オンボロ寮の窓から見える夜空は澄んでいて、星達だけが静かに瞬いている。
魔法薬学のレポートをせっかく終えたというのに頬杖を突きながら溜息をつく私の表情は明るくない。恋煩いというやつだ。うーん、恋する女の子。


「ふな~~・・・終わらないんだゾ・・ちょっと写させ、」
「ダメダメ。私のやつを写したら速攻でバレるでしょ」


覗き込もうとする小さな頭を片手で抑えて、もう片方の手は容赦なくレポートを鞄の中に避難させる。
グリムがズルをして怒られるのが本人だけならまだいいが、セットで扱われる私も漏れなく罰を受けさせられることになる。相棒には悪いが我が身の方が可愛い。

まるで裏切り者だと言わんばかりに恨みがましいターコイズブルーの瞳に見つめられて大きな溜息をつく。
猫だの狸だの例えられる謎不思議動物である可愛さにちょっと心が揺らぐけど駄目だ。ここは心を鬼にしなければならない。


「ほら、未来の大魔法士様なんだから頑張るの。提出は明日までなのにサボってたのはグリムでしょ」

「うう・・・薄情者なんだゾ・・・・・」

「本当に薄情だったらグリムを置いて一人で寝てるでしょ。横で応援しててあげるから頑張って」


がんばれー、という気のない声援を送りながらさりげなくレポートをしまった鞄を遠くへやって、グリムが再び教科書とにらめっこするのを確認。欠伸を噛み殺して時間潰しにスマホを弄る。
指は自然とモストロ・ラウンジのマジアカを開く。ツイートにはアズール先輩が学生兼経営者として地方紙からインタビューを受けたという内容が呟かれていた。
リンク先を開くと業務用のにこやかな笑顔で応対する想い人の画像とそのやりとりが載っている。保存して後で一人の時に集中して読もう。


(すごいなぁ、先輩は一歳しか年が違わないはずなのにもう地に足ついて生きてる。人魚なのに地に足って変な表現だけど)


地方紙とはいえ成功者としてメディアの取材を受けるアズール先輩の顔は自信と未来への展望に満ちていて、もう大人の仲間入りみたいだった。
きっとこの記事で名前が売れて、中性的な美貌に明晰な頭脳・魔法と経営の腕が立つ将来が有望な魔法士とくれば皆放っておかないだろう。

それに対し何も持っていない私は勝手に比べてその落差に密かに落ち込む。落ち込む暇があれば何か努力をするべきだと頭では分かっていても、焦るばかりで何も手につかない。


(アズール先輩、今頃なにしてるのかな)


朝も昼も夜も、寝ても覚めても授業中も食事中も考えるのは想い人のアズール先輩のことばかりだ。
モストロ・ラウンジは営業を終えていつもの締め作業をしているところだろう。マドルを数える時の先輩の表情は邪悪だけど輝いてて好きだ。

好きな人の事を考えるだけで楽しい。恋する乙女って超単純!最高!!
でも同時に胸の奥がモヤモヤする。最初はただ幸福でいられたのに、最近はそれ以上の不安に覆い隠されてしまう。原因は分かっている。


(あれからまっっっっっったく進展がないんだよね・・・お互いに好きとというのは、たぶん、確定のはずなんだけど)


お互いに好きだと分からず空回りして、こんな遠回りをする羽目になったあの薬にまつわる騒動。
私があんな事をせずに素直に告白していたら最初から上手くいってたんじゃないかと思うけどもう遅い。事件は起こってしまっている。

無意識に指先で触れていた心臓の付近を見下ろす。表面上は何の変哲もないように見える。
しかし今もこの胸の内にはあのアメジストのように深く輝く宝石が埋まっているはずだ。
アズール先輩からの愛の具現化だというそれは燃え盛る石炭のように重くて熱くて、胃の底で今もなお私を苦しめている。
今すぐ寮を飛び出して跪いて愛を乞いたい衝動と、相手をどうにか破滅させて自分だけに服従させたいという凶暴な感情が嵐のように吹き荒れていた。


(そもそも、まだ私なんかを好きでいるのかな・・・大した取り柄もないし、こうして可愛げも可愛くもないし、良いところなんてちっとも浮かばないや)


あの時、私を好きと言ってくれた感情に嘘はないとこの胸の内が知っている。
でも、今でもその気持ちを温め続けてくれているかは分からない。自信がない。本当は私の事なんかもう好きじゃなくて、ただからかって遊んでいるだけではないか。・・・ありうる。

私みたいな凡人と違ってアズール先輩はかっこよくて頭が良くて魔法の才能があって、経営者の才覚を発揮してお店は儲かってて───ストレートな言い方をするとお金も持ってるだろう。
運動が得意じゃないのは私と同じだけど、でもそれ以外は・・・性格が悪い以外は完璧だと思う。その欠点にしたってちゃんと表向きは隠すだけの計算高さがある。
こんな素晴らしい人を誰も彼もが放っておかない。今は男子校だからその手の話がないだけで、きっとこの学園を卒業した暁には引く手数多のモテ男になる。そうに決まってる。


(将来的に経営者として大きくなりたいのなら、政略結婚?とかするのかな。先輩もメリットになる結婚なら喜んで受けそうだし、)


考えれば考えるほど悪い想像ばかりが膨らんでいく。恋する乙女は考えることが多くて忙しい。
現状のまま、何も言い出せずにアズール先輩が先に卒業して、外の世界に出て綺麗な恋人なんか作っちゃって。
私はというと恋に立ち尽くしたまま独り身で、久々に先輩からの手紙が来て喜んだら実はそれが結婚式の招待状で、律儀に出席して帰った後に引き出物のバームクーヘンを一人で食べて泣いちゃって。


