学園中に女の子だとバレてしまった。

きっかけは、知らない男子生徒に追い回された時のことだ。
私を追い詰めた相手は「裸にして吊るしてやろうぜ」なんて下卑た笑いを浮かべてシャツを引っ張って、開けた胸元を見られてしまった。
それ以上はすぐにたまたま近くにいたアズール先輩が助けれくれたし口止めをしてくれたけど、人の口には戸は立てられないもので。

翌朝には私が女の子だという事はナイトレイブンカレッジの公然の事実となっていた。
いつも通り学校に着いた時に向けられた視線と空気のおぞましさは今でも鮮明に覚えている。


『陸の人間はいつでも発情できるのでしょう?この男子校でたった一人の女生徒ともなれば、あのオンボロ寮に毎晩男の行列ができますよ。』


かつて私の性別に真っ先に気付いた人魚はそう言った。
それで初めて自分の立場というものを弁えたつもりだったが私はまだまだ甘かったらしい。
自分以外は全員男という漫画みたいな状況を現実に体験するとこんなに恐ろしい事になるなんて、もっと真剣に考えておくべきだったのだ。







夜、ベッドの中で枕を抱えて布団の中で丸くなる。

授業を終えて帰ってくればオンボロ寮の壁に卑猥な言葉の落書き。
学内を歩けば「どうすればヤれるか」「どの部分がそそるか」という下品な会話。
四六時中どこかから視線を感じるしこの前は玄関の前に精液の塗られた食パンが落ちていて寮の中で吐いた。

そして夜になればひっきりなしに玄関のドアがガチャガチャと耳障りな音を立てている―――ほら、今も。


(うるさいうるさいうるさいうるさい!!!女だって知った途端にこれだ!!気持ち悪い!!!!みんな死ね!!!!)


どんなに耳を塞いでも脳の奥にまでこびりつく不愉快な音。会話。視線。関心。興味。

男子校で唯一の女の子だと知られることは、自分が精肉店の食肉になるのと同じことだった。
制服を着た生徒達が店先で並ぶ私という肉を見て好き勝手に品評し調理法を想像しどうやって自分の食卓に並べようか考えている。

そんな事を考えてしまったせいか、最近は悪夢にもうなされた。
「日本出身の女の子16歳」「B:××/W:××/H:××」「外見により値下げ」の値札が貼られた自分がショーケースの中に横たえられている。
緩くドーム状に歪曲した硝子越しにはベタなゾンビ映画みたいに無数の手が張り付いていて、やがてその透明な薄膜が破られたところで悲鳴と共に飛び起きた。

その日はずっと最悪の気分だったのは言うまでもない。


(別に、私は可愛くない・・・胸だってお尻だって普通だと思う・・・でもここじゃ普通じゃない)


女体というだけであの連中はいいのだろう。

性別を変える魔法薬を飲み続けるのはどうかという案もあったけれど、肉体を作り替える薬を長期に渡って服用することは精神に変調を来すらしい。
肉体に精神が引っ張られて自我も男性に寄っていく―――そうなると正常な精神状態に戻るのは倍以上の時間がかかるらしく止めた方がいいという事になった。

そういえばオクタヴィネルのあの人魚達も定期的に元の姿に戻って海を泳いでいるのはそういう事情なのかもしれない。


(気持ち悪い・・水飲みたい・・・・でもここから出たくない・・・)


憔悴していく私を見かねたエースとデュースがオンボロ寮への送り迎えを申し出てくれた。嬉しいはずだった。嬉しくなかったけれどお願いした。
けれどその二人の「オンボロ寮に泊まり込もうか」という提案は断った。善意からの言葉だと分かっているのに素直に喜べなかった。好意を蹴り飛ばした。

懸命に言葉を選んで濁して断る自分を眺める友人達の傷付いたような表情で、友情に深い亀裂が入ったことを思い知ってしまった。
撤回すればいいのにどうしても言葉と息が詰まって、結局何もできなかった。あれ以来関係はギクシャクしている。

一人でいるのは怖いくせに友達と一緒にいるのも恐ろしい、防衛本能と自己嫌悪に挟まれて今すぐにも死んでしまいたい。


(先生達も助けてくれない・・私が、私一人で、何とかしなきゃいけないんだ・・・・)


たった一人の生徒を『女の子だから』という理由で特別に保護をすればそれは贔屓として扱われる。
ただでさえ魔法の使えない異世界の人間を学園に置いているというだけで突き上げを食らっているのに、それ以上の厄介事はご免なのだろう。

せめてもの対策としてオンボロ寮には強力な防犯魔法がかけられたので、誰かが無理に侵入してくるという事はないらしい。
けれど亡者のように周囲を囲む生徒の気配、窓をカリカリと爪でひっかく不快音、どうにか破られないかと間違った熱意を向けられ続けるドア。
そんなものが毎日続けば気がどうにかなってしまいそうだった。もしかしたらなっているのかもしれない。


(早く元の世界に戻りたい・・・こんなのはもうイヤだ・・・・・)


無断欠勤を続けていたモストロ・ラウンジには今日やっとグリムを経由して手書きの辞表を出した。
これで私とそれ以外との繋がりはほぼ切れたと言ってもいい。あとはじっと引きこもってやり過ごせばいい。

