「かんとくせー、さっき注文ミスってたぞ。ちょうど同じの注文した客がいたからそっちに回しといたからこっちな。」
「えっ!あ、すみません気を付けます・・・!!」
「いーっていーって。今日は支配人もいないしやたら忙しいし。ほらこれ、落とすなよ。」
渡されたメニューを銀のトレイに乗せて慌ててお客様の元へ持っていく。
おそらくサバナクローの少し怖い顔の生徒の前に飲み物を並べて、またすぐに別テーブルから声を掛けられて注文をとる。
寮を特定できないのは、いつもの所属を示す腕章とベストを着ていないからだ。まぁ獣人=サバナクローという思い込みなだけで別の寮かもしれない。
(そういえば、別のお客さんも腕章とベストがなかった気がする。なんでだろう?)
そんな私の疑問は別テーブルからの注文の声で、波に攫われる砂のように流れていく。
今日のモストロ・ラウンジは戦場のような忙しさだった。
開店して瞬く間に店内がお客さんで埋まったと思うと、店の食材を食べつくす勢いで猛烈に注文が飛んでくる。
金に目のないアズール先輩がこの盛況ぶりをみたら大喜びするだろうに、寮長会議で不在なのが人手不足的にも惜しまれる。
そしてジェイド先輩も副寮長として同席していないのもきつい。こんな日にシフトを入れてしまったことにも悔やまれる。全く運が悪い。
ちなみにフロイド先輩は「今日はキッチンの気分~」と奥に引っ込んだまま出てこない。結果、ここにいる面子だけで回すしかないのだ。
「きょ、今日は忙しいですね・・・私、もう、クタクタなんですけど・・・」
「うーーーーーーん・・・・」
同じアルバイト仲間であるオクタヴィネル生に弱音を漏らす。この店にも大入り制度ってあるのかな。こんなに頑張っているんだからご褒美が欲しい。
顎に手を当てて考える素振りを見せる先輩は、やがて真剣な顔でぽつりと漏らした。
「これは、アレかもしんないな。」
「アレってなんですか・・・・」
「今日はもうあがっていいぞ。リーチ兄弟と支配人には俺から伝えておくから。」
「えっあがってもいいってこんなに忙しいのに・・・ってちょっと!?アレって何ですか!?」
足早に店の奥に消えていく先輩にどういうことかと問い質す前に、また別の注文が飛んでくる。
こんな、猫の手も借りたい状況で帰ってもいいとはどういう意味なのだろう。職業意識が低い私でもさすがに気が引けるのだが。
忠告めいた言葉に後ろ髪を強く引かれながらも、注文を飛ばしてくる声を無視できず結局は接客へと向かってしまう自分を誰か褒めてほしい───もっとも、これは小心者ともいう。
さっきの言葉の真意を確認する間もなく、結局あれからずっと働き続けてへとへとになりながら時計を見る。
まだ寮長会議が終わる時間には遠い事を確認して重い溜息をつき、内心うんざりしながら新しい注文を取りに行ったテーブルでそれは起こった。
「お待たせいたしました、お客様。ご注文は・・・・っ!!?」
最後まで言い終わる前に、折れそうな勢いで強く腕を引かれて強制的に椅子に座らされる。
謎の行動に内心で驚きながら立ち上がろうとするも、膝の上に勢いよく足を振り下ろされて痛みに呻いた。なに!?
普通じゃない事態に頭の中では警鐘が鳴っているのに、逃げようにも足は固定されて動かない。
理解不能で相手を見ると悪意のある表情が返ってきて息が詰まった。猛烈に嫌な予感に後ずさりする隙間もなくすぐに背が椅子にくっつく。
「注文は人質一つ。」
「・・・・・・じょ、冗談ですよね?」
ここに至ってもなお冗談であってほしいと言葉を返すも、今度は手首を強く掴まれる痛みと恐ろしさに背中が跳ねる。
そしてあっという間にネクタイで手首を強く縛られて、漫画みたいに分かりやすい事態に顔が引き攣った。これはやばい、本気だ。
硬直する私達の身の周りに他のテーブルの客がぞろぞろと集まってきて、もしかして助けてくれるのかと期待したが表情を見て違うと悟る。
これは罠にかかった獲物を見物に来た捕食者の残酷な表情で、自分達の勝利を確信する顔だった。
「おい、そこの!こいつが見えるだろ?あのいけすかねえフロイドを出せ。」
「はぁ───それがお客様のご注文であれば。おい、フロイド!ご指名だぞ!!」
同じ従業員のピンチで露骨な非常事態だというのに、呼び止められたオクタヴィネルの先輩の目は冷静そのものだった。
律儀に注文用紙に『フロイド・リーチ×1』と書いて(×1ってなんだよ×2があるのか)いつも通りキッチンにオーダーを通す。
目線で助けを求める私を「だから先に帰れと言ったのに」とまるでこちらが悪いみたいに一蹴してさりげなく距離をとられた。ひ、酷い。
やがて奥からめんどくさそうに首を回しながらフロイド先輩の長身が現れて、胸中に安堵と不安の感情が吹き荒れる。
分かりやすい事態の中で分かりにくいのがこの人魚だ。
わざわざフロイド先輩を指名したという事は何が起こるか分かり切ったようなものだが、でも当の本人がどう動くのかは春の天気のように読めない。
「なに?せっかく気分よく料理してたのに邪魔されんの腹立つんだけど。」
「仕方ないだろ、ご注文なんだから。ほら見ろお前の小エビちゃんも人質にとられてんぞ。」
「えーーーめんどくさ・・・ジェイドとアズールは?」
「二人ともまだ戻ってきてない。ほら、従業員に怪我人出すと支配人が監督責任で怒られるんだから行ってやれよ、どうせ心当たりあるんだろ。」