(やばい、想像だけでダメージがすごい・・これ実際に喰らったら立ち直れなくなるやつ・・・・)


自分で考えておいてなんだけど、とても落ち込む未来予想図だ。でもあながち外れるものでもないだろう。
あまりの想像の辛さに心臓の辺りが痛む。幻覚ではなく本当に痛い。本気の恋は幸福だけでなく痛覚を伴うのだと思い知る。早く解放されたい。


「・・・・・・・もう意地張らないでアズール先輩にとっとと告白しちゃおうかなぁ」


それで結果が駄目だっていうんならまだ諦めもつくというもの。きっと今こうして想像する以上に辛くて悲しくて立ち直れないだろう、反射的に足が竦む。
失敗するかもしれないからやめようと弱気が囁く。相手も自分を好きでいてくれるかもしれないという優しい幻想を持っていればいいとシュレディンガーの猫が甘く誘惑する。

でもダメだ。いい加減に逃げるのをやめて立ち向かうべきだと小さな勇気が私の背を押す。
ここまで引っ張っておいて自分が折れるのは癪じゃないかとささやかなプライドが首をもたげるが強引に捻じ伏せる。エース達に慰められながら涙のバームクーヘンを貪り食うよりはずっといい。

それに、高嶺の花で異世界人であるアズール先輩に振られても、その時は文字通り住む世界が違ったのだと受け入れて元の世界に敗走すればいいのだ。
何でそう考えるのかと聞かれると幼稚な理由で恥ずかしいけれど、元の世界に帰ったのならきっと色々なものがリセットされる気がする。うん、逃げ道があると思えばちょっと気が楽になってきたぞ。


(でも、もし、もしもアズール先輩が告白を受けてくれて、私だけを好きになってくれるんなら、私は元の世界の事を諦めたって───、)


都合の良いIFの話をそこまで考えたところで、いつの間にか隣から聞こえていたペンを紙に走らせる音が止まっている事に気付いた。
どうせ考えが詰まっているのかサボっているかだろうと、視線をグリムに戻すが俯いたその表情は伺い知れない。ただ、何かに堪えているような小さな背中だった。様子がおかしい。


「グリム?どうかした?お腹でも痛くなった?」

「・・・・・・オマエが、アズールのヤツに告白して、上手くいったら、オレ様は一人ぼっちになるのか?」

「・・・・・・・・・」


いつもは根拠なく勝ち気で強気なビッグマウスの相棒からは想像もつかない、予想外の不安の吐露に驚く。
普段のノリで茶化そうと思って、やめた。私の顔を見ようともせずに声を絞り出したグリムの背中は全てを拒否している。これはシリアスな雰囲気だ。珍しく真剣に悩んている。


(そういえばグリムも家族がいないんだったな・・・それを悲しむ素振りなんて全然見せなかったから忘れてた。
 私もこの世界に来てグリムしかいなくなっちゃったけど、でもグリムには元から私達しかいなくて、その中でも一番近くて家族なのは私だけだ)


迷子になっても意地を張って認めない子供のようにそっぽを向いたままの黒い毛並みに手を回してそっとこちらへ引き寄せる。
机に軽く爪を立てて拒否を示されたが、最終的には私の膝の上に収まった。愛しい丸みを帯びた頭を無心で撫でる。しばらくそうしてから、なるべく優しい声で言葉をかけた。


「大丈夫、一人になんてならないよ。もし上手くいってもオンボロ寮に残るしグリムを置いて遊び惚けたりなんてしない。
 まぁ、そりゃたまにはデートくらいは行かせてほしいけど、その時はお土産も買ってくるから」

「・・・・・・・・・」


膝の上の相棒からの返事はない。埃が薄く積もるような沈黙があった。
私もそれ以上語る言葉はなく、再びグリムの頭を撫でることに専念する。先に静寂を破ったのはグリムの方だった。


「・・・・でも上手くいって卒業したら、オマエはアズールのとこ行くんだゾ。そうなったらオレ様、邪魔者だ」

「邪魔じゃない。グリムが望んでくれるのなら、卒業後も一緒に暮らそうよ。アズール先輩もそれくらいはOK出すに決まってる」


ほとんど反射的に答えてしまってから、自分達が卒業後にアズール先輩と一緒に暮らしている前提の妄言をしれっとしてしまった事に恥ずかしくなる。
そもそも相手は人魚なんだから、卒業後は海で暮らすのか陸で暮らすのかも分かっていない。今度聞いてみようか・・・って聞いてどうするんだ気が早すぎるだろ。


(でも真面目な話、私もグリムも卒業したらどこで暮らしていこうか・・・家なんて当然ないし、自立するだけのお金もまだないし。
 我ながら馬鹿みたいに楽観的に、元の世界に戻るか、アズール先輩と同棲するかの二択しか考えて来なかった)


アズール先輩と同棲生活かぁ。甘い響きだ。
朝起きたら隣にアズール先輩がいて、朝食を並んで作って、その頃になると匂いに釣られてグリムが起きてやってきて三人で食べて。
それが終わったらお店に出勤する恋人を見送って、私も会社に出勤するか家で家事をして帰りを待つ。
アズール先輩はきっと仕事に忙しいから夕ご飯は私が作って帰りを待って、食卓では今日はこんな事があったとかお話をしてから眠りにつく。