今の状況下で心から頼りにできるのは、性別はおろか人間ですらないないあの相棒とゴースト達だけ。
笑える話だがあの幽霊達と未だ正体の知れないグリムがいなければ夜も眠る事ができない。温かいあの毛並みと体温のない冷たい手がなければ安心できない。


「グリム、まだかな・・・」


そこでずっと断続的に響き続いていたドアのガチャガチャという音が終わっていた事に気付いた。
今更静けさを取り戻しても不気味なだけで、恐る恐る布団から這い出て枕元に立て掛けていたバッドを握る。
魔法を使える男の人相手にはあまりにも頼りない武器だが、それでもないよりはずっとましだと思う。思いたい。

粘つく唾を飲んでドアを開けて部屋の外へ出るとゴーストがノックの姿勢のまま立っていた。
通常ならホラー演出である半透明の身体は人間でない証拠で、人間じゃないから安心できる―――軽く息を吐く。


「ちょうどよかったお前さん、お客さんだよ。」

「・・・どうせ男の人でしょ。会いたくない。」

「それがなぁお前さんと仲の良いアズ坊なんだよ。グリ坊を送ってきてくれたのさ。
 寮に群がってたやつらも倒してくれたみたいだし、流石に挨拶した方がいいんじゃないかい?」

「・・・・・・・・まぁ、アズール先輩なら。」


慣れ親しんだ相手だが男の人というだけで気分を重くする。進んで会いたくはない。
けれど彼の本性は人魚だから大丈夫だろう―――人間が魚とセックスする図が浮かばないように、人間と人魚がセックスするイメージなんて湧かないし。

ああでも寮に群がってた人を倒した、というのなら何か代金を要求されるだろうか。
バイトもずっと入っていないから手持ちのお金は心許ない。
でもあんなにお世話になったんだから、会わずに済ませてしまおうというのはやっぱり無責任に感じた。

憂鬱な気持ちで、けれどバッドは握りしめたまま階段を下りて玄関に向かう。
内側からしか開かない玄関のドアを開ければ、グリムを腕の中に抱えたアズール先輩が立っていた。
満月の光を受けて輝く銀髪が雪明りのように綺麗で、その美貌は男の人のはずなのに女性めいて美しくて呼吸を忘れた。


「子分!ただいまなんだゾ!!」

「グリム!よかった・・・・おかえり・・・!」


ぴょんと子供みたいに胸に飛び込んできた小さい身体を強く抱き寄せる。安心する温度だ。
柔らかな毛並みに鼻先を沈めると温かい温度といつもの獣臭に思わず頬を綻ばせる。


「こんばんは、お久しぶりですね監督生さん。」

「・・・・こんばんは、その、お久しぶりです。アズール先輩・・・えっと、ありがとうございました。」

「いえ、目障りだったので少し水で払っただけですよ。対価には及びません。」

「そうですか・・・・・・・。」


会話が終わってしんと静かな緊張が舞い降りる。
きちんと別れの挨拶をしなければと思うのに言葉に詰まる私の腕からグリムがぴょんと勢いよく顔を上げた。
夏の湖のような青い瞳をキラキラと輝かせ、小さな胸を張って声高に私に話しかける。


「フフン、聞いて喜べ。アズールのヤツがここでご飯を作ってくれるんだゾ。
 オレ様がツナ缶を対価に頼んでやったんだ。褒めてもいいんだからな!」

「えっなんで!?あ、いや、そうじゃなくて、そんなの悪いから・・・・」

「だってオマエ、最近ずっとここに籠ってるから冷めたご飯しか食べてないだろ。」

「・・・・・でも、」


上手な断り文句が口を出る前に、お腹からはぐーという間抜けな音が鳴って顔が熱くなった。
理性は嫌だと訴えても、あの美食で有名なモストロ・ラウンジの支配人手ずからの料理と聞いて食欲は我慢できなかったのだろう。

聞き逃している事を期待して恐る恐る顔を上げるも、人魚は猫のような笑みを浮かべていた。聞かれてるなこれは。


「まぁ監督生さんの状況的に断られるだろうと僕は止めたんですがね、グリムさんがどうしてもと仰るので・・・。
 どうされますか?僕としてはどちらでも構いませんが。」

「あっえっと・・・・じゃあ、どうぞ。」


抵抗はあったが、あの食意地が張って強欲な相棒が自分の食料を提供してまでアズール先輩にお願いしたのだ。それを無下にするのははばかられる。
無邪気に自分の功績を褒めろというグリムに苦笑しながら、廊下をぎしぎしという自分以外の体重で床音を軋ませ歩いた。

談話室に着くと、アズール先輩がダイニングテーブル椅子の角に帽子とコートとジャケットを掛けて、清潔な白いシャツを腕まくりする。
普段は長袖の下に隠れているしなやかな長い腕と色素の薄い肌に目を奪われた。それが嫌悪感からかは分からないけれど。


「台所を借りますよ。監督生さんも手伝って下さい、その方が安心でしょう?」

「・・・・・はあ。」


安心、とはなんだろうと首を傾げながら手を洗う。自分の料理の腕ではアズール先輩の足手まといになりそうだものだが、
私に続いて手を洗った先輩の手にタオルを渡すと「ありがとうございます」と言葉が返ってくる。何でもない会話がなんだか嬉しい。


