営業を終えた夜のモストロ・ラウンジのVIPルーム。

壁と一体化した大きな金庫を背に机に座ったアズール・アーシェングロットは、帳簿の計算を終えて息を吐く。
溜まった乳酸をほぐすように肩を回していると、そのタイミングを見計らったようにジェイド・リーチが紅茶を差し入れた。疲労した精神に紅茶の温かさが染み渡る。

ほっとしたのも束の間、ノックもなしに部屋のドアが勢いよく開いた。


「ただいまぁ~。あー疲れた!オレにもそれちょーだい、ジェイド」

「お疲れ様です、フロイド。ちゃんとお仕事は済ませてきましたか?」

「うんバッチリ。はいこれ」


ドアを開けたフロイド・リーチが踊るように歩き、黒革のソファーに上にどっかりと腰掛けた。
そして手を振ると机の上に金と銀で一部を覆われた白い何かが数本転がる。よく見ればそれは人間の歯で、金属部分は虫歯の治療痕だと分かった。

ジェイドがフロイドを見ながら自分の頬を指でトントンと叩く。返り血を指摘された兄弟は白手袋が汚れるのも厭わず雑に自分の顔を手で拭った。


「小エビちゃんに手ぇ出そうとしてたやつらちゃーんと絞めてきたよ。それが証拠」

「陸の人間は虫歯になるとその部分を削って金属の詰め物をすると聞きましたが、なるほどこれがそうなんですね」

「沈没船の死体を見た時は陸の人間は歯も着飾るのかと驚きましたが、違いましたね。海には歯医者なんてありませんし、陸に上がらなければ一生知らなかったでしょう」


歯が折れてもすぐに生え変わる人魚達に歯医者の必要はない。逆に人間の歯は生え変わらないと知りながら、その抜いてきた歯の持ち主については誰も言及しない。


「でしょ?珍しいし証拠になるから抜いてきちゃった。ピカピカしてんの好きでしょ?アズール」

「・・・ちなみにこれ、ちゃんと洗ったんですか?血が付いてますが・・・」

「洗ってねーけど」

「そんな不衛生なものを机に放らないで、手と一緒に洗ってきなさい」

「えーそのままの方が味があるんじゃん。アズールが要らないんならジェイドがテラリウムに飾んなよ」


気ままな人魚は幼馴染と兄弟の嗜めも気にした様子もなく、カップに注がれた熱い紅茶を飲みながらアーモンドクッキーに手を伸ばす。
ジェイドはフロイドの言葉を真面目に検討しているのか、手袋をした手に更にティッシュを重ねて歯をつまみ色々な角度から眺めている。


「よくやりました。対価は用意してあります」

「あは、待ってましたぁ」


アズールがマジカルペンを振るとタコ焼きがフロイドの前に現れる。
好物を対価に相手を制裁してきた人魚は、無邪気に目を輝かせてタコ焼きに飛びついた。
頬いっぱいに詰め込んで咀嚼するフロイドの目は実に満足そうな顔をしていたが、願いを叶えられたアズールは重ねた両手の上に顎を乗せて物憂げな表情を浮かべる。


「しかし、これで何人目でしょうね。監督生さんは僕達以外に性別もバレてないのにこの負の人気ぶりとは。
 もしも彼女の性別がバレてしまった時は色々な男に慰み者にされてしまうでしょう。可哀想に」

「・・・その通りです。だから彼女は早く僕の恋人になって、僕の庇護下に入るべきです」


アズールがペンを乱暴にインク壺に突っ込むと、傷口から噴き出る血のようにインクが辺りに飛び散った。
美しい柳眉の下のスカイブルーの瞳には苦々しい色を湛え、艶黒子が添えられた唇も不機嫌さを示すように尖らせている。

そう、オクタヴィネル寮の寮長であるアズール・アーシェングロットはオンボロ寮の監督生に恋をしていた。

彼女の弱い能天気な頭でも自分の恋人になるメリットは分かっているはずだと、彼は歯軋りする。
自分の手を取れば、学校のテストに頭を悩ませる事も、日々の貧相な食事に溜息をつく事も、疎まれて危険な目に遭う事も、全てから救われる。
それこそ姫君のようにありとあらゆる困難から守ってやってもいいだろう。だが。


「なのになぜ告白してこない!?お互いに気持ちが通じ合っているのは分かっているでしょう!?」


怒りに任せて振り下ろされた拳が木目が美しい机を強く叩く。
幼馴染の憤懣やる方ない様子に、相似形の兄弟は面白そうに顔を見合わせるだけだった。事態を面白がるが手助けはしない、いつもの二人だった。


「えー、それアズールが言うの?ウケる」

「しっフロイド。アズールは監督生さんから告白されたいんです。そういういじらしい男心を汲んで差し上げないと」

「えー、それただのめんどくせーやつ、むぐ」


兄弟のあまりに正しい指摘に、ジェイドがその口にクッキーを詰め込んで黙らせる。

あの魔法薬の事件以降、最初の内こそはお互いに告白を迫るという妙な膠着状態が続いていたが最近ではそれもない。
ディアソムニア寮との問題に首を突っ込んでバイトのシフトを休み、会うことすらままならない状態だ。

イライラと指先で机の上を叩く音を伴奏としながら、いじらしい男の苦々しい声は続く。


「名門ナイトレイブンカレッジで優秀な成績を修め、二年生にしてオクタヴィネルの寮長に着任。
 更には学内にカフェも経営し成功させ、その実績で新聞記者からも取材も受けた。
 この学園を出てもすぐに彼女を養えるだけの資産もある。ついでにグリムさんも養ってもいい」

「取材って、地方紙の端っこに載っただけじゃん」

「首席ではなく優秀な成績という表現がいじらしいですよね。・・・まぁ、僕達の代にはあのリドルさんがいるのが運の尽きといいますか」

「ともかく!!」


机の上に乗っていた紙をぐしゃぐしゃに握り、誰もが羨む才に恵まれているはずの少年が吠える。


「そんな僕がここまで想っているのになぜ何もしてこない!?納得がいかない・・・」

「だからさ~もうアズールが告白すりゃいーじゃん。前にユーレーのお姫様に告白できたんだし。玉砕だったけど」

「そうだ。あの時だって僕は他の奴らの失敗から学んでちゃんと花も歌も用意したし言葉も尽くしたのに、いったいなにが不満だったんだ・・・?どいつもこいつも・・・」


全く理由がわからないという様子でぶつぶつと文句を言う幼馴染に、フロイドとジェイドの二人が顔を見合わせて全く同じタイミングで目を瞬かせる。まるで鏡合わせのような光景。


