オクタヴィネル寮の敷地内にあるモストロ・ラウンジ内の海面出入口。
そのまま海に繋がっているプールサイドの縁に座って足先をそっと浸すと、爪先からひんやりと体温が冷えていく感覚に深い息を吐いた。
頭を打たないようにゆっくり背中を倒す。固いけれど冷たい床が身体の熱を心地よい涼しさに変えていってくれる。

仰向けになると天井にずらりと並ぶ照明に目を灼かれて閉じた。今日は落ちてくる気配もない。
寄せては返す波の音が天然のヒーリングミュージックとなって暗闇の世界に染み込んでいく。ああ、気持ちがいい。


「すずしい・・・・」


ナイトレイブンカレッジ内の空調は魔法で完璧に整えられている。有難いことにこれは施設が古いオンボロ寮も例外ではない。
おかげで普段は寒暖の不便さなんて感じないのだけれど、たまにはこうやってアナログな方法で涼をとるのも悪くない。あとは床が柔らかければ完璧だ。


「どうですか?涼しいでしょう。」


伸ばした足先から聞こえた声に半身を起こすと、人魚の姿に戻ったジェイド先輩がプールサイドの縁に頬杖をついてこちらを見ていた。
綺麗な海色の髪に、海底に沈んだ財宝のように深く輝く黄金とオリーブの実のように深い緑の瞳が嵌った美貌はいつもと変わらない。
けれどその肌の色は美白を通り越して色素が薄く、本来耳のある場所には魚のヒレが生え、もっと言えば腕の皮膚は比喩ではなく青い。
かつて自分を追い回した恐ろしい人魚の姿。元の世界では絶対に見ることがない人間とはかけ離れた異形の姿。けれど今はそれを恐ろしいとは思わない。むしろ綺麗だと思う。


「はい、とっても。お店で涼ませてくれてありがとうございます。気持ちが良いです。」

「いいえ、僕が貴方と一緒に居たいだけの口実ですから。」

「エッ、あ、その、あ、ありがとうございます・・・」


玲瓏な美少年の顔でそんな事を言われて喜ばない女はいるだろうか。いや、そんなにいないだろう。ましてやその言葉の主が恋人ならばなおさらだ。
自分みたいな平凡な人間とこの美貌の人魚が付き合っているのはつくづく不思議な話だけども。

ジェイド先輩が私の足の横の床を爪でカリカリと引っ掻きながら物憂げに溜息をついてみせる。


「アズールがいれば魔法薬で一緒に海に潜る事ができたのに、あいにく不在で残念です。」

「確かに残念ですね・・・まぁそれは次の機会にしましょう。」

「ええ、絶対です。」


そう言ってから、無意識に少し唇を尖らせてみせるこの年上の人魚は可愛いと思う。
エースやデュース達はイソギンチャク事件の印象が強いのか恐れ慄いているけれど、まぁ私もこの姿だけが真実ではないことくらい分かっているけれど、でもそう感じてしまうのは恋人の惚気だろう。

そんな事をつらつらと考えていると私の左頬に濡れた何かが触れる感触がした。
見るとジェイド先輩がクスクスと笑いながら手を伸ばしていて、頬から顎に向けてそっと爪先が柔らかくなぞっていく。
もちろんその指と指の間には人間には備わっていない水棲動物特有の水掻きが薄く張っていて、触れる爪も私とは違って猛獣のように鋭い。

楽しそうな恋人の様子にしばらく好きにさせていると、その美貌に満足げな笑みを浮かべて見せた。何かがお気に召したらしい。


「―――ああ、貴方は本当にいじらしくて可愛いですね。」

「・・・・・・・そうかなぁ。」


道行く人に自分が可愛いかと聞いても100人が微妙な顔をしそうな私に対し、100人から美を肯定されるであろうこの人魚は度々こんな事を言う。
普通に考えて恋人フィルターがかかってるとしか思えないが、それにしても水面に揺らぎながら映る顔はいつも通り地味で冴えない。
オチもなく本気でそう言ってそうなジェイド先輩に居た堪れなくなって、「そうだ」とわざとらしい声をあげた。