なんて、そこまで考えて恋に浮かれポンチな自分が恥ずかしくなってきた。現実の事も考えておこう。


「そもそも上手くいくかも分かんないしね。アズール先輩にフられて慰めるのはグリムの役目なんだから、その時は頼むよ」

「でもそうなったら、今度は元の世界に帰っちまうんだゾ」

「・・・そりゃ、まぁ、帰るよ。失恋してるし。みんなと別れるのは寂しいけど、私にも残してきた家族も友達もいるからね」


この世界に考えてからは深く考えないようにしているけれど、元の世界の家族や友達はどうしているだろうか。そりゃ心配しているに決まっている。
もしくはいくつかの物語ではそうであるように、向こうの世界では時間の流れが止まってるとか違うとかで家に帰っても何事もなく生活がリスタートするのかも。そうだったら素敵だ。

でも後者の場合だって、私が永遠に帰らなかった場合はどう処理されるのか分からない。
心配をかけているのが分かっているくせに、元の世界への帰還を諦めて新生活に夢を膨らませた自分に罪悪感が募る。
この気持ちはアズール先輩と上手くいって同棲することになったら一生付き合っていく感情だろう───これも今はまだ考えないようにする。それよりも。


「・・・・これも、もしグリムが望んでくれるならって話なんだけど・・グリムも私の世界に行く?」

「オレ様が・・・オマエの世界に?」


グリムが顔を上げてそこでやっと私を仰ぎ見た。南国の澄んだ海色の瞳は、彼がいつも使う炎の色と同じく綺麗だ。

改めてグリムの全身を観察してみる。狸とも猫とも例えられる相棒はその尻尾の形は特徴的だけど珍種の猫と言い張れば何とかなる、気がする。耳が燃えてるけど。
あとは人前で喋らない事・魔法を使わない事を約束させて守ってもらえるのなら、ツナ缶は元の世界でもあるし食事は大丈夫だろう。
最も、この小さな暴君に大人しくその約束を守ってもらうというのが何よりも難しいのだが・・・・そこは説得という名の対話だ。


「うん。魔法が使えないから生活は窮屈だと思うけど、でも私がいるよ。私の家族にも紹介してあげる。異世界で出来た友達で、ウチの新しい家族だってね」

「オマエの・・・家族に?」

「そう。友達で家族になるの。人の言葉を喋る生き物なんてみんなビックリするだろうけど、でも大丈夫だよ。
 もし私が誰かと結婚して家を出る時も一緒に行こう。そうしたら、どっちに転んでもグリムは一人にならない。ずっと一緒だよ」


温かい毛並みに鼻先をうずめると、今ではすっかり嗅ぎ慣れた微かな獣臭に幸福な気持ちになる。
私が異世界にやってきても(良い言い方をすれば)退屈する暇を与えず孤独を和らげてくれたのはグリムだ。
その相棒が一人ぼっちを厭うというのであれば一緒にいてあげたい。きっとお互いに喧嘩もするし苦労もあるだろうけれど、それでもその望みを叶えてあげたい。


「すぐに出せる答えじゃないだろうから、頭の隅で考えておいて。告白がどんな結果に転がっても、一緒に来るか来ないかは好きに決めて。私はどの選択でも歓迎する」


元の世界に戻れずにアズール先輩にもフられて残留する可能性も十分にあるけれど敢えて触れない。
そうなったら自立できるようになるまでは学園長に頼み込んでこのオンボロ寮に居座らせてもらおう。生きる為なら雑用でもなんでもドンと来いだ。


「───子分は、オレ様がいないと寂しいか?」

「うん。寂しい」


私の即答にグリムがその小さな鼻がひくつかせる。可愛らしい鼻先から喜色が広がって、隠しきれない満面の笑顔になった。


「しょ、しょうがない子分なんだゾ!全く!!前向きに検討してやるんだゾ!!」


もふもふした小さな胸を張って得意げに話すその姿は、どんな言葉よりも雄弁に答えが分かり切っていた。
そして流れるような自然な動作でベッドに向かおうとするのを首根っこを摑まえて阻止する。


「でもそれとこれとは課題を終わらせるのとは別の話だからね」

「ふ、ふな~~~~・・・・・」


不満そうな声を出しながら渋々といった様子で再び机に向かう相棒を横目に、思考は沈む。
そうと決まったのなら本当は今すぐにでも寮を飛び出して想いを伝えに行きたいけれど、ぐっと堪える。


(今はダメだよなぁ・・・ディアソムニア寮との問題が解決したらじゃないと。アズール先輩を巻き込みたくないし・・・)


机の端に置いていた、口の欠けたティーポットからカップに紅茶を注いで飲む。
リラックス効果があるというハーブティーはすっかり冷めていたけれど、恋に逸る心をゆっくりと落ち着かせてくれた。

しかし、そうと決まれば夢見る幽霊のお姫様へのプロポーズじゃないけれど告白にはシチュエーションも服装もちゃんと考えて望むべきだ。
でもこういうのって誰に相談すればいいんだろう・・・エースとデュース、はないか。私の性別知らないんだし。
そうなるとフロイド先輩とジェイド先輩辺りが妥当。というかそれしかないんだけれど、あの二人に頼るのは対価的な意味以上に面白がられそうなのが困る。


(早く気持ちを伝えたいな。そしてアズール先輩も私と同じ気持ちでいてくれたらいいな)


視線はオンボロ寮の外、モストロ・ラウンジが沈む海のある方向へと向けられる。
切り立った崖の奥、遠くに見える夜の海は黒の帳のように静かに揺蕩っていた。




































「・・・・・・・・・・?」


握られた手が熱くて、そういえば熱いという感覚がずいぶんと久しぶりな気がして、そこではっと意識を取り戻した。何をしてたんだっけ、いやしてるんだっけ?
そこで機械的に動いて前に進む自分の足に気付いて、我ながら器用な事に歩きながら眠っていたらしいという事に気付く。いや器用過ぎるだろ、私はのび太君か。


(この人、誰だろう。どうして私の手を引いて歩いているんだ?)


