「どうして?」


普段の溌溂とした光は消え失せ、茫洋とした黒い目で問う声は老婆のようにしゃがれていた。
自らを散らせる風に花が問うように、自らを覆い隠す雲に月が問うような疑問。
部屋には血と性の臭気が充満し鼻を顰める。陸の嗜みとして付けていた香水の匂いはとっくに薄れていた。

自分の下に組み敷かれた女は四肢をだらりと投げ出して、普段は日に晒されない身体は生白さを帯びている。
衣服は床に散らばりその裸体には鬱血して青紫になった痕が無数に散らされているが、それを覆い隠そうとする羞恥心も感情も擦り切れているようだ。


「どうして・・・こんなことを・・・」


乱れた髪に戯れに手を差し入れてそっと梳いてやると、信じられないという嫌悪感で頬が強張る。
自分を凌辱した男からの慈しむような動作が理解できないのだ。それでも指一本動かせず、こちらを睨むこともできず、じっと大人しくしている。
その様子に魔法史の教科書に載っていた、祭壇に捧げられた生贄の古い挿絵を思い出していた。そうなるとそれを喰らう神は自分になるのだが、実際に食べたのだからその比喩は正しい。


『私の事を少しでも好きならどうかやめてくれませんか?』


相手からの愛情に縋って、それをなお取引に使おうとする自分の卑しさに顔を歪ませながら彼女は哀願した。当然無視した。
挿入される寸前までは「初めてが化け物なんてあんまりです」「何でもするのでどうか許して下さい」と懇願していたが、膜が破られて以降はぱったりと絶えた。


「どうして・・・・わたしが、こんな目に・・・」


こんな状況になってもなお自分がどうしてこうなったのかが本気で理解できないのが哀れだった。
疑問には答えずにその生白い頬に触れてから唇を重ねる。抵抗はない。

初めての口付けは血の味がした。































「っ・・・・くそ、人魚に、空を飛べだなんて・・・・っ!」

「アズール、あまり箒を強く握り過ぎるな。お前の緊張が箒に伝わって上手く飛べない」

「グリムもアズール先輩も怪我しないように頑張ってくださーい!」

「ふ、ふな・・・・!」


授業終わり、晴れ渡った晴天の下。青々と茂った芝生の上で行われる飛行術の授業───の補習。
グラウンドにはバルガス先生から居残りを命じられた僕とその付き添いとしてジャミルさん、同じく補習だったグリムさんとそれに付き合う監督生さんが居た。
と言っても、魔法を使えない彼女は箒を握る事すらせず応援をする事しかできない。授業でも先生の隣で記録係をしていると聞いた。仕方がないとはいえ応援するだけなのだから暢気なものだ。


「グリムはもっと箒全体に魔力を流すようにしろ。それじゃただのトランポリンだ。・・・・・はぁ、何で俺がグリムの面倒まで・・・」

「すみません・・・私が魔法使えないから何のアドバイスもできなくて・・・・」


今度の魔法薬の材料を用意するという対価をきちんと払った僕はともかく、ついでと言わんばかりにグリムさんの面倒も押し付けられたジャミルさんは腕を組んで溜息を吐いている。
その隣には上級生のぼやきに困ったように笑うしかない監督生さんと、僕の横でホタテ貝が泳ぐように箒をバタバタさせては無様に地面に転がるグリムさんがいた。まぁアレよりはマシだろう。


「うーん、グリムの魔力云々は私にはよく分からない感覚なんですけど・・・アズール先輩は平常心を保てばいいんですよね。・・・何か得意な事とか考えて落ち着いたらどうですか?」

「なるほど、素人の意見だからこそ、意外な活路が見いだせるかもしれません。これで上手くいったらラウンジの飲み物一杯くらいはサービスしましょう」

「いいですよ別に、この程度で奢ってもらわなくても・・・。もしくは素数を数えると落ち着く、なんてのもあるみたいですよ。」


不本意ながらも監督生さんのアドバイス通り、大きく息を吐いて肩の力を抜いて箒に跨る。
頭の中で先週習った魔法薬の材料とレシピを暗唱しながら、ゆっくりと箒に魔力を流し込むと徐々に足の裏が地面から離れていく感覚。
まさかの成功の兆しに心までも浮き上がりそうになるが、気を取り直して頭の中で暗唱を続行する。平常心だ。