「手早く魔法も使って作ってしまいましょう。ここには食い意地の張った食いしん坊が二人もいますからね。」

「ち、違いますグリムはともかく私はそういうのじゃ、」

「はいはい分かってます。」

「やめて・・・生温い返事するのやめて・・・!!」


思わず反射的に返してから、こんな風に他愛無い会話をするのが久しぶりだと気付いた。
そして初めて自分が誰かとの会話に飢えていた事を自覚する―――少し前までは何でもなかった事なのに。

アズール先輩が指揮をするように指を振るうと棚に仕舞われていた鍋や調理道具、袋の野菜や肉などの材料が出番を待ちかねたように飛び出してくる。
淀みない包丁捌きで野菜を切り分け、その具材がまな板を闊歩しフライパンや鍋に手際良く収まっているのをぼんやりと眺めていた。まるでショーみたいだ。
しばらくマヌケに口を開けて眺めているとアズール先輩の薄氷色の瞳がこちらを見ていた事に気付いて気恥ずかしくなる。


「あの、私は何をすれば、」

「お茶でも淹れて下さい。お湯を沸かすくらいなら魔法の使えない監督生さんでもできるでしょう。」

「魔法が使えない小学生でもできるわ!」


じゃあ何でわざわざ手伝って下さいなんて言ったんですか、と声に出しかけて気付く。
アズール先輩なりに私を安心させるためだろう、そう思うとなんだか胸が温かくなる。ああやっぱり、誰かと話すのは楽しい。

薬缶にお湯を入れてティーポッドやコップ、ついでにカトラリーの準備をすると美味しいバターの匂いが鼻先を擽り始める。
それに合わせて小鍋で煮立つスープからは熱砂の国由来のスパイス臭が漂い、机の上にいつの間にか置かれてた籠の上には焼き立てのパンの香り。


「おいしそうな匂い・・・」

「早くするんだゾ~オレ様干からびちまう・・・・・」

「そろそろできるのでグリムさんは机の上を拭いてください。」


指示を受けたグリムが机の上を慌てて布巾で拭くと、私の手に持っていた皿がふわりと浮いてアズール先輩の方へ飛んでいく。
フライパンを片手に指を踊らせると切り分けられた野菜がふわふわ舞って隅っこに行儀よく収まる。
そして作っていた何かを乗せてからまたお皿を指先で軽く叩くと、そのお皿に続いてスープの器が自動的に配膳されていった。

黄金色に輝く半月のオムレツと水滴が瑞々しい野菜を乗せた白い皿、なんだかよく分からない野菜と肉が浮かぶ赤色のスープ。
パンからは香ばしい小麦の香りが広がり、ご丁寧にバターだけでなく苺のジャムまで添えてある。

まぎれもないご馳走にグリムも私も自然と喉が鳴った。


「おいしそう・・・・」

「それはグリムさんの分です。監督生さんのは今から作りますから行儀よく待っていなさい。」

「だから人を食いしん坊扱いするのはやめて下さいって・・・」


ご馳走が並べられた食卓に座ったグリムの水色の瞳がじっと食事を見ている。
今にも手を付けたいのを我慢する子供みたいな姿に少し笑ってしまった。それを眺め続ける酷い性格はしていない。


「いいよ、グリム。先に食べてて。こういうのは温かい内に食べなきゃ。」


言うやいなや猛烈な勢いでグリムが料理に飛びつく。
「うまい」「おいしい」を連呼して食べる姿に頬が緩んだ。可愛い。

考えてみれば相棒だからといってグリムにも私に付き合わせて不便な思いをさせている―――気にするなとは言ってくれてもやっぱり申し訳ない。


「やれやれ、そんなに喜んでもらえると料理人として冥利に尽きますね。」


呆れたような言葉と共にアズール先輩の細い指が、グリムの向かいに座る私の前に料理を配膳していく。
先程も同じものを見たというのに、自分の為に作られたオムレツは特別輝いて見えた。当然ごくりと唾が鳴る。


「いただきます。」

「どうぞ召し上がれ。・・・さて、僕もお茶を頂きますね。」


恐る恐るオムレツにフォークを刺すととろりと半熟の黄身が零れてバターの匂いが鼻先をくすぐる。
口に運ぶと舌先から幸福感が広がって子供みたいに頬が緩んでしまうのを感じた。ああ、すごく美味しい!


(それにあたたかい食事なんて最近食べてなかったし・・・・ほんと、美味しいな・・)


最近はパッケージされた総菜パンをこそこそと隠れて食べていたから、普段の美味しさ以上に胃に染みて少し涙ぐんでしまった。


「美味しいです、すごく・・・」

「それはよかった。パンとスープはフロイドが作ったものですが、今日は気分が良さそうだったので味も美味しいでしょう。」

「ええ、とても。でもアズール先輩が作ってくれたオムレツが一番美味しいです。」

「・・・それはどうも、ありがとうございます。」


言葉は素っ気ないがその口元が柔らかく緩んだのを見逃さない。
素直に好意が伝えられない人なのだ。その不器用さが可愛いと伝えると恐ろしい報復が返ってくるだろう。食事と一緒に飲み込む。