渋々といった様子で(ここまでめんどくさそうにされると人質の立場としては複雑だ)着ていたエプロンを無造作に床に放る。
風に吹かれる枝葉のように音もなく落ちた布を追い越して、私達の目の前までフロイド先輩がやってきた。
色違いの双眸と私の目がかち合うが、特に優しい言葉をかけてくれる訳もなく素っ気なく逸らされる。ちょっと傷付く。
「はーい、ご注文のフロイドでぇす。ブイヤベース火にかけたまんまだからもう帰ってもいい?」
いつもの甘ったるい声色で綴った言葉に「あのバカ!」という言葉と共に会話していた先輩が慌てて厨房に消えていく。
明らかに相手が優位の状況でも緊迫感の欠片もない様子に周囲が殺気立ったのを肌で感じ、その恐ろしさに身を竦めた。こわい。
「ふ、フロイド先輩・・・・」
「というかなに?小エビちゃんもしかして人質にとられてんの?あは、ウケる。」
全然ウケない。
状況を理解しながらも私を見る深緑と黄金色の瞳にはこちらを心配する成分など全く見つからなかった。
この人魚に辞書通りの意味の慈悲の心を期待するのは間違いだと分かってはいたが、嫌な予想通り過ぎて悲しい。
「こんな状況でも笑ってられるなんて相変わらず気味悪いヤツだな・・・人魚ってのはみんなそうなのか?」
「そういう獣人は群れたがるのが好きだよねぇ人魚はおまえらと違って基本的に単独行動だからさぁ。
で、なに?ご注文があるんなら早く言ってほしいんだけど。アズール怒らすとネチネチしてメンドクセーし。」
知り合いか友人か微妙なラインとはいえ私が人質に取られているのに、フロイド先輩の表情はまるで揺るがない。
揺ぎなく、静かな夜の海のようにゆらゆらとしている。まるで心に響いていなそうな様子に自分の背を氷が滑り落ちていく。
(助けてほしい・・ほしいけど、フロイド先輩が危ない目に遭うし、いやでも先輩たちは強いから平気じゃない?
元々アズール先輩達が恨まれてるんでしょ?完全に私なんかとばっちり喰らっただけじゃん・・・・泣けてきた。強いんだから私のことを助けてよ。)
胸の内を渦巻く黒い感情のままにみっともなく助けを乞いたい。痛い思いも怖い思いもしたくない、早く助けてほしい。
そういえばこの状況、どことなく既視感があると思ったら以前フロイド先輩に見捨てられてリドル先輩に助けられた時と似ている。
あの時は実害がなかったら「恨んでないですよ」と綺麗に言えたけれど、今は全然そんな気持ちになれない。とても恨みがましい。今すぐ助けてほしい。
(この場にいるのがフロイド先輩じゃなくてリドル先輩だったらよかったのに。)
リドル先輩のかっこいいあの王子様然とした出来事を思い出す。
もしもこの場にいてくれたらきっと助けてくれるのに、つくづく世の中は私にとって都合が悪くできている。
けれどあの出来事といえば───あるものを手に入れていたことも連動して思い出した。
(あのチケットを使ったら助けてもらえるのだろうか。)
天才肌なのに超絶気分屋フロイド先輩の気分に関係なく助けてもらえる夢のチケット。
もらって以来、なんだかんだで使うことなく今もポケットにあるあの券のことを思い出す。
いや、まったく身に覚えがないのにフロイド先輩が勝手に毟っていく事は何回かあったので今はもう最後の一枚なのだが。
「俺のこと覚えてるよな?フロイド・・お前に折られた鼻がまだ痛むんだよ。」
「そんなことしたっけ?たくさん折ってるから分かんねー。」
まるで今まで花を手折った回数を数えた事がないように、人体の鼻を折った回数は分からないと朗らかに笑ってみせる。
先輩達が悪徳商人だって事は分かり切っているしあのイソギンチャク事件を経てもなお懲りずに暗い商売をしている事は分かっていたが、事実として突き付けられると恐ろしい。
今更ながら何で私みたいな凡人がこの人魚達とつるんでいるんだろう。
秘密を握られているというのはもちろんだが、だからといってどうしてフロイド先輩達と一緒にいるのは苦じゃないんだろう────。
「チッまぁいい・・・・いいか?注文は、そこに、立って、俺達のサンドバッグになることだよ。」
「は?ヤに決まってんじゃんそんなの。」
「ハハッそりゃそうだ。」
瞬間、疑問に浸っていた頭が一瞬で真っ白になった。
頬に衝撃が走って勢いよく椅子の金具部分に鼻先をぶつけ、遅れてやってきた鈍い痛みと鼻から伝う熱い液体で自分が今殴られた事をやっと自覚した。
「あ・・・ぁ・・・・あれ・・・?」
唇を液体がゆっくりと横断していく不愉快な感覚に思わず鼻を抑える。
鼻に触れた布地がじわじわと濡れる不快感に手を離すと、ネクタイが真っ赤に染まっていた。
恐る恐る視線を落とせば、あの借りているオクタヴィネル寮服の気品ある紫のシャツと白のボウタイも血にまだらに染まっていた。あ、クリーニング、しなきゃ。
「~~~~~~~~~っ!!!」
突然何の非もない自分が暴力を振るわれたという事実を飲み込んでヒュっと息が止まった。
痛い、というよりも理不尽に対して恐ろしさやら怒りやら悲しいやらといった感情がごちゃまぜになって瞳から溢れてくる。赤い血が透明な涙で濁る。
「うわ、この程度で泣いちゃったの?男のくせにこの程度で泣くなよな~。」
「鼻血も出てだっせー顔。おい写真撮ってマジアカに流そうぜ。ほら、笑って笑って、監督生ちゃん?」
「や、やだ・・・・撮らないで・・・」
ただでさえ可愛くないツラなのに鼻血垂らして泣いてる無様な姿なんて写真に残されたくない!
