖が鼻先に突き付けられる。
他寮に頼ってまで手に入れた希望を砕かれ、ユニーク魔法で秘密を暴かれ、無様に地を這う己をオクタヴィネル寮長は静かに断じる。
「監督生さんを利用してリドルさんを蹴落として寮長になる、という事でしたが・・・得意の魔法薬学でさえ僕に頼ってる程度ではまたすぐに奪い返されるかと。」
「どうして俺の得意科目を・・・・いや、監督生の遺伝情報が手に入りにくかっただけだ、手に入れば俺だって、」
「というかぁ、小エビちゃんをどう使うつもりだったか知らないけどあの金魚ちゃんがその程度で負けるわけねーじゃん。
人質に使ったって無駄だったと思うよぉ。だって金魚ちゃんマジでつえーし。あはっバカだねぇ。」
「いけませんよフロイドそんな事を言っては・・・本当の事だから可哀想じゃないですか。」
捕食者としての本性を隠そうともしない三人の静かな嘲笑が不快な音楽を奏でる。
自分の方が年上のはずなのに、ぞっとするような絶望に囚われそうになるのを言葉で奮い立たせた。
「俺は!村で一番優秀な魔法士だった!!将来も有望されていた!!
だから、だからこんな何もないまま終わるはずがないんだ!!!俺は特別なんだ!!!!」
「ああ、よくある話ですね。田舎で神童と扱われ舞い上がった小魚が大海に出て自分の身の程を知るというのは・・・。
まぁそれにしてもアズールですら手を焼くリドルさんが相手では悪すぎましたが。それも運の一つと割り切れなかった貴方の敗北かと。」
無駄なお喋りを断つように一際大きな音で杖が床を突き、アズールが静かに告げる。
「さぁどうしますか?夢を追って今僕達と戦うか?それとも身の程を知ってただの小魚に戻るのか。
店の中で戦うのは気が進みませんが・・・どうせ負けないのでお好きな方を選んで下さい。」
自分の手の中にあるマジカルペンが、長年勉強してきた魔法が、まるで枯れ枝のように思えた。
暗闇の中で鈍く光る赤い魔法石と白銀に輝く三つの魔法石の間を視線が往復し、そして、
「・・・・・・・・・・・・・・。」
むす、と自分でも唇が尖っているのを自覚しながら洗い立てのグラスを清潔な布巾で丁寧に拭いていく。
隣ではアズール先輩が腕を組んで店の様子を睥睨し、時折ジェイド先輩に指示を投げている。
フロイド先輩は今日も調子が良いのか、まるで店の中を泳ぐように給仕をこなしていた。
「最近、何か変わったことは?」
「別にないですよ。ああでも、最近ジェイド先輩かフロイド先輩のどっちかが必ず一緒にいた気がします。」
「そうですか、まぁ二人の新しい遊びでしょう。」
支配人の横で雑な仕事はできず、いや普段も手を抜いているつもりはないが気を引き締めながらバイトに努める。
そういえばここのところずっと毎日見かけていたあのハーツラビュルの先輩がいないという事は、やはり例の依頼人はあの人だったのだろう。
傍目には無理をしてまで叶えたかった願いが何なのか、好奇心はあったがどうせ聞いても答えてくれないだろう。
少し怖かったけれど願いが叶っているといいなぁと名前も知らない人の夢の成功を願った。
「で、あなたは何をそんなに膨れているんですか。その顔で人前に出るのは許しませんよ。」
「聞いてくれますか、この顔の理由を・・・いやちゃんとお客さんの前ではしまいますけど!」
ぶすっと膨れる頬はそのままに今日この顔になった原因を説明する。ああ思い出しても腹が立つ!
「聞いてくださいよ、エースのやつ私が貸した教科書に落書きしたんですよ!しかも油性で!!
それでその落書きをトレイン先生に見つかるし、怒られるし、アイツ絶対に許さないんだから・・・!!」
今思い返してもあのトレイン先生の凍えるような眼差しに身が竦む。
必死になって説明はしたけれど信じてもらえたかどうか。ああもうこの怒り、どうしてくれよう!
ギリギリと歯軋りしながら友人であり悪友でもあるエースの顔を思い浮かべる。
今日は捕まえられなかったが明日どうしてくれよう。リドル先輩に頼るのは、なんか反則くさいから絶対にこの手で復讐してやる。
「なんだ、そんな事ですか。」
「そんな事ーーーーーー!?」
私の純度100パーセント憎悪にオクタヴィネル寮長であるアズール先輩は小さく鼻で笑って締めくくった。
「監督生さんも友人に恵まれている、ということでしょう?」
「・・・・・いや全然違いますけど!?」
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あとがき。
暗赤色の髪=女王になれなかった赤薔薇の色
普段は苦手なモブ描写に力を入れてみました。入れすぎて夢・・小説・・・・?という感じになってしまいましたが。
頑張って書いたので感想頂けたら嬉しいです~!読んで下さりどうもありがとうございました。
2020年7月12日執筆 八坂潤