前を歩く人物は頭はすっぽりとフードを被り足元まで隠す長い外套を羽織っている。その正体はもちろん、推察されるべき体型も性別も不明だ。うーん、敢えて言うならやや細身で長身か。なるほど分からん。

正体不明の誰かに手を引かれて謎の場所を歩くというシチュエーションはなかなかに恐怖を感じるべきなのに、どうやら抵抗もせず大人しく後を歩いていたようだ。そうするのが正しいと何故か分かっている。
あなたは誰ですか、と声をかけてしまえばいいのに耳が痛いほどの静寂ではばかられた。目の前の人物も謎だけど周囲の場所はもっと謎だ。


(そもそもここはどこだ?やけに静かで暗くて、私達以外には誰もいないみたい)


辺りは荒涼として草木一本も生えない不毛の地のようだった。夜の荒野のようだと天を仰ぐも、月はおろか星一つ見えない。それどころか雲すらもない深い闇だった。

途端に不安になる、一体、自分はどこにいるのだろう。
えっと、ここにくる前は何をしていたんだっけ・・・それすらも思い出せない突拍子のなさは夢オチの可能性もある。
ベタな確認方法として頬をつねってみたけど普通に痛いだけだった。痛いのも久々に感じる。


「・・・・・・・、」


そして不安と共に気付く。光源が一つもないのならどうして自分達の周囲だけが見えているのか───答えはすぐに分かった。先を歩く誰かがランタンを掲げている。
金色の細い鎖で吊られた繊細な細工のランタンの中には通常の赤ではなく青い炎が閉じ込められていて、私達の道行きを静かに照らしていた。・・・何故か見ていて落ち着く火だ。明らかに普通じゃないのに。


(・・・・やっと暗闇にも目が慣れてきた)


目を凝らすと遠くには墓標のように細長い何かが地面に突き立てられているのが見えた。注意深く観察すれば、それがどうやら細い鉄格子で何かを閉じ込める檻だと分かった。
鳥籠にしては大き過ぎるし、いやそもそもこんなところで鳥を飼う人なんているのかと考えて───檻の奥で黒い何かが蠢いているのに気付いてすぐに目を逸らす。
その正体が何かと問われても考えても分からないけれど、アレは不吉な予感がした。一体、何を閉じ込めているのだろう・・・気になるけれど考えるのはやめだ。怖いから。


(そういえば、私達以外の人間の気配どころか、動物や虫の鳴き声も植物が揺れる音すらない。まるで生物そのものがいないみたい)


さきほどから続いている耳が痛いほどの静寂。全く感じられない自分達以外の生き物の気配。謎の檻があちこちに突き立つ異様な雰囲気。
周囲への解像度が上がると、自分がこんな恐ろしいところにいるのが耐えられなくなってきた。一刻も早くこの場を去りたい。早くオンボロ寮に帰りたい。

でもこちらの手を引く誰かは私の怯えをよそに闇の奥へ奥へと引っ張っていく。まるでそこに目指すべき何かがあるような、迷いのない足取りで。


(何で私がこんな思いをしなきゃならないんだろう、腹が立ってきた。隙をついて逃げられないかな)


何の説明もなく、思い当たる理由もなく、謎の同行者に手を引かれて謎の場所を歩かされている事への不安が遂に頭の中で許容量を超えた。
相手をなるべく刺激しないようにそっと指先を離すと、すぐさま弾かれたように強く握り返されて身体が跳ねた。まずい、怒らせたか?


「・・・・・・・」


そこでやっと前方を歩いていた謎の人物がこちらを振り返ってフードを外した。
理知的な眼鏡の奥に光る北海の瞳、白く滑らかな肌に整った鼻梁と形の良い唇には艶黒子が嵌り、中性的な印象を与えている───見知った美貌がそこにはあった。
よくよく見れば外套の下に着ているのもナイトレイブンカレッジの懐かしきあの制服だと分かる。でも少し寸足らずというか、窮屈そうな印象を与えるのが不思議だったけどどうでもいい。
こんな不気味な場所で知り合いに会えた事が何よりも重大だ。


「・・・・・アズール、先輩?なんで・・・こんなところまで?」

「──────、」


私の呆けたような言葉で、美しい顔が何かを堪えるように───例えるなら泣き出す寸前の子供のように歪む。
長い睫毛と艶のある唇が震え、言葉にならない呼気を吐きだしてから握られた手が震えた。えっなにこの大袈裟な反応。

そこで少し違和感。アズール先輩の顔は、そりゃ見慣れているけれど、でもいつもと違う気がする。表情の話ではなく。これを口にするのなら、そう。


「なんか・・・・老けました?あ、いや、元々一つ年上なだけにしては会社勤め何年目かみたいな大人っぽい顔だったけど・・・・」

「・・・・・・・、あなたは・・・・、」


大きく息を吸い込んで何かを(いや絶対に文句だろうが)言おうとしたようだがぐっと飲み込んだようだ。
じっと無言で私の顔を見つめてから、微かに震える指先でゆっくりと頬に触れられる。まるで遠方に置いてきた恋人にやっと再会したかのような急な距離の詰め方に驚く。
思わず身を引きそうになるけど相手の真剣な雰囲気に押されて身動きできなくなってしまう。実在を確かめるように何度も頬をなぞって、やっと満足したのか指先が名残惜しそうに離れていった。何だったんだ一体。