「・・・もしかして、まさにあの失敗を気にしているのでは?監督生さんはあそこまで理想が高くないと思いますけど」

「でもそれって他の小魚にもホイホイついていっちゃうって事じゃん。小エビちゃん断れなさそーだし」

「そうですねぇ・・・確かあのマレウスさんをあだ名で呼ぶほど仲が良いというお話ですし・・・」

「ぐっ・・・・・・」


世間話と見せかけた精神攻撃は見えない矢となって的確にアズールに刺さっていく。
青空色の瞳が忌々しげに天井を仰ぎ、艶のある唇からは大きく息を吐いた。
その姿は、学園の誰もが羨むものをほぼ手中に収めながら、ただの色恋に苦悩する平凡な少年だった。


「───そうですね。もう僕から告白してしまいますか」

「「・・・・・・・・・・・・え!?」」


予想外の決意の言葉に、思わずウツボ達がソファーから立ち上がってアズールを見る。

二人の常にない驚愕に不快感はあったが、そうするのが一番だという事くらい少年も分かっていた。
分かっていて取りたくはない手だったが、このままずっと幼馴染に弄られ続け、悶々と頭を悩ませる時間が続く方が不利益だ。
そう、自分から折れたのではなく効率をとっただけのこと。


「こうして、頭を悩ませる時間自体が不毛でしょう。それに彼女の場合は不安要素がありますから、早々に囲い込んでしまった方がいい」

「不安要素・・・ああ、人間である監督生さんと人魚であるアズールの異種族婚ですか?最近は珍しいものでもないと思いますが」

「いいえ。彼女は異世界の人間だからです」

「・・・?なんでそーなんの?むしろ都合がいんじゃね?」


フロイドの黄金と深緑の瞳に意地の悪い光が宿り、ジェイドも無言で同意する。
頼る者も帰る家もないのだから囲ってしまえと言外に囁く強者の思考。

長い睫毛を伏せたアズールがくるりと手の中でペンを回す。行儀の悪い行為だが誰もそれを咎める者はいない。


「監督生さんには異世界に対する強い未練があります。現状は帰還する方法がないからこのツイステッドワンダーランドに留まっているだけ。
 このまま方法が見つからない、いっそなければいいですが可能性はあるでしょう。現にこうして来ているのですから」


未だ見た事のない彼女の両親もあの黒い目をしていて、似たような外見をしているのだろうか。
今も違う空の下で行方知れずの娘を想って泣いているのかもしれない。同情を引く姿だが、譲る気は毛頭ない。


「僕が手を下して帰還の手段を潰すのは簡単です。が、遺恨が残る。
 彼女は一生僕を許さないでしょう。・・・それでは困ります。・・・・・・その、嫌われたくないので」

「「・・・・・・・・・・・・」」


強欲で知られる幼馴染の予想外の言葉にウツボ達は目を見開いて驚愕し、それぞれ手に持っていたお菓子と書類を床に落とす。
床に散った白い紙の上にクッキーが落ちて僅かに欠けたが、誰もそれを拾おうとしなかった。

たっぷり沈黙が流れてから、フロイドとジェイドが信じられないという声色で会話を続ける。


「・・・えっ・・・ちょー意外なんだけど。アズールってそれでいいんだと思ってた」

「僕もです。いえ、むしろ承知の上で積極的に潰しにいくものかと」

「それでは駄目です。例え二人の方法でうまくいったとしても、異世界よりも僕の方が価値があって魅力的なのだと分からせなければ、彼女は僕の恋人ではなく異邦人のままだ」


冷然と語るアズールの言葉の中には、倫理観だとか正義感だとか善意といった感情が欠落していた。
執着じみた愛情とそれを実現するための合理性が、冷たい炎となって瞳の奥で燃え盛っている。

その熱を感じ取った二人は楽しそうに目を細めた。いきなりまともな事を言い始めた幼馴染だが、根本は変わらないのだ。そうでなくては面白くない。


「こればかりは魔法でもどうにもならない。時間が必要だ」


美しい唇から物憂げな息を吐いたアズールが目を閉じる。

そうと決まれば彼女の好む告白のシチュエーションを考える必要がある。異世界人はどうやって愛を囁くのだろう?
前回のゴーストのお姫様に求愛した時とは違い、本気で考えなければならない。失敗も許されない。
恋愛相談を受けたことはあるが、大概は魔法薬で解決してきたから小細工なしとなるとお手上げだ。

商談ではよく回る頭は凍り付いたように動かない。心からの愛の告白なんて考えた事がないし、今後もそんな必要はないと思っていたからだ。

額に深い皺を寄せて不機嫌そうな目をして黙り込む幼馴染の顔は、とても愛の告白を考えている姿に見えなかった。
でもその真剣な様子にウツボ達は口の端を上げる。


「あは、本気じゃん、アズール。いいよぉオレらも協力してあげる」

「人魚から人間への告白といえば、湖をボートでデートするのが人魚達にとって憧れのシチュエーションですね。さっそく手配しましょうか?」

「あーそれいーじゃん!オレらが歌って盛り上げよっか?ジェイドはベース弾けるしオレはドラムできるし」

「・・・お前たちは楽しんでいるだけだろう」


自分よりも盛り上がるウツボ達の様子にアズールはげんなりとする。
珍しく協力的なそぶりを見せるが、そもそも自分と彼女が既に両思いだという事を知った上で掻き回したのもこいつらだ。
最初にそうだと言ってくれたらこんな面倒な事にはならなかったのに。

胡乱な目で見ると、ジェイドが全く濡れていない目許をわざとらしく拭って悲しげな声を出した。


「僕達の友情を疑うのですか?悲しいです・・・しくしく」

「そーそー。オレらアズールと小エビちゃんに仲良くなってもらいたいのに~」

「・・・まあいい。協力する気があるのなら利用させてもらうからな」


もう既に起こった事を掘り返しても仕方がない。当事者を差し置いてあーだこーだと勝手に告白の算段を付け始めるウツボ達を置いてスマホの画像フォルダを探る。
すぐに目当てのものは出てきた。オクタヴィネルの寮服を初めて着て、はにかんだ笑みを見せる彼女と僕とジェイドとフロイドの画像。当時のやりとりを思い出して自然と口元が綻ぶ。


