フロイド先輩の事が好きだ。
その綺麗な顔も、整った大きな唇から覗く凶悪な歯も愛しい。
砂糖菓子のように甘ったるい声も正反対のドスの利いた低い声もずっと聞いていたい。
191センチの長躯の自由奔放な振る舞いも、ともすれば我儘ともとれる身勝手さも可愛い。
そう自覚してしまったのはつい最近で、あまりに成就困難な恋に自覚した瞬間頭を抱えてしまった。
なんせ私はどこに出しても恥ずかしくない凡人である。
あの究極の気まぐれ天才肌の人魚が自分に興味を持つなど想像もつかない。
なにより彼は人魚なのだ。
人魚と人間の恋、というのは人魚姫を寝物語に聞いてきた私としてはあまり良いイメージがない。
童話のような展開になったとしてもフロイド先輩は泡にならず私を刺すだろう。正直そんなところも好き。まぁそれはともかく。
ワンダーランドの住人ですらなく、かつ恋愛偏差値がド低い私にとって異種族との恋愛というのはあまりにも困難だ。
私の考える程度のアプローチでは箸にも棒にも引っ掛かるまい。ではどうすればいいのか。
「────はぁ、事情は分かりましたが。」
学園の温室の隅には大小色鮮やかなキノコがのびのびと育つ一区画がある。
所有者の名前と簡単な警告の書かれた立て札が一つ立っているだけの何も防犯対策がされていない、この学園にしては無防備に見える場所だが誰もそれに手を出そうとは思わないだろう。
なぜならその木の板にはあのオクタヴィネル寮の副寮長であるジェイド・リーチの名前が書いてあるからだ。
「それがどうしてここ最近僕の手伝いをして下さっている理由になるのでしょう?もしかして僕とフロイドを間違えていますか?」
想い人であるフロイド先輩、とそっくりの顔立ちのジェイド先輩が眉をひそめた。
私はその隣で原木を傷付けないように慎重にキノコを収穫する。うん、今日も食欲が減退する綺麗な青色だ。
どう見ても食用には適さない外見をしている上に、延々と傘から水滴がにじみ出る謎のキノコだがこの異世界ではなんと食用らしい。
私も知らず知らずの内に口にしているのかもしれない、そう思うと少し複雑な気持ちだが今のところ食堂の料理で腹を壊したことはない。
「好きな人を間違えるか!!ちゃんと理由があるんですー!」
と反論しつつ、正直言って本気でこの二人が私を騙そうとしたら───ちょっと見分ける自信がない。本当にちょっとだけ。
でも大っ嫌いなキノコの世話なんて、演技でもフロイド先輩はやりたがらないからこの人はジェイド先輩で正解だろう。あの人のそういう自分に正直なところも好きだ。
「昔の偉い人は言いました。『将を射んとする者はまず馬を射よ』と。」
「・・・なんとなく言わんとすることは分かりました。僕は馬ではなくウツボですが。」
「おっ協力的ですか?」
「いえ?陸の女性の恋愛アプローチの方法に興味があるだけです。」
協力はしないけど全力で観察する宣言ということらしい。
「貴方が嫌いなので全力で邪魔します」と言われる可能性もあるとは思っていたのでそれだけでかなり安心した。ほ、本当によかった!