写真を撮られるのを阻止したくても縛られた手ではままならない。銃口にように向けられたスマホのカメラに身が竦む。
泣いたら相手を喜ばせるだけだと分かっているのに、頬の痛みと恥ずかしさでどんどん涙が溢れてきた。こわい、だれか助けてほしい。
「・・・りどるせんぱい。」
あの人がこの場にいてくれたらよかったのに。きっと助けてくれるのに。
私の小さな悲鳴はこの情けない姿を笑う事に夢中で周囲の誰も拾っていないようだ。
不愉快なシャッター音と下卑た笑い声が響く中で唯一、この狂騒の場において全く笑っていないフロイド先輩が長い指でポケットを示す。
「使わねえの?それ。」
周囲の興奮を貫いて届く直線の問い。
熱狂した空気の中で人魚の瞳だけは永久凍土に冷え切って、混乱する私の心にぴしゃりと冷や水を浴びせる。
それというのはあのお助け券の事だろう───迷ったけれど小さく頷いた。
これを使えば確かに助けてくれるかもしれない、けれどそれは「私の代わりにフロイドに殴られてください」と言っているも同義だからだ。
自分を犠牲にしてでも相手を救いたいなんていう美しい感情じゃない。でも、使ってフロイド先輩が殴られるのを見るのはイヤな気分になるだろうなと思った。
(フロイド先輩は私のことなんかどうでもいいんだろうけど・・・私、あと何回殴られるのかな。)
アズール先輩かジェイド先輩、どちらかでも早く帰ってきてくれたらきっと事態は好転するのに。
さすがに同じ学園の生徒だから殺されたりはしないだろうけど、でも痛いのは怖いし恐ろしい。
そして今回も助けてもらえなかった事が情けなくて悲しくて項垂れる。
こんなところで働いてなんていなければよかった。先輩達と『仲が良い』なんて錯覚しなければよかった。この人魚に情なんて期待しなければよかった。
「はい、じゃあその情けない姿を全世界に発信・・・」
瞬間、目の前に向けられていたスマホが吹っ飛ぶ。
遥か後ろの床に何かが壊れる音がして、のろのろと顔を上げるとフロイド先輩が片足をあげた姿勢のままで静止していた。
どんな表情をしているのかはその長い足に隠されて伺い知ることはできないが、ぴりっと肌をひりつくような緊張感があった。
「お、俺のスマホ・・・・」
「てめっフロイド、こいつがどうなってもいいのか!?」
「っう・・・・・」
首が取れる勢いで強くボウタイを引かれて顔を上げさせられた。更なる暴力の予感に身を竦める。
「別に、手ェ出してもいーけど。」
ほらやっぱり。私のピンチだっていうのにフロイド先輩の返事は相変わらず素っ気ない。
やっぱあのチケット使ってやろうかという暗い感情が首をもたげる───が、続く言葉に息が止まる。
「でも手を出すごとにお前らの歯を1本折るからね。」
「は・・・・・、」
もう手を出されてるんですがそれは。
ゆっくりと緩慢な動作でフロイド先輩の長い足が下ろされて、露になった表情はこの流血の場にはそぐわない花が綻ぶような柔らかい笑み。
思わずこの場の毒気を抜くような笑顔だが、その言葉はこの場で発せられた中でも最も毒を孕んでいる。
「アー、だからもう一本は折るの決定だから・・・小エビちゃん、どの歯を折りたいか後で考えておいてねぇ。」
「─────、」
まるでクリスマスプレゼントには何がいいかと問いかけるような口調だが、そんな物騒な贈り物は誰も欲しがらないと思う。屋根の上に投げろとでもいうのか。
言葉と雰囲気に圧されたのを取り繕うように、別の生徒が大声をあげてフロイド先輩を棒で殴る。
間髪入れずに別の生徒が顔を殴って、何回か繰り返してからやっと被害者は血反吐と何かをぷっと吐き出した。
その赤い液体の中に浮いている白いものが歯だと気付いてさっと血の気が引く。言ったお前が歯を折られてどうするんだよ!
「・・・・・・ふ、ふろいど、先輩・・・」
拳が、足が、凶器が、フロイド先輩を覆い隠して無事なところなんて見えなかった。胸の悪くなるような殴打音が耳にこびりつく。
「やめて」「手を出さないで」とかかっこよく言えればいいのに、実際こんな目に遭うと息が詰まって声も出ない。
恐怖で頭が回らない。頬が痛む。どうすれば暴力をやめてもらえる?どうすればフロイド先輩を助けられる?どうすれば、どうすればどうすれば、私に何ができる?
