名門魔法士育成学校のナイトレイブンカレッジの図書館。
異世界でしかも魔法の本ともなれば自我を持つこともあるらしく、そこかしこでページと表紙を羽ばたかせて本が飛んでいる。
「あんなのどうするんですか」と司書に聞けば無言で虫取り網とブックベルトを渡されて呆然としたのもいい思い出だ。今では慣れっこだけどね。


(んっあと、ちょっと・・・!)


夏のセミを無心で追う少年達のように虫取り網を掲げ、図書室の壁へじりじりと追い込む。
そして相手が左右どちらへ逃げようか迷った瞬間を見逃さずにさっと網をかけてすぐさま手元へ手繰り寄せた。
なおも不満そうに身を捩る本にブックベルトを巻いて強制的に黙らせれば不服そうながらも大人しくなる。そうそう、それでいい。


(この本は・・・うーん、ハズレか・・)


『禁忌の魔法士達の肖像』と表紙に書かれた古い本は、たぶん私の目的とは一致しない。
でもせっかく捕まえたのだから一応は中身を確認すべく長机にあらかじめ確保していた本の上に重ねて椅子に座る。

込められた魔力が強いほど、内容が重要であればあるほど、年月を重ねれば重ねるほど、本は自我を持ちやすいらしい。
そういう貴重な本にこそ私が知りたい内容が眠っているような気がしてならない。

元の世界へ戻る方法。
あるいは人間の足に戻る方法。

前者は学園長も探してくれている、と言っていたし私も専門家に任せるのが一番だろうと思って頼りきりにしていた。
けれどそうは言っていられなくなったのはこの足にある───この、水に濡れると魚の鱗が生える忌々しく呪われた自分の足だ。


『卒業後、代金を頂戴に参ります。』


絶望する私に対し天使のように優しい笑顔を浮かべた男のことを思い出す。
姿はおろか名前を聞くだけで気が触れそうになる感情を何度も抑えてきた。今も考えただけで眩暈がしそうな程の怒りを覚える。


(卒業するまでにこの足の呪いを解く方法を見つける・・・もしくは元の世界に逃げてこの足を隠して生きていくしかない。)


後者の困難さは今軽く考えただけで気が遠くなりそうだが、でもこれから一生あの人魚に人生を縛られるなんて絶対にごめんだ。
エースとデュースとグリム、他の人達との別れを思うと悲しい気持ちになるけれど、それ以上に一刻も早く逃げ出したい。


(グリムが治してくれると言ったけれど、頼りきりにしちゃダメだ。私も何かしなきゃ。)


先生に助けを求めれば何とかなるかもしれないが、相手にはあの厄介極まりない白紙の黄金の契約書がある。
あの学園長でさえ手を出せなかったユニーク魔法だ。誰かに助けを求めるなという言葉に背けば、この足を奪われる以上にもっと恐ろしい目に遭わされるかもしれない。


(逆に言えばあの黄金の契約書さえ何とかできればもっと自由に動けるのに・・・契約書はまた金庫に仕舞われているのかな。鍵なら何となるんだけど。)


ポケットの中の小瓶を割らないようにそっと握りしめる。

小瓶の中には空気に触れて固まる完全な液体金属が入っている───これは錬金術の実験準備の手伝いでくすねてきたものだ。
こっちの世界の盗賊はこの不思議な金属を使って鍵を開けて、遺跡の宝箱や金庫を暴いてきたのだという。これを使えばあの鍵も何とかなるだろう。

高価なものらしく私を信頼して任せてくれたクルーウェル先生には申し訳ないが、私も自分の足が懸かっている。全部終わったらちゃんと謝りたい。


(でもあのVIPルームは基本的にあの人が常駐しているし・・・どうしようかな)


つらつらと考えながら、捕まえた本を最後までめくり終わって大きな溜息をつく。
表紙からして期待はしていなかったけれどやっぱりこの足の呪いに関する方法はおろか、元の世界に帰る手段なんて載っていなかった。
読まれ終わったことを自覚した本が再び空へと舞い戻っていく。ああいう本は棚に戻す手間が省ける事だけは便利だと思う。