「先輩は、どうしてモストロ・ラウンジを始めたんですか?」

「僕の実家がリストランテという話は以前しましたよね?その経験とあと将来のため・・・というのもありますが何よりも情報収集にうってつけですから。」

「情報収集?」

「ええ。種族を問わず、美味しい食事は警戒を緩め口を滑らせる。カフェを選んだのはその為の単なる手段に過ぎません。」

「ふぅん・・・・」


そうは言うものの、言葉とは裏腹にどれだけあのお店に情熱を注いでいるのかを私は知っている。
けれどそれを指摘したところでこの素直じゃない人は愛着を認めたりはしないだろう。それくらい幼馴染でなくても、短い期間でもあの店で働いていたから分かる。


「・・・・・・・・・・。」


お皿の上の料理を半分くらい食べたところで、フォークを置いて本題に入る。


「その、無断欠勤して、しかも辞める時も顔を出さなくてすみません。」

「―――まぁ、事情は察しているので不問としましょう。それより、貴方は大丈夫なのですか?」

「大丈夫です・・あと3年、学園長がもっと早く帰る方法を見つけてくれたらそれよりも早く、ここを出ますから。」


満腹になって机に突っ伏したまま眠るグリムを横目に見る。
例え元の世界に帰る方法を見つけても卒業するまでは一緒にいるつもりだったけれど、こうなってしまってはそうも言っていられない。
こんな状況でも付き合ってくれる相棒には悪いが一刻も早くこの恐ろしい状況から逃げ出したい。


「それまで我慢すれば大丈夫です。エースもデュースもいますし、寮にはゴーストとグリムがいます。」

「はあ・・・・分かりました。では言葉を変えましょう。」


眼鏡の奥の白銀の瞳がこちらを見て、不自然に一度逸らしてから意を決したように口を開く。


「―――僕に、貴方を助けさせてくれませんか?」

「は・・・・?」


助け、させる?どういうことだ?言葉がおかしくないか??

頭を疑問符で一杯に満たす私に対し、アズール先輩は真面目な顔をしていたが次第に不機嫌な顔になっていく。
長い指が伸ばされて、反射的に身を引くと雷に撃たれたように大人しく机の上へ戻った。少し申し訳ないけど、それ以上に疑問が勝る。


「だから、僕に貴方を助けさせてくれませんか?」

「いや、あの、意味わかんないんですけど・・・新手の押し売りですか?」

「不本意ながら僕は雇い主として従業員の安全を確保する義務がありますので。」

「・・・私は、もうバイトじゃないですし、復帰させてもらってももう・・怖くて働けません。
 元々仕事ができるっていうわけでもないんだから引き止める理由もないでしょう。だから大丈夫です。」


思い返してみても自分の仕事ぶりが特別良かったとは到底思えない。
私がそう思うのだから効率主義者のアズール先輩からすれば余計にそうだろう。妥当な評価だ。


「お支払いできるような対価もないですし、従業員でもないですし、もう気にかけて頂く理由なんてないですよ。
 ・・・今までどうもありがとうございました。言われなくても、と返されるでしょうが先輩もお元気で。」


自然と少し早口になってしまうのを自覚しながらも感謝を述べ、深々と頭を下げてから頭を上げる。
私の言葉にアズール先輩は美しい眉の間を擦り頭痛を堪えるような仕草をしていた。傷付いた、とは違う表情に私も困惑する。


「・・・強情ですね。ではどうすれば僕に貴方を助けさせて頂けるんですか?」

「いやさっきから言語おかしくないですか?まるで私を助けたがってるみたいじゃないですか。
 でもいつもみたいに弱みに付け込んでも私に支払える対価はないって、さっきから言ってますよね?」

「・・・そうですよ。僕は貴方を助けて差し上げたいのです。対価だとか、そんなものは抜きにして。」

「は!!!!!!?頭でも打ちましたか先輩!!?リーチ先輩達呼びます!!!?」

「あの二人は、絶対に、呼ばないで下さい。いいですね?」


全く意味が分からん。カラスと書き物机の共通点を尋ねられたらこんな気分だろう。
頭の中は疑問符と違和感で一杯だけど、でも口許を覆う先輩のそれ以外の顔が紅潮している事に気付いてしまった。
いつもの皮肉たっぷりな表情とは真逆の雰囲気と反応に、演技のような嘘っぽさやあざとさはないように感じる。


「い、いやいやいやいや意味わかんないです対価も義理もないって言いましたよね?あのアズール先輩がそんな事を、」

「・・・・・分かりませんか。」

「正直サッパリ分かんないですね。」


アズール先輩が頭を打ったんじゃないかという事は分かる。やっぱりあの二人呼んだ方がよくない?

こちらの反応に焦れたように立ち上がり、私の隣に立つ。
さっきまでの緩い雰囲気とは違う、真剣な表情にさっきとは違う緊張感で唾を飲んだ。一体なんなのだろう。
椅子から少し腰を浮かせて警戒する私に対して、姫君に拝謁する騎士のようにアズール先輩が跪いて美しい顔を上げた。


「貴方の事が好きだからです。」

「・・・・・・・・・・・・・・ん?」


感情を抑えたような声色で、けれど隠しきれない激情を滲ませた言葉に耳を疑う。今なんつった?
ぽかんとアホみたいに口を開けて言葉もなく見つめ返す私に、面白いくらいに顔を歪ませて立ち上がったと思うと視界がいきなり塞がった。
いきなりの出来事に目を白黒させながらも、頬に当たる布の感触からアズール先輩のコートだと気付いて取り払おうとすると抱き寄せられる。