「そういえばですね、今日は良いことがあったんですよ!」

「それはぜひ。聞かせて下さい。」


暖炉の前でおとぎ話をせがむ子供のように長い腕で両肘をついて私の顔を見上げる。
今思い出しても頬が緩む『良いこと』の話を恋人に話した。


「今日はですね、ハーツラビュル寮のハリネズミの世話のお手伝いをしに行ったんですけれど。なんと、やっと針を立てられずに抱っこさせてもらう事ができたんです・・・!」

その出来事を思い出すと薔薇色の感情で胸がいっぱいになる。こんな気持ちになるのはグリムが私に肉球を許してくれた時以来だと言ってもいい。

エースの見よう見まねで拙い動物言語を駆使し、度重なる愛情を込めた世話とオヤツという賄賂でやっと一匹だけ私の手に自ら乗ってきてくれたのだ。
いつ針を立てて痛い思いをするのかとドキドキしながらも慎重に背中を撫でさせてもらった感動は一生忘れないだろう。
警戒心が強い動物だから仕方がないとはいえ、針を立てられずに抱くエースのどや顔にはいつも歯軋りしてきたものだ。デュースは未だに針を立てられてるけれど。

ハリネズミへの愛と触れた喜びを熱っぽく語る私に反し、人魚はつまらなそうに遠くの尾をぱしゃりと水面に跳ねさせただけ。なんでだ。


「なんだ、そんな事ですか。」

「そんな事って・・・。」


全く理解できないというような無感情な声色。陸よりも弱肉強食でおっかないという噂の海底の住人にはこの高揚感はいまいち理解ができないのだろうか。
そもそも海って魚しかいないのだから人魚にペットという概念があるかどうかも怪しいし、興味がある。が、それよりも今はどうにかしてこの感動を共有したい。

魔法史の授業よりも真剣に頭を捻りながら、住んでいた世界も常識も種族も違う恋人にも分かるように言葉を尽くす。


「だって、ハリネズミはいつでも私を刺して傷付けることができたのに、そうしないでくれたんですよ。」

「その程度ですか?そもそも弱者が強者に従うのは当然でしょう。ハリネズミさんは人間であり餌を与える側の貴方に従って分を弁えただけです。」

「そうかもしれないけど、そうじゃなくてぇ・・・・・。」


まぁ実際その通りかもしれない気がしてきたけど、いやいやそれなら未だにデュースが刺されてる理由に説明がつかないし、そうじゃないと思いたい。

自分の否定の言葉に分かりやすく揺れる私に気分が良いのか、不揃いの色の瞳が意地悪そうに細められる。強者の余裕だ。
人間は陸の上では最強の生物とされているけれど、きっと海の中では人魚こそが最強の生物なのだろう。ましてやこの物騒な肉食魚であれば。

「・・・確かに些細なことかもしれませんが、でも相手からの親愛というか・・・何て言えばいいのかな。
 言葉が通じないのに私は傷付けないって信じてくれて、そして傷付けないように気を遣ってくれたと思うと、こう、いじらしくてすごく胸がキュンと来るというか・・・。
 人魚がペットを飼うのはわからないですが、ジェイド先輩はそういう感情を抱いた事はないんですか?」

「・・・・・・・・・・。」


端正な顔に嵌る対の宝石が物事を思考する哲学者のように伏せられた。長い睫毛が血色の悪い頬に薄い影を伸ばす。
これで反応が悪かったらもうこの話はやめよう。ちょっと寂しいけれどこれも種族差、いや個人差がある。感動を押し付けても意味はない。


「―――なるほど、それは覚えのある感情です。」

「エッうそ、分かってもらえましたか!?そう、そうなんですよ!!あー今思い出しても胸がキュンときます・・・。」


諦めかけていた、まさかの恋人からの同意にぶわっと心の中に花が開くような喜びを覚える。
やっぱり言い方は悪いけれど自分よりも弱い別の種族からの特別の信頼を寄せられる喜びというのは人魚のジェイド先輩にも伝わったようだ。


「あのビーズのようにつぶらな瞳に見上げられて腹を見せるハリネズミ、一生胸に刻んでいきたいなぁ。」


この調子で心を込めてお世話すればいずれは他のハリネズミも心を許してくれるかもしれない。
欲を言えばあの色とりどりのフラミンゴからも懐かれてみたい。動物園の檻越しにしか見れないあの美しい羽根を触らせてもらいたい。
そう思うと、ハーツラビュル寮のお手伝いをもっと増やしてもいいと思ってしまうくらいだ。私って単純!でもなつきにくい動物の自分になつくコマンド最高!!