額から流れる汗を無造作に袖で拭う仕草すら美しく、「しかし」とジェイド先輩の綺麗な唇が続く。
「困りごとならアズールに相談すればよいでしょうに。」
「出ましたねその台詞。でもアズール先輩って恋愛相談にものってくれるんですか?ここ男子校ですよ?」
「ありますよ?この間もラウンジのポイントカードを満了したお客様の相談に乗っていましたから。」
「・・・・・・・えっ!!?ここ男子校ですけど!?なに私以外に女いるの!!?」
冗談でしょ、と思わず聞き返してから自分を恥じる。同性同士の恋愛なんて珍しいかもしれないがこんな反応は偏見に満ちた醜いものだ。
ましてや私は種族が違う相手に恋をしているというのに、どの口が言っているというのか。
「・・・すみません、失礼な事を言いました。」
「いいえ別に。まぁ実際に恋が成就するところなんて見たことがないですけど。」
「うーん、やっぱりそういうのって難しいですよね。」
「ええ。特にポムフィオーレ寮の方々の毒耐性には困ったものです。アズールもいつも苦労しています。」
「えっ今なんつった?」
ポムフィオーレ寮生は確かに美意識の高さで有名な事もあり、見目麗しい寮生が多い。
入学してすぐに食堂で見かけた一見美少女にしか見えなかった銀髪の可憐な少年の横顔が頭に蘇る。
だから女である自分を差し置いてもそちらに目が行くというのは不本意ながらも納得なのだが、毒耐性という物騒な言葉に首を傾げた。
「ご存じないのですか?ポムフィオーレ寮はその食事から家具の塗料に至るまで常に微量の毒を含んでいるのですよ。
そのためそこで生活する寮生は自然と毒耐性を身に着けます。なので年数を重ねた寮生ほど惚れ薬の効果もなかなか効かないと、あのアズールですら手を焼いていますね。」
「れ、恋愛相談ってそういう・・・惚れ薬的な解決なの・・?もっとこう、まっとうに仲良くなる方法とか、」
「この学園の生徒は即物的ですからね。そんな悠長なことを相談する人はいませんし、いたとしてもそういう方はアズールを頼らないでしょう。」
そりゃそうだ。私も好きな相手がフロイド先輩という事を差し引いてもアズール先輩に相談しようとは思わない。なんか怖いし。
それにしても惚れ薬。惚れ薬ねえ。魔法の世界らしいファンタジーで邪悪な解決法だ。
私みたいに前途多難な恋をしている者にとってはなんとも甘い響きだが、薬に頼るのはいけない気がするので却下。資金がないとも言う。
「で、同じ人魚であるジェイド先輩にお伺いしたいのですが・・人魚って、こう、どういうところに魅力とか感じるものなんでしょう・・・?」
「そうですね。まぁもちろん個人の好みの差はありますが、一番は尾びれの美しさでしょうか。」
「尾びれ・・・・・」
同じ人魚の言葉に顔が渋くなる。それは人間の私には持ち合わせていない要素だからだ。
「鱗のきめ細かさ、色艶、光沢、ヒレの形・・・色々な種類の人魚がいるので一概には言えないですがその辺りが魅力として語られる部分でしょう。
あとは泳ぐ速さや声の美しさ・・ああ狩りの上手さも結婚の条件としてはよく挙げられるものですね。」
「じゃあ私って全然望み薄じゃないですか・・・尾びれはないし、泳ぐのは遅いし、声もブスだし、狩りなんて全然・・・」
改めて自分の足を見下ろす。魚の尾じゃないどころか、ただの大根にしか見えない足は陸の人間から見ても何の魅力もない。
生足魅惑のマーメイドとは真逆の存在で、どこにもフロイド先輩の琴線に引っ掛かりそうにないという事実に落ち込んだ。いやしかし惚れ薬はなぁ。
盛大なため息と共にしゃがんで指先で収穫したキノコを弄る。
かくなる上は胃袋を掴めというのか。いや無理フロイド先輩の方がずっと料理上手いし。他には、他に何か────、
(そもそも、あのフロイド先輩と付き合いたいと思うのが無理な望みだったのだろうか・・・)
束縛を厭うあの自由な人魚が、そもそも恋人関係などというものに縛られることをよしとしてくれるだろうか。
砂糖菓子のように甘い声と春の陽気のように朗らかな表情を浮かべているくせに、そのくせ寄せては返す波のようにとらえどころがない。
そういうところも好きなのだけど、でも。ああやっぱり凡人に恋は難しい。