(まずは歩き茸の足、バイコーンの角の粉末にケルピーの脂、満月草の蕾を用意。歩き茸は縦に切って足を輪切りにして、)


まだ芝生との距離は目と鼻の先だが、やっと地面から足が完全に離れた。遠くで成功を喜ぶ歓声が聞こえる。
視界の端のグリムさんもゆっくりとだが箒を平行に浮き始めているのが見えた。高揚感に水を差された気持ちになる───いや、集中だ。


(ケルピーの脂は素手で触れると成分が変質するから扱う際にはケルピーの皮手袋を使うこと。バイコーンの角の粉末は大匙一杯、)


徐々に地面からゆっくりと浮いて宙に登っていく。自分の身長を越えて飛ばせたのは新記録かもしれない。
更に高度を上げると、眼下では両手を握って応援する監督生さんとジャミルさんが腕を組んで満足そうに頷いていた。つられて微笑む。

やや下を見るとグリムさんが箒を飛ばして僕の高さまで追いつきそうになっていた。焦燥感。
課題以上の高さを求めて更に浮上すると、建物二階分くらいまで到達した。更なる新記録の更新に気分が良い。


「ッ!!?」

「ぶな!!?」


成功の喜びも束の間、急に突風が吹いてきて思いっきり箒を煽られた。
飛行術に長けた生徒なら難なく制御できる風でも僕達には難易度が高い!案の定、箒の制御を奪われて仰け反るが何とか堪える。
だがグリムさんはその体重の軽さと体の小ささも相まって、まんまと煽られてこちらにぶつかってくる。ギリギリで保たれていた均衡が崩れた。


「ぶなあぁああぁぁぁぁああああ!!!?」

「うわああああああああああああ!!!?」


主の手から離れた箒が身体から離れて遠くに飛び去って行き、グリムさんを巻き込んで地面に落ちていく。
咄嗟に腕に挿していたマジカルペンを抜いて地面に向けて強い風を起こすも集中が足りずに魔力が四散。小さなつむじ風が発生するに留まる。
それでも一瞬は身体が浮く。が、その程度では重量を支えられずに墜落した。全身に衝撃と痛みが入り、眼鏡の歪んだフレームが眉間に喰い込む感触に顔を顰める。


「アズール!」

「グリム!!」


友人のピンチにジャミルさんが駆け寄ってきて身体を助け起こされる。
天に仰いだ太陽が視界に入って眩しい。海では飛行術も墜落もないのに、全く忌々しい空だ。

勝手に僕の腕を曲げ伸ばしをして、その反応と全身を観察していた濃い灰色の瞳が診断を下す。


「怪我は、なさそうだな。咄嗟に風の魔法を発動したのは良い判断だった。さすがオクタヴィネルの寮長様というわけか」

「あなたにお褒め頂き光栄ですよ・・・どうですか?そんな有能な僕とやっぱり友人になりませんか?」

「お前と友達なんてお断りだ。グリムは・・・」

「いだだだだだだだだ!落ちた怪我なんかよりお前に抱きしめられる方が痛いんだゾ!!!」


ジャミルさんの視線に釣られて少し離れたところに目線を動かす。
視線の先にはグリムさんを抱きしめながら子供のように泣いている監督生さんと、苦しげに身を捩るグリムさんがいた───最もその苦しみは強く抱き締められているからのようだったが。


「・・・・問題なさそうだ。俺は飛んで行った箒を取ってくるから、念のためにグリムともども保健室で診てもらえ。バルガス先生にも伝えておく」


嬉々とした声色を隠さずにそう言い残して、自身の箒に乗って颯爽と遠くへ飛んでいく。
高評価を与えられる安定した飛行に不安の色はない。ジャミルさんとしてはようやく箒の補習監督から解放されて万々歳なのだろう。