「・・・・ここに来るまでの経緯は覚えていますか?」

「いや、何も・・・というかここはどこなんですか?なんで私はこんなところにいるんですか?」


私の当然の疑問にアズール先輩が顎に手を当てて何かを考えるような素振りを見せる。懐かしい仕草だ。


「まず、ここは冥界です」

「めい・・かい・・・?え、冥界?冥界って死んだ人が行く、あの冥界?」


その通りだと言わんばかりに厳かに頷いて見せるアズール先輩に眩暈がする。いくら魔法という幻想がまかり通る異世界でもこんなのってアリか?
冥界。地獄。その違いはよく分からないけれど、共通していえるのは生きた人間の居場所ではないという事だ。
つまり、まだまだ若い私達がこんなところにいるのはおかしい。ま、まさか私達揃って仲良く事故か何かで死んだのか?嘘でしょ!?


「わ、私達って、もしかして死んでるんですか・・・?あの、死んだ時の記憶とか一切ないんですけど・・」

「いいえ、死んでいません。まだ生きている僕達がこんなところにまで来てしまったのは、あなたが僕に引っ張られて落ちてきただけです」

「えっどういうこと!?まさかアズール先輩が、し、死んでるの!!?」


引っ張られてきた、といういかにも自分が巻き添えを食らっただけの非がなさそうなワードに反応する。
慌ててアズール先輩の足元を確認するも、長い足が二本きちんと揃っていた。オンボロ寮で散々見てきたゴーストは足がなかった気がするし・・・ついでに私の足もきちんと生えていて一安心。


「少し落ち着きなさい。チョコレートをどうぞ」

「むぐ・・・・!」


いきなり口の中にチョコレートを突っ込まれて強制的に黙らせられる。口いっぱいに広がる甘い味は久しぶりで、全身に活力が満ちるのを感じた。おいしい。
おまけと言わんばかりに様々な貝殻やタツノオトシゴを象ったチョコレートを手に乗せられる。見覚えはないけどたぶんモストロ・ラウンジで売ってる商品だろうな。有難く頂く。


「僕が取引をしたイソギンチャク達の中に厄介な方が混じっていたようでして・・・生きた人間を冥界に堕とすなんて、普通はなかなかできるものじゃないんですけどね」

「普通はなかなかできないって・・・ユニーク魔法か何かですか?」

「ええ、そんなところです。曲がりなりにもあの学校は名門校ですから、突出した才能やユニーク魔法の持ち主がいてもおかしくありません。
 ベラベラと自分のユニーク魔法を公開するフロイドとちがって普通はひた隠しにしますから。迂闊でした」


はぁと大仰に肩を竦めて溜息をついてみせるアズール先輩の言葉には少し違和感がある。
冥界と現世の距離感が元の世界と等しく同じであるのなら、いくら一芸に秀でたユニーク魔法でもそんな芸当ができる生徒なんているんだろうか。アズール先輩の情報網にも引っ掛からずに?


「元々あの土地・・・賢者の島は特殊なんです。他の場所ではこうはいきません。そもそも、あなたは気軽にゴーストと会話してますが他の場所ではゴーストを肉眼で確認できる土地なんて滅多にないんですよ」

「そういえばハロウィンの時にそんな話をした気がするけど・・・でもまさかこんな事になるなんて・・・・・」


しかしここが冥界と言われれば納得だ。国や宗教で違いはあれど、この世界は死後の世界という共通したイメージに沿った姿のように感じた。
ちっとも嬉しくないけれど、これはこれでめちゃくちゃレアな体験をしているという事になる。二度はしたくないし、ツアーならキャンセル料金を払ってでも家に帰りたいところだが。


「ええとつまり、私はイソギンチャクさんの恨みを買って冥界に堕とされたアズール先輩に道連れにされたと?」

「その通りです。申し訳ありません、突然の事に気が動転してしまいまして」

「そんな軽く言わないで下さいよ・・・もしかして、だから私に落ちてきた時の記憶がないんですか?」

「そんなところです」

「・・・・そんなところですか」


悪びれもせず隠し立てもしないあっけらかんとした物言いにそれ以上抗議する気力もなく、がっくりと肩を落として溜息をつく。
普通に考えればもっと怒ってもいい場面だと思うけれど、それ以上責めるつもりにならなかった。責めたところで現状どうにかなるわけでもない。
それに、これがエースとかデュースだったらもっと取り乱したかもしれないけれど、なんせアズール先輩は学園でもトップクラスの魔法士のお墨付きを得ている(蛸だけに)
この落ち着きっぷりといい、脱出手段の目途はついているのだろう。経緯がどうであれ生徒二人が行方不明ともなれば先生方も動かざるを得ないだろうし。