分かりやすく落ち込む私に何を思ったのか、じっと様子を見つめていたジェイド先輩が横にしゃがみ込んでそっと囁く。うっ顔が近い。
「───そんなに僕に協力してもらいたいのですか?」
「も、もちろん・・・あ、対価なら支払います。その・・できる範囲で・・・」
「ふふ、そんなに怯えなくても海底から一粒の砂金を探せなどという難題は言いませんよ。・・・ではあちらを食べてみて頂けませんか?」
すっと長い指が示したのは奥の原木に一本だけ生えたのは特別に奇抜な色をしたキノコだった。
濃いピンクと緑が渦を巻いた模様の傘に黄色と紫の縞模様の柄の部分はあらゆる者の食欲を拒んでいる。生命の危機に頬が引き攣るのを感じた。
「えっ何ですかあの特別にヤバそうなキノコ・・・・絶対に毒持ってるでしょ・・・」
「毒はありません。が、強い幻覚作用がありまして・・・監督生さんには是非何を見たのかレポートにまとめて頂ければ・・・」
「いや毒キノコじゃですよね!?遠回しに死ねって言ってんですか!!?」
「死にませんよ。まぁたまに現実に戻ってこれなくなる方もいらっしゃるそうですが・・・」
「・・・いや?やっぱり毒キノコですよね!!?なにお勧めしてんのこの先輩!!?」
普通に考えれば拒否の一択だが、この前途多難な恋の助っ人、しかも想い人の兄弟からの提案という魅力に心が揺れる。揺れるな。
「非常に珍しいキノコなんですよ?栽培に成功したのもあの一本だけで・・こんな機会滅多にないと思いますし。」
まるでキノコを食べる事自体にメリットがあるような口ぶりをする邪悪なセールスマンはさておいて。
頭の中で拒否と誘惑の天秤が激しく上下するのを感じ───やがて皿は片側に傾いた。意を決して幻覚キノコを毟る。
恋愛偏差値的な意味でも種族的な意味でもその他の意味でも、あらゆるものに対して不利な私の恋の成就にはジェイド先輩の助けが必要だ。
それに幻覚を見るだけって言うのなら、大丈夫・・・いややっぱりたまーに覚めない人がいるっていうのは引っ掛かる。いざとなれば先生が助けてくれるか?
計算と愛情に揺れる私をジェイド先輩は催促する訳でもなく静かに眺めている。
その表情にフロイド先輩の顔が重なると、どうしても弱い。私はあの人の愛がほしいのだ。
(ええい・・・・ままよ!!)
意を決して口を開けた瞬間、を狙いすましたように手元に勢いよく何かが当たってびっくりして手を放す。
一拍遅れて手がびしょ濡れになっていて、例のキノコが遠くの地面に落ちているのが見えた。あれ?何が起こった?
「・・・・なぁーーーにやってんの?小エビちゃん。そんないかにもヤバそうなキノコなんて食べようとして。」
「ふ、ふふふふ、フロイドせんぱい・・・」
聞き慣れた声の方角を見ると、ジェイド先輩と瓜二つでいてまるで違う私の想い人。
穏やかな海の色の髪に、眩い財宝の金と対照的に深い灰色の瞳が嵌った整った顔には呆れの色が浮かんでいる。
白銀に輝くマジカルペンを突き出した姿勢のまま、周囲には彼に従属するように水の塊が浮いていて、魔法で阻止されたのだと気付いた。
・・・・助かったんだか、あのまま続行した方がよかったのか、ちょっと複雑な気持ち。
「おやフロイドも僕のキノコ栽培の手伝いに来てくれたのですか?」
「は?んなわけねーじゃんラウンジの時間だから呼びに来ただけ。というか、小エビちゃんに変なモン勧めないでくれる?」
掲げていたマジカルペンを指揮棒のように下ろすと水塊が弾けて周囲の石畳に染みを作る。
そしてそのまま私の隣まで歩いてきて頭にぽんと大きな手が置かれ、ぼっと顔が熱くなるのを感じる。はわわ。
「小エビちゃんもさぁあんないかにもヤバそうなの食べたらお腹壊すって分かってるでしょ。なにお腹空いてんの?お店来る?」
「えっあ、その、えっと、お腹は、空いてなくて、」
「じゃあ何であんなの食おうとしたの。ぜってー毒キノコじゃんあれ。」
あ、貴方の為に毒キノコ食べようとしてましたなんて、とても言えない!!!
というかここは普通にお腹空いたことにして乗っかっておけばあわよくば一緒にご飯を食べられたというのに、私の馬鹿やろう!!いやでもお金ないし・・・!!!!