「グリム、グリム・・・大丈夫?ケガはない?痛くない?」

「オマエが離せば大丈夫っつーかオレ様はこの程度へっちゃらだっつーの!!」

「よかった・・・・うう、グリムが無事でよかったよぅ・・・」


グリムさんの足が監督生さんの頬にめり込んで蹴り飛ばして、命からがらといった体で拘束から這い出る。
毛を逆立てて元気を示す毛玉を見ながらもべぞべそと鼻を啜って涙を雑に拭う。そして思い出したように黒目がやっとこちらを見た。自分の姿を見てにっこりと微笑む。


「アズール先輩も、無事そうでよかったです。グリムと一緒に保健室に行きましょうか」

「───ええ、そうですね」


考えれば当然の話だ。一般的な標準体重と平均よりも高い身長を持つ自分と違って、一見すると猫に近い外見のグリムさんの身体は小さく脆い。
ましてや僕はオクタヴィネルの寮長をも務める魔法力と有能さを兼ね揃えるが、それに比べればグリムさんは一般の稚魚にも満たない。

だから、どちらを優先して真っ先に駆け寄るかなんて誰でも分かる問いだった。
模範解答通りに彼女は僕ではなくグリムさんを優先した。グリムさんの身の安全を確認してからやっと僕を心配した。そう、誰だってそうする。


「──────、」


だけど、その当たり前がちくりと心に刺さり棘のような痛みをもたらしたのも事実だった。




























あいつを指す記号はいくつもある。
オンボロ寮の監督生。異世界からやってきた異邦人。魔法学園に通いながら魔力を持たない一般人。
望んでもいないのにいつも厄介ごとに巻き込まれる。勝手に一人で巻き込まれればいいものを、大体はオレ達を道連れにするし、した事もある。

付き合いは最初の入学式の翌日から始まって、今じゃデュースとグリムも合わせて一緒にいるのが当たり前だった。
隣にずっといれば自然と詳しくなる。いつも黒い目で困ったように笑って、泣いて、怒って、喜んで、そんな分かりやすい普通のやつだった。

でもある時を境にあいつが分からなくなった。
すぐ隣を歩いているはずなのに、月を相手にしているような絶対的な距離感。
何かを隠していると薄々勘づき始めたのも最近の話で、でもその内容を絶対に明かそうとはしなかった。
いつからババ抜きが上手くなったんだがと思いながらも、思春期なんだから隠し事の一つや二つくらいあるだろうと納得しようとした。

でも、あいつが突然ピアスを付けてきた頃辺りからだ。
「オシャレしようと思って」と笑った動機は平凡だったが、その頃から違和感が強くなっていった。
暗闇に怯えたり、水を遠ざけたり、理由を問い詰めてもはぐらかされる。推理しようにもまるで分からなかった。

でもこのままだと手遅れになるという焦燥感だけはあった。



日差しが強く、うだるように暑い夏の日の図書館だった。
いつからだったか、アイツは放課後になると何かずっと調べものをしているようだった。

どうしてそうするようになったのか分からない。何について調べているかも教えてくれない。
答えが分からなければリドル寮長達に相談すればいいと誘ってみても首を横に振って、曖昧に笑った。言外の拒絶だった。

かと言って、全てを拒絶している訳ではなくたまには誘いに乗ってやってくる。
けれどグリムもアイツも、せっかくなんでもない日のパーティーに誘ってもゲーム大会をしても町へ遊びに行っても、どこかずっと上の空だった。
目の前の喜びよりも何よりも、ずっと大きな何かがあいつらの心に圧し掛かって、覆い隠して、深い影を落としている。いい加減にその正体を突き止める必要があった。