「よっ監督生。何調べてんの?」

「うわっっっっっっ!!!!!!」

「バカっ声がでけーよ!しー!しーー!!」


背後から声をかけられただけなのに、自分が陥っている状況も相まって大声が出る。
部屋中の人間に注目される恥ずかしさに縮こまりながら、目の前の椅子に座った人物を睨みつけた。

頬杖をついてニヤニヤと笑う少年の名前はエース・トラッポラ。
紅茶色の髪に悪戯っぽく光る林檎色の瞳、さぞ周囲の女の子を騒がせてきたであろう整った顔と覗く真珠色の歯が眩しい。
異世界に来て全てを強制的にリセットさせられた私にとっては数少ない友達で、デュース・グリムも合わせてよくセットとして扱われる事が多い。


「い、いきなり声かけないでよびっくりするじゃん・・・!」

「あーわりぃわりぃそこまでびっくりされると思ってなくてさ、さては何かやましい事でも考えてた?」

「考えてないよ。いつも何かとラクしようとしてずるいことをするエースじゃあるまいし。」

「賢いって言ってもらいたいね。言われた事をただそのまま苦労してやるなんてデュースでもできるんだよ。」


内心を探られるような言葉になるべく平静さを保ちながら慎重に答える。

私達おバカ組とよく一緒につるんでいるものだから誤解を受けがちだけど、この少年は頭が良い。手品が得意というのもそれを物語っている。
学校のお勉強が求める画一的な頭の良さではなく、鋭いのだ。これはきっと頭が回るという事なのだろう。


(この足の事もあの契約の事も、エース達にバレないようにしないと・・・巻き込みたくない。)


あるいは正直に話したところで「うーわ絶対に関わりたくない」と笑顔で切って捨てられる可能性もなくはないのだが。
でももしも私を心配して、一緒にこの足を何とかしてくれると言おうものならそれこそ困る。そうなったら、そして何かあってしまった場合の罪悪感は計り知れない。

気まずさに彷徨いそうになる視線をぐっと堪えて目の前のエースに固定する。
自然さを装って微笑めば赤い瞳が少しだけ細められて緊張した。たったそれだけの仕草なのだけど、これまでの付き合いは私に警戒させる。


「最近、お前もグリムも真面目だよな。グリムは授業中に寝なくなったし、お前は暇さえ見つければ調べものしてばっかだ。
 特に魔法薬学や防御呪文の授業は熱心に聞いてる。どうかしたの?」

「グリムが偉大な魔法士になりたいって言ってたでしょ。最近やっと本腰入れ始めるみたい。
 私はいつお払い箱になってもいいように元の世界に戻る方法を探してるんだよ。ほら、学園長も探してくれてるとは言ってたけどあの調子じゃ不安だし。」


こうなることを想定して、予め用意していた台詞を慎重に自然に並べる。
林檎色の瞳がこちらを探るようにじっと見つめてくるのを、内心で跳ねまわるこの心臓に気付かないでくれと願った。

薄い埃が積もるような沈黙。
先にそれを破ったのは相手の方だった。


「ふーん、まぁいいけど。でも最近ずっと付き合い悪いじゃん。この前の何でもない日のパーティにも来なかったし。
 知ってる?トレイ先輩もなんだかんだでいつもお前らの分のお菓子を用意してるんだぜ。」

「そうなんだ・・・知らなかったけど、嬉しいな。」

「ん、だから次回は来いよ。次はいつだったかな・・・」


エースが頬杖をつきながら片手でスマホを操作して日程を調べる。

いつか立ち去る予定の世界でも、こんな状況でも、自分が友達に必要とされるのは素直に嬉しい。
ここ最近ずっと気持ちが塞がってばかりだから心に深く染み入る───だからこそこの足の事は絶対に話せない。大切な友人を巻き込みたくない。


(自然と行く流れになってるけど、こんな足でパーティに行くなんてあんまり浮かれた気にはなれないや・・・)


でも次は行かないとますます怪しまれそうだ。気分転換だと思えば仕方がないか。
大人しく次の言葉を待っていると、スマホから顔を上げないまま不服そうに唇を尖らせる。


「わり、メモってなかったわ。分かったら連絡する。」

「うん、よろしく。」


立ち上がったエースが立ち去ろうと反転して───そして一瞬逡巡し、テーブルから身を乗り出してぐしゃりと私の頭を雑に撫でた。
突然の出来事にぱちくりさせるこちらの目と兎のように赤い瞳が合って悪戯っぽく微笑んで、なおも髪を掻き回す。
そうしてすっかり私の頭が鳥の巣になったのを満足そうに確認してからやっと手を離した。


