文通。

今ならスマホ一つでなんとでもなるというのに、子供の頃はその響きに酷く胸を打たれたものだ。
特にご執心だったのはガラス瓶に手紙を入れて海に流すボトルメッセージ。
身近な誰かと手紙のやり取りをするのも楽しかったけれど、全くの見ず知らずの人とやりとりをするのはロマンがある。

まぁ今考えればかなり頭の悪いことに、海が近くになかった私はそれを小学校の池でやったのだ。

家で手に入ったイチゴジャムの空き瓶に、テレビの特集番組の影響で「あなたはそこにいますか」と拙い文字で書いて。
放課後、学校の池の岩陰に上手く隠れるようにそっと浮かべて、翌日のことを想像してワクワクしながら家に帰った。
さすがに海にも川にも通じていない、校舎の中庭にただ丸く切り取られただけの水溜りが異国の誰かに届くとは思っていなかったけれど。
けれどそれを学年の垣根を越えて全く知らない生徒の誰かが気付いて拾って、同じく返事を書いてくれることを期待したのだ。


隠し場所が上手過ぎたのか、待てど暮らせど返事は来なかった。
けれどそれよりも先生に見つかって怒られるかもしれない方がよっぽど重要だったので、下手に場所は変えず辛抱強く待った。

私にしては妙な粘り強さを見せて、諦めずにずっとその一方的な手紙を出し続けて満月を跨いだ次の夜───なんと、瓶が無くなっていたのだ。


遂に誰かに発見された喜びを持つ反面、先生に見つかってしまったのかもしれないという怯えで頭を抱えたが、次の日もその次の日も池の瓶について教師が何かを言う事はなかった。
今の私だったら答えはきっと後者で、その幼稚な行動をこっそりと見逃されただけだという現実的な判断を下す。
けれど当時の私はそれはもう大喜びして、見ず知らずの誰かからの返事を期待してそれっきり何度池を覗いても何も変化はなかった。

それでも諦めずに通い詰めること約一ケ月、子供心にさすがに諦めようかと思った時に変化は起こった。


『貝・・・・?』


池の真ん中にぷかぷかと不自然に浮かぶ白くて大きな貝殻が一つ。
あんなに堂々と水面を漂っているのに誰も拾っていないのが奇妙で、手を伸ばすと風もないのに貝は私の元へ吸い寄せられた。ますます不思議だ。

昨日までは確かになかったはずのそれを手に取って裏返してみると不思議な文字が書いてあって読めない。
せっかく拾ったのに読めないんじゃ意味がない、と頬を膨らませながら指先でなぞると金色に光って、唐突に何故かその内容を理解した。


『いるよ』


簡潔で、そしてこの上なく分かりやすい返事だった。
たったそれだけだなんて思わない。大人になれば気味が悪い不思議な現象は子供の好奇心をこの上なく擽るだけだった。
待望の返答がとてもとても嬉しくて、私は家に持ち帰ってすぐまた新しい瓶を探して、一晩中悩んでお気に入りの花の便箋に文字を綴った。


「あなたはだれ?」「どこにすんでいるの?」「すきなものは?」「きらいなものは?」


拙いながらも丁寧に文字を書いて、今度は夏祭りで飲んでからずっととっておいたラムネの瓶に入れて、水が入らないようにガムテープで蓋をした。
これも今なら多少の不思議には強引に目を瞑って大人が遊びに付き合ってくれただけだと思う。
でも当時の私は無邪気に見知らぬ誰かから返事が来る日を指折り数えて待った。

どこにも流れつかないボトルメッセージを再び池に浮かべて待つこと一ケ月。
前回と同じく瓶は消え、翌月にはあの不思議な貝殻が浮かんだ。


「にんぎょ」「さんごのうみ」「たこ」───最後は記入なし。


またしても簡潔過ぎる文面だが、それよりもその内容に心の底から衝撃を受けた。

(にんぎょ・・・人魚ってやっぱりいるんだ、わたし、人魚と文通してる・・・・!!!)