「お前さ、何かあったの?」

「────、」


陽の光を浴びずに枯れてしまう花を思わせる姿に我慢できず、ガラでもないのに核心に直線で踏み込んだ。
こういうのはデュースの仕事だろと内心で毒づきつつ、でもあの馬鹿にやらせても今のこいつにははぐらかされて終わる。こればかりは俺自身がやるしかない。

普段だったらこんな熱い事はしない。そこまで深く他人と関わるのが面倒だったからだ。
でもこいつは話が別だ。認めるのも言葉にするのは憚られるが、こいつは特別だ。そんなやつが今窮地に追い込まれているのなら、オレが手を差し伸べる。陽の下に引き摺り出す。


「何もないよ。急にどうしたの?もしかして来週の課題のレポートを写しに来たの?あれは難しいよね」

「はぐらかすなよ。オレが言いたいこと分かってるんだろ」

「ううん、さっぱり。・・・しょうがないな、参考にするくらいなら見てもいいよ」


レポートを見せてやるからこれ以上踏み込んでくるな。
言外に強い拒絶を示し、対価を提示して黙秘を求めるのはどこかで見たようなやり口だ。気に入らない。

驚く素振りすら見せず、笑顔すら見せて応じる。いつも見せていたものとは違う、真意に一枚皮を被せただけの薄っぺらい笑みだった。
そういえばいつからかコイツはこんな風に笑うようになったんだろう。前は素直に笑ったり喜んだり泣いたり怒ったりしていたのに、最近ではどこか一歩引いたところに立っている。

デュースは馬鹿みたいに素直だからこの変化にまだ気付いていない。
エペルもジャックもセベクも気付かない、一番近くにいるオレだから気付いた。オレも気付かないフリをしていればよかったのに、でもこいつにはそうもいかないんだ。

こちらの不穏な内心を察知しながらも敢えて分からないとでも言いたげに、こてんと小首をかしげてこちらの反応を待つ。銀の鎖のピアスが動きに合わせて小さく揺れた。


「・・・・お前がその気なら、リドル寮長のとこ行くぞ。あの人なら何とかしてくれんだろ」

「ちょ、ちょっと何、今日は強引だよ。何がしたいの?」

「お前のその気持ち悪い笑顔をやめさせに来たんだよ」


面と向かって気持ち悪いと切り捨てられた笑顔が引き攣って、なおも逃げようと口を開きかけたのをその手首を掴んで封じる。黒い目が泣きそうな顔をした。
ここまでオレが事情に踏み込んでくるとは予想していなかったのだろう。その驚きが皮を引きはがして中から本心を引き出そうとしていた。

手首を掴んで引きずったまま、机の横に積んであった本を雑に抱えて返却コーナーに戻す。途中、足を踏ん張って拒否を示したが無視して引き摺った。コイツは男のくせに力が弱すぎる。
項垂れて逃走を諦めた監督生はハッキリと顔に動揺を浮かべていた。一緒にグリムも捕まえられたらよかったが、アイツも捕まらない。腹が立つ。


「あ、あのさ、エース、私は大丈夫だからさ、ね、気にしないで?手を離して?」

「大丈夫じゃない奴ほど大丈夫って言うだろ。最近のお前、見てると腹立つ。もっとオレらを頼ればいいだろ。オレらが頼りねーんならオレよりももっと頼りになる人を連れてきてやる」

「エース・・・・・・・」


黒い目が逃げ道を求めて何度か宙を彷徨って、口が言い訳をしようとして、やっと諦めた。
手首を振り払おうとする力が弱くなった。内心で安堵の息を吐にながら寮へ向かうべく鏡舎への道を歩く。これでいい。

きっとこいつは何か大きな問題を抱えていて、それはきっとオレらじゃまだ解決できないような内容だ。
なら情けないなんて言わずに素直にもっと頼りになる人を連れてくればいい。ハーツラビュル寮生である自分が頼る相手は当然リドル寮長だ。
ハートの女王の法律を何よりも貴ぶ我らが女王様は、この名門魔法学園でも指折りの実力者。
それに加えてオーバーブロットの件で監督生達に借りがある。そこにオレが頭を下げれば、他寮生の問題とはいえNOとは言わないはずだ。