「ま、もし悩みがあんならオレらに言えよ。オレらじゃ不足だってんならウチの寮長達に相談してもいい。
 今日は寮長会議でいないけど、オバブロの件もあるしお前らの為なら時間作ってくれるだろ。」

「────そう、だね。うん、ありがとう。もし悩みができたら、相談する。」


そう答えた私は自然に笑えていただろうか。

もしかしたらこの聡い少年は私達の事情に気付いているのかもしれない。
彼の特技は手品だ。観客が何を考えているのかを推理し、誘導するなどお手の物だ。だから私の嘘も見抜いているのかもしれない。

だとしたら見抜いた上で触れない選択をしてしまった事が申し訳ない。


(・・・ううん、今大事なのは今夜は寮長会議があるって言った事だ。)


去っていくエースの背中を見送りながら、ポケットの中のあの小瓶を確かめるようにもう一度握りしめる。
あのVIPルームまでの道ならバイトもしていたし何度も行ったことあるから大丈夫だ。忍び込むくらいならきっとできる。


(でも、もしバレたらどんな目に遭わされるのだろう。)


きっと恐ろしい目に遭わされるに決まっている。
けれど、足を奪われるということ以上に辛い目なんてきっとない。
一応はここの生徒である以上は命を奪うまではしないだろう───だったらやるべきだ。

左右に積んでいた飛ばない本を元の棚にきちんと戻し、備品の虫取り網とブックベルトは所定の位置に置く。
頭の中でルートを構築しながら今晩の作戦に備えるべく、足早にオンボロ寮へと向かった。


















その日の夜。


(・・・・さて、ここまでは順調に来たけど・・・)


寮長会議のスタートに合わせて行動を始め、遂にあのVIPルームに忍び込む。
幸いお店にはあの双子も出ていないらしく大忙しだったようで、誰も私の事になんて気を向けなかった。
今となっては忌まわしい服だが、バイトの時に借りていたオクタヴィネルの寮服のおかげでうまく溶け込めた。


(この服・・・やっぱりちゃんと返さないと・・・・)


初めてこの服に袖を通した時はすごく嬉しかったのを覚えている。
当然オンボロ寮には寮服なんてないから、自分がどこかの所属である事を示す証や誰かと何かを共有することなんてなかったからだ。
エース達に「お前の短足が際立つな」ってからかわれて腹が立ったけど、まぁ実際その通りだけど、でも自分が誰かに受け入れられたようで嬉しかった。

───今ではあんな風に浮かれていた自分に石を投げたいくらい不愉快だ。ボウタイが絞首台の縄のように窮屈に感じる。
とっととお金を貯めてクリーニングしてから遺恨なく叩き返してやる。


(・・・うまくいきますように。)


金庫に触ってやっぱり鍵がかかっていること確認してから、小瓶から例の液体金属を取り出す。
空気に触れるとすぐに硬化するという注意書きの通り、瞬く間に凝固を始めるそれをすぐさま鍵穴に突っ込む。
そして持ち手の部分が徐々に固まってきたのを確認してからゆっくりと捻ると、かちゃりという小さな福音が聞こえて心臓が跳ねる。


(開いた!!!やった!!これで・・・・)


胸一杯の喜びにはやる気持ちを抑えながら分厚い金属の扉を苦労して開ける。
そして中央に鎮座していた黄金の契約書の束を掴んで、素早くめくりながら自分の名前を探す。時間との勝負だ。


(どれだどれだどれだどれだ・・・早く見つけないと、こんなところ見られたら、)


紙の束を最後までめくり終えたのに自分の名前はなかった。
焦って見落としたのだろうともう一周する───ない。どういうことだ?どうしてない?私は確かに契約を交わしたはずだ。
まさかこことは違う場所に隠しているのか?じゃあどこに?いや今はそんな事考えてる場合じゃない早くここを出て作戦を練らないと、


「ドロボーはっけーん。」

「っ・・・・!!!!」


契約書に夢中になっていた私に声を掛け、振り向いた瞬間に手首を掴まれて心臓と体が跳ねる。
すぐさま払いのけようと振るがびくともしない。大きな手を辿っていくと予想通りの顔に捕食者の笑みを浮かべた人魚達がいた。