(早く気持ちを伝えたい。できれば彼女にも同じ気持ちであってほしい)


視線はモストロ・ラウンジの外、オンボロ寮のある方向へ向けられる。
黒の帳のように静かに揺蕩う海の向こう、切り立った崖は今日も静かにそびえている。
































どうしてこうなっちゃったんだろう。

この期に及んでも考えるのはそんな事ばかり。もっと考えなきゃいけないことはたくさんあるのに、あったのに、今さら後悔している。
私がもっと真剣に受け止めていれば。私がもっとちゃんと止められていれば。私が悪い予感から目を逸らさないでいたのなら。


「お前たちはなんてことをしてくれたんだ・・・」


こんな事になっていないはずなのに。

青い炎の残滓が地面のあちこちを舐め、焦土と化した学園のコロシアムはかつての歴史もその重厚さも見る影がない。この世の終わりのような光景だった。
視線を前に戻すと、焼け焦げてボロボロになったスーツやローブを着た大人達が私達を取り囲んでいた。
みんなの浮かべる表情は恐怖、怒り、憎悪と様々だったが、共通しているのは全て私達に向けられているという事だ。


「・・・・・・・・・・・・」


向けられた感情の重さに耐えきれず、視線を再び自分の膝の上に落とす。
私の足に頭を預けてぐったりしているグリムは息をしているけれど意識はない。
さっきの化け物のような姿から、猫とも狸とも例えられるいつもの姿に戻っていてホッとする。

この温かい毛並みだけが今の私にある全てだ。それ以外のものは失われてしまったし、これから失うのだろう。


「怪我人の手当を急げ!まだ間に合う!!」

「俺の息子もこの学園に通ってるんだ!どこにいる!?返事をしろハロルド!!」

「私の子供もよ!お願い、フェイ・・・無事でいて・・・!」


大人達が方々を走り回り消火活動を試みているが、魔法の炎は簡単には消えないのか苦戦しているようだった。
火が残る地面にはたくさんの生徒が倒れていて、その友達らしき生徒が懸命に肩を揺さぶっているが一部は反応はない。
大人達が魔法で治療にあたっているが、悔しそうに首を振り、泣いて縋る姿を何度も見た。

そんな中、視線の先で倒れるエースとデュースの肩が上下している事にほっとしてしまった。
同じハーツラビュル寮の生徒達が担架に乗せて遠くへ運ぶのを見送る。無事であってほしいと心の底から思う。

同時に、たくさん人が死んだり怪我をしていてそれどころじゃない状況なのに、仲の良い友達の生存に喜んでしまう自分が薄情だと思った。
薄情というよりも浅ましい。そんな精神だからこうなるのは当然の報いなのかもしれない。

熱風に煽られた髪が頬の汗と血に張り付く。


「・・・お前がその化け物のペットの飼い主か」

「・・・グリムはペットじゃ・・・・・・」

「口答えは反逆の意志があると見なす」


遊びとは違う、本物の憎悪に満ちた声に体が竦む。それ以外の大人たちの目も義憤に燃えていた。当然だった。
魔法石のついた杖を油断なく私達に向けて突き付け、少しでも怪しい動きをすれば殺すという苛烈な意思表示。


「我々は魔法執行官だ。話くらいは聞いた事があるだろう?無駄な抵抗はやめておけ」


魔法執行官。
確か星送りの儀式の時に、デュースが湖色の瞳を輝かせて語った夢だ。警察の中でも凶悪な魔法犯罪を取り締まるエリート集団。
その選ばれた正義の味方達が私達に刃を向けている。向けられるだけの理由があった。


「マレウス様!しっかりして下さい!!マレウス様!!」


遠くでディアソムニア寮の生徒の叫び声がする。セベクの声ではなく、他の寮生の声だ。

ツノ太郎───ディアソムニア寮の寮長であるマレウス先輩がオーバーブロットをして私達は戦って、辛くも勝利した。
参戦したみんなが疲労困憊・満身創痍になった厳しい戦いだった。
そのツノ太郎も、助けてくれたイデア先輩も遠くで倒れて意識がない。

だから、あの黒い石にグリムが飛びついて食べてしまうのを誰も止められなかった。
いや、戦闘に直接参加していない私だけは止められたはずだった。
あの石に執着するグリムがどんどんおかしくなっているのも気付いていたのに、目の前の事に必死で動けなかった。

そしてグリムがオーバーブロットした。

いや、あれをオーバーブロットと呼んでいいのか分からない。
けれど、グリムだった生き物は青い炎のたてがみにいくつもの動物の姿をつぎはぎしたような異形の姿になって、言葉が通じない理性もない化け物になった。
化け物になったグリムは学園のあちこちを破壊し、通っていた生徒を攻撃し、やがて通報があって急行した魔法執行官と教師たちの手で何とか鎮圧された。

そして元の姿に戻って今は私の膝の上というわけだ。


「まさかあんな化け物が現れるなんて・・・」

「早く処分しなければ・・・その飼い主も野放しにしておけばどうなるか・・・」


グリムとは長い時間を一緒に過ごした。
なのに本当は恐ろしいこんな怪物だったなんて、ちっとも知らなかった。もっと早く言ってくれれば、・・・いや、だからといって結果は変わらないか。


「学園の生徒にもたくさんの犠牲者が出ています。テレジア執行官・・・」

「・・・お前達の罪状には一片の酌量の余地はない。被告の上告も控訴も一切認めず、上級魔法執行官の名の元に刑の即時執行を言い渡す」


遠くでまた誰かの泣き声が聞こえた。
オーバーブロットしたグリムの手で大勢の生徒が死んでいた。その中にはきっと顔見知りもいるだろう。
それが誰なのか確かめるのは恐ろしく、そしてそんな時間はたぶんない。


「魔獣グリム、殺人罪に建造物等損壊罪に公務執行妨害罪、ほか複数の罪状を現場にて確認し罪状に一片の余地がないことをここに宣言する」


上級魔法執行官の冷たい正義の目が私を見る。


「異邦人    、お前を監督不行き届きでその魔獣ともども冥界送りとする」


自分の名前を呼ばれているのに、遠い国の言葉のようになんだか現実味がなかった。
でも死刑とは違う、耳慣れない刑の内容に反応する。

「冥界送りって・・・なんですか・・・?」

「ツイステッドワンダーランドにおける死刑よりも重い罪だ。お前は生きたまま冥界へと落とされ、二度とこの世界に戻る事はない。
 死んでいないから輪廻転生の輪にも乗れずに永遠に冥界に囚われる。有史以来、数えるほどしか執行されていない極刑だ」