何かを言わなければと口を開こうとするも、自分の足が目に入ってしまう。
優美な尾びれどころか美しくも細くもない大根足。そして何の魅力を持たない自分。平凡な人間性。
途端にフロイド先輩に恋をしていること自体が恥ずかしくなってきた。
こんな綺麗で魅力的な人に自分は釣り合わないと分かってしまう。陸の上だというのに息が苦しくなってきた。
「えっと、その、グリムを待たせてるんで!失礼します!!!」
感情のまま勢いよく立ち上がり、猛ダッシュで振り返ることもなく植物園を飛び出す。
いやもう、我ながら大根足を差し引いてもあまりの恋愛の不向きさに泣きそうになった。これじゃどんな恋も実らないだろう。
なら今までそうしてきたように失敗する前に諦めればいいのに、どうにも諦めがつかない───きっと私もこの夢と魔法溢れるワンダーランドに感化されてしまったのだ。
いくら不思議な異世界でも万事が全て上手くいくなんて、あるわけがないのに。
「・・・何あれ、小エビちゃん行っちゃったんだけど。」
その場に残されたフロイド・リーチが不服そうに唇を尖らせる。
その片割れであるジェイド・リーチは水で弾き飛ばされたキノコを手に溜息をついた。
「まったく、酷いことをしてくれますね。これはかなり貴重なキノコなのですよ?」
「じゃあ毒のあるやつはいつもみたいにどーでもいいヤツに食わせればいいじゃん。明日お仕事あるし。」
「ふふ、それはそうですね。どんな感想が聞けるのか楽しみです。」
傘についた水滴を丁寧に拭い、先程の青いキノコとは別に分けてあった小さな籠の中にそっと入れる。
大小様々な毒キノコを収めた籠を大事に抱え、もう片方の手は食用のキノコを収穫した籠を持ち上げた。
「ところで僕の記憶違いでなければ、今日の僕は休みのはずですが。フロイド?」
「・・・そーだったっけ。」
分かりやすくとぼけて見せる相似形の顔に対しジェイドは何事かを考えているようだったが、やがて唇を開く。
「フロイド。陸にはこんな言葉があるそうですよ?」
貴方にも役立つ言葉です、という謎めいた確信に片割れは怪訝そうな顔をした。
温室でのキノコ未遂事件から数日後の夜。
いつものようにベッドに入ってさあ寝るかという時に感じた違和感。
枕元で可愛らしい顔で欠伸を浮かべる相棒に、正直に心に感じたままに問いかける。
「なんかさぁグリム・・・最近太った?」
「ぶな!?」
手を伸ばして腹の肉を摘まむと、うん、やっぱり以前よりも絶対に肉の量が増えている。
触り心地は良いけれど、不健康なのは心配だ───最も、相手はそもそも謎生物なので私の健康の基準が当てはまるかは不明だが。
グリムは私の言葉に弾かれたように転がり、ベッドの端っこでその灰色の毛を逆立たせる。
「し、失礼なんだゾ!オレ様は太ったりなんてしてない!」
「だよねぇ贅沢するような余裕なんてウチにはないし、食べてる量もいつもと同じはずだし・・」
「ギクゥ!!!」
ギクって自分で言っちゃったよこの猫。嘘つくの下手くそか?