「なにこれというかウッソ先輩私のこと好きなのあだだだだだだだだだだ!!!!!!」


コート越しに強く抱き締められて、いや締め上げられて苦悶の声をあげた。何事!!!?
いやこれもしかしてこの布越しにあのウツボ兄弟の片割れと入れ違ってんじゃないのとか、強制的にチューベットの気分を味わっているとそっと視界の布が取り払われる。

月明りに照らされたあの白い顔が耳まで赤く染まっているのを見て何も言えなくなってしまう。


「・・・・触れられるのは、怖いようなので。」

「あっはい・・・配慮ありがとうございます・・・?」


ここまでたわいのない会話をして美味しい食事を食べさせてもらっても、確かにまだアズール先輩に触れられるのは怖い。
でもその解決策がまさかの布を頭から被せて、それ越しに抱き寄せるなんてなんだかトンチみたいな話だ。それを考えたのはあの学年トップクラスの頭脳の秀才だという事も。

しばらくそうして抱き寄せられていると、止まっていた呼吸も緩やかに戻ってくる。
長い沈黙の間にゆっくりとさっきの言葉が血液と共に体中に浸透していく。


(あれ、告白されたんだよね、今。マジで?私が?あのアズール先輩から??)


全知全能の神もひっくり返るまさかの超展開に頭が完全に固まってしまっている。
いやいや、だって私って頭悪いし歌も上手くないし魔力もないし可愛くもないし、えっやっぱり特に好かれる理由とかなくない?今までそんな素振りあったっけ?・・・ないと思う。
ないと思うけれど、でも、そういえばこの人は本当に大切なものに対しては素直に愛着や好意を示せない人だという事も思い出していた。


「・・・・・黙っていないで何か言ったらどうですか。」

「エッあ、いや、えっと・・・・」

「迷う、という事は僕が嫌いなのですか?」

「き、嫌いなんかじゃないですけど!でも、私なんかが、どうしてですか・・・・?」


疑問を重ねると焦れたようにアズール先輩が恭しく私の手を取った。
薄い布越しに伝わる体温は人魚とは思えないくらいに熱くて、陳腐な表現だけど火傷しそうな錯覚。

少し屈んで身長に合わせた目線の先には、眼鏡越しでも静かに燃える炎があった。
温度の低そうな薄氷色の瞳は激情を孕んで、なお熱い。


「貴方が好きです。だからどうか、僕に貴方を助けさせてください。」

「・・・・た、対価は、」


突然の告白に咄嗟に答えられず、間抜けな言葉が口を衝いた。
構わず形の良い唇が更なる情熱の言葉を紡ぐ。


「要りません―――ああでも、どうしてもと仰るのなら嘘でもいいので『好きです』と言って下さい。」


まるで私が助けを乞われているような切実な声色に背筋がぞわぞわと粟立つ。
普段は嘘を並べて不誠実に振舞う唇だが、この瞬間だけはきっと誰よりも誠実だろう。


「それが嘘だとしても、本物にしてみせます。」


自分の人生において、ここまで鮮烈な愛の告白を受けたことなどない。残念ながらこれからもない。
そう確信できる声に圧されるようにして自然と私の口も動いた。


「―――好きです、アズール先輩。」


それが本心か流されてなのか計算なのかも分からない私は不誠実だけど。
そんな内心もきっと完璧に見抜いているくせに、人魚はあどけない少年のように表情を綻ばせた。心底嬉しそうな顔に私もつられる。


「結構。取引成立です。」


今は私の返答の真偽を追究せず、でもいつか本物にしてみせるという言葉を裏付けるように微笑む。
布越しにもう一度私を抱き寄せて頭越しに摺り寄せられる頬のくすぐったさに少し笑った。
あんなに恐ろしかった男の人に触れられているのに、でも一人で布団の中に籠っているよりもずっと安心できる。


「貴方の身は僕が絶対に守ります。」


布越しの約束の言葉に頷くと、返答の代わりに更に強く抱き寄せられるのは痛かったが、でも恐ろしくはなかった。

















あの夜から生活は変わった。

まず、誰も私に手を出す生徒なんていなくなった。
手を出すどころか目線を合わせることすら忌避されるような徹底っぷりだ。
あの悪辣で有名なオクタヴィネル寮長の(我ながら酷くて正当な評価だ)恋人という噂は絶大な効果をもたらした。

まぁそれだけじゃないんだろうなという賢しい理解もあったけれどそれについては突っ込まない。
その誰かには申し訳ないけれど、自分が快適に学園生活を過ごすのが何よりも大事だからだ。


それから今は、なんとびっくりオクタヴィネル寮長の部屋でアズール先輩と一緒に暮らしている。
あの夜から被害はピッタリ止まったものの―――今でも夜に安眠できなくなったのを見かねて向こうから提案してくれたのだ。
同じ空間に年頃の男女が暮らすのはこの騒動を抜きにしても自分の貞操観念的にどうかと思ったが、背に腹は代えられない。

アズール先輩がオンボロ寮で暮らすという案もあったが面倒な転寮手続きを踏まなければならず、そも寮長が転寮するなど前代未聞だ。
「貴方がいいというまで絶対に手は出しません」という言葉を信じて頷いたが、今日まで本当に何も起こっていない。我ながら嘘みたいな本当の話。