「では、どうぞ。」

「へっ?」


デレデレと頬を押さえる私に何を思ったのか、それまで頬杖をついて私を見上げていたジェイド先輩が傍らの床の上にごろりと転がった。
粘度を帯びて光る腹を無防備に晒して両腕をだらりと横に開放する姿はまるでまな板の上の魚のようで―――恋人に食材を連想してしまった自分の内心にドキリとしながら問いかける。


「えっと・・・何がどうぞなんですかコレ。」

「そう遠慮なさらないで。自由に人魚に触れられるチャンスですよ。異世界ではまだ人魚に会った事がないんでしょう。」

「ああ、そういう・・・まだないっていうか・・・まぁいいか。」


『まだ』ないのではなく『一生』ない、の間違いだがそれを口にするのはさすがに憚られる。
自分達が異世界ではただのおとぎ話で実在してないなんて、言われても楽しい気分にはならないだろう。
私だってこのツイステッドワンダーランドに普通の人類がいたからよかったようなものを、既に滅んでるだのそもそも存在しないだの言われたら想像するだけで辛い。うわ、心が折れそう。


(人魚といえば・・・分かりやすく違うのはやっぱり尾びれかな。)


本来足があるべき場所には代わりに長い魚の尾が生えていて、私の視線に応えるようにぱしゃりと水音を立てて水面からその先を覗かせる。


「せっかくなので尾びれを触らせてもらっても?」

「どうぞ。」


水音を跳ねさせながら長い魚の尾が私の手元にまでやってきて、手を伸ばすとぐるりと巻き付かれる。
海底に居た時は無類の泳ぐ速さに絶望させられたものだが、改めて眺める尾びれはレースのように細かいヒレに縁取られて優美な曲線を描いていた。
人魚達は人間の足を二本の尾びれと例えるけれど、こうして元々一本で長年過ごしてきたものを今は不自由なく動かしているのだから、その並々ならぬ努力を伺わせる。私には無理だろうな。


「当然だけど、重い、というか、すっごい筋肉質・・・」

「ふふ、貴方の腕くらいなら簡単にへし折れますよ。」

「こわ・・・」


無邪気に遊ばせていた腕を引っこ抜くと、支えを失った尾びれが水面に落ちる。残念、と含み笑いの声が聞こえて顔を顰めた。
気を取り直して他にどんなところを触らせてもらおうかと爪先から長いびれの先までじっと観察する。


(人魚、人魚かぁ・・・普段は人間の姿だからピンとこないけど、こうして改めて見てみると本当に綺麗だなぁ。)


比喩ではなく青と白の滑らかな肌に逞しく割れた腹筋、その脇には呼吸に合わせて僅かに開閉する人ならざるエラがあってごくりと唾を飲む。そうだ、人魚は肺呼吸ではなくエラ呼吸なのだ。
そして人間と大差のない作りの顔の美貌―――改めてこうして観察してみるとなんて綺麗な生き物なんだろう。中世の絵画に描かれる幻想の住人に相応しい。


「・・・・人魚が私の世界にいなくてよかった。」

「どうして?」


ぽつりと、心の中に浮かんだ感想がそのまま口をついて出た。
余計な事なんて言わなければよかった、と後悔するも美しい生き物は不思議そうにその理由を催促する。


「だって、こんなに綺麗な生き物がいたらみんなほっとかないですよ。酷い目に遭わされちゃう。」


私みたいな素人が考えるだけでも、水族館で見世物にされたり、研究所に捕まって酷い実験をされたり、あわよくば怪物として殺されてしまうかもしれない。
ずっと以前から共存していたとしてもあまり良い未来は想像できない。今まで読んできた空想の物語でさえ異種族と人間が良好な関係を抱いている方が少ない気がする。
異種族が当たり前に存在するこの世界にしたって、魔法史では種族間の差別や悲しい戦争に触れる事が多い。元の世界にもし人魚が実在したとしても、幻想はインクや映像越しに住まう位が安全で美しいのかもしれない。


「ジェイド先輩なんて特に放っておかれないでしょう。だって、こんなに綺麗なんだから。私と出会う事もなくきっと悪い金持ちに捕まって閉じ込められそう。」

「そう言ってもらえると光栄です。―――まぁ、もしそうなった場合は相手の喉笛を食い千切ってでも逃げますがね。」

「こわ・・・・まぁそれ位の方がジェイド先輩らしくて安心します。」


誰もが手を伸ばさずにはいられない、気品さえ感じる美しい顔。その形の良い唇からは凶暴な牙が覗く―――相手を喰い殺すと豪語して見せた凶器の群れ。
きっと冗談でもなくこの人魚は本気でやるだろう。気を取り直して頬に触れると外見通りの滑らかな感触と低い体温が返ってくる。