露骨に怪しい素振りを見せる相棒にじっと視線を送るが、ターコイズの瞳はこれまた分かりやすく逸らされる。うーん。
この様子だと、これ以上この場で追及しても何も出てこなさそうだ。
食い意地と変な意地を張るグリムに溜息をつく。
「・・・まぁ、いっか。あんまり太ると飛行術で飛べなくなるよ。」
「オレさまはそんなヘマなんてしないんだゾ!」
それ以上の追及をやめると露骨にほっとしたような顔で私の枕元まで戻ってきてその体を丸める。
枕元のランプを消して、カーテンの隙間から差す月明りを頼りに私もまた枕に頭を預けた。
鼻先で眠る毛玉から香る獣臭を吸うと、少しだけ幸せな気持ちになる。
(多分、グリムを猫だと勘違いした誰かからエサとかもらってるのかな・・・でも学園でグリムを知らない人なんているのかな・・)
入学式を派手に暴れたグリムは、その後の学園内のトラブルにも皆勤賞のため知らない人間は少ないだろう。
そんな相棒は学園内でもあまり良い顔をされていない。今は純粋に餌付けされてるだけかもしれないけれど、その内に毒でも盛られたら。
───グリムの身に何かが起こったらと想像してぞっとする。
やっぱりこのままじゃいけない。ちゃんと大丈夫なのかどうか確認しないと。
(素直に聞いてもどうせ答えないだろうし、やめろと言ってもどうせ聞かないだろうし。明日こっそり後をつけてみるか・・・)
早速ぷうぷうと平和な寝息を立て始めたグリムにバレないように再び溜息をつく。こちらの気も知らずに呑気な奴め。
知らない人にご飯をもらわないってことくらい小学生でもできるんだぞまったく。
(好意の餌付けならお礼を言えばいいけど、悪意だったらどうしよう・・・誰か、助っ人・・・・)
真っ先に浮かぶのはもちろん一番の友達であるエースとデュース、そして最近接点が増えたジャックだ。
けれどもし相手が上級生で、こちらに対して悪意がある相手だったらその3人に頼ってしまっていいものか。
頼り甲斐があって、強い人────瞼に浮かぶのは優しそうな垂れ目とアンバランスに同居する鋭く尖った凶悪な歯を持つあの人。
(フロイド先輩なら、相談にのってくれるかな・・・)
連想した人物に気持ちがぼっと熱くなるが目を強く閉じて煩悩を追い出す。
とりあえず犯人捜しだ。必要なら誰かに助けを求めればいい。
明日さっそくグリムから目を離さないようにしないと、そう決意して緩やかに浸透してくる睡魔に身をゆだねた。
翌日、授業が終わって不自然にそそくさと教室を去るグリムの後ろをこっそりつけた先はミステリーショップだった。
確かにここになら食料も置いてあるけれど、それは売り物であってグリムのお小遣いに毎日買い食いする余裕なんてないはずだ。
そこから導き出される答えの一つにさっと顔が青くなる。
(ぬ、盗みとかしてたらどうしよう・・・・)
購買部の店主であるサムさんの顔が浮かんだ。
そういえばこの学園の治安の悪さを考えれば万引きの一つでも起こりそうなものなのに、不自然なほどにその手の噂は聞かない。
あのアズール先輩相手ですら代金を踏み倒そうとする連中なのに、どうして何も起きないのだろう───いやそれが普通なんだけど逆に怪しい。なんだかこわくなってきた。
(盗みをしていた場合、お店で働いて許してもらえるものなのかな・・・代金が足りればいいんだけど)
相棒への信頼のなさからの頭痛に眩暈を感じていると、小さな背が三角屋根の裏側に吸い込まれていく。
潜入捜査員さながらにレンガの壁に静かに張り付いて様子を伺うと、そこには予想外の人間がいて思わず声をあげそうになった。
(ふ、フロイド先輩・・?フロイド先輩がなんでグリムと話してんの・・・・?)
なんとグリムと待ち受けていた人物は私の想い人だった。
何を話しているのかまでは分からないが、あの二人が並んで談笑をしている───自分で見てもなお信じられない。コラ画像みたいだ。
次の瞬間にも何かが起きるんじゃないかとハラハラしながら見守るが全く起きない、むしろだんだん羨ましくなってきて架空のハンカチを噛みしめる。
(う・・羨ましい・・・!すごく羨ましい!私だってフロイド先輩とお話したいんですけどそこ代わってグリム・・・!!)
羨望と嫉妬の力を込め煉瓦の壁を掴んでじっと見つめていると、フロイド先輩が懐から何かを取り出した。
そして屈んでその何かを差し出すと、グリムが猛烈な勢いで飛びついた。何だろう?
目を凝らしても灰色の毛玉が屈んでいるのが見えるだけで何をしているのかよく分からない、が、鼻先を微かに香ばしい匂いがくすぐる。
(なんだろう、焼いた肉・・みたいな匂いがする・・・あっご飯かな。フロイド先輩がグリムにご飯をあげてる・・?)