にんぎょ。おうじさまと結ばれなかった可哀想なおひめさま。
ねる前に読んでもらうおはなしに何度もせがんだ物語の片鱗が目の前にある。

現実と非現実の境がまだなかった私はこれを素直に信じた。
すぐに友達に話したけれど、少し周囲よりも成長が早かったその子には嘘つき呼ばわりされたので自分の胸に秘めておくことにした。
皆がこの話を嘘っぱちと言おうが私だけは信じる───信じなければならないと、見ず知らずの『人魚』に感じていたのは幻想への庇護欲だったのかもしれない。


そしてこの不思議なやり取りは以降一ケ月に一度だけ、満月を跨いだ次の日に届くという法則に気付いたのは随分あとの話。
知らない人に名前を教えてはいけないという親の教えだけは忠実に、私達は互いに名乗ることなく手紙と貝殻を交わした。

例えば、通学路の途中で吸った花の蜜の味のこと。
例えば、飼っている猫の名前とどんな遊びが好きなのか。
例えば、お土産でもらったお守りの中身をすぐにあけて怒られたこと。


相手からのお返事は実に人魚らしいものだった。

いわく、小魚の群れを追い回す人魚の遊びのこと。
いわく、博物館に遠足に行って写真を撮った時のこと。
いわく、沈没船を見つけて探検しそこを秘密基地にしていること。


他愛のない短い会話を瓶と貝殻に託して、顔も名前も知らない───それどころか人間ではないかもしれない相手と文を交わした。


ある日、誕生日だと告げるとなんと白くて大きな丸い玉が貝にくっついて返ってきた。
それが真珠だという貝殻の言葉を信じ、私は次のボトルの中にビーズで作った指輪とブレスレットを入れて返した。

宝石とは到底釣り合わない安物だけど、大切にしていた綺麗なビーズを一つ一つ糸に通した時の気持ちは鮮明に思い出せる。
人魚だという相手をイメージして青いビーズと作り物の小さな貝殻で飾ったブレスレット。
そして余ったビーズとお小遣いで買った真珠のビーズを中心にデザインした指輪。

今にして思えば相手の性別も知らないのに女もののアクセサリーを作ったのかとか、しかもよりによって一番サイズが重要な指輪も作ったのかとか。
色々と突っ込みどころが多すぎるが、まぁ私なりに見ず知らずの友達に好意を返したかったのだ。


そしてその文通が最後になった。

以降、何度満月を跨いでも貝殻の返事が届くことはなかった。
それでも諦めずに瓶を浮かべたが、ついぞ返事はなく───名残惜しさと共に学校を卒業して、そして数年後には安全上の理由から池は埋め立てられた。

───完全に文通の芽は途切れた。

不謹慎な事に私にとっては不穏な噂よりもそちらの方がずっと重要で、池が埋め立てられたと同時に幻想への憧れも地の底に埋めた。
もう様子を見にこっそり校舎の中庭を訪ねることも、どうして返事が来ないのかを考える必要もなくなったのだ。


それから数年。そこそこ現実を知った私はアレは人魚を騙る誰かの悪戯だったのではないかと思い始めた。
そう思ってしまうと、あんなに大事にしていた貝殻も何だか色褪せてしまい、押し入れの奥へ奥へと仕舞い込んで存在を忘れた。
宝物の真珠はなくさないように、家族が買ってきた厄除けのお守り袋にいれていたが思い返すこともなくなった。

そして16歳の今。
押し入れの奥に追いやった幻想が現実になって───私は異世界に立っている。























「なーデュースまだ決まんねーの?インクくらいなんでもいーじゃん。ハートの女王の法律でもないんだし。」

「いや、前に買ったやつが乾きがよくてよかったんだ。どれだったかな・・・」


昼下がりの購買部。がやがやというBGMが耳に心地良い。
ランチが終わって丁度いい頃合いなおかげか、店内には満員とは言わないが活気が溢れている。
さすが学園ともいうべきか、黒のインクだけでも数種類ある棚の前で唸るデュースと隣のエースを尻目に私もまた腕を組んで悩んでいた。


「うーーーーーーーーん・・・・」


通常の男子校(なんて行ったことないけど)では考えられないほどの面積を占めるその売り場。
化粧水や保湿液やクリーム、だけならまだしもアイラインやマスカラにファンデーションといった本格的なメイク用品を揃えた男子校購買部は元の世界ではまず考えられない。
というかここはデパ地下の婦人化粧品コーナーか?ここら一帯なぜか存在しないはずの女子の強い波動を感じる。


(私の感覚からするとメイクってオシャレの手段なんだけど、こっちだと正装かつ立派な魔除けや魔術の一環なんだよね。)


それぞれの色や模様の組み合わせや効果も習ったはずだけど、忘れた。いや教科書を見れば思い出せるけれどあいにく今は持ち合わせていない。
それにちゃんと覚えたところで元の世界でも同じような加護が得られるとは到底思えないからだ(それなら渋谷も新宿も魔法士で溢れることになるし)

じっと化粧品を見つめる私が気になったのか、肩に乗っていたグリムが大きな欠伸をする。
黒くて滑らかな毛皮が頬を撫でて少しくすぐったい───昔飼っていた猫を思い出す懐かしい感触だ。