「ドロボーは犯罪だよ?小エビちゃん。えーっと、なんだっけ、陸の法律だと手首切り落としちゃうんだっけ。」

「ええ、その通りです。大切な友人にこんな罰を与えなければならないなんて胸が痛みます・・
 が犯罪には毅然と立ち向かわなければ、勘違いしたおバカさんが続出しても困ります。」

「・・・・・ジェイド先輩、フロイド先輩・・・」


二人の言葉に声も出ないほどの恐怖と汗がぶわっと溢れ出る。この人魚達は、多分やる。

やっぱりこんな事しなきゃよかったという後悔と、足だけでなく手まで奪われる恐ろしさに強く目を閉じて震える。
いつ怖い痛みが襲ってくるかとぐっと我慢しているとくつくつと楽しそうな笑声の二重奏に恐る恐る目を開けた。


「あは、小エビちゃんすっかりビビっちゃってウケる。岩場に追い込まれた小魚みたい。」

「フロイド、そんなに笑ってはいけませんよ。監督生さんなりに頑張って考えて行動したんですから。」

「・・・二人とも、どうして・・・・お店にはいなかったし、どこかへ行ってるんじゃ・・」


息も絶え絶えに言葉を投げかける───気付けばあんなに求めていた黄金の契約書が床に散らばって稲穂の群れとなっていた。
何もかもを捨ててでも一刻も早く逃げなければと思うのに、足が竦んで床に座り込んでしまう。手を掴んだままわざわざ屈んで目線を合わせてくるのがまた嫌らしい。


「行動を起こすんならそろそろだよねってジェイドが予測しただけ。今日アズールいねーし。」

「大事な友人が犯罪に手を染める前に止めて差し上げるのも友情でしょう?
 まぁ、僕達が揃って店を外したことなど一度もないという点に違和感を感じるべきでしたね。」

ちゃーんとヒントはあったでしょ、と酷薄な笑みを浮かべるフロイド先輩に何も言い返せなくて歯噛みする。

言われてみれば確かに、モストロ・ラウンジの主要メンバーであるこの三人組が揃って店に不在だなんて今までなかった。
店で働いていた経験を鑑みればすぐに分かりそうな罠なのに、焦っていたとはいえまんまと引っ掛かった己の迂闊さには呆れるしかない。

いや、今考えるべきは反省じゃない。
この後、自分がどんな目に遭わされるかだ。

「・・・・私の頭にもイソギンチャクを生やしますか?」

嘘だ。
こんな明確な敵対行為をした私に、頭にイソギンチャクを生やす程度で許されるとは思えない。
もっと恐ろしい償いを要求するだろう───身構える私の言葉に二人が色違いで対になる瞳を見合わせて、堪えきれないとでも言わんばかりに噴き出す。

くつくつと意味不明の笑いをしてから言った双子の言葉は意外なものだった。


「いいえ、何も。」

「は・・・・・・?絶対嘘でしょ。」

「嘘じゃねーし。だって小エビちゃんさぁ」


フロイド先輩の大きな手がマジカルペンを握るのを見て身を引くが、金庫の扉にぶつかると同時に足元に濡れた感触。
水で服が張り付く不快感よりも、その意味するところに息を呑む間もなくすぐさまズボンの裾をまくられた。
布の下からは皮膚の代わりにあの青々とした気味の悪い魚の鱗が並んでいる。


「オレらが何もしなくたってとっくにアズールに売約済みじゃん。」

「もちろん本来なら罰を与えるところですが・・・ふふ、よかったですね。アズールのおかげで見逃してもらえて。」

「アズール先輩の、おかげ・・・?」


ひく、と口の端が思いっきり引き攣ったのを感じた。
私の表情の変化にすら二人は整った顔にさも楽しそうな笑みを浮かべながら、片手をあげて出口を示す。


「どうぞ、お帰りはあちらです。」

「ちゃーんとアズールに感謝してねぇ。」


アズール先輩のおかげ?感謝?ふざけるな私がどうしてこんな事をする羽目になったと思ってるんだ!!
そんなフリをする自分の姿を想像しただけでも屈辱で吐き気がする。絶対に嫌だ!