「でもその落ち着きっぷりは、何か脱出の算段は付いているという事ですよね?」

「当然です。無策でこんなところまで来たりしませんから」


フフンと胸を張って見せるアズール先輩はこんな状況下でも頼もしい。同時に元凶でもあるという言葉は飲み込む。責めて機嫌を損ねて置いてけぼりにされたら一番困るし。

───色々と言いたいことはあるけれど、置かれた現状はやっと理解できた。
やっと心が落ち着いて余裕が出てくると自分の事にも気を配れるようになる。そして気付く。


「そういえば、グリムは?私がここに来てるんならもしかしてグリムもここに来てるのかなって・・・・」

「・・・・・グリムさんは、」


アズール先輩が何かを言いかけて、そしてはっとしたような表情で急に手を引っ張る。突然の行動にバランスを崩して倒れ込む私を強く抱き寄せた。
そしてすぐさま長い外套の下に私ごとすっぽりと身を潜ませて近くの大岩までゆっくりと後退。周囲を警戒するように目線を動かす。
抗議しようとする私の口に今度はコインを噛ませて黙らせて、そしてランタンの炎が燃え移らないように慎重に外套の中へ隠した。辺りに闇が満ちる。


「・・・!!・・・・・!!!!」

「静かに、黙って。何があっても声をあげないで。そのコインを落とさないように」


ただならぬ雰囲気と突然の行動に竦み上がる私の身体を広い胸板に強く押し付けて、耳元で聞き慣れたあの美声が囁く。
元々の姿が人魚のせいなのか、普段は体温が低いはずのアズール先輩の身体は燃えるように熱い。別の意味で思考がパニックに陥る。


(い、いきなり抱き寄せられ、えっ、う、嬉しいけど恥ずかしいって言うか、なにこれーーー!!)


相手の体温に負けないくらい私の顔も熱くなるのを感じる。い、いきなりの少女漫画展開に頭が追いつかない。よりによって冥界で抱き合っとる場合か!?
けれど、そんな甘酸っぱい雰囲気は暗がりから現れた何かによってすぐさま霧散した。


「縺悶>縺ォ繧薙′縺ォ縺偵・・・」


ずるずると何かを引きずるような音と共にボロ布を纏った何かが私達の近くまでやってくる。
シルエットは人の形をしているけれど見上げるほどに大きく、その存在を目で追うだけで背筋に氷を滑らせているかのような悪寒があった。これは、なにか、やばいものだ。

きっと直視してはいけないと思いつつも視線は顔の辺りへ吸い寄せられてしまう。
そこに人間の顔があったのならきっと安心できただろう。気が早すぎるハロウィンの仮装だと納得できたかもしれない───いいや、冷静に考えれば冥界にハロウィンの仮装をした人なんているはずがないのだけど。

でもそこには何もなかった。
フードの奥には顔はおろか、目も口も鼻も何もない、ただただ深い闇が広がっていた。
実際に試したことはないけれど、もし奈落の底を覗き込む機会に恵まれたのならこんな光景が見られるのかもしれない。一生そんな機会はなくていい。


(よくわからないけど、これに見つかったらまずい気がする。具体的にどうっていうのは、わからないけど)


どう考えてもこんな存在、友好的とは対極に位置するやつらだ。生きているのかすら怪しい。どうか早く私達の目の前から去って行ってほしい。
自然と指は祈りの形を組みながらじっと息を潜めていると、願いが届いたわけではないだろうがその何かはゆっくりと去って行った。
知らず止めていた呼吸が再び動き出し、抱き寄せられていた腕からも解放されて脱力。

十分に距離が離れていったのを確認してから咥えさせられていたコインを口から離す。
古ぼけた金貨には穏やかな顔をした女神の絵が彫られていて、その周囲をよく分からない文字で何かを書かれている。見慣れたマドル硬貨とも元の世界でも見てきたお金とも違う不思議なコインだ。


「い、今のって・・・・・」

「冥界の番人ですね。どうやら招かざる客である僕達を探しているようです」

「・・・こわ・・・・やっぱりいるんだ、そういうのって・・・」


自分の唾液で汚れたコインを見下ろす。そういえばアズール先輩の趣味はコイン集めだった気がするけれど、これもそのコレクションの一つだろうか。
私の口に突っ込んできたのは持ち主だけど、そのまま返すのはさすがにはばかられる。きちんと消毒した方が・・・もちろんいいよね?いや私は悪くないんだけど。


「ああ、そのコインは貴重な品なんです。強い魔除けの効果があるのでそのまま持っていて下さい。使い方は今ので分かりましたね?」

「わかりましたけど・・・アズール先輩はしなくていいんですか?」

「僕はいいんです。でもあなたは気を付けるように」


どういう理屈なのか分からないかはさっぱり分からない。けれど説明する気もなさそうな雰囲気に大人しく頷く。ああ、そういえばもう一つ違和感があった。


「なんだかアズール先輩、背が伸びたみたい」

「そうかもしれません。成長期ですので」

「はぁ・・・・男の子は三日間会わなかったら刮目して見ろ、みたいな言葉が私の世界にはありますが・・・その通りなんですねぇ」


なるほどなぁと今更ながら偉い人の言葉だかことわざだかを噛み締める。昔の人は的を得たことを言うものだ。
いつもより高い目線のアズール先輩の顔を見上げながら、中断させられていたさっきの話の続きを始める。


「で、話は戻るんですけど。グリムもここに来てるんですか?」

「ええ、僕達とは違うところに落とされてしまったようです。大丈夫、回収しに行きましょう」

「そっか・・・よかった・・・・」


冥界に来てから初めて心からの安堵の息を吐く。


「・・・嬉しそうですね」

「えへへ、こんな状況なのにすみません。でも、グリムを一人ぼっちにできないですから・・・そういう約束なんです」

「・・・・・・なるほど、道理で」

「・・・・・・?」


あれ、アズール先輩の声色が少し硬くなった気がする。もしかして不機嫌にさせてしまったのだろうか。
でも今のやりとりで何か機嫌を損ねる要素なんてあっただろうか。・・・ない気がするのでとっとと話題を切り替えよう、うん。