聞いただけでも足が竦むような恐ろしい罰だった。
元の世界に戻るどころか、また別の世界に行くことになったらしい。しかも今度はあの世だなんて、冗談みたいな旅だ。

グリムを連れて逃げ出したいけれど、逃げきれないという確信があった。
負傷した学園長の代理として、クルーウェル先生やバルガス先生が私達を擁護しようとする声が聞こえたけれど、どうにもならないらしい。

他に誰も抗議する人間はいない。当然だった。
みんな私達への罰を望めど、助けようだなんて考える生徒は誰もいない───いや、一人だけいた。


「    さん!!」


また遠い異国の言葉だ。いや、違う自分の名前だ。聞き覚えのある、愛しい声が私を呼んだ。

その音と共に目の前に居た魔法執行官が倒れ、代わりに強く手を引かれて立ち上がらされる。
グリムを落とさないように抱え直して、その手の持ち主を見る。

白煙の中から現れたのは、私よりも蒼白な顔をしたアズール先輩だった。
自慢気に着こなしていた寮長服は泥と埃で汚れて見るも無残な姿だったが、呆然としたままの私に苛立ったように強く手を引く。
普段の余裕たっぷりな美しい顔は見る影もなく、瞳には恐怖と心からの私を案じる色。


「ッ何をイソギンチャクのようにボーッと突っ立ってるんですか!?逃げますよ!!」

「アズール・・・せんぱい・・・・どうして、」


どうしてあなたが私の手を引こうと、助けようとしているんだ。
もうこの時点で私達はどうしようもなく罪人で、それを助けようとしたアズール先輩もタダじゃ済まされない。

周りの大人達と戦うリーチ先輩達の姿も見えた。これまで誰が死んでも呆然として涙なんて流れなかったのに、熱い液体で視界が滲む。


「あなた、このままでは冥界送りにされるんですよ!?そうなったらもうおしまいなんです!永遠に!!」


そうだ、そうなったらもう元の世界にも戻れないし好きな人に会うこともできない。大好きなアズール先輩と永遠に会えない。

でもアズール先輩はどうなっちゃうんだろう?
このまま一緒に逃げてくれたら嬉しいけれど、一生追われることになる。

先輩一人ならまだしも、私みたいな足手纏いを連れて逃げ切る事なんてできるのか?
・・・いや、いくら学園で優秀な成績を修めた生徒だとしてもまだ少年の域を出ないアズール先輩が逃げ切ることなんて。

たぶん、できない。

地方紙のインタビューで誇らしそうに将来を語った先輩の顔に亀裂が入る。亀裂の間からは深い闇が覗いていた。
両想いになったら卒業後は一緒に暮らしたい。そんなかつて描いた幸せな光景も、粉々に砕け散っていく。
ほかならぬ私の手で、全て台無しになる───大好きなアズール先輩の未来が、黒く塗り潰される。


「さあ!早く言って下さい僕に、たったそれだけでいいんです!!」


助けて下さい。それとも、好きです。

この時、先輩が求めた回答はどっちだったんだろう。きっとどっちでも助けてくれるつもりだったんだ。
私が望んだのなら、その将来全てをかなぐり捨ててこの手を取って、どこまでも逃げてくれるつもりだ。本気なんだ。


「・・・ッ言え!僕に!!一言でいい、早くあなたの言葉で、声で、そうしたら僕は、」


この期に及んでも呆けたように何も言えないでいる私に、アズール先輩が焦れたように叫ぶ。
周囲の怒号も破壊音も全てが遠く、世界には私達二人きりだった。

ああ、なんて言おう。私のたった一言でこの人の未来も決まってしまう。


「小エビちゃんなにぼーっとしてんの!?早くアズールのいうこと聞いて!」

「僕達だけではもちません!さぁ早く!いって!!」


腕の上のグリムを見て、アズール先輩を見て、そしてその後ろで戦って大人達に押され始めるリーチ先輩達を見た。
感情とは別に頭の中の電卓が動いて冷徹な計算を弾く。結果は出た。うん、そうしよう。

ああ、よかった───あの時、あの薬を飲む前に告白しなくてよかった。もしかしたらこの時のためだったのかも、なんて。それはさすがにこじつけだけど。でも。


「アズール先輩、嫌いです」

「・・・・・・・・・は?」


場違いな言葉に確かに時が止まった。アズール先輩の流氷色の瞳が固まって、ああ、かわいいなと思った。


「頭が良いはずなのにニブちんで、お金にがめつくて、紳士ぶってるけど腹黒いし、すぐ弱みに付け込むし、変に卑屈だし、あと結婚したら料理の味にはうるさそうだし、」


本当はこんな事を言いたくなかった。あなたが好きですと声を大にして言いたかった。
こんな事になるのならもっと早く正直に言っておけばよかった。あの約束をする前に言っておけばよかった。

あなたのためなら元の世界を捨ててもよかった。あなたと一緒に生きていきたかった。

でも、私の為にあなたが全てを捨てるのは耐えがたい事だった。
頭の中で砕け散っていた先輩の幸福な未来の肖像画が逆再生のように復元されていく。
その中に私はいない。先輩は、知らない誰かと微笑んでいる。それでいいと思った。それくらい、私はこの人が好きだ。


「だから私の事は、早くあの薬を飲んで忘れて下さい」


ここが魔法のある世界でよかった。あの薬さえ飲めば私の事なんか忘れて幸せな未来を掴める。
本当はその隣に私が居られたら嬉しかったけれど、こうなったらしょうがない。ぜんぶ諦めよう。

愛しいスカイブルーの瞳が限界まで見開かれて、目尻には透明な涙が浮かんでいた。私もたぶん泣いていた。
無音でわなないた唇は無意味な呼吸に終わり、この世全ての絶望を背負ったかのように立ち尽くす。その細い身体を突き飛ばして、さっきの上級魔法執行官が私の前に立つ。

無言で腕の中のグリムを抱きしめた。せめて、この手だけは放したくなかった。


(アズール先輩、私の事を好きでいてくれたんだ・・・同じ気持ちでいてくれて、嬉しいな)