様々な激情が胸中で吹き荒れる自分がどんな表情をしているのか分からない。
けれど双子の人魚達の愉快そうな顔を見るに、さぞ面白い表情をしているのだろう。お前達を楽しませるためじゃないのに、腹立たしい。


「なーに?もしかしてアズールとの取引が不満なの?ちゃーんと納得してサインしたでしょ。」

「そして僕達はあなたの願いを叶えグリムくんを助けました。どこに不満が?」

「不満も何も、こんな事になるなんて聞いてない・・・!私の足を返して・・・・・!!」

「おやおや。」


まさかご納得頂けてないなんて、とジェイド先輩がわざとらしい驚きの表情を作る。癪に障る反応だ。


「僕もフロイドもアズールもあなたの為に奔走したというのに、悲しくなります。」

「つーかどいつもこいつも『聞いてない』『取り消してくれ』って同じことしか言えないんだよねぇ。なんか台本とか用意してんの?」


二人の言葉には良心というべきものが見つからないが、こいつらの言う通りだ。
あのイソギンチャク事件の当事者でありながら、契約をする恐ろしさを知りながら、この人魚達に私の常識と倫理観を求めたのが間違いだったのだ。


「・・・・でも、あの契約に私が足を治す方法を見つけることも、契約書を奪おうとすることも、禁止されてない。
 されて嫌ならちゃんと紙に書いておけばよかったんじゃないですか?」


ならもう私も正攻法で挑まない。
普通の人よりも馬鹿でも、何の魔法も使えなくても、徹底的に抗ってやる。諦めずに何度でも。


(今回は失敗だ、けど次はもっと上手くやってやる)


一度見つかってしまったのなら次はもっと警戒されるに決まっている。
けれど3人だっていつまでもこの部屋に常駐している訳じゃない、もっと方法を考えれば、機会を伺えば、きっとチャンスはやってくる。

立ち上がろうとした私の肩を長い足で扉に縫い留められる。
力を込めればすぐに骨を折られるのではと息を呑みながらも、その気配はない。
フロイド先輩はジェイド先輩の耳元に何事かを囁き、そして悪戯を考え付いた子供よりも邪悪に唇が半月に歪む。


「僕達も商売人の端くれ。お客様がご納得いただけていないようであればクレーム処理の対応もさせて頂いています。
 監督生さんが望むのなら、チャンスを与えるようアズールに取り計らってあげましょう。」

「・・・本当・・・ですか・・・!?」

「ええ。対価を支払えるのなら、ですが。」

「対価・・・・」


絶対にロクなもんじゃない、不吉な言葉に大きく唾を飲む。
なりふり構わず飛びついた結果がこの足なのだ、もっと慎重にならなければならない。

甘い餌を目の前にちらつかせられながらも返事に窮す私を見て、人魚達は薄く笑う。


「大丈夫、怖いことはしないよ。ピアスの穴を空けるだけ。」

「はぁ・・・・?そ、それだけ?」

「それだけですよ。陸の一部の地域では罪人は刺青を入れるそうですが、それよりもお洒落でしょう?」


てっきりもっと酷い対価を要求されると思ったのに、予想に反しあまりにもささやかな要求に肩の力が抜ける。
もしかしたらこっちの世界ではピアスの穴を空けるのは拷問のように痛いのか?いやそんな仕様だったら誰も空けないか。


「ほら、早く答えないとアズール帰ってきちゃうよ?こんな場面見られたら何て言うんだろ。」

「やはり恐ろしい、というのであればアズールに全て話して『見逃して頂いてありがとうございます』と言って下されば大丈夫ですよ。」


頭の中の天秤の両皿に二人の要求を慎重に乗せる。
少し考えればフロイド先輩の言葉を飲み込むべきだと分かってしまう。
もしピアスを空けることがどんなに痛くても、後者の要求を飲めばアズール先輩の警戒は一層厳しくなる。もうこんな真似ができなくなるくらい。

でも、あの悪辣で有名なオクタヴィネルの双子がこの程度の要求で気が済むのか・・・・?