この年になって恥ずかしい話だけど、一緒にベッドに入ったアズール先輩が頭を撫でるとやっと眠りにつける。
お店や相談事でどんなに忙しくてもこれだけは大事な義務のようにわざわざ抜け出してくるのは、くすぐったいけれど正直嬉しい。

けれどグリムがエースとデュースに預けられてハーツラビュル寮で暮らすことになったのは寂しい。
「魚が怯えるので」と言われてしまえばしょうがなく、けれど私の安眠の為なら仕方ないと納得してくれた相棒には頭が下がる。
学校では今まで通り二人一緒だけど、終わってしまえば翌日まで離れ離れだ。睡眠障害を克服したらまた一緒に眠りたい。


(・・・・スカートなんて久々に着ちゃった)


姿見の鏡の前のスカートを履いた自分の姿はなんだか少し変な気分だった。

学園長が「こうなってしまったらもう隠す必要はないでしょう。私、優しいので」と言って女生徒用の制服を作ってくれたのだ。
ブレザーのジャケットはちゃんとボタンの向きを女性用に直されているし、黒いプリーツスカートはもちろん女の子しか履かない。
最近の事もあったので生足を晒すのは気分が憚られたので、黒いタイツで肌を隠している。


(冬服ならいいけど、夏服はストッキングでも暑いかな・・・でも肌を出すのは、)


こみあげてきた吐き気にうっと呼吸も思考も詰まらせた。
その場に膝を抱えて座り込んで胸いっぱいに息を吸い込むとアズール先輩のコロンの匂いが肺を満たして落ち着きを取り戻す。

ついで左手で右腕の細い金のブレスレットの鎖に自然と触れていた事に気付いた。
「緊急時はこれを千切ればすぐに助けに向かいます」と渡されたお守り、縋るように手を重ねる。安心する。


(大丈夫、ここはアズール先輩の部屋だから大丈夫、ここには怖いことなんてない、だから大丈夫・・・)


しばらくそうしてからやっと顔を上げた自分の表情はそれは酷いものだった。
・・・着るだけでもこんなんじゃ到底外になんて出れない、学園長には悪いけれどこの制服は返そう―――、

――――トントン、トン、トントン


決められたノックの合図に「どうぞ」と返してから自分の格好に気付く。
アズール先輩には見られて大丈夫だと分かっているけれどどうにか隠したくてあわあわしているところにドアが開かれる。


「ただいま―――、・・・その恰好、」

「あっえっと、その・・・ど、どうでしょうか?」


混乱した頭は何故かそんな事を言った。いや何がどうでしょうなんだよ。

しんとしたまま返事は帰ってこない。
やっぱり私なんかが今更女の子の格好をしても似合わないのだろう。わ、分かってましたとも・・・!!


「えっと、学園長がせっかくだからって作ってくれたんですけど、似合わないですよね・・あはは、」

「いいえ。監督生さんがスカートを履いているところを初めて見たものでしたから、すみません。」


触れても?といういつもの言葉に頷く。
恋人同士になってしばらく経つというのに、あれから断ったことなど一度もないのに、この人魚は毎度律儀に許可を求めるのだ。

そうしてからやっとアズール先輩は私の手を取り、まるでダンスのように自分に引き寄せた。
いつもの紳士ぶった冷然とした表情を年相応に綻ばせて、とっておきの宝物を見つけたように声を躍らせる。


「とてもよくお似合いです。明日からはそれで登校を?」

「・・・それは、やめておこうかなって・・・怖いので。」

「大丈夫、怖がらなくて大丈夫ですよ―――なんせ僕が付いてますから。貴方はもう自由なんです。」

「自由・・・・?」


私の怪訝そうな言葉に反し、人魚は自信満々に首肯する。あ、良いことを考え付いた時の顔だ。
お店の画期的なアイディアから悪巧みまで、何かを楽しみにするとき彼はこんな顔をする。そして私はそんな時の表情がとても好きだ。


「貴方はこれから、どんな格好をしてもいい。スカートを履いてもいいし、履かなくてもいい。
 化粧も言葉遣いも振る舞いも、女性であることを引け目に我慢しなくていいんです―――僕が守ります。」


人魚の商人の唇から語られる、まるで王子様のように熱烈な言葉に顔が赤くなった。
構わずアズール先輩は朗々と語り続ける。


「髪型だって自由にしてもいい。好きな色にしてもいいし、高い塔で育てられた姫君のようにこの部屋を一周できるくらい長くしてもいい。」

「・・・・ふふっそんなに長くしたら髪の毛の重みで首が折れちゃいますよ。」

「それは確かに。でも、髪型を変えたいのなら陸の街の美容院にも連れていきましょう。
 単に伸ばすだけなら僕でもできますが、やはり専門家に任せるのが一番ですからね。」


今までそんな事、考えたこともなかった。

頭の中で髪型を変えた自分の姿を想像してみる。
アズール先輩の例はやり過ぎだけど、でも口ぶりからすると魔法の世界の美容院は本当にどんな髪型にでもしてくれそうだ。
自然とこの女生徒の服を着た自分の姿で頭の中で着せ替え人形をしてみるがどれもしっくりこない。迷って、思い付いた言葉のまま声を上げる。