「なんだオマエじっと化粧品見つめてるんだゾ・・・興味あんのか?」

「あるよーそりゃ、」


女の子だもん、という言葉はぐっと飲み込む。


「私だけだもん、普段からしてないの。」


本当の不満を「みんなとは違うから」というもっともらしいものに置換して吐き出す。
横目でチラッと伺ったエースもデュースですらお化粧をしているのに女の子の自分ときたら、憂鬱な溜息が口の端から漏れる。
そういえばハーツラビュル生は顔にトランプのマークを飾っている人達が多い。似合ってるから特に何とも思っていなかったけれど、それもまた寮の特色なのだろうか。

とりあえず手近な化粧水を手に取って値札を見るが、その可愛くない数字に喉の奥で唸る。
これを使えばちょっとは肌が綺麗になって可愛くなるかもしれないという期待値と自分のお財布事情という両皿を天秤にかけても───うん、後者だ。


「はぁ・・・・・・・」


溜息をついて商品を棚に戻す。貧乏って悲しい。

美という女の子らしい憧れを振り払って、まだ悩んでいるであろうデュース達の元へ戻ろうと踵を返した時、あのよく磨かれた革靴が視界に入る。
その見慣れた靴の持ち主は案の定オクタヴィネル悪徳三人組、もといアズール先輩とジェイド先輩とフロイド先輩だった。
それぞれ銀雪と海の髪色、銀灰色と互い違いの黄金と海松色の瞳、それらが嵌る長身の三人の美貌は何度見上げても羨望のため息が漏れる。


「おや、監督生さん。どうしたんですか不景気な顔をなさって。」

「そう言うアズール先輩達は景気がよさそうですね。」

「ええとっても。最近ラウンジの売り上げが好調なもので。」


長い指が躊躇いなく私がさっきまで悩んでいた化粧水を手に取って買い物籠に入れる。う、羨ましい。
こちらの恨みがましい視線に気付いてか、アズール先輩の艶黒子のある唇の端が吊り上がった。嫌な予感。


「おや、もしかして監督生さんもこちらをお求めで?取って差し上げましょうか?」

「欲しいのは山々なんですけど、何故か今とってもお金がないんですよね・・・ねぇグリム君。」

「ぶな!?」


突然会話の矛先を向けられたグリムが肩の上で縮こまる。

何を隠そう、今月の財政状況が本気でやばい理由はこの相棒に原因がある。
この問題児がオンボロ寮の窓を割ったせいで、その修理費という予想外の出費があったせいだ。

その件については散々グリムを絞り上げたのでもはや何も言うまいが。その件がなかったところでも贅沢をする余裕があるかは微妙だし。

それにしても、所持金はおろか持ち物すらリセットされてるせいで圧倒的に物が足りなさすぎる。
今月末の初任給が本当に待ち遠しい───何を買おうかを考えるだけでもちょっと楽しくなる。最優先はオンボロ寮の鍵の交換だけどね。


「あはっ小エビちゃんビンボーなの?ちょーダセーー。」

「モストロ・ラウンジの給料日は・・・ああ残念。10日後でしたね。」

「おやそれはお可哀想に!ですがお困りの方を放っておくのは慈悲の精神に反するもの。お金をお貸ししましょうか?」


悪徳三人組、とまとめられるに相応しい連携っぷりに辟易する。経済格差的な意味でも嫌な連中だ。


「ぜったい利子とるでしょ。」

「どうしてとらないと思ったんですか?」

「思ってないから聞いたんですよ。」


しかも私のお小遣いはモストロ・ラウンジのアルバイト代頼みなので、アズール先輩の懐の中でお金が循環するという実に嫌な構図だ。

確かに化粧水は欲しい。けれどさすがにこの悪徳商人に金を借りてまで買うものではない。
あわよくば慈悲の心でお譲りします、なんて都合の良い展開は微塵も期待していなかったけど、微塵程度にはちょっと期待していたので微塵程度には残念。


「そんなに財政が苦しいのなら、カリムさんに相談してみてはいかがでしょう?」

「いや、それはさすがに人の道踏み外してる気がするんで・・・素直に諦めますよ。」


ジェイド先輩の言葉通り、確かに熱砂の国の大富豪の息子は快くお金を貸してくれるだろうが、命の危機レベルではないのにさすがに良心が咎める。
それに下手したらジャミル先輩にドッカーンされるかもしれないし。いや絶対される。
あの従者は何だかんだと言いつつもカリム先輩には甘いのだ。これも本人に言ったらドカーンされます。


「アッでもオマエ、アレ持ってるんだろ?アレをマドルにすればいいじゃねえか。」

「ちょっ、グリム、」

「おやアレ、とは?」


相棒の漏らした不用意な言葉に、アズール先輩の眼鏡の奥の銀の瞳が興味に輝く。
グリムに昔の事なんて話さなきゃよかっという後悔と、この厄介な商人の関心を引いてしまった事に心の底から溜息をついて、懐から朱色のお守り袋を取り出す。