「あはっ・・・・小エビちゃんが、オレのこと心配、してんの?ウケる。」
散々暴力をくわえられたにもかかわらずフロイド先輩の声色は普段とまるで変わらない。
どう考えても劣勢で激痛を感じている状況のはずなのに、まるで春の花畑に立っているような気安さは安堵よりも不安を与える。
私が感じた不穏さは周囲も感じ取っていたらしい、示し合わせたでもなく自然と止まった暴力の嵐の中でもフロイド先輩は倒れず立っている。
長い指が耳を塞ぎたくなるような嫌な音を立てて鼻を無理やり直す。とんでもなく痛いだろうに、滝のように流れる鼻血すら美しく口を吊り上げた。
───赤と紫に彩られた端正な顔に浮かぶその表情の凄絶さといったら、しばらくこの場の全員の悪夢に出てくるだろう。
「そういうのいーからさぁ。ほら、ちゃんとどの歯がいいかちゃんと考えた?」
「ッそういう、そういうところが!気味悪いんだよこの化け物が!!」
先程のような怒りとは違う、恐怖が爆発してフロイド先輩への容赦のない暴力が再開される。
誰か助けてほしいと周囲を見渡しても、いつの間にか他の店員は誰もいなかった。この事態に逃げ出してしまったのだろう。無理もない。
腕が動けないばかりに祈ることもできず、かといって止めることもできず、このまま永遠にこの一方的な暴力が続くのかとぞっとした時に変化は起こった。
「全く、食事処で埃を立てるなんてご両親はどういう教育をなさっているのか。」
店の入り口から聞き慣れたあの声がする。
全員の視線が向けられると、いつの間にか店の入り口から道を作るように左右に掃除道具を持った店員達がずらりと並んでいた。
まるでコロシアムの入場のような列の終点に立っていたのは、アズール先輩とジェイド先輩だった。
「な・・・いつの間に・・・まだ時間は・・・」
「無作法な連中が店に来ていると連絡を受けましてね。会議を早めに進行して終わらせてきました。」
こんな状況にも関わらず、まるで自宅に帰ってきたような気安い足取りでこちらへやってくる。
コートをなびかせながら人の間にできた道を通ってくる姿は、海を割った預言者のようであり王者の帰還のようでもあり───ただそれだけで相手を畏怖させる。
「っこっちに来るな!動くとこいつがどうなっても、」
「なぜ?ここは僕の店です。何故あなた方の許可の必要をとる必要があるんですか。」
従業員の列の間を抜けてきた支配人はこっちに来る───ちがう、カウンターの椅子に腰かけた。
付き従っていたジェイド先輩もまた、兄弟のピンチに一瞥をくれることもなくカウンターの中に入りポットを取り出す。
「ジェイド、お茶を淹れて下さい。ブランフォード社の欲望の8番でお願いします。」
「かしこまりました。」
優雅な仕事終わりの一杯を始めてしまいそうな雰囲気に、呆気にとられるこちらをよそにアズール先輩は電卓とノートを取り出す。
ジェイド先輩も疑問を挟むことなく後ろの棚から紅茶の缶をとって準備を始めた。え?この人達、状況分かってる?
「どうして、という顔をしていますね監督生さん。答えは簡単です。こういう事態には慣れているからですよ。」
「は・・・・・?」
「ええ、以前はもっと襲撃の頻度は多かったのですが、アズールの人気にも翳りが差しているようで寂しい限りですね。」
「何が寂しいものですか。ただの迷惑な営業妨害ですよ。」
アズール先輩の北海の流氷のように青く透き通った瞳が私を一瞥する。
鼻血と涙に汚れた顔を見て、涼やかな表情には不愉快な揺らぎが生まれる───きっと醜いと呆れたのだろう。恥ずかしくなってきた。
そして長い指が蜘蛛のように動き猛烈な勢いで電卓を叩き始め、ノートに何かを書き留めていく。
「ああ、それとフロイド。もう正当防衛の証拠は充分ですから後は好きにしていいですよ。」
「やっと?はぁーーーつかれた。」
「なにを、ぐべぇ!!?」
言うやいなや私を押さえつけていた男が椅子ごと一回転して吹っ飛んでいく。
片足を突き出した姿勢だったフロイド先輩がゆっくりと長い足を折りたたんで静かに下ろすところだった。
私はというとネクタイで縛られていた手を引かれていて巻き込まれずに済んでいた。
「痛い?小エビちゃん。もっと早くあのチケット使えばよかったのに、バカだねぇ。」
「えっ、あ、いや、ブサイクなんであんまり見ないでほしいんですけど・・・そ、それよりもフロイド先輩の方が、」
「ああこれ、おそろいだね。嬉しい?」
もう鼻血が固まりかかっている自分とは違い、無理やり直された鼻からは未だに新鮮な鼻血が伝い、完璧な造形の唇と顎を通って床に落ちていく。
「じっとしてね」と言ってテーブルの上に置かれていたコップの水を、手袋をした自分の手に垂らす。
そしてガラスに触れるかのようにそっと私の顔に触れて血と涙と鼻水を丁寧に拭っていく。清潔な白手袋が汚れていくのは場違いに背徳的だった。
もちろん、たかが一発殴られた私よりもフロイド先輩のがずっと重症だ。
色白の肌には赤と紫の気分の悪くなる殴打と切り傷が咲き乱れて異様な化粧になっている。けれど全く気にした様子もない。
気にせず私の顔を優しく拭いて、最後に濡れた手袋を外して私の腫れた頬に当てさせて満足そうにへらりと笑って見せた。
その間、場違いに過ぎる行動に困惑していた相手が気勢を取り戻すタイミングにぴしゃりと水を打つようにアズール先輩の声が響く。
「言っていませんでしたが僕のお店は防犯対策として監視カメラを設置しているんです。ほら、可哀想な従業員の暴力現場の写真もこの通りです。」
相変わらずこちらを一瞥もしない白銀の頭の代わりに、ジェイド先輩が片手を振ると写真の束が床に散らばる。
その内容までは私からは見えないが、言葉の通りなら暴力現場の写真が押さえられているのだろう。味方ながらおっかない。
「そして今は監視カメラの電源を切ってきました。この意味がお分かりですね?」
「・・・・!!!」
あまりにも鮮やかな手際と脅迫に呆気に取られていると、フロイド先輩はひょいと脇から持ち上げられて近くの椅子に下ろされる。
そして暴力に晒されて落ちていた自分の帽子を拾い上げて私の頭に乗せて指をぽきぽきと不吉な音で鳴らす。
「すぐ終わるから小エビちゃんはぁそこでイイ子に待っててねぇ。」
「え・・・・うそ、だってフロイド先輩大怪我してるし、さっきなんて歯、歯が・・・・」
「だいじょうぶ。人魚はすぐに生え変わるから。」
生え変わるからOKとかそういう問題か?まるで大丈夫に聞こえない返事を置いてゆっくりと歩きだす。
近くにあったカトラリーのナイフをとって手首のネクタイを切ろうと試みるも、上手く力が入らないしそもそも食事用ナイフでは切れ味が足りない。
無意味に手を動かしながら、視線はフロイド先輩の背中に追い縋る。駄目だ、いくら先輩が強くたってそんなボロボロの身体で戦うなんて、
「じぇ、ジェイド先輩、止めて下さい!フロイド先輩ボロボロなんです!!あ、アズール先輩も!!」
フロイド先輩が無造作に一歩踏み込むと、数で圧倒的に上回っている相手が、手負いの人魚を恐れるように一歩退く。
まるで檻の中の獰猛な肉食獣が解き放たれたような緊張感が場を包んでいた。いや実際そうだろう。味方であるはずの私も肌もぞわぞわと粟立つ。
「という事ですが僕も加わっても?」
「お前はやり過ぎるから駄目です。前回は後始末が大変だったんですから」
「おや、それは残念です───今日に限ってはフロイドが暴れるよりも僕の方がマシに終わると思いましたが。」
相変わらず緊迫したこちらとは真逆の日常のような会話をしている二人だが、ジェイド先輩が後ろ手に隠し持っていた何かを正面まで持ってきてぱっと放す。
隠し持っていたアイスピックが床とぶつかって硬質な音を奏でて転がった。迷いのない凶器の選択にさっと血の気が引く。
もしアズール先輩が止めなければどうなっていたのだろう。考えるのも恐ろしいが、いやそれよりマシに終われるはずがって?なにが?