何に悩んでるのか相変わらず分からないがこれでやっと問題も解決する。
そうすればオレ達の関係も元通りになる。またこいつがあのへらりとした間抜けな顔で笑ってくれれば、それでいい。


「お前さ、何かあったの?」

「・・・・それは、でも・・・・、」


先程と同じ問いに、同じ返答はなかった。あと少しだ。
オドオドと忙しなく視線を彷徨わせていた黒い目が意を決したようにオレを見て、何かに怯えながらも唇がゆっくりと開く。


「あのさ、エース、私・・・・、」

「これはこれは、監督生さんとエースさんではありませんか。そんなに急いで、どちらへ向かうご予定で?」

「・・・・アズール先輩」


廊下の先からアズール先輩が歩いてくるのと同時に、アイツの手首が大きく震えた。明らかな動揺。
それだけで根拠はないが、原因があの人にあると分かった。確かに自分には勝ち目のない相手だった。なるほど、道理で。
さりげなく、人魚の視線の前に自分の身体を割り込ませてアイツの身体を隠す。表情はにこやかに、いつも通りに。手品をやる時を思い出して浮かべるポーカーフェイス。


「こんにちは、アズール先輩。いやーコイツが勉強に詰まってるらしくて、これからウチの寮で勉強会なんスよ」

「おや、そうでしたか・・・・ですが監督生さんはこれからモストロ・ラウンジのバイトが入っていまして。
 来るのが遅いので、心配してこうしてわざわざ迎えに来たんです。こちらが先約なので、勉強会はまたの機会にして頂けませんか?」


嘘だ。その話が本当なら律儀なコイツがのんびり図書館に居るはずがない。
横に積んでいた本の量からしてもあのまましばらくは調べものをしている予定だったはずだ。
だが、他寮の寮長を相手に正面切ってそれを指摘するわけにもいかない。どうにかこの場を切り抜けなければ。


「えーーー!?監督生、そうなの?でも、ウチの寮長とも約束をもうしちゃってるしなぁ・・・バイトは今度行かせますんで今日は見逃してもらえませんか?
 分かるでしょ?ウチの寮長との約束を破るとどうなるか・・・オレ達首を刎ねられちゃいますよ」


リドル寮長とアズール寮長は共に二年生で実力は拮抗している、と思う。
どうしても自分の寮を贔屓目に見てしまうから、むしろウチが勝つはずだとすら考えてしまう。
運動全般が苦手というアズール先輩は、リドル寮長のユニーク魔法で魔法を封じられれば手も足も出ない。うん、ウチが勝つな。寮長への信頼で強気に出る。


「本っ当にすみません。コイツには後でよく言って聞かせますんで・・・じゃ!」


ダメ押しに必要以上に大きな声で謝って、周囲からの関心と注目を引く。これでますます手は出し辛くなったはずだ。
震えが大きくなった手を無視して、強引にでも引っ張っていく。もうそろそすれ違う───そこまで近付いた時、相手が囁いた。


「来なさい。    さん」


たったそれだけの短い言葉で、オレがどんなに言葉を尽くしてやっと立ち上がらせた心が折れた。
電撃に弾かれたように強く手が振り払われて、オレの手が行き場を失くして宙に浮いた。黒い目に一瞬見せたのは極大の恐怖。


「ごめん!エース!やっぱ先約がある方を守らなきゃ、リドル寮長には謝っておいて!」

「っおい!!」


追い縋るこちらの手を無視してアズール先輩の傍へ寄って、当然のようにその隣に収まる。
表情はさっきまでのあの薄っぺらい笑顔に戻っていたが、でも薄皮がとんでもなく強固で分厚いものになったのが分かった。
もう少しで手が届くはずだったのに、届かないところへ行ってしまったのが分かってしまった。