「何ですその小さい袋は。小物入れにしては小さすぎますね。」

「これは私の世界でいうお守りなんですけど・・・・」

朱色の袋に金糸で『厄除』とかかれたお守りは私がこっちに来る時から身に着けていたもの。
年季が入って少しヨレてしまったそれは旅行に行った家族のお土産で───その思い出もセットで連想してしまい少ししんみりする。

今は感傷を横に置いて、小さな袋の口を緩めて指先で目当てのものを取り出す。
お守りの中身を暴くなんて罰当たりな行為だけど、当時小学生だった私は買ってもらってすぐに中身を開けてしまったので今更だろう。

目当てのインクは買えたのかいつの間にかデュースもエースも戻ってきていた。2人も含めた総勢5人が興味深そうに覗いてきて気恥ずかしい。


「そんなに注目されるようなものじゃないんですけど、これです。」

「・・・何だそれは・・・白い石?」

「たぶん・・・・・真珠。」

「真珠って・・・?そんなもんビンボー監督生が持ってる訳ないじゃん。」


うるさいな、とエースの好奇の視線から逃がすように真珠(だと思っている)を持った手を動かす。
こういう反応をされるって分かってたから見せたくなかったんだ、と小さく呟いた。
自分だって疑わしいと感じてるとはいえ、友達相手でも思い出を否定されるのは何度されても気分のいいものじゃない。


「確かに、偽物かもしれないけど、私は本物だって信じてるし・・・」

「ほう、人魚の前で海の宝石を騙るなんて勇気がおありのようだ。」

「えっそういう反応なんですかこわい。」

「僕達人魚にとって真珠は特別なものですからね。アズール、鑑定して差し上げては?」


失礼しても、という言葉に躊躇う。これで遂に子供の頃の幻想に真贋がついてしまうのだ。
私だってもうあの手紙は優しい誰かが付き合ってくれただけでこの宝物だって偽物だと気付いてはいるけれど。


(でも、先輩達みたいな人魚の実物が目の前にいるんだから期待しちゃう。・・・いや、別世界だって事は分かってるんだけど、でも。)


息を大きく吐いて、恐る恐る真珠(かもしれない)を差し出す。
長い指で受け取ったアズール先輩が、小さく何かを呟いてマジカルペンの魔法石で自分の眼鏡を軽く叩くと小さな白銀の光が散った。
そして表面を黒手袋に包んだ指先で転がして、熟練の鑑定士の目つきでじっと観察する。


「・・・・・・・・・・。」


沈黙が居た堪れない。こわい。
長年降り積もってきた知りたい気持ちと、同量の知ってがっかりしたくない気持ちとで内心に嵐が生まれる。


「あ、いや、そんなに真面目に見て頂かなくても、これ私が勝手に真珠って信じているだけなのできっと大したものじゃ、」

「────いいや、これ本物ですよ。しかも真珠層が厚く、形もほぼ真円。光沢も強い、粒も大きい上物だ。」

「・・・・・・・うっそ。」


人魚の商人も信じられないという顔で真珠(本物)を見ている。
完全に偽物だと決めつけていた顔の他大勢もその言葉に瞳を見開いた。
そういう私も自分ですら幻想だと思っていたものが本物だと肯定されて一気に意識が冴える。全身が総毛立つ高揚感。えっ本当に!?