こんな状況でなりふり構わず助けようとしてくれたのが、何よりも雄弁な告白だった。
最後にそれを知る事ができてよかった。意地を張らなければよかったという後悔はあるけれど、でもこれも罰の一つなのだろう。

私はこれから冥界に堕ちる。
その恐ろしさよりも、アズール先輩の未来の中に自分がいられない事だけが悲しくて、悔しかった。


「刑を執行する!」


私とグリムを取り囲むように複雑な模様の魔法陣が地面に浮かび上がる。
無数の黒い手が地面から生えてきて私達の身体を掴み、そして地面にぽっかりと空いた落とし穴に落ちるように落ちていった。
どうやら冥界は地面よりも深いところにあるらしい。初めて知った。

どんどん小さくなっていく地上の光をなすすべなく見送った。
零れた涙が物理法則に逆らって上へと流れていく。まるで雨の逆再生みたいだった。

そして私達の視界は永遠に闇に閉ざされた。






























アズール・アーシェングロットはモストロ・ラウンジのVIPルームの椅子に座っていた。
自らが選別した新たな支配人に店の引継ぎも終わり、明日からはもうここに来ることもない。今日は卒業式だった。

ナイトレイブンカレッジ開校以来の、多数の死傷者を出した魔獣事件から二年の月日が経った。
一時は休校とも廃校という声もあがったが、名門というネームバリューと積み重ねた歴史のおかげでそうはならなかった。
事件の爪痕はただちに魔法で修復されたが教室に座るクラスメイトの数は以前に比べて減り、あの事件の事は口にする事さえ禁忌となった。

一般寮生であることを示す紫のシャツと白いボウタイを緩め、灰色のストールが地に落ちる。


『アズール・アーシェングロット君。きみには失望したよ』

クロ
ウリー学園長とちがい、滅多に表舞台に出てこない理事長から直々に呼び出された僕はあの事件で罪人を庇った責任として寮長をクビになった。
その余波はモストロ・ラウンジの運営の是非にも影響が及んだが、生徒からの根強い支持もあってなんとか店は存続できた。
今後もこの店は栄えある一号店として残っていくだろう。

コンコンとノックの音が響き、続いて現れたのは幼馴染であるフロイド・リーチとジェイド・リーチの兄弟だった。
視線で入室を促すと、二人は黒の革張りのソファーにそれぞれの座り方で腰を下ろす。

机の下でマジカルペンで周囲を探査するもいつもの気配はない。
あの魔獣事件で罪人を庇い立てした僕達には常に監視の首輪が付けられ行動が制限されていた。

こうして3人きりで話すのも久しぶりなくらいだ。
卒業式という大勢の人間が動くイベントで警戒は緩んだとはいえ、この兄弟はうまくやったようだ。


「・・・で、アズール。話ってなーに?卒業式終わったんだし早くパーティーの方行こうよーご馳走なくなっちゃうじゃん」

「誰の目にも付かないようにという指示でしたが、すぐに僕達の不在には気付かれるでしょう」

「・・・・・・・・・」


フロイドの気怠そうな抗議を無視して魔法薬を机の上に置く。ガラス瓶の中の液体は蛍光グリーンに輝いていた。
見覚えがある魔法薬に二人の相似形の顔に揃って疑問符が浮かぶ。
そう、かつて僕が彼女に飲ませ、また僕も飲んだもの───恋心を結晶化する魔法薬だった。


「アズール、その薬は、」


ジェイドの言葉を待たずに魔法薬を一気に呷り、そして予想された不快感とその不味さに喉をえづかせる。
効果はすぐに表れ、身体の中から形を持った何かが遡ってくる生理的嫌悪感に耐え、そして皿のように広げていた両手の上に吐き出す。

吐き出したものは吐瀉物ではなく宝石だった。ただしそれは淡い桜色でも濃い紫色でもない、鳩の血のように赤く美しい宝石だった。

その色の示す事実にフロイドとジェイドが目を軽く見開き、僕は予測していた事実を再確認するだけだった。
だってこの感情は僕の胃の中でずっと燃え盛っていたのだから。


「───決めました」


分かり切っていた答えを確認する儀式が終わった。
宝石を天井の照明に透かし、絞られた明かりの中でもなお鮮紅色に輝く光に目を細める。美しい光だった。


「僕は冥界に行きます。そのために二人の力を僕に貸してください」

「「・・・・・・・・・は?」」


いつも予想外の提案で二人を驚かせ、また楽しませてきた仕掛け人の荒唐無稽な決意の言葉に揃って間抜けな声を出す。
どうしてそうするのかという理由は明白だったが、どうやって実現するかという道は途方もなく遠く、果てしない。
ツイステッドワンダーランドの有史以来、恐らく誰も成功したことのない目標だった。


「そして僕はもうツイステッドワンダーランドには戻ってきません。そのまま異世界に行きます」

「「・・・・・・・・・はぁ!?」」


そして更に畳みかけるように続いた決意表明に、幼馴染達はまたしても揃って間抜けな声をあげる。二人の反応は少しいい気分だった。

視線を正面に戻し、ジェイドとフロイドの表情を見る。
二人の顔は分かりやすく引き攣っていて、自分の決意の実現への困難さを再確認するだけだった。

だがそんな事くらいは重々承知している。だからこその二人への協力要請だ。


「・・・・・・まさか、アズール・・・貴方は監督生さんを追いかけるつもりなのですか?今までそんな素振り全然見せなかったのに」

「あの時、監督生さんを庇おうとした事で僕達はずっとマークされていましたから。模範的な優等生だったでしょう?この二年間は」

「確かに。ここ二年間のアズールは良い子ちゃん過ぎてつまんなかったよね」


フロイドがその端正な顔に似合わない凶暴な牙を見せて獰猛に笑う。
面白いおもちゃを見つけた時の顔だ。久々に見る表情でもある。


「───この二年間、どうすれば冥界に行けるのかをずっと考え、模索してきました」

「まさか、この二年間ずっと魔法理論の構築を頭の中だけで行っていたんですか?しかも、冥界に行くだなんて前人未到の領域でしょう?」

「ええ。紙などの物質的な証拠を残すわけにはいきませんから。頭の中でずっと、片時も休まずに計算し続けてきました。
 今この時も演算していますが、認めがたい事に僕だけではどうしても限界がある。その結論を出すのにも二年かかりました」