「そういえば、まるで宛てがあるような足取りで歩いてますが、先輩はグリムの居場所が分かるんですか?」

「ええ、大丈夫です。このランタンの炎が道標になりますから」


そう言って長い指が掲げたランタンの中には青い炎が灯っていて、やっとそれがグリムが使ういつもの火だと気付いた。
なるほど、ただの明り取りのためのランタンではなかったというわけだ。さすが狡猾な深海の商人は用意が良い。今この場にいるのがアズール先輩で本当によかった。


「きっと地上では、エースもデュースも、フロイド先輩もジェイド先輩も、みんな心配してますね。帰ったら会いに行かないと」

「───その事ですが。このまま地上に戻らずにあなたの世界に行きましょう」

「・・・・・・・・・・・えっ?」


予想外過ぎる言葉に呼吸と歩みが止まった。今、何と言った?
冗談みたいな提案なのにゆっくり振り返ったアズール先輩の顔は、大嵐の後の凪いだ海のように静かで真剣だった。


「あなたの世界に行きましょう。僕と、グリムさんと、あなたで。」


元の世界に帰る。異世界に来てから長らく渇望し、そして諦めていた願いだった───それを目の前の人魚は叶えてくれると言う。
しかも私だけでなく、自分自身も一緒に行くと言ったのだ、この人は。一体、何が、どうして、そうなったんだ?その方法は?いやその心境の変化の理由は?


「これは最後のチャンスです。現世ではない、冥界という特殊な世界だからこそ異世界に繋がる。異世界に渡れる。
 理屈は・・・残念ながら詳しく説明してもきっとあなたの頭では理解できないでしょうから省きます。無駄なことは嫌いなので」

「ち、ちがう、そうじゃない。私が聞きたいのはそうじゃなくて、」


待て待て待て待て待て待て、頭が混乱している。方法も大事だけど、今軽く馬鹿にされたけど、そうじゃなくて、それよりももっと大事で確認しなきゃいけないことがある。


「何、言ってるの。私の世界って、私の世界?先輩も一緒にって、本気ですか?」

「はい。僕もあなたの世界に行きます。」

「・・・・・・・・・・・・・なんで、」


魔法も人魚もいない世界にアズール先輩が行く?そんなの想像したこともなかった。

喜びではない感情で声が震える。元の世界に戻るという積年の願いが叶う喜びよりも強い不安と恐れがあった。
唇が震え、浮かんでいる言葉を言おうか言わざるかを迷う───口にしてしまったら機嫌を損ねないだろうか。元の世界に戻るという話をふいにされてしまわないだろうか。

けれど相手への愛情と誠実さが勝った。


「それは、ダメでしょう・・・・・」

「ダメですか?何故?」

「だって・・・・・」


自分の心臓を上から鷲掴む。胸が潰れるような痛みに眩暈がした。でも続けなければならない。
言わなくてて良いことを言うための心の準備をして、大きく息を吐く。そうだ、私はこの人魚が好きだった。
この人が私を好いてくれるのなら、ずっと一緒にいてくれるというのなら、元の世界に戻るのを諦めてもいいと思う程に───だからこそ言わなければならない。


「だって、そんな事したら、アズール先輩の家族やフロイド先輩とジェイド先輩、それ以外のみんなはどうするんですか?私の家族と同じ思いなんて、させちゃダメですよ・・・」

「家族に別れは済ませて納得してもらっています。フロイドもジェイドも異世界に一緒に行くと言いました。今頃は冥界の入り口で待っているはずです」

「えっ」


さっきからずっとアズール先輩の言葉には違和感がある。その正体を問い質さなければならないと分かっていてもそれが何なのかは分からない。自分の頭の悪さが恨めしい。
ならそれは今は捨て置いても、確実に聞かなければならないことがある。私の頭でも分かるんだからアズール先輩もきっと承知の上だろうけれど、それでも。


「でも、でもでも、前にもお話ししましたが私の世界には人魚も、魔法もないんですよ?そもそもの歴史と文化も違うんですよ?
 だから、もし来ても、楽しくなくて窮屈で・・・むしろ苦しむのかも、なんて・・・」


アズール先輩が私の世界で暮らす?その際にこの世界に残してしまう家族や友人も大事だけどそれだけじゃない。
もし人魚だとバレたら?せっかく磨いた魔法の腕も諦めなければならない。あんなに大事にしているモストロ・ラウンジは?今までの輝かしい成功と栄光は?