「すみません、エースさん。僕からもリドルさんには謝っておいて下さい。───さ、監督生さん。行きましょうか」

「・・・こちらこそ、間違えそうになってすみません。もう、大丈夫ですから」


差し伸べられた人魚の手を握って監督生も歩いていく。その姿はリードを引かれる従順な犬に似ていた。
周囲を見渡すも、ただの取るに足らないやりとりだと思われたせいですぐに関心を失っていく。この場で緊急性を理解しているのはオレだけだ。

背筋を虫が這いあがるような嫌な予感に、なりふり構わず再度手を伸ばす。しかしそれよりも先に監督生がこちらに振り向いていた。


「大丈夫だよ、エース」


以前と同じで、でも決定的に違う間抜けな顔でへらりと笑って見せる。


「心配かけてごめんね。大丈夫だから、気にしないで」


これ以上ない、追わないでくれという強い懇願のメッセージだった。
強引にその手を引いた方がいいのか、それとも願い通り何もしない方がいいのか、一瞬躊躇ってしまった。

その一瞬で二人は人混みの中へ紛れて、消えて、後は何もしなかったオレだけが取り残された。


































日差しが強く、うだるように熱い夏の日だった。
ざあざあと音を立てて波が打ち寄せる浜辺では、オレの子供が足に海水を浸してその冷たさを楽しんでいた。
その手を握って倒れないように支えているのが嫁さんで、夏休みを利用して海に来ている一般的な家族の光景だった。

浜辺のビニールシートに座るオレの視線に気付いた娘が手をぶんぶん振ってこっちにおいでと誘うが、片手を挙げて応えるに留める。
どうしても行きたいと妻子揃ってせがまれなければ来ることもなかっただろう。海は嫌いだった。

別に海に対してオレ自身が嫌な思いをした事はない。
でも、アイツらが消えた時に直感的にあの人魚達を思い出したのだ。根拠なんてない、ただそれだけ。


(今頃、監督生達はどうしてんのかねえ・・・・)


監督生もグリムも、オレ達の卒業式の朝に行方を眩ませて───それっきりだ。今どうしているのか全く分からない。

もしかしたら元の世界に戻ったのかもしれない。
異世界に来るのだって突然だったから、帰る時も突然になるのも無理もない話だった。
向こうの世界で無事に暮らしてるんなら手紙の一つでも寄越せよと言いたくなるが、こっちの世界で出来なかったことを向こうからできる訳もないだろう。

そう自分達を納得させた俺達はアイツ抜きで卒業式に出て、卒業証書をもらって、そしてそれぞれの道へ進むことになった。
今でも同じ寮の先輩や同学年のデュースやエペルに達とは連絡を取り合うし、飲みにも行く。その時にも監督生とグリムはよく話題にのぼった。
そして話題の終わりはいつも「監督生が女だなんて知らなかったよな」という学園長からのネタばらしの衝撃を受けた時の話で終わる。誰もアイツの帰還を信じて疑わなかった。


(結局、あれっきりもうオレ達の誘いに乗る事もなかった。結局リドル寮長に相談することも叶わなかった)


海に来ると監督生の事を考えてしまう。あの時、今日と同じ夏の日にもっと踏み込んでおけばよかったという無意味な後悔が沸き上がる。
いや、元の世界に戻ってるのなら後悔ではなくただの杞憂だが。そうであればいいとずっと思っている。

しかし杞憂では済まされない胸騒ぎがずっとある。
視界の端にある海の家の看板にスポンサーとして載っている企業名を見れば、世間では若き実業家として持て囃されているあの人魚の事を思い出す。
もともと同じ学園でも学年が違う上に他寮の寮長ともくれば接点は薄かったがますます遠い存在になってしまった。


「・・・・ッ!」


突然冷たいものが両頬に添えられて驚く。正面に視線を戻すと、満面の笑みで笑う娘の顔と一緒に帰ってきた嫁さんがいた。黒い目が柔らかく微笑んでいる。
鬱々とした感情をすぐに隠して、小さな体に手を添えて掲げると「キャー!」と楽しそうな声をあげて笑った。