アズールは何でもないように言ったその言葉の意味にウツボ達は色めき立つ。
寮長の任を解かれたとはいえ学生と支配人を両立し、監視の目を搔い潜り前人未到の魔法理論を演算していた事が信じられないのだ。

自分でも執念だと思う───いや、執念ではなく、これが愛なのか。
かつて黒になる寸前のアメジストになった自分の感情は、ルビーの中でも一際赤いピジョンブラッドの色になった。


(あの時、彼女は僕の手を振り払った。グリムさんと一緒に冥界に行くことを選んだ。あの女は僕から逃げたんだ)


当時はあまりの理不尽さに頭が回らなかったが、今なら彼女が何を考えていたかが分かる。この二年間ずっと考えてきたからだ。

彼女は僕の未来を踏み躙る事をためらったのだ。自分のせいで共に茨の道を歩み傷付くことを恐れた。
その事がずっと腹の中で瞋恚の炎として燃え盛っている。
本人としては自己犠牲で僕を救ったつもりなのだろうが、実際は覚悟が足りなかっただけだ。

当時の僕の実力不足は認めよう。
あの時、一緒に手を取り合って逃げてもすぐに追いつかれた。叶わぬ逃避行をして一緒に冥界に堕ちるよりも、僕がこちらに残ったのは現実として正しかった。

だが、あの時僕を選ばなかった正しさを一生許さない。

───そして気に喰わないことはもう一つある。


「でもさぁアズール、忘れちゃったの?」


フロイドの深緑と黄金のオッドアイが意地悪く細められる。
獲物を追い詰める時の表情だ。ジェイドも同じ表情をしているだろう。


「あの時がっつり小エビちゃんに振られちゃってんじゃん。それなのに追いかけるんだ?」

「ええ、昨日のことのように覚えていますよ。いつだって腸が煮えくり返る想いだ」


当時を思い出すだけで眩暈がするほどの怒りに苛まれる。膝の上の拳を血の色が無くなるほど深く握り込んだ。


「ですが、僕はまだ返事をしていませんので」

「・・・・・・ぷっアハハハハハハハ!あー、・・・確かに・・・そりゃそうだわ・・・・・・」

「それは是非、お返事をしてさしあげなくてはね」


僕の返事にフロイドが爆笑して天を仰ぎ、ジェイドも堪え切れないという様子で肩を震わせた。

そうだ。彼女は僕とグリムさんを孤独の天秤にかけ、そしてグリムさんを選んだ。
あの能天気な頭で「アズール先輩にはリーチ先輩達がいるから大丈夫」でも思ったのだろう。残される僕の気も知らずに。

今すぐあの細い首に手を掛けて締め上げて、残された僕がどんなに惨めだったか、どんなに恋焦がれたかを分からせてやりたい。同じ苦しみを与えてやりたい。
その身体を抱きしめたい。あの髪を僕の指先で梳いて、どんなくだらない事でもいいから声を聞かせてほしい。笑顔が見たい。自分が最後に見た彼女は泣いていたから。


「・・・・・・・・・・・・」


深く息を吐くと、それだけでメンタルがリセットされる。この二年間、感情の激昂を押さえるたびに繰り返してきたルーティンワークだ。


「もしさぁ冥界に行けたとしても、どーせ広いし未知の世界じゃん。
 そんな中からどーやって小エビちゃんを探すワケ?それこそ海底で一粒の砂金を探すような話でしょ」

「もちろん。アテは用意してあります」


立ち上がって、金庫の奥にずっと仕舞われていたランプを取り出す。
古い型の中から光をもたらすその源は、現代の安定したLEDの光ではなく空気の流れに揺らめく火だった。

密閉空間の中でも絶えることなく静かに燃え続ける魔法の炎───その色はいつか見た青色をしていた。


「これ、アザラシちゃんの炎?」

「ええ。あの事件の時に秘密裏に回収しておきました。これを上手く使えば二人の存在を辿れます」

「・・・・・・あは、なにそれ、ずーっと保管してたの?オレら全然気づかなかった!」

「当然です。僕もこの炎を外に出すのは二年ぶりですし、金庫にしまった上で更に隠蔽魔法もかけていましたから」


隠し種の披露も終え、マジカルペンをランプに近付ける。
魔法で炎の色が変わり、通常の無害な色であるオレンジの炎になった。持ち運ぶ時はランプではなく別の器に移した方がいいだろう。


「ですが肝心の、冥界に行く答えにはどう頭の中で術式を計算しても辿り着かなかった。認めたくありませんが、きっと僕一人では辿り着けない魔法なのでしょう」


自分の敗北を認める言葉には苦さが混じる。
本当なら自分一人の力で彼女を迎えに行きたかった。もうあの時の無力な僕とは違うと、あの黒い目に見せつけてやりたかった。
だが、どうやっても辿り着かない。それならばプライドに膝を折ってでも実利を選ぶ。


「なので二人の力を貸してください」


立ち上がったまま頭を下げると、床しか見えていないのに二人に分かりやすく動揺するのが分かった。
一拍置いて、どちらかの息が漏れる。


「・・・貴方の企みに手を貸す時に危ない橋を渡るのはいつもの事ですが、今回は格別ですね」

「そうそう、だからオレらが次に何を言うかは分かってるんでしょ?」

「ええ、もちろん」


下げていた頭を上げると、幼馴染達はいつもの表情で僕を出迎えた。
色違いの瞳に凶暴な光を宿し、凶悪な牙が覗く口の端を吊り上げて、声を揃えて要求する。


「「対価は?」」


予想していた答えに頷く。
ここでもしも友情に免じてだの、善意からだの、そんな薄っぺらい言葉が出ようものなら二人の正気とそもそもの人格の真偽を疑うところだった。

橋を渡るには通行料が必要だ───何度も繰り返してきた自分の言葉が脳裏をよぎる。
この場合は黄泉に渡るのだから渡し賃というのが正しいだろう。

予め用意していた対価を執務机の中から取り出し、二人の前に掲示する。
僕のユニーク魔法でもある黄金の契約書に書かれた文字に二人の目が吸い寄せられた。


「もちろん、用意しています。───これから新規開店する支店を含め全てのモストロ・ラウンジをお前達の好きにしていい。ここに経営権の一切を譲渡する契約書の用意があります」