───全部だ。全部を捨てなければならない。異世界には何一つとして持っていけない。かつて私がそうであったように。


(そんな事が許されるのか?この人の全てを捨てさせてまで、一緒に来てもらう価値が私にあるのか?そんなの、ない・・・・。)


アズール先輩が私のせいでこの世界に置いていくものの多さ、閉ざされる約束された成功の未来。私が考えた以上にこの人魚が失うものは多いだろう。
魔法も人魚も素敵だけど、でも元の世界ではきっと悪用される。好きな人をそんな目に遭わせたくない。


「僕は海から陸に適応した人魚です。今じゃ誰も僕達が人魚だなんて分からない。あなたも最初は僕の正体を分からなかったでしょう?
 違う世界の陸でだって生きていけます。僕の有能さを見くびらないで下さい」


知っている。この人魚がどんなに凄いかなんて、ずっと近くで見てきたから。
でも、だからこそやっぱり戸惑う。そんな素晴らしい才能とそれを御し得る才覚の持ち主を私が潰していいのか?そんな傲慢が許されるのか?
想像しただけで恐ろしくて足が竦んでしまう。やっぱり断るべきではないのか。


(本当なら先輩の言う通りになるのが一番嬉しい。私は元の世界に帰れて、その隣にはグリムと好きな人がいる。
 私にとっては最良の結果だ。絶対に叶わないからと考えもしなかった未来だ)


喜びと重圧が等しく拮抗して何も言い出せない私の手を握る力がぐっと強くなる。その痛みで思考の海から現実へ浮上する。
私を見下ろすスカイブルーの瞳にはいつにない真剣さと必死さが滲んでいて、白磁の頬は微かに紅潮していた。
そんな表情をされれば分かってしまう───この人魚は本気で言っているのだ。嘘偽りなく私と異世界に行く覚悟を決めてくれている。


「どうか、僕もあなたの世界に連れて行って下さい。できることならあなたの家族に僕を恋人だと紹介してほしい」

「─────、」


熱烈な愛の告白だった。今後の人生でどんな出会いがあっても私はこれ以上の言葉を受け取る事はないという確信に、頭のてっぺんからつま先まで甘く痺れて呻きの一つも出ない。
私の沈黙を戸惑いととったのか、アズール先輩が長い睫毛が震わせて苦痛を堪えるような表情で、更に言葉が続く。


「もしあなたが僕を断っても、構いません。元の世界には帰してあげられます。そのために研究してきました」


アズール先輩は自分の想いに応えられなくとも元の世界に戻ってもいいと言った。私の身を心から案じた言葉だった。
けれどかえってその離別をも厭わない言葉が勇気となって私の背を押す。この人がこれまで築いてきた何もかもを踏み荒らして、自分の為に捨てさせるその重荷を飲み込むことを。


「いいんですか・・・ほんとうに、私なんかを、選んで・・・・いいんですか」

「あなたがいいんです。どうか、お願いします。もう僕を置いていかないで」


言葉の代わりに涙が溢れた。唇の中に侵入してくる雫がしょっぱくて、チョコレートの甘さをかき消していく。
場所は夜景の見える綺麗なレストランではなく草木一本生えない不気味な冥界。周囲には友人でも観客でもない冥府の番人が闊歩し、私達はどう考えでも告白どころじゃない。シチュエーション的にも最悪だ。
でもそんなあらゆる全てがどうでもよくなって、考えられなくなるほどの熱量がここにはある。


「アズール先輩、一緒に来てください。私と一緒に、私の世界で。一緒に幸せになってください」


これから先、この人がツイステッドワンダーランドで手に入れるはずだった未来以上の幸福を私があげたい。そのための努力をしたい。

ここが恐ろしい冥界だということも忘れ、常春の楽園で愛をうたう恋人達のようにそっと抱き寄せられる。
自分が今まで送ってきた人生の中で一番幸福な瞬間だった。そしてそれ以上の幸福はこれから先の人生にまだ眠っていると確信できるような希望もあった。


「・・・でも、意外ですね、先輩は私にこの世界に残ってもらいたいのかと思ってました」

「モストロ・ラウンジ異世界支店も悪くないでしょう?」

「先輩なら、本当に異世界でも成功してしまいそう」

「ええ、しますよ。でもその隣にはあなたにいてほしいんです」


唇が重なって、睫毛が触れ合うほど近くで見つめ合う。
私を見る先輩の顔には恋人を想う優しさに溢れていて、きっと私も同じ表情をしている。


「異世界でも冥界でも、僕はあなたの隣に居たい」








































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あとがき。
これは監督生が元の世界に戻る話ではなく異世界に追放される・駆け落ちする話です。
グリムがオーバーブロットして死傷者を多数出す化け物になってしまった。その危険性を鑑み、また監督生の監督不行き届きとして罰せられることになりました
ツイステッドワンダーランドに帰らないのではなく、もう帰れないのです。

アズールは監督生に自分を選ばなくてもいいと言いましたが、もし選ばずに地上に戻ったらオクタヴィネル3人組には死刑が待っています

長い年月の経過により監督生は精神が折れて、かつ自分がどうして冥界にいるのかの記憶が飛んでいます
また、監督生の記憶と精神を再構成するうえで意図的にアズールはその辺の記憶を除外しています
更にアズールが「自分のせいだ」と噓をついて泥を被ったのは、監督生ちゃんが罪の重さに耐えられないからです

アズールはグリムに対して殺意に近い感情を持っています。殺したりはしないけど。
自分よりも監督生に選ばれて、そして引き離される原因になったグリムを本当は助けたくないと思っている。
グリムに関する記憶を全てなかったことにするのが理想でしたが、監督生のNRCでの生活とグリムはあまりにも密接に結びついているので仕方がなく助けました
もしこれから先グリムのせいで監督生が再び被害を被るようであれば自然死に見せかけて殺すことも厭わないと思っています。

アズールの制服が窮屈そうなのは、卒業してから年数が経って成長しているからです。
ちなみに監督生もまた制服を着ていますが、外見と年齢はそのままです。

「なんでこんなところまで」というのは無自覚の言葉です。
これを聞いた時、アズールはもしかして思い出してしまったのかと内心で焦っていますが、杞憂でした。



2021年2月24日執筆 八坂潤
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