「な、なぁアズール、俺は謝る、謝るし金も支払うから助けてくれよ、なぁ・・・」
フロイド先輩と対峙する恐怖に耐えられなくなった生徒がアズール先輩の背に縋るように呼びかける。
けれど鼠色のトレンチコートが掛けられた背中は、全ての命乞いを冷たく拒絶していた。
「残念ながら僕は店の修繕費と精神的苦痛の慰謝料その他もろもろの賠償額を計算するのに忙しいので。」
そう言いながらアズール先輩は電卓で猛烈に何かを計算しながらノートにペンを走らせていく。
あの人魚達はこの状況下にも関わらず、加勢しないどころかまさかの終わった後の請求金額を計算しているらしい。嘘でしょ。
「じゃ~ぁ、始めよっかぁ。」
まるでこれから散歩にでもでかけるような気安い口調で、フロイド先輩が無造作に一歩踏み込んだ───瞬間足が霞んで相手が吹っ飛ぶ。
相手が盛大な音と共に椅子に突っ込んだのを合図に、硬直が解けたようにみんな一斉にフロイド先輩に殺到する。
まるで踊るような足取りで包囲から抜けて、拳を振り下ろした状態のままの獣人の無防備な側頭部を容赦のない蹴りが襲った。
映画のように大袈裟にまた吹っ飛んでいくのを間を縫うように突き出された足刀を超反応で肘と膝で固め、聞いたことのない音と共に絶叫があがる。
それが人生で初めて聞く骨を折られた音だとは気付きたくなかった。縛られた手では耳を塞ぐことすらできない。
「ッなんだよ、なんでコイツこんなに強く・・・・・」
「意外と知られていないことですが、人魚は陸の生物よりもかなり力が強いんです。
生まれてからずっと海の中にいたので僕達自身も気付いていなかった事ですが、まぁ考えれば地上では水の抵抗なんてないので当たり前ですけどね。」
アズール先輩はこちらの狂騒に一瞥もくれることがなく、優雅に紅茶を嗜みながら電卓を叩き続けている。
同じ空間にいるはずなのにまるで別世界のような振る舞いに現状を忘れかけるが、近くからは絶え間ない悲鳴と殴打音が聞こえる。こわ。
目線を戦場に戻すといつの間にか半分近い生徒が地面に倒れていた。
鼻歌交じりにフロイド先輩が繰り出した蹴りを、先読みしていた相手が片腕を上げて守る───更にその上を長い足が軌道変化して強襲する。
せっかくの防御をいとも簡単に突破されて倒れ込む敵を乗り越えて、肥満体の生徒が猛然と突進してくる。
対するフロイド先輩は右にも左にも避けなかった。
躊躇いなく、まるで剣を振り下ろすように自分の頭を相手の顔面に叩きつけて、嫌な音と共に大きな体が止まってゆっくりと仰向けに倒れた。
目、鼻、口、個々の顔を形作る全てのパーツが無残に潰れて血が噴き出るのを見てぞっと背筋が冷たくなる。
(なんか、こっちが悪役みたいだな・・・・)
直前までフロイド先輩が一方的に殴られているのを見たくせに、こうも一方的な逆転劇を見せつけられるとそんな疑念が生まれてしまう。
相手が振りかざした拳を下ろすよりも早く、長い足が跳ねあがり敵の顎裏まで見えるような見事な蹴り。
しかしすぐさまその上がった足が瞬時に反転して無慈悲な半月を描いて再び相手の頭を追撃して容赦なく地に縫い留めた。
床にめり込んだ頭は持ち上げられることなく、腕は人形のようにだらりと地面に垂れる。起き上がる気配はない。
まだ状況が終わっていないのにもう助かった気分で力を抜くと、その弛緩しきった感情に氷を投げ込むように背後から口を塞がれる。
「っ!!!!」
「あっ小エビちゃん、」
最初に私を人質に取った男がもう一度私を背後から拘束していた。
犬歯を剥きだして口の端から涎を垂らしながらもフロイド先輩を睨み、そして私を奥の倉庫へと引き摺って行く。
なんとか足で踏ん張ろうとしても男の人の力の前ではあまりにも無力だった。
(フロイド先輩・・・!!)