信用を得るため二重に用意していた、偽証防止の魔法がかけられた古めかしい羊皮紙を重ねて取り出して二人に見せつける。
それぞれ色違いの瞳には「事業譲渡契約書」の文字が見えた事だろう。ウツボ達は息を吐いた。


「・・・本気じゃん、アズール。ホントに小エビちゃんを選ぶんだ」

「願いを叶えたその時は、本気でこの世界を捨てるつもりなのですね」

「ええ。例え地上に戻ったとしても、彼女はこの世界では暮らしていけません。
 今の僕なら彼女を守り切る自信もありますが、あちらの方が耐えられないでしょう───ならばいっそ異世界に亡命します」


異世界へ行く。その言葉の意味は分かっていても、その覚悟には格別の重みが伴う。

僕の経歴も家族も友人も家も、あらゆる全てを置いて去らなければならない。
そして彼女いわく、人魚も魔法もなく、文化も歴史も常識も違う世界へ飛び込むのだ。

想像しただけでも耐えがたい痛みと苦難に眩暈がする。どんな手を使ってでも拒否をしたい嫌悪感があった。
だが彼女は神のサイコロで強制されたとはいえ、ずっとその苦しみを抱えていた。

友人達とふざけあい、明るく笑うその陰で何度もこっそりと目を赤くして泣いていた事を知っている。
その悲痛を補って余りあるほどの幸福を異世界でも与えたかった。泣く暇なんてないくらいに傍にいてその細い背を支えていくつもりだった。

でも、もうそんな未来は叶わないのならば。


「どんなに価値のあるものだとしても異世界には持っていけませんから、お前達の好きにしなさい。
 またどこかの誰かに売り渡すもよし、潰すもよし、繁盛させるもよし。その一切の権利を譲渡します。───お前達になら店を好きにされても文句を言いません」


もちろん成功報酬ですがね、と付け加えて契約書を折り畳んで懐にしまう。
オッドアイが視線だけで相談するように目配せをした。言外に含まれる二人の会話は想像しかねるが、すぐさま答えは返ってきた。


「それでオレらを買おうってのは足んなくない?」

「ええ、足りませんね。僕達も安く見られたものです。ああ、なんて悲しいんでしょう」

「・・・と、言うと?」


自分としては考えに考え抜いた最上の対価だったが、まだ足りないとウツボ達は笑う。
これ以上何を支払えというのか───何を要求されても支払うつもりだが、あまり無茶な要求をされても困る。

腕を組んで幼馴染達の答えを待つ。緊張する僕に対して二人が悪い笑みを浮かべた。


「オレらも異世界に連れて行って」

「モストロ・ラウンジ異世界支店の出店には優秀な補佐役が必要でしょう?」

「────、」


一瞬、言葉の意味を理解しかねた。冗談だと付け加えられるのを待ったが、一向にその言葉は来ない。
二人は相似形の顔に同じ笑みを浮かべて僕の返事を待っている。信じられない。


「言っていることの意味が分かっているのか?異世界に行ったらもうこちらには戻って来られない。家族も友人も捨てる事になる。それに彼女の話を聞く限りでは、魔法はおろか人魚であることも捨てなければならないんだぞ」

「アズールのいない世界なんて面白くありませんから。僕達は貴方の面白さを買っているんです」

「そーそー、それにアズールも同じじゃん。ま、アズールはオレらと違って友達すくねーけど」

「・・・お前たち、」


思わず感謝の言葉が口を出そうになって、堪えた。この二人が求めているのはそんな言葉ではない。


「───そうですか。なら勝手に付いてきなさい」

「ええ、そうします」

「はぁい。勝手にする~」


扉の外に人の気配が戻ってきた。いくら学校がバタバタしているとしても、さすがに僕達の不在に気付いたのだろう。
すぐに会話をモストロ・ラウンジの引継ぎの内容に切り替えて、ランプを魔法で自分の部屋に転送しておく。

三人でさも店を惜しんでいる風を装った会話をしながら部屋の外へ出た。
・・・本当は演技だけではなかったけれど、感傷を振り切って卒業パーティーの会場へ歩く。


門出を祝う祝福の花火の音が遠くに聞こえていた。







そして僕達は卒業式のパーティーの喧騒に紛れ、同じ寮生やクラスメイトだった人間との別れを惜しむ。
挨拶した内のほとんどの人間がこれから先もう二度と会う事がないのだろう。


(ジェイドとフロイドの協力を取り付けても、まだピースは足りない)


オクタヴィネルの現寮長に心にもない激励の言葉を贈りながら視線は遠く、寮生や友人達に惜しまれ祝福される級友達に向けられていた。

学年主席の座を最後まで守った、ハーツラビュルの元寮長リドル・ローズハート。
サバナクロー寮にて寮長の座を請われながらも断り、だが実質ナンバー2であり続け自身に最適な利益を刈り取ったラギー・ブッチ。
熱砂の国の大富豪アジーム家の長男にしてスカラビアの元寮長カリム・アルアジーム。
そのアジーム家の使用人にして寮長を支え続けた、誰もが認める有能さを持つジャミル・バイパー。
あの茨の谷の次期領主マレウス・ドラコニアの護衛にして茨の谷の近衛兵を務めるシルバー。

そして今は卒業した先輩方や彼女と同学年だった友人達。


(彼らにも協力をしてもらう必要がある)


四年も過ごした学園からの卒業の感傷に酔う暇もなく、早速次の目標に向けて足早に歩きだす。
その意図を理解してジェイドとフロイドが僕の一歩後ろをついてくる───異世界と冥界という果てしない目標への歩みはもう始まっていた。































(・・・・・・暗い)

冥界に落とされてからずっと、長い道を歩いている。
太陽も月も一切ない、荒野が広がる寂しい無音の世界で、私は俯いたまま連行されていた。


(なんてところに来ちゃったんだろう。ここが冥界なんだ)


細長い檻があちこちに突き立ち、その中からは犠牲者を求めるように手が突き出て、おいでおいでと優しく手招きしている。
目を合わさないようにしてグリムだけを見つめる。腕の中にいる相棒のぬくもりだけが心の頼りだった。


(これで、これでいいんだ。私がいなくなってもアズール先輩にはフロイド先輩とジェイド先輩がいて、そして未来もある。
 私の事なんてあの魔法薬ですぐに忘れて、素敵な奥さんをもらって、それで幸せに暮らしていくんだ)