「ピ、ピアス穴を空けるだけ・・・・?本当に?それだけ?」

「ええ、それだけです。にしても、ふふ───ちゃんと疑り深くなりましたね。偉いです。」


まるで出来の悪い生徒の成長を見守るように頭を撫でられても、喜びよりも不快感と不安が勝る。
それでも十分に躊躇ってから顎を引いて肯定すると、フロイド先輩に腕を引っ張られて立ち上がらせられた。


「じゃあオレ達の部屋いこっか。ここには道具ないし。」

「二人の部屋ですか・・・・?それは、」

「貴方が想像しているようなことはしませんよ。もしかして、されたいんですか?」


耳元で蠱惑的に囁かれてぶわっと背筋の総毛立つ感覚に息を呑んだ。
思わず振り払った手を掴み、色揃いの双眸が細められてそのまま引っ張られる。

ジェイド先輩もフロイド先輩も、今となっては癪に障るくらいに綺麗な顔をしている。
そんな二人に恋する女性はきっと多いだろう。私も何も知らない外野の人間だったら分不相応と知りながら懸想したかもしれない。


「絶対されたくないし、第一、人魚が人間に興奮できるんですか?魚と人間ですよ。」


そもそも入れるものあるんですかと鼻で笑って、雰囲気に呑み込まれそうになるのを懸命に足に力を入れて堪える。
何の変哲もない床の上に立っているはずなのに、切り立った崖の上に立っているかのような不安感があった。そうなると自分を掴むこの手が命綱だ。

白皙の美貌が一瞬きょとんとしてから一転して微笑む。
それは親愛を示す優しさとは真逆の、口に含んだ獲物をどうしてやろうかという肉食獣の笑み。


「───人間と違い人魚には繁殖期がありますが、僕達は変身薬で今は人間の姿をしているので精神がそちらに引っ張られているんですよね。」


ジェイド先輩の口の端から覗いた舌が軟体動物のように妖しく動く。
その片割れもきっと同じような表情をしているのだろう。恐ろしくて見る気にもなれないが。


「もし監督生さんが僕達の好みではないように振舞って虚勢を張りたいだけなら今すぐ大人しくなさった方がいい。
 僕達は懸命に足掻く獲物が好物ですが、友人を怒らせるのは忍びないので。」

「・・・・・・さいあくだ。」


自分が何を言われたのかくらいさすがに分かる。
目の前の美しい男二人に自分が組み敷かれる姿を想像してぞっとする。
いやもしかしたら人間どころか人魚の姿かもしれない。人魚と人間のセックスなんて想像がつかない、考えると───おぞまし過ぎて寒気がする。おえっ。


「フロイド、僕は部屋を片付けてから行きます。監督生さんを連れて行って下さい。」

「今の会話聞いて大人しく部屋に行きたくないんですけど・・・」

「だから~オレらアズールに怒られたくないって言ってんじゃん。だいじょうぶ、今日はピアスだけだよ。」


今日はってなんだよ今日はって。次回があるみたいな言い方やめろ。

二人の言葉は相変わらず信用ならないが、アズール先輩への友情(?)だけは信用できる。
重い足取りで二人の部屋に連行されて椅子に座らされ、フロイド先輩が鼻歌交じりに机の引き出しを漁る。


(本当に用意してたんだ・・・行動が読まれ過ぎてる。次はもっと慎重に行かなきゃ。)


そもそも、この取引が上手くいけば掴めるチャンスとやらで挽回できるかもしれない。
信じる神もいないのに敬虔な信者のように指を組んで強く握る。深海からも届く祈りはあるのだろうか。


「ちゃんと小エビちゃんに似合いそうなピアスも用意してあるんだよ。よかったね。」

「・・・・そのピアスの対価払いませんけど。」

「別にいいよ?でも外さないでね。」


じゃーん、と銀の細い鎖と真珠(偽物だろうけど)と青い石が組み合わさった洒落たピアスを目の前に掲げられる。
微かに揺れる指先に合わせてピアスの鎖も静かに波打つ。悔しいけれど素直に綺麗だと思う。

何かもしかしたら仕掛けでもあるのかと胡乱な目を向け続けていると、長い指が耳たぶを摘まんできて背が跳ねた。


「ウン、やっぱ似合いそう。この揺れる鎖が泡みたいでいいよね。」

「はぁ・・・・・」


言葉こそ無邪気なそれだが、私の弱みを握る前提で買ったと思うと複雑な心境だ。
上機嫌で私の薄い耳の肉を弄るフロイド先輩との沈黙に耐えきれず、ぽつりとかねてからの疑問を漏らす。