「パパ!ただいまー!うみつめたかった!!おさかないなかったけどたのしかった!!」

「ずっと来たかったのにパパが嫌って言って来なかったものね。せっかく来たんだし、どう?この子は私が見てるからその辺を散歩してきたら?」

「あー、そうね、そうするわ。ついでに何か食べ物でも買って帰る」

「やったー!じゃあわたし、からあげにたこやきに、えっとそれから・・・・」

「ハイハイ、今からそんなの好きだと太るぞ」


憤慨する小さなお姫様の要望を聞きながら立ち上がって、娘を下ろしてから財布の入ったカバンを持って歩き出す。
そのまま海の家へ向かうか少しだけ悩んで、結局はビーチサンダルと足を海に濡らしながら浜辺を歩く。波が足とサンダルの隙間を撫でていく感覚は嫌いじゃない。

ぼんやりしながら歩いていたせいか、次第に人気のないゴツゴツした岩場まで来てしまった。大きな溜息を吐いて近くの岩場に腰かけると、海は青い線をどこまでも遠くへ伸ばしている。
人魚達の国である珊瑚の海にも足を踏み入れたことがあるが、高度で高価な魔法薬が必要なだけにあの一度しか行ったことがない。頭にイソギンチャクを生やされたのは今じゃ笑い話だ。


「・・・・・・・・・・・、」


これは後から知った話だが、オレ達の卒業式の朝にどこかの海岸で大規模な魔法による戦闘があったらしい。
珍しい青の炎と大海嘯がぶつかり、一つの海岸が荒れ地になる大きな爪痕を残した。その割には跡地には死傷者は見当たらないと、新聞の片隅に載っていた。
警察関係は許可されていない場所での届け出のない魔法戦闘に遺憾の意を示したが、人的被害がなければそれまでだ。もう誰もあの事件のことなんて覚えていないだろう。

きっと自分だけが今もその事件を覚えていて、もしかしたらと思っている。希望のない絶望の可能性をずっと思い続けている。


(・・・・そんなはずない。きっと元の世界に戻ったんだ、だから連絡がないのもしょうがない)


同じ空の下ですらない、文字通り異世界ほど遠くにいるであろうアイツらの事を思った。
魔法を使えなくてもいい、金持ちじゃなくてもいいから性格の良いやつと結婚してオレみたいに家庭をもっていてくれればいいと思う。
もし子供ができたんならグリムのやつはいい遊び相手になる。あるいは家庭を持たなくたっていい。穏やかに暮らしていてくれるのなら、それが一番いい。


「          」

「!!」


誰かに声を掛けられたような気がして慌てて水面を覗き込む。声の発生源は海からだった。
でもそこには当然のように誰もいない。静かに波を打ち寄せる青い海があるだけ。どうやら波の音を人の声と聞き間違えたらしい。


『久しぶりだね、エース』


だからそんな風に声を掛けられた気がしたのも、きっと気のせいだ。
でももし、それが気のせいでなかったとしたら。この広すぎる海の中にアイツがいるとしたら、いやまさか。アイツは異世界に、元の場所に戻ったんだから。でも、もしかしたら、


「あーーー・・・・・」


やっぱりあの時、無理やりにでもあの手を引っ張っていくべきだった。
例えそれでどんな目に遭う事になろうともアイツ自身にどう懇願されようとも、譲るべきではなかった。あの嘘を信じるべきではなかった。

そんな今更どうしようもない事を後悔するから海は苦手だった。
悲観から来る幻聴と妄想を振り払って、家族の元へ帰るべく立ち上がる。帰りに寄るところもある。

次はどんなにせがまれようとも、オレが海に来ることはもうないだろう。








































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あとがき。
エースが結婚してるかどうか、最後まで悩みましたがささっと結婚して子供持つタイプだろうなーと思ったので。
強姦部分の詳細は後日に別途お話にする予定ですが、5月の原稿を優先させるのでいつになるか未定です。


2021年3月7日執筆 八坂潤
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