(冷たい。この冷たさは・・・ちょっと例えが悪いけれど、冷蔵庫で冷やしておいた鶏肉みたい。)


先程まで水に潜っていたのもあるけれど、それにしても皮膚の奥から冷たい。これは生来のものなのだろう。
むしろ触っている人間側の体温が熱すぎないのか不安になるけれど、目を細めたまま身を任せてくれている。続けてもいいようだ。
海の中で追いかけられ事以外でも、水槽越しに眺めたこともその背に乗せてもらった事もあるけれど、物珍しさから指先を這わせる。


(もっとゼリーみたいな感触を想像してたけど、意外と固いというか・・・ああそうか、筋肉か。常に泳いで運動してるようなものだしね。)


比喩ではない魚の皮膚は滑らかでその下は筋肉質で固い。好奇心から指で軽く突いてみても沈み込まず、むしろ強く指先を押し返してくる。ううん、すごい。筋肉の塊だ。
氷の上を踊るフィギュアスケーターのように指を無心で滑らせていると、堪え切れなかったようにクスクスと小さな笑い声が聞こえた。


「すみません、まるで雌の身体を知らない稚魚のように触れてくるものですから、つい。」

「・・・・童貞臭い触り方ですみませんねえ・・・。」


どうせ色気とは程遠いですよ、と唇を尖らせてから次はその長い腕をとる。
腕には半透明のヒレが付いていてその先は意外に鋭い。不用意に引っ掻ければ人間の肌くらいなら簡単に裂けてしまいそう。
鋭い爪といい、半透明に透ける背びれといい、この腕といい、人魚と抱き合うのは注意が必要だ。・・・なんて考えてちょっと恥ずかしい。話題を変えよう。


「人魚の爪って鋭いですよね。不便はしてないんですか?」

「いいえ、むしろ獲物を掴んで離さないのに必要ですよ―――ほら見て、ここは少し返しになっているのでより深く相手の肉に喰い込むんです。
 ご存じの通り魚は素手で掴むとすぐぬるりと抜けてしまって大変ですから、むしろ必須でしょう。」

「ふぅん・・・なるほどなぁ。勉強になる・・・。」


物騒な会話を折り混ぜながらジェイド先輩の手を引き寄せて、肉食獣のように細く鋭利な爪を目と鼻の先でじっくり観察する。
確かに、この爪ならいとも簡単に獲物の肉に喰い込んで離さないだろう。人魚にマニキュアを塗る習慣はなさそうだな、なんてのんきな感想を抱いた。

水掻きの先は薄く透けて見え、すぐに裂けてしまいそうな印象を与えるが触ってみると不思議な弾力がある。
ぷにぷにと無心で触っているとまたしても人魚が笑った。いや、私でなくても人魚のいない世界の住人ならみんな似たような反応をすると思うのだけど。


「この手だと指輪を嵌めることなんて出来なさそうですね。」

「ええ。たまに海底に沈んだ船から指輪を拾う事はありましたが、ずっとどういう使い方をするのだろうと不思議に思ってました。
 まさか指に通すものだったとは、これも陸と海の文化の違いですね。ピアスも指輪も化粧も、陸の人間の美への貪欲さは興味深い。」


そういえば文化の違いといえば、指輪を嵌められない人魚の世界にもエンゲージリングのような概念があるのだろうか。
しかしそれを自分から聞くのはなんだか恥ずかしい気がするので口を噤む。恋人だから聞いてもいいとは思うのだけれど。

しばし羽毛が薄く降り積もるような沈黙。
その中で僅かに開閉するエラへと自然に視線が吸い寄せられる。水掻きやヒレと同じく、人間には絶対に備わっていないものだ。
私の子供のような好奇心に艶然と微笑んで、夜のベッドへ誘う娼婦のように艶めかしく身体を尾をくねらせる。長い指先は自らのエラを開いてみせた。


「ン・・・どうぞ、でも慎重に。そこはデリケートな部分なので。」

「そ、そうですよね・・・じゃあ触るのやめておきます。」

「いいえ、どうぞ。貴方になら触られても構いません。」

「・・・・・・すみません。じゃあ、少しだけ。」


自分だけは特別に、なんて言われて引き下がる人類もそんなにいないだろう。かくいう私もそうだ。

爪を立てないようにゆっくりとエラをなぞってみると、僅かに背を反らしながらも逃げずに自分に身を預けているのを見て思わず大袈裟に唾を飲んでしまった。なんかいやらしい事をしている気分になってしまう。
僅かに開閉するエラはジェイド先輩の上下する胸と連動していて、ああ今私はこの人の命を握っているんだと害する気持ちもないのにドキドキした。
もしも私が気まぐれを起こして塞いだり酷く扱ったりしたらさすがの先輩だって困るだろうに、けれどこうして触れる事も許してくれている。