これで餌付けの犯人は分かった───まさかのあのフロイド先輩だったのだ。
全く知らない第三者でない事に心の底からほっとしつつ、しかしどういうことだと頭を捻った。
何度見直しても信じられそうにない。どうしてフロイド先輩がグリムに食事を与えるのか?
これが他の寮生ならまだしも、相手は対価を貴ぶあのオクタヴィネル寮の深海の商人達の一人だ。怪し過ぎる。
けれどあのグリムに気まぐれ人魚様を満足させるような価値を差し出せるとは到底思えない。疑問符で頭の中が埋まっていく。
(グリムにご飯をあげてフロイド先輩が得をすること・・太らせるメリット・・・?も、もしかして、グリムを食べるつもりなんじゃ・・・?)
さぁっと顔から血の気が引く。なんせ相手はあの好奇心で動くフロイド先輩だ、ありえるかもしれない。
猫(に見える動物)にエサをあげる美少年という絵面が一転して童話のヘンゼルと魔女の姿に見えてきた。
「今すぐ逃げろ」とグリムに必死に念を送るが、食欲にすっかり負けてる相棒は気付く気配もない。あ、あいつめ・・・!
正直、このまま見なかったことにして立ち去りたい。
けれどグリムがおいしく調理されてお皿に飾られて、アズール先輩が「珍味として売り出しましょう」と危機として提案したところまで想像し我慢できず飛び出す。
「ぐ、グリムはたぶんおいしくないです!食べないで下さい!!!!」
「ぶな!!?な、なんでオマエがここに・・・」
案の定、口の周りを食べかすで飾ったグリムが慌てたように飛び跳ねるのを、ダッシュで距離を詰めて抱き上げる。
その際に小さな肉球の手に持っていたサンドイッチを口に詰め込むのを忘れない。こ、こいつ、食い意地が張ってやがる。
子を守る母親のような必死さを見せる私に、フロイド先輩は最初きょとんと目を瞬かせたがやがて柔らかく頬を緩ませる。
「あは、バレちゃった?アザラシちゃんナイショにしてって言ったのに。」
「お、オレサマちゃんと約束通り何も言ってないんだゾ!コイツの情報をオマエに売ってたなんて言ってない、」
「おい今なんつったこの猫。」
私の情報を?フロイド先輩に?売ってた?えっどういうこと?それが対価ってこと?
また追加された新しい疑問符に頭を支配されながらも、相棒の命の危機(?)に頭を振って気持ちを奮い立たせる。
いくら好きな人が相手だとしてもさすがにグリムを食べられるのは困る。そしてそれが案外冗談だとも思えないことも。
「んー、アザラシちゃんは食べられるところ少なそうだからぁ食べたりはしないけど。」
「食べられるところが多かったらイケるみたいな口ぶり本当に怖いんでやめてくれません・・・?」
「だって猫って食べたことないし・・・あは、ちょっと興味出てきたかも。」
「ギャーーー!オマエ、オレさまのことそんな目で見てたのか!?信じらんねーんだゾ!!!」
ようやく自分が食われるかもしれないという実感が湧いたのか、腕の中のグリムが物凄い勢いで暴れ始める。
生命の危機を感じた動物の必死の動きについていけず、拘束から逃げた相棒は物凄い勢いで走り去ってしまった───私を置いて。
救いを求める手も空しく、ゆっくりとフロイド先輩へ振り返る。
気分を害するかと思われた人魚は楽しそうに笑い声をあげていた。ああ、やっぱりジェイド先輩とはちがう笑顔だ。好きだなぁ。
「なーんて、ウソ。海の中には猫とかいなかったから飼ってみたかっただけ。」
「なるほど・・・?意外ですねフロイド先輩がそんなことに興味を持つなんて。グリムは猫じゃないですけど。」
「海ん中じゃフサフサした生き物ってのが珍しいし。前から興味あったんだよね。」
フロイド先輩の大きな手がラップをぐしゃぐしゃに丸めて自分のポケットに押し込む。
「あ、あの、フロイド先輩・・・その、グリムにご飯をあげてくれるのは嬉しいんですけど、食べ過ぎると健康に悪いっていうか・・・」