「えーーー先輩本当っすか?」

「アズールが商売に関して嘘言うわけねーじゃん。ま、ホントのこと言わないのは多いけどさ~。」


真珠は本物だった?つまり、文通相手が人魚というのも本当?
いやまさか私の世界に人魚なんて実在しない。でも子供の遊びで本物の真珠なんて使わない。

ドッドッド、と早まる鼓動の音を耳で拾いながら、押し入れの奥に仕舞い込んだ貝殻の事を想った。
あまりの衝撃に硬直する私にアズール先輩が商談を持ち掛ける。


「もし監督生さんがこれを売ることを検討しているのなら買い取らせていただきますよ。その棚の化粧水なんて簡単に買えるくらいの、もちろん適切な取引価格で。」

「ぶな!?お、オレ様のツナ缶も買えるくらいの値段か!!!?」

「ええ、もちろん。」


グリムのターコイズの瞳が期待いっぱいにキラキラと輝いてこっちを見る。
一瞬意識が飛びかけていたけれど、自分の宝物が売り飛ばされそうという事態に慌てて我に返る。


「だ、ダメだからねそんな顔で見ても!!コレには私の甘酸っぱい思い出が詰まってるの!!!」

「ケチ!!!思い出じゃ腹はふくれねーんだゾ!!」

「なーーーーにがケチじゃいそもそも今月ビンボーなのはグリムが窓を割るのが悪いんでしょ!!!!」

「ま、カントクセーが貧乏なのは今に始まったことじゃないけどな。」

「うううううるさいな!あーもう返してくださいよまた袋にしまいますから!!」


アズール先輩から真珠をひったくろうとして軽く躱される。
極大の不信感を込めた眼差しを向けると、商人は呆れた顔を浮かべて白いハンカチを取り出しそっと乗せた。


「真珠は手の指で触れると脂で酸化して品質が劣化します。あなたそんな事も知らないで、どうやってこれを手に入れたんですか?」

「・・・・・えっと・・・・信じないかもしれないんですけど、」


先輩と友人と相棒の顔と、ハンカチごと返却された真珠との間で視線が何度も往復する。
あの嘘みたいな出来事を正直に言うべきか無難に流すべきか、散々迷って数年前に言ったきりだった台詞を吐き出す。


「・・・・子供の頃、人魚と文通してたんですよ。」

「へー、どうやって?」

「学校の池に・・手紙の入った瓶を浮かべて・・・・」

「へぇ、海と繋がってる学校だったのか。いいなそれ。」

「いや・・・海とか川とか繋がってない、本当にただの池なんだけど・・・・」

「・・・・・・・・・・・・・・・・・・。」


私の言葉に凄まじい沈黙。
気の毒なものを見るエースとデュースの顔、そもそも事情が分かってないグリム、ここまでは予想通り。
けれどアズール先輩達は鼻で笑う訳でもなく三人で顔を見合わせる───特にフロイド先輩はその眩い金と静かな海松色の瞳を軽く見開いていた。

「わ、分かってますよそんなところで人魚と文通なんてできるわけないって・・・そもそも私の世界、人魚が実在するかも怪しいし・・
 でもこの真珠が本物だったって言うなら可能性があるのかなって思って、そう思っただけで・・・うぉっと」


前触れなく距離を詰めてきたフロイド先輩がぐっと顔を寄せてきて、思わず後退り棚に背をぶつける。
急接近した美貌に慌てる私の横に手を突いて、持っていた真珠にマジカルペンを近付けると淡い青の光が漏れた。何?

事態の推移を静かに見守っていたアズール先輩がその秀麗な眉を厭わしげに顰める。ジェイド先輩は楽しそうな笑みをより深めた。


「・・・・フロイド、それは、」

「あーーーやっぱそうだ!その袋から出た瞬間から薄く感じてたんだよね、オレの魔力!」

「えっえっあの、」


ぐいっと手を引かれると耳元で微かな吐息がかかって、全身の毛穴が開くような感覚に震える。


「ねえ、イイもの見せてあげるからオレの部屋に来て?」

「は・・・・・・・・?」


今なんつった?

砂糖菓子のように甘ったるい声の突然のお誘いに答える間もなく固まる獲物を鼻歌交じりに抱え上げ、その弾みでグリムが床に落ちた。
途端に高くなった視界に慌てて広い肩にしがみ付くと、エース達もぽかんと口を開けて驚いているのが見える。えっ何事!!?


「カニちゃん達、オレと小エビちゃん午後の授業サボるからうまく伝えといてね~。」

「えっいや、ちょっと先輩!!?困りますよ午後はクルーウェル先生の授業が、」

「すみません。それは僕達が何とかしますからここはフロイドの好きにさせてあげて下さい。ねえ、アズール。」

「────まあ、いいでしょう。止めても仕方がなさそうなので。」


当の本人である私の意見を清々しく無視して、どうやら午後の授業はサボる事が決まったらしい。
いや、いくらアズール先輩達の助けがあってもよりにもよってあのクルーウェル先生の授業をサボるなんてハイリスクが過ぎる。駄目だ!

強く抗議しようにも、身長191センチの肩に抱えられて見下ろす地面は遠くて足が竦む。
しかし先輩の気まぐれな横暴の被害者でもこのまま流されてはいけないと身体を引きはがそうとする、が、びくともしない。どんな馬鹿力だ!!