「・・・・アズール先輩は、どんな髪型が好みですか?」

「僕ですか?・・・そうですね、貴方の髪型ならなんでも好きという答えはずるいでしょうか?」

「そ、その答えは色々とずるいですね・・・・」


何でも好きって言われてしまえば困ってしまう。
再び頭の中で着せ替え人形をして眉根を寄せる自分の恋人に、アズール先輩は柔らかく微笑んだ。


「いいんですよ、好きに悩んで下さい。大丈夫、僕が付いていますから。」


頭を優しく撫でられると心の底から安堵の息が漏れた。

この人の隣なら大丈夫―――あれ、でも、なんだか違和感がある。
こんなに安心感に包まれているはずなのに、でも胸の奥が少しざわざわした。なんでだろう。

私の不安感を察したように、ベッドにそっと身体を横たえられる。
少し身を固くする私に重ねて頭を優しく撫でた。いつもの入眠の儀式だ。


「怖がらなくても大丈夫、あの時に僕の手を取った貴方を後悔なんてさせません。」

「・・・・・・うん。」


自分の身体は律儀なもので、緩やかに緊張が抜けてうとうとして瞼が重くなってくる。
スカートを脱がないと皺になるなという考えは「服なら明日僕が魔法で直しますよ」と言われてどうでもよくなった。

そうして布団をそっと掛けられる感触も遠く、いつものように私は眠りに落ちていった。














置時計で時間を確認し、アズールアーシェングロットは欠伸を噛み殺しながら書類の端を整える。
少し乱れた髪を手櫛で整えてから、ベッドの中で眠る恋人の頭をもう一度梳いて反応がないことを確認した。
覗き込むと口の端を僅かに開けた寝顔はお世辞にも美しいとは言えなかったが、愛しいという感情は静かに湧く。起こさないよう注意しながらもう一度頭を撫でる。

そして外套を被り、部屋のドアを静かに閉めて夜の学園へ繰り出した。
なるべく足音を立てないように移動してまっすぐ温室へ向かい、目当ての植物のところへ辿り着く。


(今度の魔法薬に使う材料が夜にしか咲かない花とは、こういう時は月明りも満足に届かないオクタヴィネル寮は不便ですね。)


ガラス越しの月明りの下、大輪を咲かせる白い花を指先で撫でて、慎重に銀の鋏で剪定しすぐさま持参していた水に活ける。
数本採取したところで近くで物音がしてさっとマジカルペンに手を伸ばし警戒態勢をとった。
ついで現れた、ある意味予想通りの人物に口からは溜息が漏れる。


「ふわーぁ、なんだ、磯臭くて目が覚めちまった。」

「―――これはこれはレオナさん、こんばんは。お昼寝・・・にしては時間が過ぎているようですが。」


オクタヴィネル寮長のアズール・アーシェングロットの視線の先には、サバナクロー寮長のレオナ・キングスカラーが気だるげに立っていた。
褐色の肌にだらしなく着崩した制服、長い黒髪を雑に流した獣人の双眸は暗がりでもなお輝くエメラルド。
整った顔の左目には縦に切り裂くように傷跡が残っており、ただならぬ雰囲気を助長させている。


「そう身構えんな。ラギーがうるさくて見つからねえところで昼寝してたら寝過ごしただけだ。他意はねえよ。」


相手の言葉を全面的に信用したわけでないが、無用な戦いを好む相手でもないとペンから手を放す。
それでもさりげなく組んだ指先をペンの魔法石に触れたままにするのを、さも面白そうにレオナは笑った。


「これはこれは、王族の優雅なお昼寝を邪魔してしまったようで申し訳ありません。僕ももう去りますので、どうぞ続きを。」

「そういやあの草食動物、最近はお前の部屋で飼ってるんだって?」


会話もそこそこにとっとと立ち去ろうとするのを、砂漠の王族が口の端を歪めて引き止める。
自分と同じ寮長の立場の相手を無視をするわけにもいかず内心で溜息をつきながら振り返り、言葉を続けた。


「飼う、という言い方は適切ではありませんね。同意のもとに保護させて頂いています。
 なんせ魔法の使えないか弱い小魚でしかも男子校唯一の女子生徒とくれば色々とよからぬ事を考える方々が多いようで。
 可哀想に、すっかり参ってしまっていたところを慈悲の心でお助けしただけですよ。」

「慈悲の心、ねえ・・・・あの草食動物は騙せても俺の鼻は騙せねえぞ。」

「はて、いったい何のことでしょう?」


ざわざわと魔法で調整された微風が吹く温室の中、二人の寮長が対峙する。
北海の流氷の瞳と、荒野に芽吹く草木の瞳が互いに圧力を発して静かにぶつかっていた。
一般生徒が運悪くその場に居合わせてしまったのなら、その不運を深く嘆くだろう―――幸いにもこの空間にはいないようだったが。


「いや、なに・・アイツが女だってバレるきっかけになったあの連中、実は監督生が女だって事を最初から気付いていたんじゃないかと思ってな。
 となるとその情報はどこから買ったんだろうな。確かお前の店の常連客だったってのは覚えているんだが・・・」

「偶然ですね。ええ、良いお客様だったのにあれ以来姿を見せなくなってしまって・・・・僕としてもとても残念です。
 まぁ学園には侵入者対策や、そうでなくてもいわくつきの美術品や気分によって変わる廊下など、年に数名は消えてしまいますからね。例年通りの事でしょう。」