相手からの信頼と親愛の証に分かりやすく頬が緩む。
温かいもので胸が満たされる心地に満足して、触っていた手を行儀よく膝の上に戻して深々と頭を下げた。


「ありがとうございました。えっと、苦しくはなかったですか?」

「ふふ、大丈夫です。優しく触って頂きましたから。―――それよりもこちらには触れなくていいのですか?」

「まだ触るところなんてありましたっけ?」


にっこりと笑って見せた人魚が大きく口を開けて見せる。
その口の中にお行儀よく並ぶのは研いだナイフのように三角に鋭い牙の群れ。食事と言うよりも相手を捕食するための刃。
ここは人間の時と変わらない姿なので珍しくもないが、しかし改めてまじまじと見つめると少し恐ろしいものがある。完治したはずの右の肩がチリリと痛んだ。


「く、口の中に手を突っ込むのはちょっと・・どう、なんですかね?」

「遠慮なさらないで。さぁ、どうぞ。」


こちらの返事を待つつもりもないようで、手を引かれてその鋭い歯にいきなり触らせられて身体が跳ねる。
相手を威嚇するためのお飾りではない本物の歯はぎらぎらと尖っていて、触れた指先は生温かい唾液の濡れた感触がした。
この大きく開いた口を正面から最期に見てしまった獲物は悲劇だろう。そういう事情を抜きにした私から見ても不安になる。


(なんか・・こういうの元の世界でもあったような・・手を突っ込んだら抜けなくなるやつ・・・・ええとそうだ、真実の口だ。)


伝承通り自分の指がこのままこの人魚に喰われる想像をしてしまい、そんな事はないと思いつつちょっと強引に手を引く。
すぐに手を抜いた私を少し不思議そうに眺めてから、人魚は長い舌を唇の端から端へとぺろりとなぞって妖しい笑みを浮かべた。
そういえばこの長くて肉厚な舌も人類の枠には収まらないなと、また一つ人魚と人間の違いを発見してしまった。


「どうでしたか?人魚の身体は。ご堪能いただけましたか?」

「えっと、その、すごかったです・・・ありがとうございました。」

「・・・・・・。」


私の無難な感想に、美貌の人魚は艶のある唇を不満気に尖らせてみせる。
普段は大人びた雰囲気の一つ年上の先輩の子供っぽい仕草に可愛いと思いつつも、はて返事を間違えたのかなと首を傾げた。


「そうでなく。貴方の言葉を借りるのなら、胸がキュンと来たりしませんでしたか?」

「胸が・・・キュンと・・・・・いや、別に?」


イマイチな私の返答にわずかに落胆の滲んだ溜息をついて、そして予告なく私の腹の上にぐっとのしかかってくる。
触れ合ったところから服がじわじわと水に濡れて肌に張り付くのを不快に感じながら見上げると、悪戯を思い付いた少女のような顔で見つめ返された。
息苦しいので降りて下さい、とは言いにくい雰囲気を汲んで大人しく相手のやりたいようにさせる事にする。ちょっと妖しい雰囲気にたじろぐけどここで始まる事はあるまい。ないよね?


「例えばこの爪。この爪であれば監督生さんの柔らかい肌なんて簡単に引き裂けます。」


呼吸に合わせて緩く上下しているであろう私の喉に、冷たくて硬い何かが押し当てられるような感触がしてごくりと唾を飲む。散々さっきまで触ってきたから分かる、人魚の爪だ。
しかし暗い想像に反して薄皮一枚傷付ける事もなく、包丁で魚の腹を開くようにゆっくりと鎖骨を通って胸の辺り、正確には心臓の上で止まる。
薄く上下する胸の動きに合わせて微かに動く先輩の指先を見て、調理される寸前の食材ってこんな気分なんだなと他人事のように考えていた。探るような金色の瞳と暗緑色の瞳がぱちりとかち合う。


「例えばこの牙も、貴方の喉笛に噛みつけば簡単に死ぬでしょう。」


北海の流氷の奥のように冴え冴えとした青い髪の頭が屈んで、喉の皮膚を牙でなぞっていく感触にぞぞぞと背筋から総毛立つ。
私の怯えた反応を楽しむようにくつくつと笑う声がしてちょっと腹が立った。誰のせいだと思ってるんだこの野郎、誰のせいだと。