「えーーー?でもアザラシちゃん喜んでたじゃん。なんでダメなの?」
「それはそうなんですけど、でも現に今太ってきてるし・・・このままだと本当に狸になっちゃう・・」
口ごもる私に焦れたようにフロイド先輩がすっと距離を詰めてきて思わず一歩下がる。ち、近い。
そのまま背に壁が当たる感触に動けずにいると、まるで悪い取引を持ち掛ける商人のような笑みを浮かべて顔を寄せてくる。
海色の髪の紗幕の下から覗く、長い睫毛に縁取られた色違いの瞳は息を忘れるほど美しい。
「小エビちゃん的にはオレがアザラシちゃんにエサあげるのをやめてほしいの?」
「・・・そうです。ああ、とグリムばっかり、その、フロイド先輩のご飯食べられて・・・正直ずるいです。」
モストロ・ラウンジのホールのみならずキッチンも担当するフロイド先輩の料理はもちろん美味しい。
まぁ気分が乗らない時に作らせるととんでもない味になるそうだけど、まぁそれはそれ。
例えハズレを引いた時でも好きな人の料理なので正直それすらも愛せる、と思う。むしろ興味がある。食べさせて。
私の返答に満足いったように目を細め、じゃあとフロイド先輩が続ける。
「バイトのない日はオンボロ寮まで作りに行ったげる。それならいいでしょ?」
「へっ・・!!!!?な、なんで、あ、いや嬉しいですけど、でも私に支払える対価なんて、」
予想外の申し出とその嬉し過ぎる提案に声と心臓が裏返る。好きな人が自分の寮にご飯を作りに来る?えっ今の幻聴!?
鏡を見て確認するまでもなく、間抜けな表情を浮かべてるに違いない私を見て人魚がまた一つ笑う。
バカにしたような成分はない純粋に楽しそうな様子に更に頭が混乱する。一体何が起こっているというんだ?
「小エビちゃんが自分の事たくさん話してくれたらそれでいいよ。
だってアザラシちゃんに餌やってたのだって、対価は小エビちゃんの情報だったんだし。」
「んな・・・・!!?」
ふ、フロイド先輩が私のことを知りたがっていた?なんで?こんな回りくどい事してまで?なんで?
クスクス笑いながらフロイド先輩の手が顔の横の壁に添えられて、長身を屈めて私の顔を覗き込む。
そういえばこの体勢って壁ドンだなと数億光年先の私から電波が飛ばされてくる。言うてる場合か。
「ついでに言うとさっきの猫を飼いたいなんてウソだよ。小エビちゃんの事が知りたかっただけ。」
「えっえっえっ?そ、そんなのいくらでも答えるのに何でこんなに回りくどい事したんですか!?」
「だって小エビちゃんが言ったんでしょ?」
垂れ目を悪戯っぽく細め、まるで獣で心臓を射抜くように私の胸元に長い指を突き立てる。
捕食者とも狩人とも見分けのつかない笑みを浮かべてフロイド先輩がそっと囁く。
「陸の女の子は将を射んと欲すれば、まず馬を射るんでしょ?───ちなみに教えておくと、海のウツボは通い婚なんだよね。」
「は・・・・・、」
じゃあ今夜ね、とひらひらと手を振ってフロイド先輩が立ち去っていく。
一拍遅れて言葉の意味を飲み込んだ私は地面に力なく座り込む。
(さ、最後の何ーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!?)
その夜、本当にやってきたフロイド先輩の屈託のない笑みに最後の言葉の意味を訪ねようとして、けれど喉を詰まらせる。
けれどやがてその問いを口にする日は近いだろうと、さすがの恋愛偏差値の低い私でもわかることだった。
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あとがき。
リクエスト内容は「片思いの監督生」「グリムを餌付けするフロイド」で、2ページ目以降はほぼれらかむさんに頂いたプロットを膨らませて書いたものです。
2020年8月9日執筆 八坂潤