「あは、小エビちゃん背中でビチビチ跳ねてんのウケる。陸に上がって無力な小魚って感じ。」

「笑ってないで下ろしてくれません!!?イヤーーー!!!私なんて殺してもメリットないですから!!!!!」

「ア?暴れんな。このままサバ折りにすんぞ。」

「うううううう・・・・・」


この場で死ぬか、部屋で死ぬか、どっちの方がマシか考えて一応殺されない可能性を考えたが後者に賭けるしかないらしい。
頭の中でクルーウェル先生の美貌と鞭のしなる物騒な音が反芻する。いつ死ぬかという選択肢に『全部終わった後で死ぬ』が追加された。

途端に大人しくなって代わりに小刻みに震える私を、その振動がくすぐったいのか気儘な暴君が柔らかく微笑む。


「だいじょーぶ。小エビちゃんにとっても楽しいことだよ?」

「・・・・・・こっわ・・・」


上機嫌に鼻歌交じりに私を担いで連行しているのを運悪く見つけた生徒達はぎょっとするも、その奇行を止めない。
それを薄情だと思いたいが私も第三者の立場だったらまぁ関わりたくない。ええ分かりますとも。
購買部の扉の奥から心配そうにこちらを見る2人と1匹の姿が見えたが片手を挙げて諦めのポーズ。あはは、どうにでもなーれ!

結局、道中誰からも助けて頂く事はなく(自分が人望がないのではなくこの学園の人間が特別に薄情なのだと思いたい)鏡の間を越え、オクタヴィネル寮まで連行されたのであった。





















「ハイただいま~オレ、ここジェイドとオレの部屋なの。小エビちゃんはぁそこ座ってね。」

「ウウッ・・・結局来てしまった・・・・」


自分の部屋だというのに足で乱暴にドアを開けて近くのベッドに私を荷物みたいに下ろす。
そして何やら白い衣装棚に向かってごそごそと何かを探し始める。
今の隙に逃げようかと部屋に一つしかないドアを伺うが、フロイド先輩に気付かれずに退出する自信がどうにもない。


(つ、付き合ってもいない男の人の部屋に来てしまった・・・)


残念ながら今まで男の人と付き合う機会に恵まれなかったとはいえ、私だって普通に育った女の子なので緊張くらいはする。
いや、このフロイド先輩が私にそういう感情を持っていないことくらい分かってますが!ますけどね!!?

でもせっかくの機会なのできょろきょろと周囲を見渡いて男の部屋を観察する。
部屋の半分を割ってジェイド先輩と共用しているのだろうか、向かいのベッドには片割れの几帳面さを表すようにシーツには皺ひとつない。
そしてベッドの近くに備えられた飾り棚には大きなガラスの瓶が安置されていて、中には植物や貝殻が緻密な計算のもと配置されている───そういえばジェイド先輩の趣味はテラリウムだったか。

背もたれが貝殻のようなデザインの洒落た椅子や、白いテーブルにところどころに海をイメージさせる小物やインテリアの数々。
男子生徒の部屋のくせに上品なショールームのようにオシャレな部屋だ。普通に羨ましい。

対してオンボロ寮の自分の部屋のことを考える・・・少し落ち込んだけどアレは長年放置されてたからだし家主にお金がないからであって、そう、不可抗力・・・!
でも初任給でちょっと部屋のインテリアを見直したいなと思った。ここまでお洒落にできなくていいけれど、せめてカーテンの柄を変えるとか。


「じゃあ小エビちゃん、まずはコレ。ベタちゃん先輩もお気に入りの化粧水あげる。」

「えっあ、ありがとうございます!?」


ぼーっと考え事をしてたせいで雑に放られたガラス瓶が肩に直撃して静かに悶える。
当の本人はまだ探し物をしているようでこっちを見てすらいなかったので、どうやら背後を振り返らずに放り投げたらしい。無駄に完璧なボールコントロールだ。


(ベタちゃん先輩ってことはヴィル先輩御用達ってこと?あの美に対して一切の妥協を許さないカリスマスーパーモデル様の?そんなのポンと寄越していいの?)


渡された小瓶の中の液体は不思議な色合いをしていて、化粧水ってこんなに主張の激しい色をしているものだったっけと不安になる。
軽く手に垂らしてみるとさらさらしているのに不思議なとろみがあって手の甲によく馴染む。うん、良さそう。

普通の相手にあげると言われたのなら無邪気に喜ぶ場面だが、渡してきた相手があの悪徳商人三人組の一人であるだけに警戒心が疼く。
というかこれを渡すだけなら別にわざわざ部屋にまで呼び出すようなことはないと思うのだけれど。


「それでこっちが本命。この中身に見覚えない?」

「何があったんですか?・・・・小瓶?」


何かを見つけたらしいフロイド先輩がベッドの隣に腰を下ろして心臓が跳ねる。ひぇっ近い。
距離をとろうとすると不満そうに形の良い唇を尖らせて、靴を脱いだと思うと自分の後ろに腰を下ろした。
そして後ろから抱え込むようにして私の前に小瓶をかざしてみせる───が、それどころじゃない何だこの体勢近い無理こんなに顔の良い男が近すぎて無理、死ぬ。
背中に服越しでも分かる引き締まった身体を男の人を感じるし、そのくせ声は少女のように甘ったるくて、なんか、色々と、気が、狂いそう。