最後に一瞬だけあのオッドアイと目線が合うが、すぐにドアが乱暴に閉められて薄暗い闇の中に囚われてしまった。
「くそっくそっなんだあいつ、なんだあの魚野郎・・・」
「・・・・・・・」
抵抗するも虚しく、両手に加えて足首と口までも強く布で縛られて転がされては芋虫のように身をよじるしかない。
未だ名も知らない相手はさっきまでの余裕は吹き飛んで手にはマジカルペンが握られている。
さっきまでは一応魔法を使わないという学園のルールに従うつもりがあったようだが、もうなりふり構っていられないらしい。
扉の向こうを警戒する目は血走っていて、分かりやすく正気が吹き飛んでいた。尋常でない様子にぞっと背筋に冷たいものが伝っていく。
(どうしよう・・・やばい、殺されるかもしれない・・・・・)
不本意ながらも学園内での大事件に大体は関わってきたが、ここまで間近に狂気が迫ったのは初めてだ。
オーバーブロットという暴走状態との対峙とはまた違う恐怖がここにはある。何が起こるか分からない。どうすればいい?
「・・・・・・?」
混乱と恐怖で沸騰しそうになる頭の中に、微かに音が響いた気がして思考を止める。
こんな緊迫した状況には不釣り合いなほど優しく、耳から染み込む音の羅列───歌声。
その声がフロイド先輩だと私達が同時に気付いた時、私の身体は祭壇の供物のように台の上に横たえられた。
そして生徒がマジカルペンを片手に入り口のすぐ傍へ張り付く。私を囮にしてフロイド先輩を襲うつもりなんだ!
「むぐーーー!!!!」
「黙ってろ!ッくそ・・・なんだこの歌、気持ち悪ぃ・・頭に・・響く・・・クソっクソっ」
優しい歌声が近付くにつれて扉の内側に張り付いた生徒の顔色はみるみる悪くなっていく。
私はというと逆にこの旋律に宥められるように頭の中が落ち着いてきていた。言葉が分からないのにそれが子守唄だと何故か分かったのは不思議だった。
言語化できない不思議な音で紡がれ続けていた歌声が開け放たれたままの入り口で止まり、声の主がにっこり笑う。
「やっと見つけたぁ小エビちゃん。だいじょうぶ?ケガない?」
「・・・!!!・・・・・!!!!!」
無力なお姫様のごとく身をよじる私を解放しようと、鼻歌交じりに入ってきた救世主が手を伸ばす。
その無防備な背中をめがけて振り下ろされるマジカルペンから魔法が放たれる、よりも早くまるで予定調和のようにフロイド先輩の長い足が吸い込まれていく。
そして壁に嫌な音と凶器が落ちる音が同時に響き、そして手元が霞みあの嫌な骨を折るような音に身を竦める。
「ぐぁ・・・・!!」
私が見たのは腹に拳をぶち込むフロイド先輩の後ろ姿だったが、相手の顔面は鼻を中心に無残にめり込んでいて鼻血が溢れていた。きっと鼻の骨が折られる程度ではない、粉々だ。
力なく沈んでいく相手をぱっと手放して、こちらを振り向いて子供みたいに笑うと跳ねるようにこちらへとやってくる。
「そーやって縛られて丸まってるとますます小エビちゃんみたいだね。」
「ぶはっ・・・・い、言ってる場合か!!」
唾液にまみれた布をフロイド先輩の長い指が掻き出して呼吸に喘ぐ。そしてその指が手首のネクタイの拘束を外しにかかった。
固く結ばれたそれにしばらく格闘していたが、面倒になったのか落ちていた刃物で雑にネクタイを切り、同じく足も自由になる。
「た、助けてくれてありがとうございます。」
「うん。どうだった?」
「どうって・・?」
「金魚ちゃんみたいだった?」
何故ここでリドル先輩の名前が?何もかもが似てるとは到底思えないが。
頭を疑問符でいっぱいにしながらもとりあえず頷くと、にこーっと満足そうに人魚が笑った。
この気まぐれな人魚の琴線に何が触れたのか全く分からないが、とりあえず神妙な顔で頷いておこう。
「あの、何でわかったんですか?入り口に人が隠れてるって・・・」
「ん~・・・そこだけ音の反射が変だったから。なんだっけ、陸っぽくに言うとソナー・・・・だったっけ。
まぁ説明めんどくせーから詳しくはアズールかジェイドにもで聞いて。」
「はぁ・・・・・。」
ソナーという言葉の意味は、以前ジェイド先輩から水中のフロイド先輩を呼ぶときに使ったあの石で説明を受けたから何となく分かる。
つまり、さっきの歌声は優しいものなんかじゃなくて人魚なりの索敵だった訳だ。無邪気に綺麗だと思った自分の純情を返してほしい。
「ところでさぁ小エビちゃん。ちゃーんとどの歯がいいか決めといてくれた?」
「何が・・・・っ、」
見れば、うつ伏せになった男の上に座るフロイド先輩が、相手の口の両端に指を入れて無理やり大きく開かせている。
意図せず笑顔にさせられた相手の表情には恐怖。開けられた口からは嚥下することもままならない涎が床へと垂れていた。
「オレのオススメはぁ・・・前歯かな。一番目立つから。なくなって困らせたいってんなら奥歯だよ。」
約束通り好きなのを選んでいいよ、と朗らかに告げる人魚の笑顔には既視感がある。
ああそうだ、これは虫の羽根をむしる無邪気な少年の笑みだ。
悪意のない狂気に呑み込まれそうになりながら考える。相手の事ではなく、自分の保身を考える。考える───考えた。
「・・・・いいえ、先輩、要りません。」
「え~~~?こんな目に遭わされたのに許しちゃうの?小エビちゃんは優しいねぇ。」
「違います。」
震えそうになる足を動かして二人の前まで歩く。強制的に声も出せずくぐもった悲鳴をあげる男の顔をじっと見つめた。
さっきまでの加虐的な笑みはすっかり身を潜めて、小動物のように怯え縮こまっている。さっきとは立場が別だなと他人事のように思った。
「っ!!!」