「―――実際に噛まれた事ありますしね。運良く死にませんでしたけど。」

「あの時はしばらく口をきいてくれなくて困りました。」

「注射すら憂鬱な人間を突然噛んだりするからですよ。本当に痛かったし怖かったんだから。」


以前、この恋人に右肩に噛みつかれて血が止まらなくてパニックになった事がある。
ジェイド先輩にしてみれば戯れのつもりだったらしく、本気で泣いて怯える私に珍しく動揺してオロオロしていたのはちょっとだけいい気味だった。
その様子に余裕と正気を取り戻したら当然腹が立って、この人を散々蹴って殴って大暴れしたのちにしばらくの間は徹底的に避けて無視をした。私にしては大きな反逆だったと今でも思う。


「あの時は、あんなに怒られると思わなかったので。」

「いや普通に怒るに決まってるじゃないですか・・・どの層が喜ぶんですかあんな痛いの。次やったら絶対に許さないのでやらないで下さい。」

「ええ、貴方の慈悲の心に感謝しています。」

「ほんとかなぁ・・・・。」


無視を続けた結果、この冷静沈着な男が憔悴した顔でしおらしく謝罪を重ねてくるものだから、結局は折れたのだ。
冷静に考えれば、私なんか平凡な女なんてスパッと切り捨てて次の女性を探してもよかったのに彼はそうしなかった。私がいいのだと頭を垂れて見せた。

だから許した。お詫びとしてモストロ・ラウンジの高いメニューを片っ端から奢ってもらったけれど、正直言って思うところがまだ少しある。
犬や猫が戯れの中で行き過ぎて本気で噛みつくことはよくある事だけど、この人魚は人間と同じ知能と理性を持った上で噛みついてみせたのだ。


(あれ以来、噛みついたりはしてこないしそれどころか絶対に傷付けないように気を遣ってくれてるから、まぁいいんだけどさぁ。)


と、自分でそこまで考えてようやくこの恋人が何を言いたいのか分かったような気がしたが、急にぐっと抱き寄せられて呼吸が止まる。
普通の恋人同士なら桃色の雰囲気になるシーンだが、この人魚の本性を知っている私には嫌な予感がした。まずい。


「う、っわ!?$%&*?¥$#&%・・・・」


そしてそのまま飛び込むように体を引っ張られて顔面から爪先まで冷たく濡れて視界がぼやける―――水の中に引き摺り込まれた!?こいつ、また!?またなのか!!!?
しかしそのまま窒息させられる事なく、すぐさま両膝の下から片腕を通して持ち上げられて、ジェイド先輩を見下ろす形になる。
突然の暴虐に唖然としている私の頬に張り付く髪を指先で丁寧に耳にかけながら、人魚は笑った。


「先程の話の続きですが。こうして水の中に引き摺り込んでしまえば簡単に溺死させられます。」

「・・・・・・そうですね。」

「そうでしょう?ふふ、どうですか?僕もいじらくて可愛いらしいでしょう?」


胸がきゅんというよりも肝がひゅんの方が表現が正しいと思うけど。


「まぁ、ジェイド先輩もいじらしくて可愛らしいですよ、とってもね。」


衣服が透けるほど深く濡れて肌にべったりと纏わりつく不快感に憮然とした同意を返した。
自称いじらしくて可愛いらしい、を装う人魚の頭を撫でれば美しい瞳を細めて見せる。
表現方法が物騒であれ、自分が愛されているのを示されるのは正直言って気分が良いし嬉しい。今回は血も出てないし。濡れた服は魔法で乾かしてもらおう。


「それに、僕も貴方が深海の人魚ではなく陸の人間でよかったと思います。」

「はぁ・・・その心は?」

「だって貴方のような人魚が居たら出会う前に淘汰されて僕と関わる事はなかったでしょう。」


だから本当によかったです、と珍しく邪気がなく微笑んで見せる恋人の言う事は相変わらず物騒だったが。
まぁこの人魚が言うのなら真実なのだろうと、自分が人間に生まれた事に正直に感謝して深く肺で息を吸い込んだ。








































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あとがき。
ジェイドは今まで付き合ってきた人魚の女に噛みついた時は喜んだので、監督生も喜ぶと思って愛咬のつもりで噛みついたらマジギレされて素で動揺しちゃったという小ネタを含みます。


2021年1月17日執筆 八坂潤
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