「ふ、フロイド、せんぱ、あの、」

「小エビちゃん。絶対見覚えあるよ。よく見て?」

「ええ・・・・・・?」


イケメンと密着しているという混乱状態の頭を、フロイド先輩の謎めいた確信の言葉がそっと切り裂く、

もちろん入ったことのない部屋の衣装棚の奥にしまわれていた小瓶の中身なんて知る由もない、ないのだけれど───じっとその透明な内側を見てみる。
中に入っていたのは真円の中に小さな穴が空いている、ビーズだった。青い海色の細かい粒と白い樹脂製の貝殻、こっちは絶対に偽物だと確信できる真珠を模した丸い粒。

なんでこの人魚は、女の子が喜んで集めそうなビーズを後生大事に小瓶に詰めて保管しているのだろう。
けれど何故か既視感がある───それが何か知りたくてじっと注意深く観察していると、突然頭の中のピースがかちっと嵌った。
さっきの私が持っていた真珠が不思議なパズルの額縁だったのだ。


「・・・・・これ、私が持ってたビーズ・・・?こういうの、子供の頃集めて、色々作ってた・・・」

「ウン、そーだよ。でも人魚の手って水掻きだから指輪嵌められなくって、すぐに糸が切れちゃったんだよね。だから瓶の中に入れといたの。」


ブレスレットもその内腕に嵌んなくなっちゃってさぁ、と続いた言葉の衝撃に震える。
異世界に持ち込んでいないはずどころかここ数年触れてすらいないのに見覚えのあるビーズ。
そして私が指輪と腕輪を作って送った人魚なんて一人しかいない。

回転の遅い脳みそで弾き出した結論に恐る恐る顔を上げると、そこには実に満足そうなフロイド先輩の顔があった。


「そ、オレが小エビちゃんの文通相手。その真珠もオレがあげたやつだよ。」

「・・・・・・・・・・・・・、」


偽物かもしれないと思いながらもずっと大切にしてきた真珠は本物だった。
子供の頃、顔も名前も知らないくせに本気で人魚だと信じていた相手も本物だった。

そしてその本人が今私のすぐ傍にいて、子供の私が贈った安物のビーズのアクセサリーはもう輪っかの形をしていないけれど、でも持っていてくれた。


「・・・・っフロイド先輩!!」


ぶわっと心臓から温かい感情が溢れて全身から指先まで喜びが循環する。
信じられない偶然と幸運に、高ぶる感情とその勢いのままフロイド先輩の広い胸に飛び込んだ。


「ほんとう!?本当にフロイド先輩があの時の、人魚なの!?本物で、しかも、フロイド先輩なの!!?」

「正解で~す。オレもあの時の相手が小エビちゃんでよかった。」


ふにゃ、と今にも溶けそうなほど柔らかい笑みを浮かべて抱き寄せ返してくれる手つきは温かくて優しい。傍から見ると私達は恋人同士に見えるだろう。


「・・・・・・・!」


いや役得だけど恥ずかしくなってきた。すみませんと謝りつつ離れようとするとがっちり抱きしめ直される。
けれどいつもの脅し文句のように苦しくはないのでこの暴君なりに気を遣っているようだ。うう、何だこれドキドキする。


「・・・・・あ、あの、ごめんなさい、ずっと文通の相手って女の子だと思ってたから、その、指輪も送ったんですけど・・」

「え?何で?オレこれ気に入ってたよ?水掻きですぐダメにしちゃったけど。」

「そ、ソウデスカ・・・・」


知らなかったとはいえ。あのフロイド先輩に指輪を渡していたという事実がとんでもなく恐れ多くて恥ずかしくなってきた。
ブレスレットだけにしておけばよかったのに、どうして調子乗って指輪まで作ってしまったのか。
だって物語に出てくる人魚は大体女の子だったから勝手に女しかいないと思ってたし、何よりビーズが余ったからなんですけど!本当それだけなんですけど!!