渾身の力を込めて相手の顎を蹴り飛ばし、その勢いで足がよろけて地面に座り込む。
素人の、しかも喧嘩慣れしていない私の蹴りではわずかに顎が赤くなっただけ。
攻撃を読んで避難させていたフロイド先輩の長い指が所在なさげに空を彷徨い、私は頑張って顔のパーツを動かして笑みを作る。
「これで、いいです。ちゃんと、私が、やり返したので。」
「・・・・・あは。」
私の返事に満足そうに人魚が笑った瞬間、大きな音と共に男の顔が床にめり込む。
完全に気絶して動きが止まった男を無造作に爪先で転がして、床にできた血だまりを相手の制服で雑に拭った。
潔癖ではなく、店を汚してアズール先輩を怒らせるのが嫌なのだろう。
(それにしても、凄かったなフロイド先輩・・・・)
この騒ぎですっかり置いてけぼりになっていた頬の痛みをさすりながら、さっきまでの嵐のような暴力を思い出す。
一方的にリンチを受けたフロイド先輩も満身創痍だけど、相手の方が被害が大きいだろう。そしてそれに更に金銭的に追い打ちがかかるわけだが。
やっぱりこの店で働くのは、この人達とつるむのは考え直せないものかと頭を悩ませていると、フロイド先輩の傷だらけの顔が目につく。
さっき自分がされた事を思い出して、周囲を見渡す───あった。自分の手袋を脱いでペットボトルの蓋を捻って水に浸して、フロイド先輩に渡した。
「小エビちゃんがやって。」
「えっ?・・・っとと、」
子供を持ち上げるように再び脇に手を差し入れられて、台の上に座らされる。
流石にこの高さになればフロイド先輩の長身を見下ろす事も出来て、「ん」と促すように目を閉じて差し出された顔に心臓が跳ねた。
この人魚ほどの美形ともなればどんなに負傷していても綺麗で少し羨ましい、なんて場違いな感想を持ちながら恐る恐るその顔を拭う。
(まるで泥遊びで遊び疲れた子供みたいだ)
実際に拭っているのは泥ではなく血なので物騒度は段違いなのだが。
さっきまでの恐ろしい暴力を思い出して震えそうになる指を抑えながら、けれどさっき自分がされた事をなぞるように血を拭っていく。
「小エビちゃん、オレらのこと怖くなっちゃった?」
「・・・・・そりゃ、怖いに決まってますよ。」
目を閉じたまま放たれた問いにどんな感情が込められているのか少し分かりにくい。
反射的に素直に返してしまったが、けれど真面目に考えてみる。そりゃ怖いに決まっている、決まっているが───決まっているのなら何で逃げずにこの人の顔を拭っているのだろう。
フロイド先輩達と私はきっと、合わない。
どこまでも平凡な弱い人間である自分と、人外の価値観を持つ人強い魚達。
いいやそういうものを抜きにしても、例え同じ種族だとしても同じ世界に生まれていたとしても、きっと私達は合わないのだろう。どこまでも平行線の生き物だ。
「でも、怖くても一緒にいようかなと思うんだから自分でもよくわかんないです。」
「そこはウソでも『怖くないです』って言っておけばいーのに。小エビちゃんってほんとバカだよねぇ。」
まぁいいかぁ、と妥協の言葉とは裏腹に目を閉じたままの人魚の口の端が上がる。
さっきの歪んだ半月とは違う、柔らかい曲線に私の唇も釣られて同じカーブを描いた。
「ほら、お前らの血なんだから動けるやつは自分で拭けよな。」
「この照明の予備ってまだあったっけ?これヒビ入ってるんだけど。」
「あーあ、オレ今日バイト交代しなきゃよかった。アイツ運良いよなぁ。」
狂騒も終わり視線の先では、支配人の指示がなくてもオクタヴィネル生が手慣れた様子で掃除をしているのが見える。
殴られた生徒も容赦なくこき使われて掃除をさせられているらしい。あの様子だと明日には何事もなく営業を再開しているのだろう。
アズール先輩達が悪目立ちしているけれど、こういう状況でも平然としている寮生を見るとこの学園の気質を感じた。
「こちらの紅茶をどうぞ。カフェインレスで強い鎮静作用がありますから落ち着きますよ。」
「ありがとうございます。頂きます。」
出された紅茶の杯を口元に近付けると豊潤な香りが鼻先に広がりほっと溜息をつく。
更に口を付けると美味しくて心の底から安堵した。温かさが食道を通ってやがて全身へ広がっていく。ああ、落ち着いた。
「さて、監督生さん。」
私はというとカウンター内にいるジェイド先輩と向かい合って、左右にアズール先輩とフロイド先輩が座っている。
あんなに暴虐の限りを尽くしたウツボの人魚は、まるで陽だまりにいる猫のようにだらけていた。
「何ですか、アズール先輩。」
「じっとして。」
アズール先輩の声にカウンターの椅子に座っていた向きを横に直すと、白銀の輝くを放つマジカルペンを胸元に軽く押し当てられた。
そしてそっと引っ張るとスルスルと帯のように茶色いものが服から引っ張り出されて、近くの水が入ったコップの縁を魔法石で軽く叩く。
一体何事かと見下ろしてみると、あの鼻血で汚れていた服は綺麗になっていた───ということはあの茶色いのは私の血か。
「アズールー、ねぇオレにはぁ?」
「洗浄魔法くらい自分でやりなさい。ジェイド。」
「はい。───では監督生さん、失礼しても?」
「は、はい。」
ジェイド先輩の長い指がそっと柔らかく私の顔に触れて、慎重に殴られた頬に触れる。
長い睫毛で縁取られた瞳が観察するように頬を、正確には殴打されて腫れあがった部分を見つめていた。
「この程度なら痕にはならないでしょう。コンシーラーとファンデーションで誤魔化せるかと。」
「───そうですか。なら、よかった。監督生さん、明日からしばらく朝にジェイドをオンボロ寮に向かわせます。
フロイドはともかく、あなたが顔の怪我をしていると目立ちますから。いいですね?」