「確かに毎年消えるやつはいるが、お前らが入ってきてからは数が増えてる気がするのは気のせいか?」

「ええ、気のせいでしょう。貝の瞬きで遠くの大海で渦潮が起こるようなものですよ。」


牽制の言葉にも互いに一歩も引く気配はない。
アズール・アーシェングロットは目の前の怠惰な雄ライオンが、このNRCを数年生き抜いた厄介な男である事を思い出していた。
留年などという一見不名誉な理由で学園に居座る獣人だが、だからこそこの熾烈で閉じた競争社会を誰よりも熟知した存在ともいえる。

ライオンの尾を不要に踏みつけた事にうんざりしていると、しなやかな指が名探偵のようにすっと立てられる。


「こういう時は結果から逆算するのが一番早い。結果として、あの草食動物は草を食べる歯さえ抜かれて今やお前の助けなしでは生きられない。」


揶揄するように手頃な葉を枝から千切ってぱっと手を離す。
採取でもなく無意味に毟られた緑はくるくると回りながら静かに地面へと落ちていった。


「だというのにお前は何の対価も要求せず、あの歯抜けの草食動物を大事に大事に囲っている。
 あの強欲なアズール・アーシェングロット様が、だ―――それは何でだろうな。」

「なるほど。」


物語の陳腐な悪役のように相手の口の端が意地悪く吊り上がる。そして自分も同じ表情をしているに違いなかった。


「僕の時間を使うに値する、面白い独り言でした。興味深い名推理を聞かせて頂いたお礼に今度願いを一つ聞きましょう。」

「そうだな、こんな独りよがりの推理なんて恥ずかしくてお前以外に聞かせられないからな。」


後ろ暗い取引の成立に内心で溜息をつくが、まぁ仕方がないかと息を吐く。
この男は自分の利益以外に対する関心が薄い。こちらがちゃんと飴を与えるのなら大人しく黙っているだろう。


「だが、そうだな―――」


とっとと立ち去ろうと踵を返した背中に獅子の独り言が投げかけられる。


「あの草食動物は、お前が手を出す前の方がずっと活きが良くてまだ面白かったんだがな。」


残念だ、と微かな声を風に乗せて尊大な足音が遠ざかっていく。
一度だけ振り返ってその背中を見送ってから、温室を出て自分の部屋へと戻る。














ドアの前でいつもの合図のノックをしようとして、もう既に彼女は眠っているだろうと静かにドアを開けた。
が、予想に反し机の上の照明がついていてベッドの上で膝を抱えて蹲っている影があった。

まるで飼い主を待つ忠実なペットのような姿に、そっと近付いて頭に触れると弾かれたように顔が上げられる。
黒い瞳には深い恐怖と今にも涙が流れそうな悲壮さがあって、自分の姿を確認すると目に見えて力が抜けていく。


「あ、えっとアズール先輩、おかえりなさい。」

「起こしてしまったのですね、すみません。ですが帰りを待っていなくてもよかったのですよ。」

「・・・それは、そうなんですけど、怖くて・・・寝付けなくて・・・・」


もう先輩がいないと眠れないのかもしれません、と消え入りそうな声で続いて再び膝に顔をうずめる。
前にそうしたように、着ていた外套を掛けてからそっと抱き寄せると深く安堵の息を吐く気配がした。


「怖がらなくても大丈夫、僕が付いています。」


―――ああ、今顔を見られていなくてよかった。
口の端が喜びに吊り上がるのを見られないよう布で隠しながら、声色だけは誠実に寄り添う。


(僕は彼女を騙している。裏切っている。だから、大丈夫だ。)


そうとは知らず健気に自分に縋る手を優しく握り返しながら、もう片方の手で慈しむように何度も頭を撫でる。
深く、もっと深く、海に獲物を引き摺り込むように、離れないように願いを込めて手を動かす。


(ああ、これでやっと対等だ。)


自分の心をこんなに乱しておきながら、しかし無神経に無自覚に振舞っていた彼女はもういない。
自分がいなければ眠る事すらままならない程変わり果てた姿に心から安堵する。

やっと海の底まで降りてきてくれた実感に嬉しくなる。


「僕の声を聞いて、僕の手を握って、僕だけを頼って下さい。」


僕は貴方の恋人なのですから、と続けるとやがて静かな寝息の音が聞こえ始める。

ジェイドもフロイドも、あのレオナ先輩ですら口を揃えて彼女の事を「前の方がよかった」と言った。
けれど、ああ、僕にとっては今の哀れな姿の方がよっぽど魅力的で、愛おしく感じる。


(そう感じるのは僕だけでいい。僕だけが愛しい、僕だけの――――)


胸に湧き上がるどうしようもない幸福感と共に、恋人を抱き寄せてそっとベッドに横たわる。
さあ次はどうやって元の世界に戻ることを彼女自身に諦めさせようかと、夏休みの計画を練る子供のように胸を躍らせて、人魚もまた眠りに落ちていった。








































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あとがき。
すくわれる→掬われる・救われる

アズールの告白→赤面してみせたり恥ずかしがったりしてみせたのは、本人は演技だと思ってるけど半分当たりでもう半分は素。
騙しているという精神的アドバンテージはあれどやはり本質は変わらないので。

アズールが素直に好意や愛着を示せないやつだと分かっていても、まぁ騙されるもんですね。


2020年9月14日執筆 八坂潤
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