(でも、そっか、こういう事があるのなら私が元の世界に戻ってもこっちと繋がることができるかもしれないんだ。
 会うのは難しいかもしれないけれど、フロイド先輩と文通したようにエースやデュースとも手紙のやりとりができるかもしれない)


それはなんとも希望の持てる話だ。
今までずっと一方通行で元の世界へ戻る事を考えていたから、行き来は無理でも手紙だけでもやり取りできるのならすごく嬉しい。

後でどうやってあの不思議な文通が成立していたのかフロイド先輩に聞かないと。


(・・・フロイド先輩は指輪のこと、どう思ってるんだろ。)


無駄に緊張してしまったけれど、でも相手は人魚だから陸の人間の男女が指輪を贈る意味についてなんて知らないだろう。よ、良かった。
子供の頃の自分の浅い考えとは言え、これじゃまるで将来を誓うエンゲージリングみたいで実は重たがられてたら結構ショックだ。


「オレら人魚は水掻きがあるからネックレスなんだけど、陸の人間はさぁ結婚の証に指輪を贈るんだよね。」

「!!!!!あ、いや、でも、私はほんとそういうのじゃ、」


続く否定の言葉を封じるように、私の左手をとって薬指に形の良い唇を愛おしそうに寄せる。


「だから今度はオレが小エビちゃんの指に指輪を嵌めてあげる。」

「・・・・・エッ!?」


だからこれは一旦オレにちょーだいね、と私が持っていた真珠をやんわりと取り上げた。
そして垂れ気味の長い睫毛の瞳に常にない真剣な色を浮かべて、請うような甘い声で続ける。


「小エビちゃんはオレのこと女の子だって思ってたかもしんないけどオレはずっと相手が女の子だって気付いてたよ?」

「・・・・・・・・・・は!!!!!?」


ニコニコ顔で告げられたなんとも甘い確信犯の言葉に顔面が沸騰する。
上機嫌に私の頭に顎を乗せるフロイド先輩が何か呟いていたが、それどころではなかった。


















(小エビちゃんの頭、あったかい。)


長年の釣果がやっと実った喜びと、それが自分の腕の中に納まっている幸福感に人魚は目を緩ませる。

せわしなく小さな手が握ったり開いたりして動くのを見下ろしながら、何も飾られていない左手の薬指に目が行く。
そして放られたままの赤い小さなお守り袋を視界の端に捕らえる。さっきのドタバタで手放したのだろう。


(・・・・邪魔だなぁ。)


もう片方の手で柔らかい手を摑まえて指を絡ませると、頬に当たる熱が更に上がった。かわいい。
もう片方の手は気付かれないようにそっとお守り袋を摘まんで目の前に掲げる。


(あーーー、やっぱこれ火の魔力を感じる。だから見つかんなかったのか。)


不愉快な赤い布切れをベッドの隙間から床に落とすと、ただでさえ小さいそれは音もたてずに暗闇に消えた。
火に関係するものなら炎に還せばいい───後で燃やしておこう。

例えばもし、小エビちゃんにあげた真珠に込められたオレの魔力に引っ張られて、こっちの世界に来たことを知ったらどんな顔をするだろう。

でも本人も本当に人魚と文通してたって知れて喜んでたし、よかったと思う。
オレとしても拾ったのが小エビちゃんみたいな面白い人間でよかった───だから大事にできる。


(長かったけどやーっと捕まえた。)


けど真相なんて教えてあげないけどね。

暢気な小魚が飲み込んだ釣り針を無邪気に眺めているのを、人魚の釣り人は目を細めて見守っていた。








































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あとがき。
いつもお世話になっているフォロワーさんのお誕生日祝いに、
「フロイドと文通」「お誕生日」という素敵なリクエストを頂いて書かせていただきました。

知るとちょっと不穏な補足
①真珠
人魚は真珠を見つけて相手に贈ってプロポーズをする。OKなら真珠をネックレスに加工して誓いとする。

➁真珠にかかった魔法
失せ物防止の魔法がかかっており、術者のフロイドがその場所を魔力で探知できるようになっている。
術者一人につき一つだけ使うことができるので家の鍵などに使われることが多い。
なくしものを見つける、と言えば聞こえはいいけれどもちろんストーカーなどに悪用されがち。

③お守り袋
家族のお土産で買ってきたお守りは火に関する神様のものだったので人魚のフロイドの魔力とは相性が悪かった。
だから子供の頃に袋の中に入れられた後は探知されることなく、それは学園で傍にいても気付かれることはなかった。

④池
水面を大きな水鏡として偶然ツイステッドワンダーランドと繋がった。
繋がった先は珊瑚の海の沈没船の中で、偶然フロイドが見つけて文通を始めた。
けれど大人の人魚に見つかって危険だからと穴は閉じられてしまい交流が途切れた。
なお、池はその後子供が引っ張られるだの実際に何人かの児童が行方不明になるなどし、後者は変質者の仕業として今もまだ未解決事件のまま。

⑤釣り針
長い年月で霊力が劣化したお守りが真珠の込められたフロイドの魔力に引っ張られてツイステッドワンダーランドに飛ばされた。
宝物だと大切にしてきたその真珠は、人魚にとっては釣り針で、目印で、見方を変えれば呪いのアイテムにも等しい。


2020年7月24日執筆 八坂潤
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