「ありがとうございます・・・でも、対価は?」
「対価?」
女子としても、グリム達に心配をかけない為にも、顔の怪我を隠してくれるのはありがたい。
けれどこの人達が無償の施しとは対岸にいる存在だという事を忘れてはならない。
一体何を請求されるのだろう、と縮こまる私にアズール先輩は大袈裟に溜息をついてみせた。
「むしろ逆です。あなたは僕に何を望みますか?」
「何を・・・望む・・・?」
自分が予想していたのは戸は正反対の意外な言葉に目を見開く。一体何の冗談だろう。
本気で理解不能という私の顔を見て、気品のある顔に嵌る青玉が呆れた色を帯びた。
「ええ、僕の店の従業員であるあなたが怪我をした。僕にはその責任をとる義務があり、あなたには請求する権利がある。
ですから、一つ。願いをなんなりと───この僕の決定には、誰であろうと従わせます。」
芝居がかった仕草で下されたオクタヴィネル寮長の宣言には絶対的な響きがあった。
眼鏡越しの瞳がちらりと左右に動いてやっと気付く。ああそうか、このバイトを辞めてもいいと言ってくれているんだ。
迷う。これは絶好のチャンスだ。
この人達と一緒にいなければ、私はもうちょっと穏やかな学園生活を送れるんじゃないかとか。
頬は未だに痛むしもうこんな怖い思いはしたくないとか、良い機会じゃないかとか、色々。
「・・・殴られて、痛くて、気分が落ち込んでいるので、おいしいものが食べたいです。」
「は?それでよろしいのですか?」
今度は私の言葉に予想外とアズール先輩が目を剥く番だった。
ジェイド先輩も端正な顔に驚きを浮かべて、あの綺麗な瞳をぱちぱちと瞬かせている。
「私達って、私が例えこの世界の生まれていても、逆に先輩達が人魚じゃなくて人間で私の世界にいたとしても。
きっと普通に生きていたら会うこともなかったんでしょうね。」
私の言葉に同意するようにアズール先輩が瞑目し、ジェイド先輩は目を伏せ。フロイド先輩の表情は見えない。
でも偶然と奇縁が私達を出会わせた。
そして私の秘密を握られて、それを枷に繋ぎ止められた経緯は不実なもの。
この人魚達相手に逃げようと思って逃げられる相手でもないというのは確かな話だ。
しかし逃げずとも距離をとることはできたはず、なのに今はその顔に触れる距離にいる───自分の意志で触れている。
そうだ、怖いから距離をとりたいのに同時にそれ以上に惹かれて引き寄せられているのだ、私が。自分から。
「またこういう目に遭ったら、その時は絶対にバイト辞めますけど!でもそれまでは、いいです。このバイトもイヤな事ばかりじゃないので。」
「───そうですか。あなたがそう言うならそれでいいのでしょう。」
ふっと艶黒子のある唇に柔らかい笑みを浮かべて支配人が了承する。
「ちなみにアズール、オレにはないの?」
「ありません。お前は暴れすぎです。これでは損害賠償と治療費でトントンですよ。」
「ハァーーーー?オレも痛かったんだけど!つーかジェイドみたいにマジカルペンで相手の片目潰したワケじゃねーじゃん。」
「片目を・・・潰す・・・・?」
冗談だと思いたいが、頭には先程躊躇いなくアイスピックを持ち出していた事が頭に蘇る。
思わずジェイド先輩の胸元に刺さっているマジカルペンを見つめてしまう。
が、「ああ僕のじゃないですよ。汚れますからね」と邪悪な笑みと共に返ってきたので何も言えなくなった。人魚、こわい。
「・・・あの、すみません、やっぱりこのバイト辞め、」
「じゃあオレが料理作ってあげる。そこ座っててね。」
「待って、行かないで速やかに契約を履行しようとしないで・・・!!」
「まぁまぁ紅茶のお代わりならいくらでもありますから。」
「いくらでもじゃないだろ、その茶葉がいくらすると思ってるんだまったく・・」
やっぱり絶好の機会を逃してしまったんじゃないかと静かに暴れる私をジェイド先輩がやんわりと抑え、アズール先輩もそれを止めようとしない。
そうこうしている内にフロイド先輩は上機嫌に店の奥へと消えてしまった。ああ、脱出の切符が。
切符といえば、あのフロイド先輩にもらったチケットは未だポケットの中のままだ。
このチケットを手に入れるきっかけになった事件、そしてリドル先輩の事が頭を過ぎる。
(フロイド先輩は白馬の王子様とは程遠いし、この人魚達はどっちかというと悪役の方がずっと似合うんだろうな。)
ハンサムだけど物騒な王子様なんて、お姫様からすれば願い下げだろう。
しかも本来はチケットの回数制限付きでしか助けてくれないなんて、むしろ王子様選考会失格に決まっている。
けれど私はお姫様ではなくただのモブなので。
(まぁ、いいか。)
その後出てきたフロイド先輩作のとびっきり美味しい料理を食べて手打ちとしてしまった。
───お姫様も王子様も不在の、モブと怪物の物語のオチなんてこんなものなのだろう。
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あとがき。
「お互いの性癖を5つ挙げて交換して作品をかこう」企画で書かせて頂きました。
内容は
・顔を殴られて歯と血反吐を吐き出す
・鼻を折られて素手で無理矢理元の位置に戻す
・敵をわざと隠れやすい場所に追い込み、そこから安心して出てくるまでじっと待つ
・子守歌のような優しい歌を歌いながらご機嫌に暴力を振るう
・「オレ人間じゃないから〇〇なんだよね」と自分が人外であることを都合よく使う(別に人外とか人間とか関係ない内容だとなおよし)
をアレンジOKとの事なので改変しながら書きました。たくさん暴力描写を書けて楽しかったです。
2020年10月17日執筆 八坂潤