その素敵な奥さんには自分がなりたかった、という言葉を心の中でも飲み込む。

冥界に連れて来られたまだ間もないというのに、後悔と心細さで心が折れてしまいそうだった。
強くグリムを握りしめる───まだシアンブルーの瞳は閉じられたままだ。

永遠ともとれる距離を歩き、やがて檻の前で行進が止まった。どうやら私達はここに入れられるらしい。
でもグリムと一緒なら大丈夫。一人にしないって約束したから、だから。


「ッ!?」


いきなり強く背中を押されて檻の中に放り込まれて倒れ込む。咄嗟の事に声も出ない。
ほとんど反射的に腕の中のグリムを庇おうとするが───いない。

いつの間にか看守がグリムを取り上げていたのを格子越しに見た。
すぐさま取り戻そうと檻に駆け寄るが、無情にも扉が閉められる。閉じたばかりのドアに飛びつくが当然開かない。格子越しに必死に手を伸ばす。


「グリム!!」


グリムと引き離された。
腕の中のぬくもりを奪われた事に気が狂いそうになるほどの不安に襲われる。もう既に精神が限界を迎えそうなのに、これ以上私から何かを奪わないでほしかった。


「まって、グリム、グリムを返して!!お願い!何でもしますからどうか!どうか、グリムを・・・」


罪人の言葉に聞く耳なんて持たないと言わんばかりに看守たちは去って行く。相棒の名前を呼びながら必死に外に手を伸ばすが、届かない。


「嫌、いやだ、イヤ!!私達を、私を、一人にしないで、引き離さないで!!」


懇願と絶叫は誰からも顧みられず、周囲に空しく響くだけだった。やがて何時間も繰り返して喉が血を噴き、意味のない言葉すら紡げなくなった。

辺りには沈黙と闇と私だけがとり残された。




























あれからどれくらいの時間が経ったのだろう。

太陽も月もなく、お腹も空かないから一日の時間の感覚がない。
どうやら時間の感覚がないのだと気付いたのは髪も爪も一切伸びなかったからだ。

目を覚まして孤独に泣き、眠りに就けば悪夢に飛び起きる。そんな日々の繰り返しだった。


(あのとき・・・グリムを選ばなければよかったのかな・・・・・・)


一人でいる時間が長いと、ついそんな事を考えてしまう。
そうしたら今も私は地上で生きていけたのだろうか。きっと逃亡生活だから肩身が狭いだろうけれど、でもこんな檻の中で毎日を一人で過ごすよりはずっとマシだったはずだ。


(でもアズール先輩を選んだって、結局は後悔するんだ・・・グリムを一人ぼっちにしたことを・・・・・・)


おぼろげにやってきて眠気に恐怖を感じる。眠りたくない。この世界において睡眠は救いではなく地獄だった。

確約された悪夢が夢の中でも自分を苛む。
最初はナイトレイブンカレッジの思い出や元の世界での記憶が出てきたこともあったが、もうそんな幸福な夢は見なくなって久しい。

記憶が摩耗するにつれて夢の内容は暗闇の海をひたすらアテもなく泳ぎ続ける悪夢に置き換わった。
最後はいつも同じく、冷たい闇の中で力尽きて苦しみながら沈んで、また闇に囚われる。


(アズール先輩が幸せでありますように)


いつも通り、祈りの言葉で目を閉じる。
このままだと、それが誰だったのかも覚えていられなくなるのだろう。

でも覚えている限りは祈り続けようと、目を閉じた。



































どこまでも、いつまでも無明の闇の世界だった。
自分が夢を見ているのかも、起きているのかも分からない。どちらでも変わらないと言えた。

何で自分がここにいるのか思い出せない。でもきっと私は悪いことをしたから罰としてここに閉じ込められているんだろう。
じゃあいつか罪が赦されてここを出る事ができるのか。誰も教えてくれないから分からない。


「     」


誰かが何かを言った気がする。どうせいつもの幻聴だろう。
何度その幻に縋って泣いたのかなんて、もはや回数も覚えていない。

いつも通り目を閉じようとして、やっと自分が目を開けていた事に気付く。昔は眠る前に誰かを想っていた気がするけど、誰だったか思い出せない。


「・・・・・・ああ、やっと会えた」


誰かが私の頬に手を触れて、口付けて、私を助け起こす。
親が子供に縋るようにその額を私の額に押し付けて、長い睫毛が目許をくすぐる優しい感触に少し笑った。

こんなところにそんな事をする人はおろか、生き物すらいないはずなのできっと夢だ。
でもいつも代わり映えのない悪夢しか見ていなかったから、たったそれだけの変化が嬉しい。今日は夢見がよさそうだ。


「    さん、」


愛しげに、誰かの名前を呼ぶ声がした。
誰が喋っているのかは分からないけれど、聞くだけで声の主はその誰かとずっと会いたがっていたのだと千秋の想いが伝わるような切ない声。


「───今度こそ、僕を選んで下さいね」


そんな声色で求められれば誰だって頷くだろう。私だってそうする。
誰かの願いが叶う予感に、久しぶりに晴れやかな気分になった。








































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あとがき。
アズールは異世界に渡る・冥界に行く方法の確立のために各寮長を始めとするNRCの役立ちそうな人に頭を下げて協力を依頼しています
(各寮長だけでなくデュースやエースも含まれる、つまりゲームにおける主要登場人物)

最初に協力を快諾したのはカリムで、最後に首を縦に振ったのはリドル。最後から二番目はヴィル。
①リドルはどんな事情であれリドルは監督生とグリムの罪を許せなかったけど、デュースとエースによる説得と「異世界追放」であるという名目で無理やり納得しました。
もしも監督生とグリムがノコノコとツイステッドワンダーランドに戻ってこようものなら殺すつもりでもいました。
➁ヴィルは寮生への愛が深く、それを殺した原因の二人には複雑な感情を抱いています。
同じくツイステッドワンダーランドには戻ってこないでほしい。私の手の届かないところで生きてほしい。なにより、私に殺意を抱かせないでほしいと思っています。
③カリムも自分の寮生を殺されていますが、「どんなヤツにもやり直す権利はある」という考えで合意しました。カリムが従うのならジャミルも従います。
④マレウスは一番責任を感じています。自分があの時オーバーブロットしていなかったら、自分がグリムを抑えていれば、監督生の罪はあんなに重くならなかったのに。


2021年4月17日執筆 八坂潤
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