「アズール先輩は・・どうしてこんな事をしたんでしょう。」

「えっそんなの小エビちゃんの事が好きだからじゃん。」

「はぁ・・・・・?そんな訳ないじゃないですか真面目に悩んでるのに。」


(私としては)緊迫した状況にも関わらず、場違いな言葉に素っ頓狂な声が出る。
こちらの言葉にそれこそ心外だと言わんばかりに端正な顔の唇を尖らせる。


「だって嫌いなヤツの足なんか要らなくない?オレなら要らないよ。」

「・・・・じゃあそれこそ何で、好きだっていうんならこんな事するんですか。理解できない。」


これが昨今流行りのヤンデレっていうやつなのか?現実にその概念を持ち込まれると気持ち悪すぎて笑える。
そもそも自分がそんなにあの人に愛される理由なんてあったか?いやない。だからこれはつまらない冗談だ。タチの悪い冗句だ。

私だったら好きな人を泣かせるような辛い事はしない。
初恋は実らずして久しく、そして身を焦がすような恋なんて長らくしていないけれど、きっとそう。だって好きだから!好きな相手は大事にするに決まってる。
好きだからこそ傷付けてでも欲しいなんて、そんなのは好意じゃなくて玩具をねだる子供の我儘だ。そんなものと好意を混同するなんておぞましくて吐き気がする。


「お待たせしました。」


扉の開く音と共にジェイド先輩が薬液とガーゼをもってこっちに近付いてくるのを、身を固くして待つ。
長い指が薄さを確かめるように耳たぶを触り、消毒液を垂らしたガーゼで丹念に肉を拭う。そして手元の刺繍針も消毒していく。


「・・・・・、」

「そんなに緊張なさらないで。大丈夫、上手く開けますから。」


長い指がもう片方の耳たぶの肉を挟んで感触を楽しむように擦り合わせた。
そしてもう片方の手が長い針を持っているのを、当然覚悟していた事なのに怖くなる。
大丈夫、ピアスなんてみんな開けてる事だ。私も将来は自発的に開けようと思ったかもしれない、それが早まっただけ。大丈夫だ。


「怖いんならぎゅーってしてあげようか?」

「じゃあやめてあげようかとはならいんですか。」

「おや、アズールにとりなすチャンスを自らドブに捨てるおつもりで?」

「・・・・・・・・・・どうぞ。」


髪の毛を耳の裏にかけて生贄の羊のように耳たぶをジェイド先輩に差し出す。
両手を膝の上に握っていると、フロイド先輩の手でもう片方の耳に髪の毛がかけられる感触がした。


「手元狂うからじっとしてね。」

「ま、待って同時にやると痛いんじゃ、」

「痛くないと罰にならないでしょう。」

「でもっ・・・っ、ぁ・・・・・」


もっともな言葉と共に針先を火で炙ってから、両耳を鋭い痛みが一気に走る感覚に背を反らせる。
思わず何かを掴みながら目を瞑って耐えていると、針が抜け、すぐさま別のものが肉を貫通する痛みと違和感に背を震わせた。


「よくできました。痛かった?」

「痛いに決まってる・・・」

「それはよかった。ああそれと、よくお似合いですよ。」


銀色の貝の装飾が施された手鏡で丸く切り取られた世界に映る私の耳にはあのピアスが嵌っていた。
同時に、自分が掴んでいた何か───それがジェイド先輩のストールだと気付いて手を離す。
いくら怖かったとはいえ敵に一瞬でも縋ってしまった自分に嫌悪感。

長い指が満足そうに左右からピアスの鎖を弄ぶのを、まだ痛みで跳ねる心臓を堪えて立ち上がり振り切る。


「取引、忘れないで下さいね。」

「もちろん、オレらはちゃーんと約束守るの知ってるでしょ?」

「監督生さんこそ、それを外さないように。」


立ち上がって部屋から出る前に振り返ると、フロイド先輩が手を振って、ジェイド先輩がにっこりと微笑むところだった。
愉快とは反対の感情になったのでドアを手荒く閉めて廊下を急ぐ。


(これで、これで大丈夫だ。次のチャンスで上手くやれば大丈夫、この苦しみも終わる)


あのアズール先輩が次はどんな手を使ってくるか、考えるだけで憂鬱だけど全くの無理難題を持ち掛ける事はない。
どんなに困難でも私でも一応の勝ち目がある勝負を仕掛けてくるはずだ。ならそれに賭けるしかない。


(失敗したとしても、未来以上に失うものなんてない。だから負けてもこれ以上は酷くならない、大丈夫。)


乱暴な足取りで歩く毎に静かに揺れる耳元の鎖の音が不愉快だ。
途中からは半ば駆けるようにして外へ飛び出したが、耳障りな音はいつまでも纏わりついて離れなかった。




















ピアスを空けて数日後。

あの双子がどうしてこんな要求をしたのか分かった―――ピアスが常に耳元で鎖が揺れるのだ。涼やかな音は心に安らぎを与えるのではなく不安を与えた。
いつでもあの双子が付いて回ってきているような、お前は逃げられないのだと囁かれているような不快感に気が重くなるが、契約は守らないとならない。

そしてそれは相手も同じことだ。


「監督生さん、こんにちは。」

「・・・・?」


声を掛けてきた人物、ジェイド先輩が端正な顔の半分を隠すマスクをしていることに怪訝な顔をする。風邪でも引いたのか?
私の怪訝そうな視線に気付いたのが、「ああ」と眉尻を下げて口布を下げその唇から覗くものに絶句する。


「な、・・・・・」


口許から覗くあの刃のように鋭い歯───その一部がなかった。
私の驚愕の声に対し、まるで秘密を見せた少女のように場違いにはにかんで笑い、マスクを戻す。

何で?どうして?この学園でも恐らく有数の実力者にこんな事をする相手なんて、


「実は僕達が貴方にちょっかいを出したのがアズールにバレてしまいまして・・・歯を折られてしまったんです。
 足から上は売約済みではないからと油断してしまいました。フロイドは拗ねてしまって大変です。」

「なに・・・それ、」


突然の暴力の示唆に何といえばいいか。
自分を傷付けた人間がそれ以上の想定外の報復を受けていると、どんな感情を持てばいいのか分からない。

気遣う事もあざ笑う事もできずに戸惑う私に色違いの双眸がにっこりと微笑む。


「ああ大丈夫ですよ。陸の人間は一度しか歯が生え変わらないそうですが僕達はちゃんと生え変わるので。
 フロイドも明日には機嫌を直しているでしょう。お気になさらずに。」

「そう、ですか・・・それは、よかった、です、ね。」


そう言いながらも目の前の人魚は本当にアズール先輩を恨む気配はない。歯を折られて置いて?全く理解できない。

異次元の常識と異生物の神秘にぞっとしながら何とか言葉を返す。
本心とお愛想が入り混じった言葉にジェイド先輩は目許だけで微笑み、「さて」と本題を切り出した。


「アズールからの伝言です。『ではチャンスを与えましょう。普段は理不尽なクレーム・返品には応じないのですが、僕は慈悲深いので。』」


まるであの男を真似るような口調と声色、そして芝居がかった仕草で続けた。
黄金と深緑に妖しく輝く双眸が深海の底へと招くように私を見つめる。


「『明後日の夜、僕の部屋までおいでください。もちろん、来ないのもあなたの自由ですが。』」


人魚の伝言が終わった。もちろん頷く。他に縋るものがない。
耳元のピアスが首の動きに合わせて静かに揺れ、不吉な予感が背を走ったが強引に無視した。








































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あとがき。
続きは18禁でpixivのみ公開予定ですが読まなくても大丈夫です。監督生ちゃんがどんなに頑張っても結末は皆さんの想像の通りなので。いつか書きます。
全4話完結を予定しています。最後は全年齢なのでここで公開します。

一応18歳未満の続きが気になる方向けに内容をお伝えすると以前ついったーで流した、タコの人魚姿のアズール相手に処女喪失する可哀想な監督生ちゃんです。
「助けて下さい」「初めては好きな人がいいんです」「どうか許して下さい」「こんな化け物相手にあんまりだ」って必死に懇願しながらも
犯されてしまった監督生ちゃんがいたんだな~位の認識で大丈夫です。

ちなみにアズールが二人をぶん殴ったのはタコ足です。たこあし・・レテ川・・バナン・・オルトロス・・・うっ頭が


2020年9月27日執筆 八坂潤
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